シロコは、昨夜の窓の外をまだ覚えていた。
暗がり。
一瞬だけ揺れた緑。
気のせいで済ませるには、輪郭がはっきりしすぎていた。
朝の対策委員会室は、いつもより少しだけ静かだった。誰もが同じことを考えているのに、最初の一言を待っているような空気だった。
だから、シロコが先に言った。
「いた」
セリカが顔を上げる。
「またいきなり何よ」
「昨夜」
シロコは続けた。
「窓の外に、誰かいた。見間違いじゃない」
短い言葉だった。
でも、そこで止めなかった。
「絶対いた」
その断言で、部屋の空気が少し変わる。
アヤネが端末を操作しながら頷いた。
「シロコちゃんの話だけじゃなくて、映像も確認しました」
少し眉を寄せる。
「はっきりとではありませんが……カメラの端に、若干映っています」
画面が向けられる。
静止した映像の隅。壁際の暗がりに、ノイズみたいな緑が一瞬だけ引っかかっていた。
それだけだ。
それだけなのに、昨夜の窓の外を見たシロコには十分だった。
「これ」
シロコは言う。
「同じ」
「私もそう思います」
アヤネが頷く。
「時間も一致していますし、偶然とは考えにくいです」
ノノミは、旧校舎のポストから持ってきた付箋を見て、ふわりと笑った。
「でも、見てもらえたんだと思いますよぉ」
「付箋?」
セリカが聞き返す。
「ほら、これですぅ」
ノノミが紙を摘まむ。
「端がちょっと曲がってるんです。貼った時はこんなじゃなかったので、たぶん一回触ってますよぉ」
シロコも見る。
確かに、端が少しだけ折れていた。風で偶然そうなったようにも見える。けれど昨夜のことを思い出した後では、偶然より先に別の背中が浮かぶ。
「見た」
シロコは呟いた。
「でしょう?」
ノノミが言う。
「ちゃんと見てもらえたんだと思います」
セリカは素直に喜ばなかった。
「見てもらえたから何よ」
腕を組んだまま、少しだけ唇を尖らせる。
「出てこないなら同じじゃない」
「同じではないよぉ」
ノノミの声はやわらかい。
「少なくとも、届いてはいます」
アヤネも端末を抱え直した。
「カメラを増やした意味はありましたね。警戒してくれているなら、それはそれで進展です」
ホシノは少し離れた席で、曖昧に笑った。
「そっかぁ」
軽い声だった。
でも、その軽さは少しだけ薄い。
シロコはその顔を見る。笑っている。けれど、昨夜の窓の外にいた緑を思い出した時、一番深く刺さっているのはたぶんこの人だ。
先生が、全員の顔を見てから言った。
「少なくとも、昨夜ヒバリが学校に来ていた可能性は高い」
一拍置く。
「そして、こちらの言葉も見ている」
セリカが小さく舌打ちした。
「だったら、もうちょっと普通に出てこれないわけ?」
「普通に出てこれるなら、最初からそうしてるんじゃないかなぁ」
ホシノがぼそっと言う。
その返しに、誰もすぐには何も言えなかった。軽く聞こえるのに、軽く片づけられる話じゃないと分かる声だった。
シロコは、付箋をもう一度見た。
折れた端。
短い礼。
見てもらえた、というノノミの言葉。
たぶん、また来る。
そう思った。
ほとんど確信だった。
*
報告を終える頃には、夜勤の疲れが一気に重くなっていた。
シロコは少し遅れて学校を出た。朝から昼へ変わりかけた時間。日差しは高く、夜よりずっと影が短い。
夜勤明けの身体は鈍い。
それでもロードバイクに跨ると、少しだけ頭が冴える。
昼のアビドスは、夜より見通しがいい。低い民家。開けた道。遠くまで伸びる白い砂。
だから、道の端に見えた緑はすぐに目に入った。
見覚えのある緑色の外装。
背丈は、ホシノ先輩とそう変わらないくらいだった。
その横に、本人の身長に届きそうな大きなガンバッグを斜めに負っている。盾みたいにも見える、無骨で長い塊。見た目だけなら重そうなのに、歩き方は妙に軽かった。
荷物を運んでいるというより、最初から身体の一部みたいだった。
シロコは反射みたいにブレーキを握る。
昨夜の窓の外。
カメラの端。
折られた付箋。
いた。
今度は、はっきり見つけた。
相手はゆっくり歩いていた。昼のこの時間。学校から少し離れた道。周囲は低い建物ばかりで、見晴らしもいい。
今なら追える。
シロコは迷わずペダルを踏み込んだ。
最初は声をかけない。距離を測る。相手の歩幅を見る。気づいているのか、まだ気づいていないのかを確かめる。
緑の背中は、振り向かない。歩幅も変わらない。逃げる気配もない。
気づいているのかもしれない。
その無反応が、逆にやりにくい。
それでも、抜くなら今だ。
シロコは一気に踏み込んだ。緑の横を静かに追い抜く。そのまま少し先でハンドルを切り、車体を横向きに止める。
逃げ道を完全に塞ぐほどではない。
でも、そのまま通り抜けるには少し面倒な角度。
タイヤが砂を鳴らす。
緑の影が止まった。
シロコは呼吸を整える。心臓は速い。でも視線は逸らさない。
目の前の相手も、まだ何も言わない。フードの陰。昼の光の中でも沈む緑。背中のでっかいガンバッグ。
昨夜の窓の外。
付箋を見た人。
ずっと学校の外にいた先輩。
シロコはまっすぐ相手を見た。
「……ヒバリ先輩?」