アビドスに、もう一人の三年生がいた   作:ゴリさん39

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第15話 土足

 

 よりによって、一番面倒そうなやつに見つかった。

 

 ヒバリは、目の前で横向きに止まったロードバイクを見て、露骨に嫌そうな顔をした。

 

 昼のアビドスは、夜より逃げにくい。

 

 低い民家。

 開けた道。

 隠れる影が少ない。

 

 それでもこの時間なら、まだ対策委員会の連中は学校にいるはずだった。だから少しだけ気を抜いた。見回り帰りの生徒と鉢合わせる想定は薄かった。

 

 その読みを外した。

 

 目の前の二年の子は、ハンドルを握ったまま息を整えている。昨夜、窓の外で目が合った子。静かな目。騒がない。でも退かない。

 

 厄介だ。

 

「……ヒバリ先輩?」

 

 正面からそう呼ばれて、ヒバリは答えなかった。

 

 フードの陰で目を細める。否定するのは簡単だ。だが、ここまで追いついておいて今さら他人のふりをするような相手にも見えない。

 

「道を塞ぐな」

 

 先に出たのは、それだけだった。

 

 二年の子は動かない。

 

「先輩でしょ」

 

「だったら何」

 

「話したい」

 

「私は話したくない」

 

 即答だった。

 

 それでも相手は引かなかった。

 

 ロードバイクを少しだけ支え直して、真正面からこっちを見る。変に構えてもいないし、怯えてもいない。ただ見ているだけだ。その“だけ”が一番面倒だった。

 

 ヒバリは舌打ちを飲み込む。

 

「昨日の続きか」

 

「うん」

 

「好きだな。待ち伏せ」

 

「待ってたわけじゃない」

 少しだけ間を置いて、その子は言った。

「見つけたから、追った」

 

 正直でうんざりする。

 

「それで?」

 

「戻ってきてほしい」

 

 あまりに真っ直ぐで、一瞬だけ意味が遅れた。

 

 ヒバリは眉を寄せる。

 

「……何」

 

「先輩に、アビドスに戻ってきてほしい」

 

 同じ言葉を、同じ熱で繰り返す。軽くもない。勢い任せでもない。ちゃんと考えた上で言っている声だった。

 

 ヒバリは笑いそうになって、笑えなかった。

 

「ホシノに言わされた?」

 

「違う」

 

「じゃあ何。あいつが何も言わないから、自分が代表のつもり?」

 

「代表じゃない」

 

 その返しも、静かだった。

 

「ホシノ先輩は理由を話さない」

 

 一拍。

 

「でも、私は知ってる」

 

 ヒバリの表情が少しだけ冷える。

 

「何を」

 

「先輩が、学校を見てること」

 

 また一歩、踏み込んでくる。

 

「お金を置いていくことも。メモを残してることも。見て回ってることも」

 

 そこまでか。

 

 ホシノが話したのか。それとも、学校の中で繋がったのか。どちらにしても、全部までは言っていないはずだった。けれど、今のアビドスはもう、昔みたいに鈍くはないらしい。

 

「だから」

 その子は言った。

「私は戻ってきてほしい」

 

 ヒバリは鼻で笑った。

 

「戻ってる」

 

「違う」

 

 即答だった。

 

「見てるだけ」

 

「それで十分だろ」

 

「十分じゃない」

 

 まっすぐすぎて、腹が立つ。

 

「何が分かる」

 

「分からない」

 

 迷わず返ってきたのが、余計に腹立たしい。

 

「知らないことの方が多い」

 

 ヒバリの指先が、僅かに動いた。

 

「なら黙ってろ」

 

「でも、戻ってきてほしい」

 

 胸の奥で、何かが切れた。

 

 気づいた時には、体が先に動いていた。

 

 ヒバリの片手が、二年の子の首を掴む。

 

 壁に叩きつけるほどではない。だが、拒絶としては十分すぎる力だった。ロードバイクのハンドルを握っていた腕がわずかに止まり、呼吸が一瞬だけ詰まる。

 

気づいた時には、体が先に動いていた。

 

 ヒバリの片手が、二年の子の首を掴む。

 

 

 

 掴んだ首元のすぐ下で、青いマフラーが揺れた。

 

 一拍だけ、指先が止まる。

 

 何をしているのか、そこで少し遅れて分かった。

 

 それでも、もう引けなかった。

 

 フードの陰から、ヒバリは低く言った。

 

「何も知らないなら、土足で踏み込むな」

 

 声は静かだった。怒鳴ってはいない。だが、昼の道の熱まで少し下がったように感じる冷たさがあった。

 

「知らないまま、勝手なことを言うな」

 

 指先に力が入る。ほんの少しだけ。脅せば、普通はここで引く。

 

 けれど、引かなかった。

 

 目の前の子は、首を掴まれたまま目を逸らさない。呼吸は苦しそうなのに、視線だけはまっすぐ残る。

 

「知らない」

 

 掠れながら、それでも言う。

 

「でも、戻ってきてほしい」

 

 その声に、何も飾りがないのが余計に腹立たしい。

 

 同情じゃない。

 正義感でもない。

 

 この子は、本当にそう思っているだけだ。

 

 だから厄介だ。

 

 ヒバリは数秒、無言でその目を見た。見ているうちに、怒りの輪郭が少しずつ崩れていく。強くなったんじゃない。逆だ。熱が続かない。ぶつける相手として、こいつはあまりにもまっすぐすぎた。

 

 先に力を抜いたのは、ヒバリの方だった。

 

 手を離す。

 

 二年の子が小さく息を吸う。咳き込まない。そこも地味に面倒だ。

 

 ヒバリは深く息を吐いた。疲れたみたいな、苛立ちを誤魔化すみたいな、長い吐息だった。

 

「……最悪」

 

 誰に向けた言葉でもない。

 

 静かな二年の子は、首元に触れながらもまだこっちを見ていた。追い打ちみたいに何か言われたら、今度こそ蹴り飛ばしていたかもしれない。だが、相手は言わない。待つだけだ。

 

 それもまた、厄介だった。

 

 ヒバリは視線を逸らす。

 

 昼の白い道。

 低い屋根。

 逃げようと思えば逃げられる。

 

 今すぐ消えるのが一番楽だ。

 

 それでも、足が少しだけ残る。

 

 舌打ちの代わりみたいに、短く言った。

 

「……考えておく」

 

 言った瞬間、自分で一番嫌な顔をした。

 

 それ以上は何も足さない。足したら負ける気がした。ヒバリは背を向ける。

 

 緑の外套が翻る。ガンバッグを肩へ預け直し、そのまま歩き出す。今度はロードバイクも道も関係ない。止められない角度だけを選んで、さっさと離れる。

 

 背後から追ってくる気配はなかった。

 

 それが少しだけ救いで、少しだけ腹立たしい。

 

 歩きながら、首を掴んだ自分の手を見た。

 

 何をやっているのかと思う。

 

 知らない子どもに怒鳴って、脅して、それでいて最後に切れずに言葉を残す。中途半端にもほどがある。

 

 最悪だ。

 

 夢を見て、機嫌が悪いまま来て、余計なものまで掘り返された。

 

 ヒバリはもう一度だけ小さく息を吐いた。

 

 考える。

 そう言ってしまった以上、本当に少しは考えないといけない。

 

 それが何より面倒だった。

 

 後ろを振り返らないまま、緑の外套は昼のアビドスの街へ溶けていった。

 

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