アビドスに、もう一人の三年生がいた   作:ゴリさん39

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第16話 届いたもの

 

 朝の対策委員会室は、妙に静かだった。

 

 誰もいないわけじゃない。いつもの面々がいて、机も椅子も、窓の外の砂の色も変わらない。それなのに、空気だけが少し違う。

 

 ホシノは扉をくぐった時点でそれに気づいた。

 

 何かあった。

 

 それも、悪い意味だけじゃない。そんな顔をしている。

 

「……何かあったの?」

 

 いつも通りの気の抜けた声で聞くと、シロコがすぐに顔を上げた。

 

「昨日の昼」

 

 短い前置きだった。

 

「会った」

 

 ホシノの足が、ほんの少しだけ止まる。

 

「誰に?」

 

 聞かなくても分かっていた。

 それでも、口に出さないと先へ進まない気がした。

 

 シロコは迷わない。

 

「ヒバリ先輩」

 

 部屋の中の空気が、一段だけ張った。

 

 セリカが思わず前のめりになる。

 

「は!? 会ったって、ほんとに!?」

 

「うん」

 シロコは頷く。

「昨日、帰る途中で見つけた。追いかけて、前で止まって、話した」

 

 アヤネが端末を抱えたまま、息を整えるように言う。

 

「シロコちゃんから“昼に遭遇した”って聞いて、時間も一応整理してみたんですけど……たぶん間違いないです。昨夜の件と繋がってます」

 

 ホシノは椅子に腰を下ろした。表面上はゆっくりと。中身は、そこまで落ち着いていない。

 

「へぇ……昼間にねぇ」

 

 軽く返す。

 軽く返せたつもりだった。

 

 でも、少し声が薄かったかもしれない。

 

 シロコは続ける。

 

「道で見つけた。後ろ姿だったけど、緑の外套と、大きいバッグですぐ分かった」

 一拍。

「呼び止めた。確認した」

 

「それで?」

 ノノミが優しく先を促す。

 

「話した」

 シロコはまっすぐ言う。

「戻ってきてほしいって」

 

 セリカが目を見開く。

 

「言ったの!?」

 

「言った」

 

 短い。

 でも、その短さの中に迷いがない。

 

「……それで?」

 今度はホシノが聞いた。

 

 シロコは一瞬だけ首元に触れた。そこにまだ、指の感触でも残っているみたいだった。

 

「首、掴まれた」

 

 対策委員会室が静まり返る。

 

「はぁ!?」

 セリカが椅子を鳴らす。

「ちょっと、何それ! 大丈夫なの!?」

 

「大丈夫」

 シロコは淡々としていた。

「苦しかったけど、折れてない」

 

「折れてない、じゃなくてぇ……」

 ノノミが苦笑混じりに肩を落とす。

 

 先生は黙ってシロコを見ていた。

 その視線に促されるように、シロコは最後まで言う。

 

「でも、最後に言った」

 シロコはホシノではなく、部屋全体へ向けて言った。

「……考えておくって」

 

 そこで、初めてホシノは目を伏せた。

 

「……そっかぁ」

 

 それだけしか出てこない。

 

 もっと別の言葉があるはずなのに、喉のところで全部詰まる。

 

 考えておく。

 

 あの子が、そう言った。

 

 即答で切らなかった。

 鼻で笑って終わらせなかった。

 

 それだけで十分な変化のはずなのに、妙に胸の奥がざわつく。

 

 ノノミがほっとしたように笑う。

 

「少し進みましたねぇ」

 

「進んだって言っていいのかな、それ……」

 セリカはまだ納得していない顔だった。

「首掴まれてるんだけど」

 

「でも、完全に追い返したわけではありません」

 アヤネが言う。

「少なくとも、話は聞いたんです」

 

 先生が静かに整理した。

 

「ヒバリはシロコの言葉を無視しなかった」

 一拍。

「それに、“考える”と答えた。完全な拒絶ではない」

 

 セリカは不服そうに唇を曲げる。

 

「……だからって、いきなり良い感じになったわけでもないでしょ」

 

「うん」

 シロコは頷いた。

「でも、昨日よりは近い」

 

 その言い方が、妙に真っ直ぐだった。

 

 ホシノはそのやり取りを聞きながら、机の端に視線を落とす。

 

 近い。

 そうなのかもしれない。

 

 でも、その“少し近づいた”の先にあるものを、自分だけは簡単に喜べない。

 

 アヤネが、そこで少しだけ声の調子を変えた。

 

「……それと、もう一つあります」

 

 端末ではなく、今度は紙の封筒を机の上に置く。

 

「今朝、本校のポストにこれが入っていました」

 

 ホシノの目がそこへ向いた。

 

「本校?」

 

「はい」

 アヤネが頷く。

「旧校舎じゃなくて、本校の方です」

 

 対策委員会室の空気がまた変わる。

 

 それは、今までと違う。

 

 旧校舎のポストなら、あの子なりの距離の取り方だとまだ言えた。

 でも本校だ。今、対策委員会が使っている学校の中心に、直接入れてきた。

 

 アヤネが封筒を開く。

 

「現金と設備メモです。それから……これ」

 

 もう一枚、紙を取り出した。

 

 机の上へ広げられたのは、手書きの簡易見取り図だった。

 

 校舎の通路。

 中庭。

 階段。

 屋上へ出る扉。

 いくつかの位置に、赤い印。

 

「カメラ配置の修正案です」

 アヤネの声は少しだけ硬い。

「かなり具体的で……正直、嫌なくらい正しいです」

 

 先生が紙に目を落とす。

 

「具体的だね」

 

「はい」

 アヤネは頷く。

「中庭側は一台だと足りない。保健室側の通路は下から見切れる。屋上への導線も今の位置では甘い、って」

 小さく息をつく。

「……侵入する側の視点で、かなり正確です」

 

 セリカが顔をしかめる。

 

「何それ。勝手にいなくなって、勝手に上から修正案まで出してくるの、ちょっと腹立つんだけど」

 

 ノノミは柔らかく笑った。

 

「でも、ちゃんと守る側の目で見てくれてるってことですよぉ」

 

「それは……まあ、そうだけど」

 

 言い返しながらも、セリカは完全には否定しない。

 

 シロコは見取り図を見つめたまま、静かに言った。

 

「先輩は、学校を切ってない」

 

 その一言に、ホシノの肩がほんの少しだけ揺れる。

 

 切っていない。

 

 その通りだった。

 

 切ったつもりでも、切れていない。

 遠ざかったつもりでも、見ている。

 

 それがあの子だ。

 

 ホシノは机の上の修正案を見る。

 

 紙の上の線は細かい。必要なところだけ短く、無駄なく書いてある。言葉も同じだ。要る情報だけを残す、昔からの癖。

 

 こういうのは、昔から自分よりあの子の方が上手かった。

 

 大人相手の抗議も。

 企業とのやり取りも。

 設備の確認も。

 金の計算も。

 

 ユメ先輩がいた頃から、そうだった。

 

 一年生だからって舐めてかかってくるから、こっちもやりやすい。

 

 そうやって、いかにも面倒そうにぼやいていた顔を、ホシノはまだ覚えている。

 

 だから、あの子が外へ出た時も思ったのだ。

 

 どうせ何か考えがある。

 すぐ戻る。

 あの子なら、そうする。

 

 ――その読みが、甘かった。

 

 数日後、戻ってきたヒバリは、予想以上の金を持っていた。

 

 あの時の重みを、ホシノは今でも忘れていない。中身を見なくても分かった。まともな金じゃない。

 

 何のお金かと聞いた時、あの子は隠しもしなかった。

 

 ブラックマーケットで稼いだ、と。

 

 そこで平手が出た。

 考えるより先に。

 

 そんな汚れたお金なんていらない。

 

 そう言ったのは、自分だ。

 

 なのに結局、使った。

 

 砂嵐で設備はすぐ傷んだ。

 校舎は削れた。

 維持できない場所から捨てるしかなくなった。

 ヒバリは何も言わず、金だけを置いていった。

 

 金庫に貯まる。

 また置かれる。

 金庫に入れる。

 

 自分一人の稼ぎじゃ、何も保たなかった。

 

 使った日から、あの子はいなくなった。

 

 ホシノはそこで、ようやく現実へ戻る。

 

「……相変わらずだねぇ」

 

 小さく漏れた声に、みんながこっちを見る。

 

 ホシノは笑った。いつも通りみたいに。

 でも、自分でも分かるくらい薄い笑いだった。

 

「ほんと、変なところだけちゃんとしてる」

 

 セリカが何か言いかけて、やめる。

 

 たぶん今の顔が、思ったより笑っていなかったのだろう。

 

 先生が封筒の中身を整え直しながら言った。

 

「少なくとも、学校の中へ一歩入ってきた」

 静かな声だった。

「本校のポストに入れたのは、その意思表示だと思う」

 

「うん」

 シロコが頷く。

「また来ると思う」

 

 ノノミも続ける。

 

「少しずつ、ですねぇ」

 

 少しずつ。

 

 その言葉が、今日は妙に重い。

 

 ホシノは何も返さなかった。

 

     *

 

 みんなが帰ったあと、対策委員会室にはホシノだけが残った。

 

 窓の外は、もう夕方の色に寄りかかっている。昼間の砂の照り返しも弱くなり、机の上の封筒と見取り図だけが薄く光って見えた。

 

 ホシノは一人でそれを見ていた。

 

 本校のポストに入れた。

 修正案まで置いていった。

 考えておく、と言った。

 

 そこまでして、まだ外にいる。

 そこまでしないと、戻れない。

 

 そうさせたのは、たぶん自分だ。

 

「……止めてほしかったんだろうねぇ」

 

 声に出した途端、部屋がやけに静かになる。

 

 あの子は、きっと待っていた。

 

 怒鳴ってでも。

 引っ張ってでも。

 一緒にやり直そうって、言われるのを。

 

 なのに自分は、何も言わなかった。

 

 汚い金を拒絶して。

 最後にはその金を使って。

 退部届まで握ったまま、黙って見送った。

 

 紙の端に指を置く。

 

 字を見れば、分かる。昔からずっと見てきた字だった。

 

 短くて、乾いていて、必要なことしか書かない。

 でも、そのくせ要るところだけは誰より細かい。

 

 見取り図の端をなぞった時、昔の対策委員会室の空気が不意に浮かんだ。

 

 扉の開いたままの部屋。

 風に揺れる紙。

 ユメ先輩の笑い声。

 噛みつくヒバリ。

 今よりずっと尖っていた自分。

 

 ホシノは指を止めた。

 

「……ほんと、相変わらずだねぇ」

 

 今度の笑いは、さっきよりずっと苦かった。

 

 目を閉じる。

 

 あの頃の空気だけが、夕方の部室にゆっくり戻ってくる。

 

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