朝の対策委員会室は、妙に静かだった。
誰もいないわけじゃない。いつもの面々がいて、机も椅子も、窓の外の砂の色も変わらない。それなのに、空気だけが少し違う。
ホシノは扉をくぐった時点でそれに気づいた。
何かあった。
それも、悪い意味だけじゃない。そんな顔をしている。
「……何かあったの?」
いつも通りの気の抜けた声で聞くと、シロコがすぐに顔を上げた。
「昨日の昼」
短い前置きだった。
「会った」
ホシノの足が、ほんの少しだけ止まる。
「誰に?」
聞かなくても分かっていた。
それでも、口に出さないと先へ進まない気がした。
シロコは迷わない。
「ヒバリ先輩」
部屋の中の空気が、一段だけ張った。
セリカが思わず前のめりになる。
「は!? 会ったって、ほんとに!?」
「うん」
シロコは頷く。
「昨日、帰る途中で見つけた。追いかけて、前で止まって、話した」
アヤネが端末を抱えたまま、息を整えるように言う。
「シロコちゃんから“昼に遭遇した”って聞いて、時間も一応整理してみたんですけど……たぶん間違いないです。昨夜の件と繋がってます」
ホシノは椅子に腰を下ろした。表面上はゆっくりと。中身は、そこまで落ち着いていない。
「へぇ……昼間にねぇ」
軽く返す。
軽く返せたつもりだった。
でも、少し声が薄かったかもしれない。
シロコは続ける。
「道で見つけた。後ろ姿だったけど、緑の外套と、大きいバッグですぐ分かった」
一拍。
「呼び止めた。確認した」
「それで?」
ノノミが優しく先を促す。
「話した」
シロコはまっすぐ言う。
「戻ってきてほしいって」
セリカが目を見開く。
「言ったの!?」
「言った」
短い。
でも、その短さの中に迷いがない。
「……それで?」
今度はホシノが聞いた。
シロコは一瞬だけ首元に触れた。そこにまだ、指の感触でも残っているみたいだった。
「首、掴まれた」
対策委員会室が静まり返る。
「はぁ!?」
セリカが椅子を鳴らす。
「ちょっと、何それ! 大丈夫なの!?」
「大丈夫」
シロコは淡々としていた。
「苦しかったけど、折れてない」
「折れてない、じゃなくてぇ……」
ノノミが苦笑混じりに肩を落とす。
先生は黙ってシロコを見ていた。
その視線に促されるように、シロコは最後まで言う。
「でも、最後に言った」
シロコはホシノではなく、部屋全体へ向けて言った。
「……考えておくって」
そこで、初めてホシノは目を伏せた。
「……そっかぁ」
それだけしか出てこない。
もっと別の言葉があるはずなのに、喉のところで全部詰まる。
考えておく。
あの子が、そう言った。
即答で切らなかった。
鼻で笑って終わらせなかった。
それだけで十分な変化のはずなのに、妙に胸の奥がざわつく。
ノノミがほっとしたように笑う。
「少し進みましたねぇ」
「進んだって言っていいのかな、それ……」
セリカはまだ納得していない顔だった。
「首掴まれてるんだけど」
「でも、完全に追い返したわけではありません」
アヤネが言う。
「少なくとも、話は聞いたんです」
先生が静かに整理した。
「ヒバリはシロコの言葉を無視しなかった」
一拍。
「それに、“考える”と答えた。完全な拒絶ではない」
セリカは不服そうに唇を曲げる。
「……だからって、いきなり良い感じになったわけでもないでしょ」
「うん」
シロコは頷いた。
「でも、昨日よりは近い」
その言い方が、妙に真っ直ぐだった。
ホシノはそのやり取りを聞きながら、机の端に視線を落とす。
近い。
そうなのかもしれない。
でも、その“少し近づいた”の先にあるものを、自分だけは簡単に喜べない。
アヤネが、そこで少しだけ声の調子を変えた。
「……それと、もう一つあります」
端末ではなく、今度は紙の封筒を机の上に置く。
「今朝、本校のポストにこれが入っていました」
ホシノの目がそこへ向いた。
「本校?」
「はい」
アヤネが頷く。
「旧校舎じゃなくて、本校の方です」
対策委員会室の空気がまた変わる。
それは、今までと違う。
旧校舎のポストなら、あの子なりの距離の取り方だとまだ言えた。
でも本校だ。今、対策委員会が使っている学校の中心に、直接入れてきた。
アヤネが封筒を開く。
「現金と設備メモです。それから……これ」
もう一枚、紙を取り出した。
机の上へ広げられたのは、手書きの簡易見取り図だった。
校舎の通路。
中庭。
階段。
屋上へ出る扉。
いくつかの位置に、赤い印。
「カメラ配置の修正案です」
アヤネの声は少しだけ硬い。
「かなり具体的で……正直、嫌なくらい正しいです」
先生が紙に目を落とす。
「具体的だね」
「はい」
アヤネは頷く。
「中庭側は一台だと足りない。保健室側の通路は下から見切れる。屋上への導線も今の位置では甘い、って」
小さく息をつく。
「……侵入する側の視点で、かなり正確です」
セリカが顔をしかめる。
「何それ。勝手にいなくなって、勝手に上から修正案まで出してくるの、ちょっと腹立つんだけど」
ノノミは柔らかく笑った。
「でも、ちゃんと守る側の目で見てくれてるってことですよぉ」
「それは……まあ、そうだけど」
言い返しながらも、セリカは完全には否定しない。
シロコは見取り図を見つめたまま、静かに言った。
「先輩は、学校を切ってない」
その一言に、ホシノの肩がほんの少しだけ揺れる。
切っていない。
その通りだった。
切ったつもりでも、切れていない。
遠ざかったつもりでも、見ている。
それがあの子だ。
ホシノは机の上の修正案を見る。
紙の上の線は細かい。必要なところだけ短く、無駄なく書いてある。言葉も同じだ。要る情報だけを残す、昔からの癖。
こういうのは、昔から自分よりあの子の方が上手かった。
大人相手の抗議も。
企業とのやり取りも。
設備の確認も。
金の計算も。
ユメ先輩がいた頃から、そうだった。
一年生だからって舐めてかかってくるから、こっちもやりやすい。
そうやって、いかにも面倒そうにぼやいていた顔を、ホシノはまだ覚えている。
だから、あの子が外へ出た時も思ったのだ。
どうせ何か考えがある。
すぐ戻る。
あの子なら、そうする。
――その読みが、甘かった。
数日後、戻ってきたヒバリは、予想以上の金を持っていた。
あの時の重みを、ホシノは今でも忘れていない。中身を見なくても分かった。まともな金じゃない。
何のお金かと聞いた時、あの子は隠しもしなかった。
ブラックマーケットで稼いだ、と。
そこで平手が出た。
考えるより先に。
そんな汚れたお金なんていらない。
そう言ったのは、自分だ。
なのに結局、使った。
砂嵐で設備はすぐ傷んだ。
校舎は削れた。
維持できない場所から捨てるしかなくなった。
ヒバリは何も言わず、金だけを置いていった。
金庫に貯まる。
また置かれる。
金庫に入れる。
自分一人の稼ぎじゃ、何も保たなかった。
使った日から、あの子はいなくなった。
ホシノはそこで、ようやく現実へ戻る。
「……相変わらずだねぇ」
小さく漏れた声に、みんながこっちを見る。
ホシノは笑った。いつも通りみたいに。
でも、自分でも分かるくらい薄い笑いだった。
「ほんと、変なところだけちゃんとしてる」
セリカが何か言いかけて、やめる。
たぶん今の顔が、思ったより笑っていなかったのだろう。
先生が封筒の中身を整え直しながら言った。
「少なくとも、学校の中へ一歩入ってきた」
静かな声だった。
「本校のポストに入れたのは、その意思表示だと思う」
「うん」
シロコが頷く。
「また来ると思う」
ノノミも続ける。
「少しずつ、ですねぇ」
少しずつ。
その言葉が、今日は妙に重い。
ホシノは何も返さなかった。
*
みんなが帰ったあと、対策委員会室にはホシノだけが残った。
窓の外は、もう夕方の色に寄りかかっている。昼間の砂の照り返しも弱くなり、机の上の封筒と見取り図だけが薄く光って見えた。
ホシノは一人でそれを見ていた。
本校のポストに入れた。
修正案まで置いていった。
考えておく、と言った。
そこまでして、まだ外にいる。
そこまでしないと、戻れない。
そうさせたのは、たぶん自分だ。
「……止めてほしかったんだろうねぇ」
声に出した途端、部屋がやけに静かになる。
あの子は、きっと待っていた。
怒鳴ってでも。
引っ張ってでも。
一緒にやり直そうって、言われるのを。
なのに自分は、何も言わなかった。
汚い金を拒絶して。
最後にはその金を使って。
退部届まで握ったまま、黙って見送った。
紙の端に指を置く。
字を見れば、分かる。昔からずっと見てきた字だった。
短くて、乾いていて、必要なことしか書かない。
でも、そのくせ要るところだけは誰より細かい。
見取り図の端をなぞった時、昔の対策委員会室の空気が不意に浮かんだ。
扉の開いたままの部屋。
風に揺れる紙。
ユメ先輩の笑い声。
噛みつくヒバリ。
今よりずっと尖っていた自分。
ホシノは指を止めた。
「……ほんと、相変わらずだねぇ」
今度の笑いは、さっきよりずっと苦かった。
目を閉じる。
あの頃の空気だけが、夕方の部室にゆっくり戻ってくる。