アビドスに、もう一人の三年生がいた   作:ゴリさん39

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第17話 色違い

 ブラックマーケットの寝床に戻っても、苛立ちは少しも収まらなかった。

 

 狭い部屋だった。壁は薄い。窓は小さい。昼の熱がまだ抜けきらず、空気はぬるい。落ち着くはずの場所なのに、今日は妙に居心地が悪い。

 

 原因は分かっている。

 

 昼の道で会った、あの二年だ。

 

 まっすぐな目。引かない足。首を掴んでも逸れなかった視線。戻ってきてほしい、と真正面から言ってきた声。

 

 思い出すたびに腹が立つ。

 

 何に腹を立てているのか、自分でも少し分からないのが、余計に面倒だった。

 

「……最悪」

 

 吐き捨てるように呟いて、ヒバリは背負っていたガンバッグを壁に立てかけた。

 

 留め具に指をかける。

 

 普段なら、長物の点検だけして終わりだ。使う物を見て、必要な物だけ残し、余計な物は片づける。それでいい。

 

 けれど今日は、手が止まった。

 

 頭に残っていたのは、あの二年の顔より先に、首元で揺れた青だった。

 

 青いマフラー。

 

 嫌でも目に入る色だった。

 

 あれを見ると、どうしても昔を思い出す。

 

 姉が選んだ青だ。

 

 あの頃、姉はホシノに青を、ヒバリには赤を渡した。たったそれだけの違いなのに、今になってもやけに残る。しかも今は、その青を別の子が巻いている。

 

 たちが悪い。

 

 留め具を外した手が、奥へ伸びた。

 

 引き抜いたのは、今はもう使っていない古い盾だった。

 

 片腕に噛ませる型。表面には細かい擦り傷がいくつも残っている。古い傷ばかりだ。けれど、割れてはいない。まだ使おうと思えば使える。

 

 昔、姉と同じ物を使っていた。

 

 何となく取り出しただけだ。

 

 深い意味なんかない。そう思いたかった。

 

 でも、昔の物を触ると、だいたい碌でもない方から先に戻ってくる。

 

 盾を見た瞬間、最初に浮かんだのは、姉に泣かれた日のことだった。

 

     *

 

 アビドスの外れにある古い倉庫跡は、昼でも薄暗かった。

 

 半分壊れた壁。積まれた木箱。割れたガラス。そこにたむろしていた不良生徒たちは、最初こそ調子のいい顔をしていた。

 

 けれど、その顔は長く続かなかった。

 

 一人が倒れる。

 

 もう一人が壁に叩きつけられる。

 

 鈍い音。短い悲鳴。乾いた砂を擦る靴音。

 

 ヒバリは無言で前に出た。

 

 背中に背負っていた折りたたみ式の盾は、すでに展開されて片腕に噛んでいる。小柄な体格のくせに踏み込みが速い。目の前まで迫られて初めて、不良生徒の一人が顔色を変えた。

 

「は、ちょ――」

 

 最後まで言わせない。

 

 盾の縁で腕を弾き、崩れたところへ膝を入れる。体勢が浮いた相手の顔面に、今度は腰から抜いた大口径リボルバーの銃口が向いた。

 

 重い鉄の塊だった。近い距離で見れば、それだけで十分に喉が鳴る。

 

「動くな」

 

 声は低い。

 

 怒鳴ってはいない。けれど逆らえばもっと酷いことになると分かる声だった。

 

 他の連中もすでに止まっていた。止まるしかなかった。路地の出口側には二人転がっている。逃げようとしても、目の前の一年に潰されるだけだ。

 

 ヒバリは一歩踏み込んだ。

 

「これで終わりだと思うなよ」

 

 リボルバーを少しだけ持ち上げる。脅しのためじゃない。本気なら撃てると分かる角度だった。

 

「次に来たら、ヘイローの無事は保証しない」

 

 その言葉の意味を理解するのに、一瞬だけ間があった。

 

 理解した瞬間、不良たちの顔色がさらに悪くなる。

 

「わ、分かった……!」

「もう来ねえ、来ねえから……!」

 

「今すぐ消えろ」

 

 冷たく言い捨てる。

 

 不良たちは転がるようにその場を離れていった。情けなく砂を蹴り、肩をぶつけ合いながら逃げていく。最後尾の一人が何か言い返しそうに振り向きかけたが、ヒバリが視線を向けただけで黙って走った。

 

 静かになった路地で、ヒバリはようやく息を吐いた。

 

 盾を下ろす。

 

 まだ腕は熱い。さっきまでの力が残っている。

 

「……遅い」

 

 誰に聞かせるでもなく呟いた。

 

 その時だった。

 

「ヒバリ!」

 

 聞き慣れた声が飛んでくる。

 

 次の瞬間、角を曲がってきた姉が、倒れた木箱と路地の有様を見て足を止めた。

 

 転がった残骸。残る息遣い。ヒバリの手にある盾とリボルバー。

 

 全部見て、姉の顔が曇る。

 

「また……!」

 

「また、だよ」

 

 ヒバリは面倒そうに返した。

 

「来たから追い返しただけ」

 

「追い返したっていうのは、こういうのを言わない」

 

 姉が息を整えながら近づいてくる。怒っている。でも怒鳴るより先に、困ったような顔が強い。

 

「だって来るでしょ」

 

「だからって――」

 

「だからって何」

 

 遮るように言う。

 

 姉が少し言葉を詰まらせた。

 

 ヒバリはその顔を見る。優しい顔だ。困って、傷ついて、でもまだ何とかしようとする顔。見慣れている。見慣れすぎていて、腹が立つ。

 

「暴力はだめ」

 

 やっと出てきた言葉は、それだった。

 

 ヒバリは鼻で笑う。

 

「今さら?」

 

「今さらでも、だめなものはだめだよ」

 

 姉は一歩近づいた。

 

「そうやって慣れたら、その選択肢が当たり前になる」

 

 その声が少しだけ震えていた。

 

「ヒバリ、やめて」

「そういうふうにしちゃだめ」

「それが普通になったら、戻れなくなる」

 

 ヒバリの表情が固くなる。

 

「何に戻るの」

 

「え……」

 

「どこに」

 

 姉が言葉を失う。

 

 ヒバリはその隙を逃さなかった。

 

「またかよ」

 

 吐き捨てる。

 

「姉は甘すぎる」

 

「甘いとかじゃなくて、私は――」

 

「一緒に頑張ろうって言ったやつ、何人いたと思ってる」

 

 今度は姉の方が黙る番だった。

 

 ヒバリの声はもう低くない。押し殺すのをやめた怒りの熱が、そのまま乗っていた。

 

「最後まで付き合うって言ったやつもいた」

「大人も、先輩も、企業の奴も」

「みんな綺麗なこと言ってた」

 

 一拍。

 

「で、結果は?」

 

 盾を握る手に力が入る。

 

「誰が残った」

「誰がまだここにいる」

「考えて言ってよ」

 

 姉の目に、うっすら涙が浮く。

 

 それを見ても、ヒバリは止まれなかった。

 

「もう私たちしかいないんだよ」

「守るのも、追い返すのも、残るのも」

 

 声が少しだけ掠れた。

 

「それなのに、まだそんなこと言うの」

 

 姉はすぐには返せなかった。

 

 俯きかけて、それでも顔を上げる。泣きそうな顔のまま、ヒバリの手元を見る。盾。リボルバー。自分と同じ型の盾。

 

「……その盾まで、そんなふうに使わないで」

 

 小さかった。

 

 でも、その小ささが余計に刺さる。

 

「それ、人を壊すための物じゃないでしょ……!」

 

 ヒバリは口を閉ざした。

 

 返そうと思えばいくらでも返せた。けれど、その一言だけは少し遅れた。言葉になる前に、どこか別のところへ引っかかった。

 

 その間が、余計に腹立たしかった。

 

「……綺麗事」

 

 ようやく出た声は、それだけだった。

 

 姉は何か言いかけて、でも続かなかった。

 

 路地に、気まずい沈黙だけが残る。

 

     *

 

 その数日後だった。

 

 対策委員会室の扉が開いた時点で、ヒバリは嫌な予感がしていた。

 

 姉の後ろに、知らない顔がいたからだ。

 

 自分と同じ一年生くらいに見える背丈。少し気だるそうな目。けれど油断している感じではない。肩に担いだショットガンが妙に自然で、それだけで普通じゃないのが分かる。

 

 ヒバリは机に肘をついたまま、露骨に眉を寄せた。

 

「……何それ」

 

 姉が、できるだけ明るく言う。

 

「この子、ホシノ」

「今日から少し、一緒に動いてもらおうと思ってるの」

 

「は?」

 

 即答だった。

 

「なんか知らないの連れてきて、アビドスに入れる気?」

 

「ちゃんと見て決めたよ」

 

 姉は言う。

 

「強いし、力になってくれると思う」

 

「力?」

 

 ヒバリは鼻で笑った。

 

「そいつ使えるの?」

 

 ホシノの眉がぴくりと動いた。

 

 けれどヒバリは止まらない。

 

「また裏切られるだけだろ」

「見捨てて消える奴ならいらない」

「新しいのなんか連れてくるなよ」

 

「ヒバリ!」

 

 姉が止める。でももう遅い。

 

 ホシノは数秒だけ黙っていた。あまりに唐突すぎて、言葉を選んでいるようにも見えた。けれど結局、選ばなかった。

 

「初対面でそれ?」

 

 声は低い。冷めている。けれど、ちゃんと棘がある。

 

「感じ悪」

 

「そっちの意見なんか知らないよ」

 

「こっちも知らない」

 

 ホシノは肩をすくめる。

 

「ていうか、連れてこられたのはこっちなんだけど」

 

 ヒバリの目が細くなる。

 

「じゃあ帰れば」

 

「そっちに言われる筋合いないし」

 

「は」

 

 短く笑う。

 

 完全に気に食わない。

 

 知らない顔。知らない声。なのに引かない。媚びもしない。こういうのが一番面倒だ。

 

 姉が間に入ろうとする。

 

「二人とも、ちょっと待って――」

 

「待たない」

 

「待てないね」

 

 返答だけは綺麗に重なった。

 

 姉が一瞬だけ固まる。

 

 ヒバリは立ち上がった。

 

「アビドスを助ける?」

 

 そのままホシノを見る。

 

「よく言う」

 

 胸の奥に、古い苛立ちがそのまま出てくる。押しとどめる気もない。

 

「そういうこと言ったやつから先にいなくなるんだよ」

「一緒に頑張ろうって言って、最後まで付き合うって言って、結局消える」

「そんなの何回見たと思ってる」

 

 姉が痛そうな顔をした。

 

 でもヒバリは今さら止まらない。

 

「希望ごっこに付き合う余裕ないんだよ、こっちは」

 

 そこで初めて、ホシノの目の色が変わった。

 

 だるそうに見えた空気が少しだけ消える。

 

「……知らないよ」

 

 吐き捨てるように返す。

 

「そっちの事情なんか」

「勝手に全部決めつけて、勝手に怒ってるだけじゃん」

 

「何?」

 

「お前の意見なんか知らないって言ってる」

 

 静かな声だった。

 

 でも、そこにあったのははっきりした反発だ。

 

「一人で全部分かった顔してる方が感じ悪い」

 

 空気が止まる。

 

 姉が息を呑んだ。

 

 ヒバリは数秒だけ無言でホシノを見た。小柄でもない。大きくもない。ただそこに立っているだけの一年。なのに妙に退かない。目も逸らさない。

 

 腹が立つ。

 

 けれど、その腹立たしさは、さっきまでのものと少し質が違った。

 

 試したくなる方の苛立ちだ。

 

「……は?」

 

 口元だけで笑う。

 

「本当に使えるなら、表出ろ」

 

 そう言って、背中へ手を回す。

 

 固定具を外す音がして、背負っていた折りたたみ式の盾が開く。片腕に噛ませる大型の盾。姉と同じ型の盾だった。けれど、ヒバリが持つとそれは守りの形より先に、潰すための壁に見えた。

 

 もう片方の手が、腰の大口径リボルバーに触れる。

 

「見てやるよ」

 

 姉が一歩前へ出る。

 

「ヒバリ、だめ――」

 

「上等」

 

 最後まで言わせず、ホシノが返した。

 

 躊躇いはなかった。

 

 肩にあったショットガンが、そのまま自然に持ち直される。無駄がなくて、少しだけ攻撃的で、妙に腹が立つくらい真っ直ぐだった。

 

 アビドス生徒会室の空気が、そこで完全に変わった。

 

 最悪の出会いだった。

 

 けれどたぶん、その時点でもう、お互いをただの他人としては見ていなかった。

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