ブラックマーケットの寝床に戻っても、苛立ちは少しも収まらなかった。
狭い部屋だった。壁は薄い。窓は小さい。昼の熱がまだ抜けきらず、空気はぬるい。落ち着くはずの場所なのに、今日は妙に居心地が悪い。
原因は分かっている。
昼の道で会った、あの二年だ。
まっすぐな目。引かない足。首を掴んでも逸れなかった視線。戻ってきてほしい、と真正面から言ってきた声。
思い出すたびに腹が立つ。
何に腹を立てているのか、自分でも少し分からないのが、余計に面倒だった。
「……最悪」
吐き捨てるように呟いて、ヒバリは背負っていたガンバッグを壁に立てかけた。
留め具に指をかける。
普段なら、長物の点検だけして終わりだ。使う物を見て、必要な物だけ残し、余計な物は片づける。それでいい。
けれど今日は、手が止まった。
頭に残っていたのは、あの二年の顔より先に、首元で揺れた青だった。
青いマフラー。
嫌でも目に入る色だった。
あれを見ると、どうしても昔を思い出す。
姉が選んだ青だ。
あの頃、姉はホシノに青を、ヒバリには赤を渡した。たったそれだけの違いなのに、今になってもやけに残る。しかも今は、その青を別の子が巻いている。
たちが悪い。
留め具を外した手が、奥へ伸びた。
引き抜いたのは、今はもう使っていない古い盾だった。
片腕に噛ませる型。表面には細かい擦り傷がいくつも残っている。古い傷ばかりだ。けれど、割れてはいない。まだ使おうと思えば使える。
昔、姉と同じ物を使っていた。
何となく取り出しただけだ。
深い意味なんかない。そう思いたかった。
でも、昔の物を触ると、だいたい碌でもない方から先に戻ってくる。
盾を見た瞬間、最初に浮かんだのは、姉に泣かれた日のことだった。
*
アビドスの外れにある古い倉庫跡は、昼でも薄暗かった。
半分壊れた壁。積まれた木箱。割れたガラス。そこにたむろしていた不良生徒たちは、最初こそ調子のいい顔をしていた。
けれど、その顔は長く続かなかった。
一人が倒れる。
もう一人が壁に叩きつけられる。
鈍い音。短い悲鳴。乾いた砂を擦る靴音。
ヒバリは無言で前に出た。
背中に背負っていた折りたたみ式の盾は、すでに展開されて片腕に噛んでいる。小柄な体格のくせに踏み込みが速い。目の前まで迫られて初めて、不良生徒の一人が顔色を変えた。
「は、ちょ――」
最後まで言わせない。
盾の縁で腕を弾き、崩れたところへ膝を入れる。体勢が浮いた相手の顔面に、今度は腰から抜いた大口径リボルバーの銃口が向いた。
重い鉄の塊だった。近い距離で見れば、それだけで十分に喉が鳴る。
「動くな」
声は低い。
怒鳴ってはいない。けれど逆らえばもっと酷いことになると分かる声だった。
他の連中もすでに止まっていた。止まるしかなかった。路地の出口側には二人転がっている。逃げようとしても、目の前の一年に潰されるだけだ。
ヒバリは一歩踏み込んだ。
「これで終わりだと思うなよ」
リボルバーを少しだけ持ち上げる。脅しのためじゃない。本気なら撃てると分かる角度だった。
「次に来たら、ヘイローの無事は保証しない」
その言葉の意味を理解するのに、一瞬だけ間があった。
理解した瞬間、不良たちの顔色がさらに悪くなる。
「わ、分かった……!」
「もう来ねえ、来ねえから……!」
「今すぐ消えろ」
冷たく言い捨てる。
不良たちは転がるようにその場を離れていった。情けなく砂を蹴り、肩をぶつけ合いながら逃げていく。最後尾の一人が何か言い返しそうに振り向きかけたが、ヒバリが視線を向けただけで黙って走った。
静かになった路地で、ヒバリはようやく息を吐いた。
盾を下ろす。
まだ腕は熱い。さっきまでの力が残っている。
「……遅い」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
その時だった。
「ヒバリ!」
聞き慣れた声が飛んでくる。
次の瞬間、角を曲がってきた姉が、倒れた木箱と路地の有様を見て足を止めた。
転がった残骸。残る息遣い。ヒバリの手にある盾とリボルバー。
全部見て、姉の顔が曇る。
「また……!」
「また、だよ」
ヒバリは面倒そうに返した。
「来たから追い返しただけ」
「追い返したっていうのは、こういうのを言わない」
姉が息を整えながら近づいてくる。怒っている。でも怒鳴るより先に、困ったような顔が強い。
「だって来るでしょ」
「だからって――」
「だからって何」
遮るように言う。
姉が少し言葉を詰まらせた。
ヒバリはその顔を見る。優しい顔だ。困って、傷ついて、でもまだ何とかしようとする顔。見慣れている。見慣れすぎていて、腹が立つ。
「暴力はだめ」
やっと出てきた言葉は、それだった。
ヒバリは鼻で笑う。
「今さら?」
「今さらでも、だめなものはだめだよ」
姉は一歩近づいた。
「そうやって慣れたら、その選択肢が当たり前になる」
その声が少しだけ震えていた。
「ヒバリ、やめて」
「そういうふうにしちゃだめ」
「それが普通になったら、戻れなくなる」
ヒバリの表情が固くなる。
「何に戻るの」
「え……」
「どこに」
姉が言葉を失う。
ヒバリはその隙を逃さなかった。
「またかよ」
吐き捨てる。
「姉は甘すぎる」
「甘いとかじゃなくて、私は――」
「一緒に頑張ろうって言ったやつ、何人いたと思ってる」
今度は姉の方が黙る番だった。
ヒバリの声はもう低くない。押し殺すのをやめた怒りの熱が、そのまま乗っていた。
「最後まで付き合うって言ったやつもいた」
「大人も、先輩も、企業の奴も」
「みんな綺麗なこと言ってた」
一拍。
「で、結果は?」
盾を握る手に力が入る。
「誰が残った」
「誰がまだここにいる」
「考えて言ってよ」
姉の目に、うっすら涙が浮く。
それを見ても、ヒバリは止まれなかった。
「もう私たちしかいないんだよ」
「守るのも、追い返すのも、残るのも」
声が少しだけ掠れた。
「それなのに、まだそんなこと言うの」
姉はすぐには返せなかった。
俯きかけて、それでも顔を上げる。泣きそうな顔のまま、ヒバリの手元を見る。盾。リボルバー。自分と同じ型の盾。
「……その盾まで、そんなふうに使わないで」
小さかった。
でも、その小ささが余計に刺さる。
「それ、人を壊すための物じゃないでしょ……!」
ヒバリは口を閉ざした。
返そうと思えばいくらでも返せた。けれど、その一言だけは少し遅れた。言葉になる前に、どこか別のところへ引っかかった。
その間が、余計に腹立たしかった。
「……綺麗事」
ようやく出た声は、それだけだった。
姉は何か言いかけて、でも続かなかった。
路地に、気まずい沈黙だけが残る。
*
その数日後だった。
対策委員会室の扉が開いた時点で、ヒバリは嫌な予感がしていた。
姉の後ろに、知らない顔がいたからだ。
自分と同じ一年生くらいに見える背丈。少し気だるそうな目。けれど油断している感じではない。肩に担いだショットガンが妙に自然で、それだけで普通じゃないのが分かる。
ヒバリは机に肘をついたまま、露骨に眉を寄せた。
「……何それ」
姉が、できるだけ明るく言う。
「この子、ホシノ」
「今日から少し、一緒に動いてもらおうと思ってるの」
「は?」
即答だった。
「なんか知らないの連れてきて、アビドスに入れる気?」
「ちゃんと見て決めたよ」
姉は言う。
「強いし、力になってくれると思う」
「力?」
ヒバリは鼻で笑った。
「そいつ使えるの?」
ホシノの眉がぴくりと動いた。
けれどヒバリは止まらない。
「また裏切られるだけだろ」
「見捨てて消える奴ならいらない」
「新しいのなんか連れてくるなよ」
「ヒバリ!」
姉が止める。でももう遅い。
ホシノは数秒だけ黙っていた。あまりに唐突すぎて、言葉を選んでいるようにも見えた。けれど結局、選ばなかった。
「初対面でそれ?」
声は低い。冷めている。けれど、ちゃんと棘がある。
「感じ悪」
「そっちの意見なんか知らないよ」
「こっちも知らない」
ホシノは肩をすくめる。
「ていうか、連れてこられたのはこっちなんだけど」
ヒバリの目が細くなる。
「じゃあ帰れば」
「そっちに言われる筋合いないし」
「は」
短く笑う。
完全に気に食わない。
知らない顔。知らない声。なのに引かない。媚びもしない。こういうのが一番面倒だ。
姉が間に入ろうとする。
「二人とも、ちょっと待って――」
「待たない」
「待てないね」
返答だけは綺麗に重なった。
姉が一瞬だけ固まる。
ヒバリは立ち上がった。
「アビドスを助ける?」
そのままホシノを見る。
「よく言う」
胸の奥に、古い苛立ちがそのまま出てくる。押しとどめる気もない。
「そういうこと言ったやつから先にいなくなるんだよ」
「一緒に頑張ろうって言って、最後まで付き合うって言って、結局消える」
「そんなの何回見たと思ってる」
姉が痛そうな顔をした。
でもヒバリは今さら止まらない。
「希望ごっこに付き合う余裕ないんだよ、こっちは」
そこで初めて、ホシノの目の色が変わった。
だるそうに見えた空気が少しだけ消える。
「……知らないよ」
吐き捨てるように返す。
「そっちの事情なんか」
「勝手に全部決めつけて、勝手に怒ってるだけじゃん」
「何?」
「お前の意見なんか知らないって言ってる」
静かな声だった。
でも、そこにあったのははっきりした反発だ。
「一人で全部分かった顔してる方が感じ悪い」
空気が止まる。
姉が息を呑んだ。
ヒバリは数秒だけ無言でホシノを見た。小柄でもない。大きくもない。ただそこに立っているだけの一年。なのに妙に退かない。目も逸らさない。
腹が立つ。
けれど、その腹立たしさは、さっきまでのものと少し質が違った。
試したくなる方の苛立ちだ。
「……は?」
口元だけで笑う。
「本当に使えるなら、表出ろ」
そう言って、背中へ手を回す。
固定具を外す音がして、背負っていた折りたたみ式の盾が開く。片腕に噛ませる大型の盾。姉と同じ型の盾だった。けれど、ヒバリが持つとそれは守りの形より先に、潰すための壁に見えた。
もう片方の手が、腰の大口径リボルバーに触れる。
「見てやるよ」
姉が一歩前へ出る。
「ヒバリ、だめ――」
「上等」
最後まで言わせず、ホシノが返した。
躊躇いはなかった。
肩にあったショットガンが、そのまま自然に持ち直される。無駄がなくて、少しだけ攻撃的で、妙に腹が立つくらい真っ直ぐだった。
アビドス生徒会室の空気が、そこで完全に変わった。
最悪の出会いだった。
けれどたぶん、その時点でもう、お互いをただの他人としては見ていなかった。