朝のアビドス高等学校は、今日も静かだった。
もともと賑やかな学校じゃない。砂に半ば埋もれた校舎。朝の風が吹くたび、砕けた窓枠が細く鳴る。人の声より、砂の擦れる音の方がよく聞こえる場所だ。
けれど、その日の静けさは少し違った。対策委員会の部室に入った瞬間、シロコはそれを感じた。いつもホシノが座っている席が空いている。机の端に置かれていた私物も、雑に脱ぎ捨てられていることの多い上着も見当たらない。ただ遅れている、では済まない。何かが抜けている。そうとしか言えない空気だった。
そして、その違和感の中心みたいに、部室の机の真ん中へ一枚の紙が置かれていた。
退部届。
その横には便箋が一枚。少し離れたところに、ホシノの端末まで置かれている。
最初にそれへ気づいたアヤネが、紙の端を押さえたまま言った。
「……退部届、です」
絞り出すような声だった。
退部届の横には便箋が一枚。少し離れたところに、ホシノの端末まで置かれている。
セリカが勢いよく立ち上がる。
「はぁ!? 何よそれ、意味わかんないんだけど! こんなの、あの人が勝手に――」
「違う」
低く遮ったのはシロコだった。
視線は退部届ではなく、その横の便箋に向いている。白い紙。見慣れた筆跡。必要なことだけを書いて、肝心なところほど雑にぼかす、あの人らしい字だった。
アヤネが便箋を持ち上げる。一度だけ息を整えてから、読み上げた。
「……『こうやって手紙でお別れの挨拶をすることになったことを、許してほしい。あとはおじさんがなんとかする。困った事があったら、ヒバリに連絡して』」
そこで、部室の空気が止まった。
「……ヒバリ?」
先生が静かに問い返す。
知らない名前だった。
それだけで、便箋の中に自分たちの知らない領域が急に口を開けた気がした。ホシノの中に、自分たちが知らなかった最後の札があった。その事実だけが、妙に重い。
アヤネも小さく首を振る。
「知りません。少なくとも、対策委員会の記録にはありません」
「私は初耳なんだけど」
セリカが眉を吊り上げる。
「そんなの今まで一回も聞いてないわよ」
ノノミが不安そうに言った。
「名前だけなら、聞いたことがあります……昔のアビドスを知ってる生徒がいる、って、ホシノ先輩が前にぽろっと……でも、会ったことはなくて」
「私もない」
シロコが短く言う。
便箋の下には、ホシノの端末が置かれていた。珍しい。あのホシノが、自分の端末を置いていくなんて。
先生が端末を手に取る。画面はまだ生きていた。ロックはかかっていない。
「メモがあります」
アヤネが横から覗き込む。
画面に残っていたのは、三行だけだった。
『本当に困った時に連絡して』
ヒバリ、という名前。
その下に、番号が一つ。
セリカが顔をしかめる。
「何よそれ……。そんな大事な人なら、なんで今まで黙ってたのよ」
ノノミが便箋を見つめたまま、小さく呟く。
「ホシノ先輩にとっては、最後の札だったのかもしれませんねぇ……」
アヤネの指先が、端末の縁で止まる。
「……連絡、しますか」
誰もすぐには答えなかった。
知らない相手だった。
でもホシノが最後に残した名前だった。
今ここでかけていいのか。
こんな形で頼っていいのか。
それでも、頼るしかないのか。
迷いを断ち切ったのはシロコだった。
「かけよう」
短い一言だった。
迷いを切るには、それで十分だった。
アヤネが端末を操作する。番号を呼び出し、通話ボタンの上で指を止める。
その瞬間だった。
窓ガラスが、びりっと震えた。
次に床が揺れる。
――ドンッ!!
鈍い爆発音が、少し遅れて校舎を叩いた。
机の上の紙が跳ね、窓の外で砂が一気に巻き上がる。部室の空気が一瞬で変わった。
「なっ……!?」
セリカが窓際へ走る。アヤネも端末を抱えたまま立ち上がった。シロコはもう武器に手をかけている。
校庭の向こう、正門側で黒煙が上がっていた。
アヤネの声が強張る。
「爆発……!?」
先生も窓の外を見る。
砂埃の向こうに、複数の車影が見えた。先頭の車両が校門を押し破り、その後ろから重火器を積んだ車が続く。企業ロゴを付けた武装部隊が、そのまま校舎へ向かってきていた。
セリカが目を見開く。
「ちょっと待って、なんでカイザーが襲ってくるのよ!?」
誰にも答えはなかった。
ノノミの表情から、いつもの柔らかさが消える。
「こんなの、聞いてませんよぉ……!」
「理由はあと」
シロコが言う。
「今は止める」
短い返答だった。
アヤネは深く息を吸い、早口で状況を整理する。
「正門側から接近中。少なくとも車両二……いえ、三。武装ありです。先生、対策委員会は迎撃に出ます。私は校内から支援します」
「了解」
先生が頷く。
連絡どころじゃなかった。
本当に困った時――そう書かれていたのに、その相手へ手を伸ばす前に、現実の方が先に殴り込んできた。
セリカが出口へ向かいざま、苛立ちを隠さず吐き捨てる。
「意味わかんない……! ホシノ先輩がいなくなった途端にカイザーとか、ふざけてるでしょ!」
「行く」
シロコが短く言う。
ノノミも銃を抱え直した。
「理由は分かりませんけど……やるしかないですねぇ」
アヤネは端末を先生へ差し出した。
「先生、それ持っていてください。ホシノ先輩の端末です。それと……その番号も」
先生は端末を受け取る。
小さな端末なのに、妙に重く感じた。ホシノが最後に残した名前と番号、その役目ごと押しつけられたような重さだった。
画面にはまだ、あの三行が残っている。
『本当に困った時に連絡して』
今はまだ、かけられない。
けれど、たぶん遠くない。
先生は端末をポケットへしまう。
外では、もう二度目の爆発音が鳴っていた。
*
朝のブラックマーケットは、明るいくせにどこか薄暗い街だった。
西日そのものはまだ強い。けれど、路地の奥へ入れば屋根の継ぎ足しと汚れた布と張り巡らされた配線が光を濁らせる。日が落ちきる前のくせに、どこを歩いても少しだけ夜の気配が残る街だった。
その一角にある一室は、寝泊まりするには足りるが、暮らすには薄すぎる部屋だった。
机と椅子。壁際の簡易ベッド。積まれた弾薬箱。端末。地図。必要なものだけが置かれていて、余計な生活感はほとんどない。ここで眠ることはあっても、ここへ帰ってきているわけではないと分かる部屋だった。
机の上へ無造作に置かれた報酬を、少女は黙って引き寄せた。
深緑のフード付き外套。夕暮れの光の下では、その色はなおさら黒に近く沈んで見える。フードの下から覗く髪は、黒に近い濃い紺色だった。遠目には黒髪にしか見えないのに、光が当たる角度だけわずかに青みを返す。
顔立ちは整っている。
けれど、近寄りやすさはない。
若さが先に目に入る顔ではなかった。頬に沿う薄い傷、顎の端の裂傷痕、首筋に残る浅い切創痕。笑わない口元と切れ長の目つきより先に、そういうものが“戦ってきた顔”として印象を決める。
首元には赤いマフラー。
机の脇には、その細い体に似合わない大きなガンバッグ。
「報酬だ」
向かいの男が、必要以上に視線を合わせず言った。
「……どうも」
少女――梔子ヒバリは、札束の厚みを指先で弾くように確かめる。早い。雑に見えて、確認だけは正確だった。足りないとも多いとも言わない。必要な分あると分かった時点で、それ以上この場に用はないという顔になる。
男が何か言いかける。
「例の件だが、最近ちょっと外で妙な動きが――」
「今さら?」
ヒバリは顔も上げない。
「だったら先に言え」
男が口を噤む。
この街で“緑の悪魔”に余計な言い訳をするのは得策じゃない。それくらいの空気は、もう十分知れ渡っていた。
それで終わるはずだった。
けれど、胸の奥が妙にざわつく。仕事の後味じゃない。報酬の多少でも、依頼主の胡散臭さでもない。もっと別の、嫌な勘だった。
ヒバリはそこで初めて顔を上げる。灰がかった赤い目が、わずかに細くなった。
報酬を懐へ押し込み、机の端に置いてあった端末を手に取る。続けて、壁に立てかけてあったガンバッグへ手を伸ばした。迷いはない。仕事終わりの手つきではなく、次の動きへ切り替わった人間の速さだった。
深緑のフードを被り直し、ヒバリは扉へ向かう。赤いマフラーの端が、歩き出した背に揺れる。ブラックマーケットの薄暗い廊下へ、深緑の影は何も残さず溶けていった。