最初に分かったのは、視界が近すぎることだった。
白い。
いや、白いというより、ぼやけている。
天井が見えないな、とホシノは半端に働かない頭で思った。顔のすぐ上にあるのは天井じゃない。近すぎる白い布地の影だ。柔らかい影がかかっていて、少しだけ揺れている。
それから、頬のあたりに冷たいものが触れた。
「ん……」
「あ、起きた?」
頭のすぐ近くで、ユメ先輩の声がした。
そこでようやく、状況が少しずつ繋がる。
膝枕。
ホシノは今、ユメ先輩の膝に頭を乗せたまま、顔を消毒されていた。
視界の端には、小さな救急箱。ガーゼ。絆創膏。消毒液。
どうやら寝ている間に、ある程度は手当てが進んでいたらしい。
「……何これ」
起き抜けの声は、自分でも驚くくらい間の抜けたものだった。
ユメ先輩が困ったように笑う。
「何これ、じゃないよぉ。けっこう派手に擦ってたから」
ユメ先輩はガーゼを持ち直す。
「顔、ちょっと消毒してたの」
「顔……」
そこで背中の痛みも戻ってきた。
重い。鈍い。身体の奥に響く感じがある。
最後の一撃を思い出して、ホシノは小さく顔をしかめた。
「っ、痛……」
「だよねぇ」
ユメ先輩は苦笑した。
「盾で吹っ飛ばされてたし」
他人事みたいに言うな、と思ったけど、事実だから言い返しづらい。
目を開ける。
まだ焦点は甘い。
けれど、目の前のユメ先輩の顔は分かった。心配そうで、でも起きたことにはちゃんと安心している顔。
その顔を見て、何となく気が抜けた。
「……あたし、勝った?」
「どうだろう」
ユメ先輩は考えてから言う。
「引き分け、かなぁ」
「うわ、一番やだ」
思わずそう返すと、ユメ先輩が小さく笑った。
その笑い方がやわらかくて、ちょっとだけ調子が狂う。
ホシノはぼんやりしたまま、視線を横へ流した。
そこで、もう一人の姿が見えた。
生徒会室の長椅子で、ヒバリが寝ていた。
あれだけ感じが悪くて、あれだけ容赦なく撃ってきて、最後まで睨んできたやつが、今は毛布を掛けられて静かに寝ている。
気絶しているというより、途中から普通に眠ってしまった顔だ。
「……寝てるね」
ホシノが呟くと、ユメ先輩がまた苦笑した。
「寝てるねぇ」
「途中から、たぶん普通に寝てたと思う」
「何それ」
本当に何なんだ、そいつ。
ホシノは半分呆れながら、もう一度ヒバリを見る。
寝顔だけ見れば、年相応だった。
口を閉じて、眉間に皺さえなければ、ただの不機嫌そうな一年生で済む顔をしている。
さっきまで盾を振り回していたやつと同じとは思いづらい。
頬にまた消毒液が触れる。
「しみる?」
「今しみた」
「ごめんね」
ユメ先輩は本当に申し訳なさそうに言った。
「巻き込んじゃって」
「いや、まあ……」
ホシノは視線を上へ戻す。
やっぱり天井は見えない。見えるのは、近すぎる白い布地の影だけだ。
「表出ろって言われて、上等って返したのはこっちだし」
そう言うと、ユメ先輩は少し困った顔で笑った。
「二人とも、そっくりな返しするんだもん」
「止める暇なかったよぉ」
「似てないでしょ」
「似てるよぉ」
そこは即否定したかったけど、戦い方の雑さとか、引かないところとか、思い返すと嫌な一致が少しあって、ホシノは黙った。
ユメ先輩の手が止まる。
寝ているヒバリの方へ一瞬だけ視線を向けて、それから、小さな声で言った。
「ごめんね。ヒバリ、あんな感じなんだけど」
一拍。
「本当は優しい子なんだよ」
どこがだよ。
今度は内心ではなく、顔に出たかもしれない。
ユメ先輩はそれを見ても、気を悪くした様子はなかった。
たぶん、そう思われるのも分かっている顔だった。
「いや……」
ホシノは言葉を選ぶ。
「初対面であれは、だいぶ感じ悪いよ」
「うん」
「すぐ噛みつくし」
「うん」
「撃ってくるし」
「それも、うん」
「どのへんが優しいの」
さすがに聞いた。
ユメ先輩はすぐには答えなかった。
ガーゼを持ち直しながら、言葉を探しているみたいだった。
「あの子、昔から先に動くの」
「自分がやるって思ったことは、誰より先にやろうとする」
「止めても、危ないって言っても、とりあえず先に飛び込む」
ホシノは黙って聞く。
「たぶん、怖いんだと思う」
ユメ先輩は静かに続けた。
「何もしないうちに失うのが」
「何か言ってるうちに、手遅れになるのが」
その言い方には、妙な実感があった。
ただ庇っているんじゃない。
見てきた人の声だった。
「アビドス、今でもかなりぎりぎりだけど、前から少しずつ悪くなっていってたんだ」
「先輩も、外の協力者も、企業も、大人も」
「綺麗なことを言ってくれる人はいたよ」
「一緒に頑張ろうって。最後まで付き合うって」
そこで、ユメ先輩は俯く。
「でも、いなくなる人も多かった」
「理由があったのも分かる。責めたいわけじゃない」
「ただ、ヒバリはそれをずっと見てきたから」
ホシノは何も言わない。
ユメ先輩の指先はちゃんと動いていた。
ガーゼを替えて、絆創膏を貼って、乱れた前髪を少し避ける。こういう作業にも慣れているのが分かる。
それが、この学校の時間をそのまま見せている気がした。
「それで、だんだん人を信じなくなって」
「信じる前に疑うようになって」
「期待する前に噛みつくようになって」
「先に叩き潰した方がいいって、そっちに寄っちゃった」
「……面倒だね」
ぽろっと出た言葉に、ユメ先輩は苦く笑った。
「うん。すごく面倒」
そこは否定しないんだ、と思った。
ちょっとだけ可笑しくなる。
でも、笑うほど軽くもない。
ユメ先輩は貼り終えた絆創膏を軽く押さえると、ホシノの顔をまっすぐ見た。
「ホシノちゃん」
「ん?」
「ヒバリを助けてあげてほしい」
その言葉だけ、真っ直ぐだった。
ホシノは目を細める。
軽い頼みじゃない。
冗談でもない。
ユメ先輩は本気だった。
「助けるって」
ホシノはわざと少し気の抜けた声で返す。
「大げさじゃない?」
「そうかもしれない」
ユメ先輩は小さく笑った。
「でも、あの子、一人で全部背負おうとしちゃうから」
「私が言っても、余計に反発する時もあるし」
長椅子の方を見る。
「だから、同じくらいの目線で見てくれる子がいたらなって思ってる」
何であたしが、とは普通に思った。
今日来たばっかりだ。
初対面で感じ悪くされて、撃たれて、吹っ飛ばされて、それで「助けてあげてほしい」は話が飛びすぎている。
でも、ユメ先輩の言い方が押しつけじゃないのが厄介だった。
命令じゃない。
ただ、願ってしまったみたいな顔だった。
「……知らないよ、そんなの」
結局、出たのはそのくらいだった。
「感じ悪いし」
「面倒そうだし」
「うん」
ユメ先輩はまた頷く。
「そこは本当にそう」
「否定しないね」
「否定できないからねぇ」
弱く笑う。
その顔を見ると、それ以上は強く返しづらかった。
しばらく、生徒会室が静かになる。
古い扇風機の音。窓の外の風。遠くで何かがきしむ音。
全部が少しだけ眠たくなるような午後だった。
ホシノはぼんやりと、長椅子のヒバリを見る。
あんなやつでも寝る時は寝るのか、と思う。
さっきまでの尖った顔は消えていた。
眠っている間くらい、もう少し穏やかでいればいいのに。そう思うのに、寝顔までちょっと不機嫌そうなのがまた面倒だった。
その時、長椅子の上で小さく気配が動いた。
ヒバリの睫毛が震える。
目が、ゆっくり開いた。
「あれ……」
掠れた声だった。
まだ半分寝ている。
「お姉ちゃん」
ユメ先輩がすぐに顔を寄せる。
「起きた? 気分どう?」
「……何してたっけ」
寝ぼけている。
さっきまであれだけ容赦なかったやつとは思えないくらい、間の抜けた声だった。
ホシノは思わず目を丸くする。
そういう顔もできるのか、と本気で思った。
ヒバリはぼんやりしたまま視線を動かした。
ユメ先輩。
机。
救急箱。
そして。
ユメ先輩の膝に頭を乗せたまま、顔にガーゼを当てられているホシノを見た。
一秒。
二秒。
そこで、空気が変わった。
ヒバリの表情が一気に冷える。
寝ぼけた顔が消える。眉が寄る。目つきが鋭くなる。口元がはっきり歪む。
かなり不機嫌だった。
人の顔って、こんなに変わるのか。
ホシノは人ごとみたいにそう思った。
「……は?」
低い声。
さっきまでの抜けた調子が、もう一欠片も残っていない。
ヒバリはがばりと起き上がりかけて、そこで傷の痛みを思い出したのか一瞬止まる。
それでも、止まったのは一瞬だけだった。
ヒバリの目が、一瞬だけ揺れた。
自分が長椅子に寝かされていること。
身体のあちこちが痛むこと。
それから、目の前にいるホシノが、まだユメ先輩の膝の上にいること。
たぶん、その全部を順番に理解したのだと思う。
眉間の皺が、さっきより深くなった。
視線がユメ先輩の膝からホシノの顔へ戻る。
完全に気に入らないものを見る目だ。
ホシノはガーゼを当てられたまま、その視線を受ける。
面白いくらい機嫌が悪い。
「……最悪」
低く吐き捨てる。
それからヒバリは露骨に舌打ちした。
今度はかなりはっきり聞こえた。
ヒバリはそのまま、ホシノから顔を背けた。
反対側を向いて、もうそれ以上何も言わない。
ただ、耳のあたりだけが少し赤い。
怒っているのか、悔しいのか、恥ずかしいのか。
たぶん全部だ。
黙っているくせに、不機嫌さだけは背中からよく分かった。
というか、不機嫌を通り越して、今すぐこちらを撃ちたそうだった。
ホシノは呆れて、でもなぜかさっきほど腹は立たなかった。
面倒なやつだな、と思う。
それは最初から分かっていた。
でも今は、それだけでもなかった。