アビドスに、もう一人の三年生がいた   作:ゴリさん39

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第19話 どこがだよ

 

 最初に分かったのは、視界が近すぎることだった。

 

 白い。

 

 いや、白いというより、ぼやけている。

 

 天井が見えないな、とホシノは半端に働かない頭で思った。顔のすぐ上にあるのは天井じゃない。近すぎる白い布地の影だ。柔らかい影がかかっていて、少しだけ揺れている。

 

 それから、頬のあたりに冷たいものが触れた。

 

「ん……」

 

「あ、起きた?」

 

 頭のすぐ近くで、ユメ先輩の声がした。

 

 そこでようやく、状況が少しずつ繋がる。

 

 膝枕。

 

 ホシノは今、ユメ先輩の膝に頭を乗せたまま、顔を消毒されていた。

 

 視界の端には、小さな救急箱。ガーゼ。絆創膏。消毒液。

 どうやら寝ている間に、ある程度は手当てが進んでいたらしい。

 

「……何これ」

 

 起き抜けの声は、自分でも驚くくらい間の抜けたものだった。

 

 ユメ先輩が困ったように笑う。

 

「何これ、じゃないよぉ。けっこう派手に擦ってたから」

 

 ユメ先輩はガーゼを持ち直す。

 

「顔、ちょっと消毒してたの」

 

「顔……」

 

 そこで背中の痛みも戻ってきた。

 

 重い。鈍い。身体の奥に響く感じがある。

 最後の一撃を思い出して、ホシノは小さく顔をしかめた。

 

「っ、痛……」

 

「だよねぇ」

 

 ユメ先輩は苦笑した。

 

「盾で吹っ飛ばされてたし」

 

 他人事みたいに言うな、と思ったけど、事実だから言い返しづらい。

 

 目を開ける。

 

 まだ焦点は甘い。

 けれど、目の前のユメ先輩の顔は分かった。心配そうで、でも起きたことにはちゃんと安心している顔。

 

 その顔を見て、何となく気が抜けた。

 

「……あたし、勝った?」

 

「どうだろう」

 

 ユメ先輩は考えてから言う。

 

「引き分け、かなぁ」

 

「うわ、一番やだ」

 

 思わずそう返すと、ユメ先輩が小さく笑った。

 

 その笑い方がやわらかくて、ちょっとだけ調子が狂う。

 

 ホシノはぼんやりしたまま、視線を横へ流した。

 

 そこで、もう一人の姿が見えた。

 

 生徒会室の長椅子で、ヒバリが寝ていた。

 

 あれだけ感じが悪くて、あれだけ容赦なく撃ってきて、最後まで睨んできたやつが、今は毛布を掛けられて静かに寝ている。

 

 気絶しているというより、途中から普通に眠ってしまった顔だ。

 

「……寝てるね」

 

 ホシノが呟くと、ユメ先輩がまた苦笑した。

 

「寝てるねぇ」

「途中から、たぶん普通に寝てたと思う」

 

「何それ」

 

 本当に何なんだ、そいつ。

 

 ホシノは半分呆れながら、もう一度ヒバリを見る。

 

 寝顔だけ見れば、年相応だった。

 口を閉じて、眉間に皺さえなければ、ただの不機嫌そうな一年生で済む顔をしている。

 

 さっきまで盾を振り回していたやつと同じとは思いづらい。

 

 頬にまた消毒液が触れる。

 

「しみる?」

 

「今しみた」

 

「ごめんね」

 

 ユメ先輩は本当に申し訳なさそうに言った。

 

「巻き込んじゃって」

 

「いや、まあ……」

 

 ホシノは視線を上へ戻す。

 やっぱり天井は見えない。見えるのは、近すぎる白い布地の影だけだ。

 

「表出ろって言われて、上等って返したのはこっちだし」

 

 そう言うと、ユメ先輩は少し困った顔で笑った。

 

「二人とも、そっくりな返しするんだもん」

「止める暇なかったよぉ」

 

「似てないでしょ」

 

「似てるよぉ」

 

 そこは即否定したかったけど、戦い方の雑さとか、引かないところとか、思い返すと嫌な一致が少しあって、ホシノは黙った。

 

 ユメ先輩の手が止まる。

 

 寝ているヒバリの方へ一瞬だけ視線を向けて、それから、小さな声で言った。

 

「ごめんね。ヒバリ、あんな感じなんだけど」

 

 一拍。

 

「本当は優しい子なんだよ」

 

 どこがだよ。

 

 今度は内心ではなく、顔に出たかもしれない。

 

 ユメ先輩はそれを見ても、気を悪くした様子はなかった。

 たぶん、そう思われるのも分かっている顔だった。

 

「いや……」

 

 ホシノは言葉を選ぶ。

 

「初対面であれは、だいぶ感じ悪いよ」

 

「うん」

 

「すぐ噛みつくし」

 

「うん」

 

「撃ってくるし」

 

「それも、うん」

 

「どのへんが優しいの」

 

 さすがに聞いた。

 

 ユメ先輩はすぐには答えなかった。

 ガーゼを持ち直しながら、言葉を探しているみたいだった。

 

「あの子、昔から先に動くの」

「自分がやるって思ったことは、誰より先にやろうとする」

「止めても、危ないって言っても、とりあえず先に飛び込む」

 

 ホシノは黙って聞く。

 

「たぶん、怖いんだと思う」

 

 ユメ先輩は静かに続けた。

 

「何もしないうちに失うのが」

「何か言ってるうちに、手遅れになるのが」

 

 その言い方には、妙な実感があった。

 

 ただ庇っているんじゃない。

 見てきた人の声だった。

 

「アビドス、今でもかなりぎりぎりだけど、前から少しずつ悪くなっていってたんだ」

「先輩も、外の協力者も、企業も、大人も」

「綺麗なことを言ってくれる人はいたよ」

「一緒に頑張ろうって。最後まで付き合うって」

 

 そこで、ユメ先輩は俯く。

 

「でも、いなくなる人も多かった」

「理由があったのも分かる。責めたいわけじゃない」

「ただ、ヒバリはそれをずっと見てきたから」

 

 ホシノは何も言わない。

 

 ユメ先輩の指先はちゃんと動いていた。

 ガーゼを替えて、絆創膏を貼って、乱れた前髪を少し避ける。こういう作業にも慣れているのが分かる。

 

 それが、この学校の時間をそのまま見せている気がした。

 

「それで、だんだん人を信じなくなって」

「信じる前に疑うようになって」

「期待する前に噛みつくようになって」

「先に叩き潰した方がいいって、そっちに寄っちゃった」

 

「……面倒だね」

 

 ぽろっと出た言葉に、ユメ先輩は苦く笑った。

 

「うん。すごく面倒」

 

 そこは否定しないんだ、と思った。

 

 ちょっとだけ可笑しくなる。

 でも、笑うほど軽くもない。

 

 ユメ先輩は貼り終えた絆創膏を軽く押さえると、ホシノの顔をまっすぐ見た。

 

「ホシノちゃん」

 

「ん?」

 

「ヒバリを助けてあげてほしい」

 

 その言葉だけ、真っ直ぐだった。

 

 ホシノは目を細める。

 

 軽い頼みじゃない。

 冗談でもない。

 ユメ先輩は本気だった。

 

「助けるって」

 

 ホシノはわざと少し気の抜けた声で返す。

 

「大げさじゃない?」

 

「そうかもしれない」

 

 ユメ先輩は小さく笑った。

 

「でも、あの子、一人で全部背負おうとしちゃうから」

「私が言っても、余計に反発する時もあるし」

 

 長椅子の方を見る。

 

「だから、同じくらいの目線で見てくれる子がいたらなって思ってる」

 

 何であたしが、とは普通に思った。

 

 今日来たばっかりだ。

 初対面で感じ悪くされて、撃たれて、吹っ飛ばされて、それで「助けてあげてほしい」は話が飛びすぎている。

 

 でも、ユメ先輩の言い方が押しつけじゃないのが厄介だった。

 

 命令じゃない。

 ただ、願ってしまったみたいな顔だった。

 

「……知らないよ、そんなの」

 

 結局、出たのはそのくらいだった。

 

「感じ悪いし」

「面倒そうだし」

 

「うん」

 

 ユメ先輩はまた頷く。

 

「そこは本当にそう」

 

「否定しないね」

 

「否定できないからねぇ」

 

 弱く笑う。

 

 その顔を見ると、それ以上は強く返しづらかった。

 

 しばらく、生徒会室が静かになる。

 

 古い扇風機の音。窓の外の風。遠くで何かがきしむ音。

 全部が少しだけ眠たくなるような午後だった。

 

 ホシノはぼんやりと、長椅子のヒバリを見る。

 

 あんなやつでも寝る時は寝るのか、と思う。

 

 さっきまでの尖った顔は消えていた。

 眠っている間くらい、もう少し穏やかでいればいいのに。そう思うのに、寝顔までちょっと不機嫌そうなのがまた面倒だった。

 

 その時、長椅子の上で小さく気配が動いた。

 

 ヒバリの睫毛が震える。

 

 目が、ゆっくり開いた。

 

「あれ……」

 

 掠れた声だった。

 まだ半分寝ている。

 

「お姉ちゃん」

 

 ユメ先輩がすぐに顔を寄せる。

 

「起きた? 気分どう?」

 

「……何してたっけ」

 

 寝ぼけている。

 

 さっきまであれだけ容赦なかったやつとは思えないくらい、間の抜けた声だった。

 

 ホシノは思わず目を丸くする。

 

 そういう顔もできるのか、と本気で思った。

 

 ヒバリはぼんやりしたまま視線を動かした。

 

 ユメ先輩。

 机。

 救急箱。

 

 そして。

 

 ユメ先輩の膝に頭を乗せたまま、顔にガーゼを当てられているホシノを見た。

 

 一秒。

 

 二秒。

 

 そこで、空気が変わった。

 

 ヒバリの表情が一気に冷える。

 寝ぼけた顔が消える。眉が寄る。目つきが鋭くなる。口元がはっきり歪む。

 

 かなり不機嫌だった。

 

 人の顔って、こんなに変わるのか。

 

 ホシノは人ごとみたいにそう思った。

 

「……は?」

 

 低い声。

 

 さっきまでの抜けた調子が、もう一欠片も残っていない。

 

 ヒバリはがばりと起き上がりかけて、そこで傷の痛みを思い出したのか一瞬止まる。

 それでも、止まったのは一瞬だけだった。

 

 ヒバリの目が、一瞬だけ揺れた。

 

 自分が長椅子に寝かされていること。

 身体のあちこちが痛むこと。

 それから、目の前にいるホシノが、まだユメ先輩の膝の上にいること。

 

 たぶん、その全部を順番に理解したのだと思う。

 

 眉間の皺が、さっきより深くなった。

 

 視線がユメ先輩の膝からホシノの顔へ戻る。

 

 完全に気に入らないものを見る目だ。

 

 ホシノはガーゼを当てられたまま、その視線を受ける。

 

 面白いくらい機嫌が悪い。

 

「……最悪」

 

 低く吐き捨てる。

 

 それからヒバリは露骨に舌打ちした。

 

 今度はかなりはっきり聞こえた。

 

 ヒバリはそのまま、ホシノから顔を背けた。

 

 反対側を向いて、もうそれ以上何も言わない。

 ただ、耳のあたりだけが少し赤い。

 

 怒っているのか、悔しいのか、恥ずかしいのか。

 たぶん全部だ。

 

 黙っているくせに、不機嫌さだけは背中からよく分かった。

 というか、不機嫌を通り越して、今すぐこちらを撃ちたそうだった。

 

 ホシノは呆れて、でもなぜかさっきほど腹は立たなかった。

 

 面倒なやつだな、と思う。

 

 それは最初から分かっていた。

 

 でも今は、それだけでもなかった。

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