その朝、ヒバリはいつもより早く学校を出る準備をしていた。
まだ空気は冷えていた。
窓の隙間から入り込む砂も、昼間よりはおとなしい。アビドスの朝は、日が昇りきる前だけ少しだけ静かになる。
生徒会室の机には、書類がいくつか積まれていた。
返済計画。
物資の調達先。
外部企業とのやり取りの記録。
どれも、見ていて楽しいものではない。
ヒバリはその中から必要な書類だけを抜き取り、鞄に押し込んだ。
「今日は少し遅れる」
それだけ言うと、ユメが顔を上げた。
「企業の人と会う日だっけ?」
「そう。資材提供の件と、未払い分の確認。あと、前に出した返済猶予の話」
「一人で大丈夫?」
「お姉ちゃんよりは大丈夫」
「ひどいなぁ」
ユメは苦笑したが、否定はできない顔をした。
ヒバリは書類をまとめながら、少しだけ息を吐く。
本当は、出たくない。
できるなら、今日は学校に残っていたかった。
ユメと同じ部屋にいて、いつものように危なっかしい動きを見張って、余計なことをしそうになったら止める。そうしている方が、よほど気が楽だった。
けれど、そうもいかない。
アビドスは、ただ待っていれば誰かが助けてくれる学校ではない。
必要な物資も、猶予も、金も、外へ取りに行かなければ手に入らない。
だから、ヒバリが行くしかない。
「お姉ちゃんは?」
「私はバイト。いつもの倉庫のところ」
ユメは明るく答えた。
「昼には戻るよ」
ヒバリの手が、そこで少しだけ止まった。
「そこ、最近上が変わったって聞いたけど」
「え? そうなの?」
「噂程度。でも、前と同じつもりで行かない方がいい」
ユメは少し困ったように笑った。
「大丈夫だよ。店長さんとは何回も話してるし」
「その店長が、今もいるとは限らないでしょ」
「うーん……でも、ちゃんとしたところだよ? 前も時間通りに上がらせてくれたし、報酬もその日に出してくれたし」
「前は前」
ヒバリは淡々と言った。
「条件が変わってたら、すぐ連絡して。変な契約書を出されたら、その場でサインしない。昼までって話なら、昼で帰る。揉めたら連絡」
「分かってるよ」
ユメは軽く返事をした。
軽い。
軽すぎる。
ヒバリは少しだけ眉を寄せた。
ホシノは窓際の椅子に座ったまま、青いマフラーを手元で弄っていた。首には巻いていない。まだ少し気恥ずかしいのか、机の上に置いたまま、時々触るだけだった。
ヒバリはそれをちらりと見てから、ホシノへ視線を向けた。
「お前」
「何」
「お姉ちゃん、昼を過ぎても戻らなかったら確認して」
ホシノは半目になる。
「何で私が」
「私が夕方まで戻れないから」
「それ、頼んでる?」
「命令」
「感じ悪」
「知ってる」
いつもの返しだった。
それでも、ヒバリはすぐには視線を外さなかった。
「……お姉ちゃんを見てて」
ほんの少しだけ、声が低くなる。
ホシノは目を細めた。
「今、頼みました?」
「命令って言った」
「面倒くさ」
「知ってる」
ユメが二人を見比べて、少しだけ笑う。
「二人とも心配しすぎだよ。昼には戻るって」
「その“戻る”が信用できないんだよね」
「ホシノちゃんまで?」
「まあ、ユメ先輩も危なっかしいですし」
「そこは否定してほしかったなぁ」
「そこは否定できませんよ」
ユメは少しだけ頬を膨らませたが、すぐに笑った。
その時点では、まだ何でもない朝だった。
*
二人が出ていった後、生徒会室は妙に静かになった。
ユメ先輩の声もない。
ヒバリの感じの悪い指摘もない。
外から聞こえるのは、窓の隙間を撫でる風と、廊下の奥に溜まった砂が少しだけ擦れる音くらいだった。
ホシノは椅子の背もたれに体を預ける。
「二人とも出かけて、私だけ留守番ですか」
ぼやいても、返事はない。
机の上には、ヒバリが残していった整理途中の書類。
ユメが使っていた帳簿。
青いマフラー。
部屋の隅には、前日に旧校舎から持ち帰った大きなライフルが立てかけられている。
場違いだった。
でも、もう少し馴染み始めているのが妙に嫌だった。
ホシノは立ち上がり、まず窓際の砂を払った。
それから机の上の書類を分類し、古いものと新しいものに分ける。
届いていた物資の伝票を確認し、棚にしまう。
面倒だった。
けれど、やり始めると案外手は動いた。
ユメ先輩が戻ってきた時に、少しでも片づいていた方がいい。
そう思ったことは、何となく認めたくなかった。
昼が近づく。
ホシノは時計を見た。
そろそろ戻ってきてもいい頃だ。
だが、扉は開かない。
最初は、少し長引いているだけだと思った。
何度か行っているバイト先らしいし、顔見知りもいるのだろう。
なら、そこまで心配する必要はない。
けれど、昼を過ぎてもユメ先輩は学校に戻らなかった。
連絡もない。
ホシノは机の端に置かれていた予定メモを見る。
倉庫整理。
昼まで。
いつもの店長さんに確認。
その下に、企業名らしいものと、倉庫街の住所が走り書きされている。
嫌な感じがした。
派手に危ないわけじゃない。
銃声が聞こえるわけでもない。
けれど、ヒバリが朝に言っていたことが、妙に耳に残っている。
前と同じつもりで行かない方がいい。
その店長が、今もいるとは限らない。
ホシノはため息をついた。
「……ヒバリに怒られるのも面倒だし」
言い訳みたいな声だった。
本当は、それだけではない。
ホシノはショットガンを手に取る。
「見てろって言われたしね」
そう呟いて、生徒会室を出た。
*
ユメは困っていた。
最初は、本当にいつも通りのバイトだと思っていた。
倉庫内の荷物整理。
古い備品の仕分け。
書類の分類。
力仕事もあるが、危険な作業ではない。
何度か来た場所だった。
前の店長はアビドスの事情も知っていて、昼までの予定なら昼で区切ってくれた。報酬もその日に出してくれたし、無理な作業を押しつけることもなかった。
だから、今回も大丈夫だと思っていた。
けれど、今日は少し違った。
作業員の顔ぶれが硬い。
見慣れた人もいるが、どこか話しづらそうにしている。
壁には新しい業務指示書が貼られ、勤務終了や報酬支払いに関する細かい規定が増えていた。
それでも、ユメは最初、そこまで深く考えなかった。
最近方針が変わったのかもしれない。
忙しいのかもしれない。
店長さんに話せば、きっと分かってくれる。
そう思っていた。
昼になり、ユメは作業の手を止めた。
「あの、すみません。今日は昼までの予定だったので、店長さんを呼んでもらえますか?」
近くにいた作業員が、少し気まずそうに目を逸らした。
「店長は……今、別の方で」
「え?」
ユメが首を傾げる。
その時、奥の事務所から一人の男が出てきた。
以前の店長ではなかった。
きっちり整えた服装。
丁寧な笑み。
けれど、目だけが妙に冷たい。
「店長、というのは前任のことですか?」
「はい。いつもはその人と話をしていて……」
「前店長は異動になりましたよ」
その一言で、ユメの表情が固まった。
男は笑ったまま続ける。
「利益が出ないのでね。あの人は随分と甘いやり方をしていたようですが、今後は私の指示に従ってもらいます」
「でも、今日は昼までという話で……」
「それは前任者の運用です」
男は机の上に契約書を置いた。
「現在の責任者は私です。作業完了、報酬支払い、勤務終了の判断も、すべて私が行います」
「報酬も、今日の分は今日いただけると聞いていて」
「報酬は作業完了後です」
男は指で契約書を叩いた。
「ここに記載されています。作業完了は弊社責任者の検収終了時点。つまり、私が完了と判断するまでは完了ではありません」
「でも、もうかなり作業は――」
「まだです」
男は笑ったまま遮った。
「それに、途中で業務を放棄する場合は違約金が発生します。こちらも記載されています」
ユメは契約書を見る。
確かに書いてある。
だが、そんな説明は受けていない。
少なくとも、ユメが理解できる形では言われていない。
「でも……学校に戻らないと。心配されるので」
「それはこちらの知るところではありません」
男の声が少し低くなる。
「契約は契約です。アビドスの皆さんも、随分お困りなんでしょう? なら、きちんと働いていただかないと」
背後には、警備員が二人立っている。
露骨だった。
帰りたいと言えば、契約を盾にする。
強く出ようとすれば、警備を見せる。
笑っているのに、逃がす気がない。
ユメはそこで、ようやく理解した。
ここは、前と同じ場所だ。
でも、前と同じ場所ではなくなっている。
ヒバリに言われていたのに。
前と同じ人がいるとは限らない。
条件が変わっていたら連絡して。
昼までなら昼で帰って。
その全部を、聞いたつもりで聞けていなかった。
「……連絡だけ、させてもらえませんか」
「業務中の私的連絡は禁止です」
「でも」
「規定です」
男はまた紙を叩いた。
その音が、妙に大きく聞こえた。
ユメは唇を噛む。
「店長さんは、いつも事情を分かってくれていました」
「だから異動になったんです」
「……え?」
「善意で現場は回りません。利益を出せない責任者は不要です」
男は薄く笑う。
「ここでは、私の指示に従ってもらいます」
その時だった。
「見つけましたよ、ユメ先輩」
扉の向こうから、声がした。
ユメが振り返るより早く、金属製の扉が内側へ歪んだ。
一度。
二度。
三度目で、蝶番が嫌な音を立てた。
警備員が慌てて振り返る。
「何だ!?」
次の瞬間、扉が床へ倒れた。
砂と埃が巻き上がる。
薄い煙のように漂うその向こうに、ホシノが立っていた。
片手にはショットガン。
肩には砂。
いつもの気だるそうな顔は、もうしていない。
「早く戻りますよ」
「ホシノちゃん……!」
男が椅子から立ち上がる。
「何をしている! 警備員を呼べ!」
「無理ですよ」
ホシノは淡々と言った。
「下の階の人たちは、全部倒しました」
部屋の空気が止まった。
「……は?」
「だから、もう呼べません」
ホシノは一歩、部屋へ入る。
警備員の一人が銃を構えようとする。
けれど遅い。
ホシノのショットガンが火を吹く。
直撃ではない。足元。壁際。相手の動きを潰す位置。
警備員が体勢を崩したところへ、ホシノは迷わず踏み込んだ。
鈍い音がした。
一人が倒れる。
もう一人が距離を取ろうとしたが、次の一撃で膝をついた。
短かった。
あまりにも短かった。
ユメは呆然とそれを見る。
ホシノは息ひとつ乱さず、男へ視線を戻した。
「ユメ先輩を返してもらいます」
「ふ、ふざけるな! こちらは正当な契約に基づいて――」
「昼までって話だったんですよね」
ホシノはユメを見る。
ユメは小さく頷いた。
「うん……前は、それで大丈夫だったから」
ホシノは男へ視線を戻す。
「前と条件が違うなら、先に説明するべきじゃないですか」
「契約書には書いてあります」
「ユメ先輩が帰りたいって言ってるのに、帰さない理由にはならないでしょ」
「契約上は――」
「詳しいことは、詳しい人に見てもらえばいいです」
ホシノは机の上の契約書を見る。
「口頭説明と契約書の内容が違う。昼までって話だったのに、完了条件はそっちの検収次第。外部連絡も制限。違約金も一方的。私、詳しくないけど」
ホシノの目が少しだけ細くなる。
「詳しい人に見せたら、困るのはそっちじゃない?」
男の顔が引きつった。
「貴様……」
「あと」
ホシノはユメの方へ歩く。
「アビドスが困ってるのは事実だけど。だからって、好きにしていいわけじゃないでしょ」
ユメの手を取る。
その手は少し冷えていた。
「帰りますよ、ユメ先輩」
「……うん」
ユメは小さく頷いた。
男は歯を食いしばる。
けれど、もう止められなかった。
警備員は倒れている。
下の階も使えない。
契約書を盾にしても、目の前の生徒はまったく引かない。
ホシノは振り返りもしなかった。
ユメを連れて、壊れた扉の向こうへ出ていく。
廊下の先には、倒れた警備員たちが転がっていた。
ユメは思わず目を伏せる。
「ホシノちゃん……」
「大丈夫。手加減はしました」
「そういう問題かなぁ」
「そういう問題です」
ホシノは少しだけ息を吐いた。
「本当に、心配したんですよ」
その声だけ、少しだけいつもの調子に戻っていた。
*
学校に戻った時、ヒバリはもう生徒会室にいた。
赤いマフラーを巻いたまま、机の前に立っている。
表情は、いつも以上に冷えていた。
「遅い」
第一声がそれだった。
ユメはすぐに頭を下げる。
「ごめん、ヒバリ」
「前と責任者が変わったなら、連絡してって言ったでしょ」
「うん……」
「条件が変わった時点で帰る。変な契約書を出されたら、その場で止める。何回行った場所でも、相手が同じとは限らない」
「ごめんなさい」
ユメは素直に謝った。
「前にも行ってたところだから、大丈夫だと思って……」
「その“大丈夫だと思った”が一番危ない」
ヒバリの声は低かった。
怒っている。
間違いなく怒っている。
でも、ユメの無事を確認したせいか、声はそれ以上大きくならなかった。
代わりに、視線がホシノへ向く。
「見つけたの」
「まあ」
ホシノは肩をすくめる。
「昼過ぎても戻らなかったから」
「連絡は?」
「先に行った方が早いと思って」
ヒバリは黙った。
その沈黙が少し長い。
ホシノは何となく居心地が悪くなって、視線を逸らした。
「何」
「別に」
「言いたいことあるなら言えば」
「あるけど、言うと腹立つから言わない」
「もう腹立つんだけど」
ヒバリは小さく息を吐いた。
言いたいことは山ほどあった。
ユメへの文句。
企業への怒り。
自分が遅れたことへの苛立ち。
そして、ホシノが先に動いたことへの、よく分からない感情。
でも、ホシノが動かなければ、もっと面倒なことになっていた。
それも分かってしまった。
「……判断は悪くなかった」
ホシノは目を細めた。
「今、褒めた?」
「褒めてない」
「いや、褒めたでしょ」
「調子に乗るな」
ホシノは少しだけ笑う。
「はいはい」
ヒバリは本気で嫌そうな顔をした。
任せたわけじゃない。
信用したわけでもない。
認めたなんて、絶対に言わない。
それでも。
お姉ちゃんを見ている目だけは、少しだけ信用してもいいのかもしれない。
そう思ってしまったことが、何より腹立たしかった。
*
その企業がアビドスから撤収を決めたのは、その日の夜だった。
表向きの理由は、業務上の都合。
処理予定だった作業の中止。
採算不良による現地拠点の閉鎖。
けれど、本当の理由はもっと単純だった。
「冗談じゃない……」
薄暗い事務所で、男は乱暴に書類を鞄へ詰め込んでいた。
床には散らばった契約書。
机には回収し損ねた帳簿。
窓の外では、すでに作業用車両の片づけが始まっている。
男の額には、まだ汗が浮いていた。
「あんな化け物がいたなんて、聞いていないぞ」
下の階の警備員は全員倒された。
鍵をかけたはずの扉は蹴破られた。
契約書を盾にした拘束も、何の意味もなかった。
あの桃色の髪の生徒。
小鳥遊ホシノ。
アビドスはもう終わりかけの学校だと聞いていた。
まともな戦力など残っていないと聞いていた。
だから、少しくらい雑に扱っても問題ないと思っていた。
その判断が、間違いだった。
「明日の朝にはここを出る。書類は処分しろ。残っている契約も破棄だ。二度とアビドスには関わらん」
男は部下へ吐き捨てるように言った。
「こんな場所、関わるだけ損だ。さっさとずらかるぞ」
その時だった。
「遅い」
声がした。
部屋の中ではない。
廊下でもない。
窓の外。
夕日が沈みきった後の薄暗い建物の影に、誰かが立っていた。
赤いマフラーが、乾いた風に揺れる。
男の背筋が凍る。
「誰だ……」
影の中から、一人の生徒が歩いてくる。
小柄な身体。
冷えた目。
片手にはリボルバー。
もう片方の手には、大きな盾。
梔子ヒバリだった。
「うちに手を出しておいて」
ヒバリは静かに言った。
「無事に逃げられると思うなよ」
男は後ずさる。
「ま、待て。誤解だ。こちらは正当な契約に基づいて――」
「契約書は見た」
ヒバリは遮った。
「口頭説明と内容が違う。支払い条件も曖昧。違約金の設定も一方的。外部連絡の制限もある。前任者との合意も無視」
男の顔色が変わる。
「なぜ、それを……」
「探したから」
短い答えだった。
ヒバリの背後で、数枚の紙が風に揺れる。
契約書の写し。
帳簿の控え。
作業員名簿。
過去に同じ手口で雇われた生徒たちの記録。
朝の企業面会で、この企業の悪評は少し拾っていた。
責任者が変わったこと。
前任者のやり方を潰し、利益優先に切り替えたこと。
生徒相手に強引な契約を押しつけているらしいこと。
ホシノとユメの話を聞いて、情報は繋がった。
だから、あとは簡単だった。
証拠を集める。
逃げ道を塞ぐ。
未払い分を洗い出す。
関係各所へ送る写しを作る。
ヒバリは、そういうことに慣れていた。
「警備を呼べ!」
男が叫ぶ。
けれど、誰も来なかった。
ヒバリは少しだけ目を細める。
「呼べるなら呼べば」
その言葉で、男は理解した。
もう遅い。
ホシノがユメを連れ出した時点で終わったのではない。
あれは、始まりだった。
本当に終わらせに来たのは、この赤いマフラーの生徒だ。
「前任者を無能って言ったね」
ヒバリは一歩近づく。
「利益が出ないから異動になったって」
「そ、それがどうした。事実だ。あの男は甘すぎた。現場の利益を――」
「でも、少なくともあの人は、相手を見て仕事をしてた」
男は言葉を詰まらせた。
ヒバリの声は、冷たいままだった。
「アビドスを舐めたでしょ」
さらに一歩。
「終わりかけの学校だから。借金まみれだから。人が少ないから。少しくらい騙しても、誰も本気で怒らないと思った」
男は後ずさる。
ヒバリは盾を持ち上げた。
「残念だったね」
冷たい声だった。
「私は本気で怒る方だから」
*
翌朝、その企業のアビドス支部は完全に機能を失っていた。
契約書はすべて回収され、悪質な条項の写しは関係各所へ送られていた。
未払い分の報酬は、なぜか全額振り込まれていた。
現地責任者は二度とアビドスに近づかないという誓約書を残し、夜のうちに姿を消した。
誰がやったのか、ユメは知らなかった。
ホシノも、詳しくは聞かなかった。
ただ、その朝のヒバリはいつも通り赤いマフラーを巻いていて、いつも通り感じが悪くて、いつもより少しだけ眠そうだった。
「……何かした?」
ホシノが聞くと、ヒバリは帳簿から目を上げずに答えた。
「別に」
「別に、で済む顔じゃないんだけど」
「顔で判断するな」
「じゃあ何でそんな眠そうなの」
「寝不足」
「何してたの」
「散歩」
「夜中に?」
「そう」
ホシノは少しだけ目を細める。
「お前、絶対何かしたでしょ」
「証拠は?」
「性格」
「またそれ?」
ヒバリはうんざりした顔で言った。
でも、否定はしなかった。
ユメはそんな二人を見て、少しだけ不思議そうに首を傾げる。
「二人とも、昨日からちょっと仲良くなった?」
「なってない」
「なってない」
また声が重なった。
ヒバリは心底嫌そうな顔をする。
ホシノも少しだけ顔をしかめた。
けれど、前ほど本気で腹は立たなかった。
机の端には、青いマフラーが置かれている。
ヒバリの首元には、赤いマフラーがある。
部屋の隅には、まだ使われない大きなライフルが立てかけられている。
何かが大きく変わったわけじゃない。
ヒバリは相変わらず感じが悪い。
ホシノも相変わらず素直じゃない。
ユメは相変わらず危なっかしい。
それでも、少しだけ変わったものはあった。
ヒバリはホシノを信用したわけじゃない。
任せたわけでもない。
認めたなんて、絶対に言わない。
ただ、ユメを探しに行ったことだけは、悪くなかったと思っている。
それだけだ。