アビドスに、もう一人の三年生がいた   作:ゴリさん39

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第24話 返事がない

 

 その日は、朝から空気が悪かった。

 

 いや、正確には違う。空気が悪いのはいつものことだ。アビドス生徒会室は広くもないし、明るくもないし、誰か一人でも機嫌が悪ければすぐ分かる。

 

 今日は、その「誰か」がいつもよりひどかった。

 

 ヒバリは朝から端末を弄っていた。

 

 机に頬杖もつかず、背筋だけは妙にまっすぐで、画面を見ては指を止め、また別の画面を開く。

 

 送信履歴。

 受信一覧。

 問い合わせの控え。

 催促文面。

 支援要請書。

 不足物資の一覧。

 予算不足の資料。

 

 そういうものを次々開いては閉じている。

 

 表情は最初から悪かった。けれど、時間が経つほどさらに悪くなる。

 

 ホシノは向かいの席で、それを横目に見ながら紙の束をまとめていた。

 

 感じ悪いのはいつものことだ。

 

 でも今日は、それだけじゃない。

 

 返事が一つも来ていない時の顔だ、と何となく分かった。

 

「……何」

 

 視線に気づいたのか、ヒバリが顔も上げずに言った。

 

「別に」

 

 ホシノは肩をすくめる。

 

「今日、いつもよりひどいなって思っただけ」

 

「お前に言われたくない」

 

「それはそう」

 

 少し間が空く。

 

 そこで、ユメが手を止めた。

 

「ヒバリ」

 

 やわらかく呼ぶ。

 

「また返事、なかった?」

 

 ヒバリの指がぴたりと止まる。

 

 数秒だけ、生徒会室が静かになった。

 

 それから端末が机に置かれる。いつもより少しだけ強い音がした。

 

「なかった」

 

 短い返事だった。

 

 でも、その一言の中に苛立ちが全部詰まっていた。

 

「手紙も出した。メールも送った。催促もした。必要だって言われた資料も、予算不足の一覧も、支援要請の控えも、全部送った」

 

 一つずつ数えるみたいに言う。

 

「それでも返事がない」

 

 ユメはすぐには返せなかった。

 

 ホシノも黙る。

 

 それはもう、ただ短気なだけの怒りじゃなかった。

 

 待って、待って、何度も同じことをして、それでも無視されている人間の苛立ちだった。

 

「でも……」

 

 ユメが慎重に口を開く。

 

「連邦生徒会の方も、今いろいろ立て込んでるのかもしれないし――」

 

 ヒバリはそこで、何か言い返しかけた。

 

 鋭い言葉がそのまま飛びそうな顔だった。

 

 けれど、ほんの一瞬だけ止まる。

 

 喉まで来た怒りを、そのまま目の前にぶつけるのは違うと分かっている顔だった。

 

 浅く息を吐く。

 

 それでも、次に出た声は十分に低かった。

 

「……だから待ったでしょ」

 

 ユメが小さく黙る。

 

「忙しい。確認中。順番待ち。それ、いつまで?」

 

 ヒバリは立ち上がった。

 

「こっちは待ってる余裕ないんだよ。支援が要るって出して、返事を待って、催促して、また待って。その間にアビドスが勝手に良くなると思ってるなら、そっちの方が甘い」

 

 ホシノは少しだけ目を細める。

 

 言ってることは、かなりまともだった。

 

 返事くらい寄越せよ、とは普通に思う。

 

 ただ、まともだからこそ止めにくい。

 

「で?」

 

 ホシノが聞く。

 

「お前、何する気」

 

 ヒバリがようやくこっちを見た。

 

 目つきは悪いまま。けれどもう、半分は決まっている顔だった。

 

「……連邦生徒会に行く」

 

 短く、はっきりと言った。

 

 ユメが目を見開く。

 

「え」

 

「直接行く」

 

 ヒバリは端末を置いた。

 

「手紙もメールも催促も、もう十分やった。これ以上待つより、こっちから行った方が早い」

 

「今からじゃなくて、明日?」

 

「朝一で出る」

 

 ヒバリはぶっきらぼうに答える。

 

「今日のうちに必要なものまとめるから」

 

 連邦生徒会に行く。

 

 それは嘘ではない。

 

 少なくとも、嘘ではなかった。

 

 ただ、それだけで終わらせるつもりもなかった。

 

 ヒバリは端末の画面を閉じる。ほんの一瞬だけ、別の一覧が表示された。すぐに消えたため、ホシノにもユメにも中身までは見えなかった。

 

 見せるつもりもなかった。

 

「しばらく留守にする」

 

 ユメがまだ何か言いたそうにする前に、ヒバリは続けた。

 

「一ヶ月は見といて」

 

 生徒会室が静かになる。

 

 ただの思いつきじゃない。

 

 本当に行く。

 

 本当に、しばらく帰らないつもりだ。

 

「一ヶ月……」

 

 ユメが小さく繰り返す。

 

「そんなに?」

 

「向こうの返事次第」

 

 ヒバリは書類をまとめながら答えた。

 

「窓口に出して、担当に回されて、確認待ちにされて、また資料を要求される。どうせ一回じゃ終わらない」

 

「でも、そんなに長くなるとは限らないでしょ?」

 

「まともに相手する気があるならね」

 

 短い返事だった。

 

 それ以上、ヒバリは説明しなかった。

 

 ホシノは椅子にもたれたまま、ヒバリを見る。

 

「それ、最初から相手する気ないんじゃないの」

 

 ヒバリの手が止まった。

 

 ほんの少しだけ。

 

 けれど、すぐに動き出す。

 

「……それを確かめに行く」

 

 答えはそれだけだった。

 

 生徒会室の空気が少し変わる。

 

 ただの怒鳴り込みじゃない。

 ただの思いつきでもない。

 本当に、学校のために外へ行くつもりだ。

 

 でも、全部を話しているわけでもない。

 

 ホシノには、何となくそれも分かった。

 

「ヒバリ」

 

 ユメが呼ぶ。

 

「一ヶ月も、ヒバリがいないのは……」

 

「私がいても、返事は来ない」

 

 ヒバリは切るように言った。

 

 冷たい言い方だった。

 

 でも、間違ってはいなかった。

 

「私だって、姉を一人にする方が怖い」

 

 そこで初めて、ヒバリの声に少しだけ別のものが混ざった。

 

「でも、学校を完全に留守にする方がもっと怖い。今はそっちの方がまずい」

 

 短く、切るみたいに言う。

 

「こっちの方が効率的」

 

 ユメが少しだけ眉を寄せる。

 

 ホシノは返事をしなかった。

 

 効率だけで言えば、その通りだ。

 

 腹は立つ。感じも悪い。言い方も最悪だ。

 

 でも、間違っているとも言い切れない。

 

「……勝手だね」

 

 先に言ったのはホシノだった。

 

 ヒバリがちらりとこっちを見る。

 

「知ってる」

 

「褒めてないんだけど」

 

「分かってる」

 

「感じ悪」

 

「それも知ってる」

 

 いつもの返しだった。

 

 でも、いつもより座りが悪い。

 

「向こうで余計なことして、話拗らせないでよ」

 

 ホシノは椅子にもたれたまま言う。

 

「面倒だから」

 

「分かってる」

 

 ヒバリは鼻で笑う。

 

「別に喧嘩売りに行くわけじゃないし」

 

「ならいいけど」

 

「よくはないよぉ……」

 

 ユメが小さくこぼす。

 

 その声で、二人とも少しだけ黙った。

 

 ユメは止めたいのだ。

 

 でも止めきれない。

 

 ヒバリが言っていることも、何もしないままでいいとも思えない。

 

「ヒバリ」

 

 ユメがまっすぐ言う。

 

「行くのは……止めない」

 

 ヒバリは何も言わない。

 

「止められないとも思う」

 

 それでも、ユメは続ける。

 

「でも、約束して」

 

 ユメの声は静かだった。

 

「無茶しすぎないこと。連絡を切らないこと。何かあったら、一人で抱えないこと」

 

 そこで、ヒバリの視線が一瞬だけ逸れた。

 

 少しだけ。

 

 でも、それで十分だった。

 

「……考えとく」

 

 小さく、それだけ言う。

 

 完全な肯定じゃない。

 

 いつもの逃がし方だ。

 

 それでも、返事をしただけマシだとホシノはもう知っていた。

 

 ユメもたぶん同じだった。苦い顔のまま、小さく息を吐く。

 

「ホシノ」

 

「何」

 

「姉が勝手に何かしないか、ちゃんと見張っておいて」

 

 ユメがすぐにむっとした。

 

「ちょっと、何その言い方」

 

「そのままの意味」

 

 ヒバリは即答した。

 

「目を離すとすぐ一人で動くでしょ」

 

「それは……」

 

 ユメが少しだけ詰まる。

 

 ホシノはそこで初めて、ヒバリの顔をちゃんと見る。

 

 冷たい顔だった。

 

 けれど、その冷たさの下に別のものがあるのは分かった。

 

 本当は一人にしたくない。

 

 本当は置いていく方が怖い。

 

 でも、それでも行くしかないと思っている顔だ。

 

「それ、私に頼んでる?」

 

「命令」

 

「相変わらず感じ悪」

 

「知ってる」

 

 ヒバリはそこで、机の上にまとめていた資料を動かした。

 

 支援要請の控え。

 不足物資の一覧。

 予算表。

 返済計画。

 外部企業とのやり取り。

 車両関係の記録。

 保管庫の物資リスト。

 

 几帳面にまとめられた資料の束が、机の中央ではなく、ホシノの前へ滑らされる。

 

 ホシノは少しだけ目を瞬いた。

 

「……何で私の前に置くの」

 

「そこに置いただけ」

 

「私に見ろってことでしょ」

 

「見たければ見れば」

 

 ぶっきらぼうな言い方だった。

 

 任せる、とは言わない。

 

 頼む、とも言わない。

 

 それでも、置かれた場所だけで十分だった。

 

 さらにヒバリは、机の端に置いていた小さな鍵束を外す。

 

 軽装甲車の鍵。

 保管庫の鍵。

 倉庫裏の鍵。

 古い設備室の鍵。

 

 何も言わず、それもホシノの前へ置いた。

 

「勝手に使っていい」

 

 一拍。

 

「壊すなよ」

 

 ホシノは鍵束を見る。

 

 それから、ヒバリを見る。

 

「……雑だね」

 

「説明長くする方が面倒」

 

 ヒバリはそう言ったきり、もうそのことには触れない。

 

 ユメがそのやり取りを見て、何か言いかけて、結局黙った。

 

 言えば、ヒバリはきっと否定する。

 

 任せたわけじゃない。

 

 頼んだわけじゃない。

 

 そう言い張るに決まっている。

 

 ヒバリは必要な物をまとめ終えると、最後に生徒会室を見回した。

 

 机。

 端末。

 積まれた資料。

 窓の外の砂。

 部屋の隅に置かれた大きなライフル。

 青いマフラー。

 赤いマフラー。

 

 いつも通りの部屋。

 

 その全部を一度だけ目でなぞってから、肩に鞄をかける。

 

「朝一で出るから」

 

 一拍。

 

「今日は先に家へ戻る。明日の準備をする」

 

 それだけ言って、端末を閉じた。

 

 生徒会室の空気が少しだけ静かになる。

 

 ホシノはその横顔を見ていた。

 

 感じが悪い。

 勝手。

 面倒。

 すぐ噛みつく。

 

 でも、学校のために動いていることだけは疑いようがない。

 

 そういうやつだった。

 

 ユメが小さく頷く。

 

「分かった」

 

 少し間を置いて、続ける。

 

「明日の朝、見送るね」

 

「いらない」

 

「いるよ」

 

 そのやり取りだけは、少しいつも通りだった。

 

 ヒバリは嫌そうに眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。

 

 鞄を持ったまま、扉へ向かう。

 

 赤いマフラーが、その動きに合わせて少しだけ揺れた。

 

 扉の前で一瞬止まり、振り返らないまま言う。

 

「じゃあ」

 

 それだけ残して、出ていく。

 

 扉が閉まる。

 

 生徒会室の中に、少しだけ広い沈黙が残った。

 

 ホシノはしばらく、その閉じた扉を見ていた。

 

 それから、机の上の資料束へ視線を落とす。

 

 雑で、感じが悪くて、肝心なことはほとんど言わないくせに、置いていくものだけは妙に正確だった。

 

 軽装甲車の鍵が、紙束の横で小さく光っている。

 

「……一ヶ月か」

 

 ぽつりと漏らす。

 

 ユメはまだ扉の方を見ていた。心配そうな顔だった。でも、止めなかったことへの迷いも少しだけ混ざっていた。

 

 その横顔を見て、ホシノは何も言えなくなる。

 

 返事がないから、ヒバリは返事を待つ側をやめた。

 

 返事を取りに行く側になることを選んだ。

 

 その先で、何をするつもりなのか。

 

 この時のホシノには、まだ分からなかった。

 

 連邦生徒会へ向かうと決めた背中は小さかった。

 

 けれど、妙に遠く見えた。

 

 この時はまだ、それがただの直談判では終わらないことを、誰もちゃんとは分かっていなかった。

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