その日は、朝から空気が悪かった。
いや、正確には違う。空気が悪いのはいつものことだ。アビドス生徒会室は広くもないし、明るくもないし、誰か一人でも機嫌が悪ければすぐ分かる。
今日は、その「誰か」がいつもよりひどかった。
ヒバリは朝から端末を弄っていた。
机に頬杖もつかず、背筋だけは妙にまっすぐで、画面を見ては指を止め、また別の画面を開く。
送信履歴。
受信一覧。
問い合わせの控え。
催促文面。
支援要請書。
不足物資の一覧。
予算不足の資料。
そういうものを次々開いては閉じている。
表情は最初から悪かった。けれど、時間が経つほどさらに悪くなる。
ホシノは向かいの席で、それを横目に見ながら紙の束をまとめていた。
感じ悪いのはいつものことだ。
でも今日は、それだけじゃない。
返事が一つも来ていない時の顔だ、と何となく分かった。
「……何」
視線に気づいたのか、ヒバリが顔も上げずに言った。
「別に」
ホシノは肩をすくめる。
「今日、いつもよりひどいなって思っただけ」
「お前に言われたくない」
「それはそう」
少し間が空く。
そこで、ユメが手を止めた。
「ヒバリ」
やわらかく呼ぶ。
「また返事、なかった?」
ヒバリの指がぴたりと止まる。
数秒だけ、生徒会室が静かになった。
それから端末が机に置かれる。いつもより少しだけ強い音がした。
「なかった」
短い返事だった。
でも、その一言の中に苛立ちが全部詰まっていた。
「手紙も出した。メールも送った。催促もした。必要だって言われた資料も、予算不足の一覧も、支援要請の控えも、全部送った」
一つずつ数えるみたいに言う。
「それでも返事がない」
ユメはすぐには返せなかった。
ホシノも黙る。
それはもう、ただ短気なだけの怒りじゃなかった。
待って、待って、何度も同じことをして、それでも無視されている人間の苛立ちだった。
「でも……」
ユメが慎重に口を開く。
「連邦生徒会の方も、今いろいろ立て込んでるのかもしれないし――」
ヒバリはそこで、何か言い返しかけた。
鋭い言葉がそのまま飛びそうな顔だった。
けれど、ほんの一瞬だけ止まる。
喉まで来た怒りを、そのまま目の前にぶつけるのは違うと分かっている顔だった。
浅く息を吐く。
それでも、次に出た声は十分に低かった。
「……だから待ったでしょ」
ユメが小さく黙る。
「忙しい。確認中。順番待ち。それ、いつまで?」
ヒバリは立ち上がった。
「こっちは待ってる余裕ないんだよ。支援が要るって出して、返事を待って、催促して、また待って。その間にアビドスが勝手に良くなると思ってるなら、そっちの方が甘い」
ホシノは少しだけ目を細める。
言ってることは、かなりまともだった。
返事くらい寄越せよ、とは普通に思う。
ただ、まともだからこそ止めにくい。
「で?」
ホシノが聞く。
「お前、何する気」
ヒバリがようやくこっちを見た。
目つきは悪いまま。けれどもう、半分は決まっている顔だった。
「……連邦生徒会に行く」
短く、はっきりと言った。
ユメが目を見開く。
「え」
「直接行く」
ヒバリは端末を置いた。
「手紙もメールも催促も、もう十分やった。これ以上待つより、こっちから行った方が早い」
「今からじゃなくて、明日?」
「朝一で出る」
ヒバリはぶっきらぼうに答える。
「今日のうちに必要なものまとめるから」
連邦生徒会に行く。
それは嘘ではない。
少なくとも、嘘ではなかった。
ただ、それだけで終わらせるつもりもなかった。
ヒバリは端末の画面を閉じる。ほんの一瞬だけ、別の一覧が表示された。すぐに消えたため、ホシノにもユメにも中身までは見えなかった。
見せるつもりもなかった。
「しばらく留守にする」
ユメがまだ何か言いたそうにする前に、ヒバリは続けた。
「一ヶ月は見といて」
生徒会室が静かになる。
ただの思いつきじゃない。
本当に行く。
本当に、しばらく帰らないつもりだ。
「一ヶ月……」
ユメが小さく繰り返す。
「そんなに?」
「向こうの返事次第」
ヒバリは書類をまとめながら答えた。
「窓口に出して、担当に回されて、確認待ちにされて、また資料を要求される。どうせ一回じゃ終わらない」
「でも、そんなに長くなるとは限らないでしょ?」
「まともに相手する気があるならね」
短い返事だった。
それ以上、ヒバリは説明しなかった。
ホシノは椅子にもたれたまま、ヒバリを見る。
「それ、最初から相手する気ないんじゃないの」
ヒバリの手が止まった。
ほんの少しだけ。
けれど、すぐに動き出す。
「……それを確かめに行く」
答えはそれだけだった。
生徒会室の空気が少し変わる。
ただの怒鳴り込みじゃない。
ただの思いつきでもない。
本当に、学校のために外へ行くつもりだ。
でも、全部を話しているわけでもない。
ホシノには、何となくそれも分かった。
「ヒバリ」
ユメが呼ぶ。
「一ヶ月も、ヒバリがいないのは……」
「私がいても、返事は来ない」
ヒバリは切るように言った。
冷たい言い方だった。
でも、間違ってはいなかった。
「私だって、姉を一人にする方が怖い」
そこで初めて、ヒバリの声に少しだけ別のものが混ざった。
「でも、学校を完全に留守にする方がもっと怖い。今はそっちの方がまずい」
短く、切るみたいに言う。
「こっちの方が効率的」
ユメが少しだけ眉を寄せる。
ホシノは返事をしなかった。
効率だけで言えば、その通りだ。
腹は立つ。感じも悪い。言い方も最悪だ。
でも、間違っているとも言い切れない。
「……勝手だね」
先に言ったのはホシノだった。
ヒバリがちらりとこっちを見る。
「知ってる」
「褒めてないんだけど」
「分かってる」
「感じ悪」
「それも知ってる」
いつもの返しだった。
でも、いつもより座りが悪い。
「向こうで余計なことして、話拗らせないでよ」
ホシノは椅子にもたれたまま言う。
「面倒だから」
「分かってる」
ヒバリは鼻で笑う。
「別に喧嘩売りに行くわけじゃないし」
「ならいいけど」
「よくはないよぉ……」
ユメが小さくこぼす。
その声で、二人とも少しだけ黙った。
ユメは止めたいのだ。
でも止めきれない。
ヒバリが言っていることも、何もしないままでいいとも思えない。
「ヒバリ」
ユメがまっすぐ言う。
「行くのは……止めない」
ヒバリは何も言わない。
「止められないとも思う」
それでも、ユメは続ける。
「でも、約束して」
ユメの声は静かだった。
「無茶しすぎないこと。連絡を切らないこと。何かあったら、一人で抱えないこと」
そこで、ヒバリの視線が一瞬だけ逸れた。
少しだけ。
でも、それで十分だった。
「……考えとく」
小さく、それだけ言う。
完全な肯定じゃない。
いつもの逃がし方だ。
それでも、返事をしただけマシだとホシノはもう知っていた。
ユメもたぶん同じだった。苦い顔のまま、小さく息を吐く。
「ホシノ」
「何」
「姉が勝手に何かしないか、ちゃんと見張っておいて」
ユメがすぐにむっとした。
「ちょっと、何その言い方」
「そのままの意味」
ヒバリは即答した。
「目を離すとすぐ一人で動くでしょ」
「それは……」
ユメが少しだけ詰まる。
ホシノはそこで初めて、ヒバリの顔をちゃんと見る。
冷たい顔だった。
けれど、その冷たさの下に別のものがあるのは分かった。
本当は一人にしたくない。
本当は置いていく方が怖い。
でも、それでも行くしかないと思っている顔だ。
「それ、私に頼んでる?」
「命令」
「相変わらず感じ悪」
「知ってる」
ヒバリはそこで、机の上にまとめていた資料を動かした。
支援要請の控え。
不足物資の一覧。
予算表。
返済計画。
外部企業とのやり取り。
車両関係の記録。
保管庫の物資リスト。
几帳面にまとめられた資料の束が、机の中央ではなく、ホシノの前へ滑らされる。
ホシノは少しだけ目を瞬いた。
「……何で私の前に置くの」
「そこに置いただけ」
「私に見ろってことでしょ」
「見たければ見れば」
ぶっきらぼうな言い方だった。
任せる、とは言わない。
頼む、とも言わない。
それでも、置かれた場所だけで十分だった。
さらにヒバリは、机の端に置いていた小さな鍵束を外す。
軽装甲車の鍵。
保管庫の鍵。
倉庫裏の鍵。
古い設備室の鍵。
何も言わず、それもホシノの前へ置いた。
「勝手に使っていい」
一拍。
「壊すなよ」
ホシノは鍵束を見る。
それから、ヒバリを見る。
「……雑だね」
「説明長くする方が面倒」
ヒバリはそう言ったきり、もうそのことには触れない。
ユメがそのやり取りを見て、何か言いかけて、結局黙った。
言えば、ヒバリはきっと否定する。
任せたわけじゃない。
頼んだわけじゃない。
そう言い張るに決まっている。
ヒバリは必要な物をまとめ終えると、最後に生徒会室を見回した。
机。
端末。
積まれた資料。
窓の外の砂。
部屋の隅に置かれた大きなライフル。
青いマフラー。
赤いマフラー。
いつも通りの部屋。
その全部を一度だけ目でなぞってから、肩に鞄をかける。
「朝一で出るから」
一拍。
「今日は先に家へ戻る。明日の準備をする」
それだけ言って、端末を閉じた。
生徒会室の空気が少しだけ静かになる。
ホシノはその横顔を見ていた。
感じが悪い。
勝手。
面倒。
すぐ噛みつく。
でも、学校のために動いていることだけは疑いようがない。
そういうやつだった。
ユメが小さく頷く。
「分かった」
少し間を置いて、続ける。
「明日の朝、見送るね」
「いらない」
「いるよ」
そのやり取りだけは、少しいつも通りだった。
ヒバリは嫌そうに眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。
鞄を持ったまま、扉へ向かう。
赤いマフラーが、その動きに合わせて少しだけ揺れた。
扉の前で一瞬止まり、振り返らないまま言う。
「じゃあ」
それだけ残して、出ていく。
扉が閉まる。
生徒会室の中に、少しだけ広い沈黙が残った。
ホシノはしばらく、その閉じた扉を見ていた。
それから、机の上の資料束へ視線を落とす。
雑で、感じが悪くて、肝心なことはほとんど言わないくせに、置いていくものだけは妙に正確だった。
軽装甲車の鍵が、紙束の横で小さく光っている。
「……一ヶ月か」
ぽつりと漏らす。
ユメはまだ扉の方を見ていた。心配そうな顔だった。でも、止めなかったことへの迷いも少しだけ混ざっていた。
その横顔を見て、ホシノは何も言えなくなる。
返事がないから、ヒバリは返事を待つ側をやめた。
返事を取りに行く側になることを選んだ。
その先で、何をするつもりなのか。
この時のホシノには、まだ分からなかった。
連邦生徒会へ向かうと決めた背中は小さかった。
けれど、妙に遠く見えた。
この時はまだ、それがただの直談判では終わらないことを、誰もちゃんとは分かっていなかった。