最初の三日は、ちゃんと礼儀を守った。
予約も入れた。必要な資料も揃えた。支援要請の控えも、送信済みのメール履歴も、予算不足の一覧も、足りない物資と人員の内訳も、全部端末と紙で持ってきた。
申請の名目も、きちんと整えた。
アビドス高等学校緊急維持支援および校区機能保全に関する申請。
緊急物資支援。
校区機能維持補助。
外部企業との債務交渉に関する行政仲介。
現地確認の派遣要請。
水と燃料を寄越せ、とだけ言っているわけではない。借金を肩代わりしろ、と言っているわけでもない。
アビドスが今どれだけ持たないのか。最低限何が必要なのか。どこまでが学校の自助努力で、どこからが連邦生徒会の判断を必要とするのか。
それを、数字と記録で出していた。
だから最初に受付へ立った時、ヒバリの声はちゃんと整っていた。
「予約を入れたアビドスの梔子ヒバリです。アビドス高等学校緊急維持支援および校区機能保全に関する申請の件で来ました。担当の方をお願いします」
職員は端末を確認し、少し待つよう言った。
待った。
十分ほど経って、奥から一人の生徒が出てきた。
まだ若い。
それは、見れば分かった。
細い眼鏡の奥の目は、冷静そうに見えた。背筋は伸びている。抱えた資料の角もきれいに揃っている。受け答えも硬いくらい丁寧だった。
いかにも真面目な行政担当、という雰囲気だった。
けれど、まだ慣れてはいない。沈黙の置き方も、詰められた時の呼吸の整え方も、完成されているとは言えなかった。
ヒバリを見た瞬間、目元にわずかな緊張が走った。
「本日より、アビドス高等学校からの支援要請について、申請内容の整理と関係部署への確認を担当します」
名前は名乗った。
けれど、その時のヒバリには、覚えておくべき名前には思えなかった。
申請番号と担当部署は記録した。だが、担当者個人の名前だけは、端末の記録の端に埋もれた。
「あなたが担当?」
「はい。正確には、申請内容の整理と関係部署への確認担当です」
「決定権は」
「ありません」
即答だった。
ヒバリは少しだけ目を細める。
「じゃあ、あなたを詰めても支援は決まらない」
「はい」
「でも窓口はあなた」
「はい」
「最悪だね」
「……申し訳ありません」
若い担当者は、逃げなかった。
逃げはしなかったが、何かを決める権限も持っていなかった。
*
連邦生徒会の建物は、来るたびに同じ顔をしていた。
広いロビー。磨かれた床。無駄に高い天井。規律正しく歩く職員と、出入りする生徒。外の砂と崩れかけた校舎に慣れた目には、その全部が少し腹立たしいほど整って見えた。
毎回、窓口に立つ。
毎回、端末の履歴を開く。
毎回、同じ説明をする。
アビドスの現状。必要な支援。猶予がないこと。これ以上待てないこと。
担当者は、資料を読んでいた。
それは分かる。
緊急物資支援については、関係部署へ共有済み。
校区機能維持補助については、予算配分の確認中。
債務交渉への行政仲介については、別部署判断。
現地確認の派遣可否は、上層判断待ち。
言葉だけなら、きちんと仕事をしているように聞こえた。
けれど、何も進まない。
読めば分かるように作った。判断できるように整理した。必要な資料も出した。
それでも返ってくるのは、確認中、だった。
「受理番号は」
「こちらです」
「関係部署名は」
「開示可能な範囲では、こちらになります」
「現地確認の予定日は」
「現在、派遣可否の確認中です」
「回答期限は」
「正式な期限は、まだ提示されていません」
「対象外なら対象外で、正式回答を出してください」
「その判断は、私の権限ではできません」
「あなたの権限でできることは?」
「申請内容の整理、関係部署への共有、進捗確認です」
「進捗は」
「ありません」
即答だった。
誤魔化さなかったことだけは、少し意外だった。
ただ、何も進んでいないことに変わりはない。
*
最初の三日は、まだ言葉を選んだ。
声を荒げない。机を叩かない。必要なことだけを伝える。相手が答えられないなら、答えられる相手へ繋ぐよう求める。
それでも、四日目には声が少し硬くなった。
一週間が経つ頃には、若い担当者と何度も顔を合わせていた。
担当者は、ヒバリを見ると一瞬だけ目元を強張らせるようになった。けれど、すぐに背筋を伸ばし、資料を抱え直す。
逃げる気はないらしい。
ただ、歓迎もしていない。
それはそうだろうな、とヒバリは思った。
来るたびに詰めている自覚はあった。
「上には報告しています」
「いつ」
「三日前です」
「返答は」
「まだありません」
「催促は」
「本日の朝に行いました」
「記録は」
「残っています」
「見せて」
「内部記録のため、外部への開示はできません」
「便利だね」
ヒバリの声が冷えた。
「対応した証拠は見せられない。でも対応中とは言える」
「……その指摘は、正当です」
「正当なら、返事をください」
「私の権限では、正式回答を出せません」
「じゃあ、出せる人を呼んで」
「現在、確認中です」
「その確認中を、私は何回聞けばいい?」
若い担当者は、すぐには答えなかった。
返答は整っている。けれど、詰められた時の一瞬だけ、呼吸が浅くなる。
逃げない。
言い訳もしない。
ただ、答えられるものを持っていない。
だから余計に腹が立った。
一人が真面目に処理しても、組織が動かなければ意味がない。
目の前の担当者を怒鳴ったところで、予算は下りない。物資も来ない。人員も増えない。
それでも、窓口にいるのがこの生徒なら、この生徒に言うしかない。
「あなた個人を責めてるわけじゃない」
「分かっています」
「でも窓口があなたなら、あなたに言うしかない」
「それも、分かっています」
「分かってて進まないのが一番腹立つ」
「……申し訳ありません」
「謝罪はいらない。返事が欲しい」
担当者は唇を結んだ。
疲れているのは分かった。
ヒバリが来るたび、机の上の資料は増えていた。目元の緊張も濃くなっていた。おそらく、上へ催促もしている。記録も残している。
でも、返事はなかった。
連邦生徒会は、返事をしなかった。
*
昼は連邦生徒会へ通った。
窓口に立つ。
担当者と話す。
報告状況を確認する。
日時と対応内容を記録する。
誰が、いつ、何を言ったのかを端末に残す。
夜は、別のことをした。
連邦生徒会を出たあと、ヒバリはまっすぐ寝床へ戻らなかった。
物資を扱う小さな業者。
修繕資材を扱う倉庫。
運び屋まがいの連絡窓口。
古い商店。
アビドスまで荷を通せる経路。
水。
燃料。
補修材。
医療品。
弾薬。
発電設備の部品。
端末に並ぶ名前は、きれいなものばかりではなかった。むしろ、こちらの足元を見てくる相手の方が多い。
それでも、返事は来た。
支払い条件は。
前払いか。
分割は可能か。
納期は。
紹介元は必要か。
危険手当はいくら乗るか。
どれも高い。どれも渋い。どれも信用するには危うい。
けれど、返事だけは来る。
正しい場所ほど、返事が遅い。
怪しい場所ほど、返事だけは早い。
腹立たしいくらい、分かりやすかった。
ユメにも、ホシノにも言うつもりはなかった。
止められるから。
心配されるから。
まだ形になっていないから。
そして何より、これは保険だった。
連邦生徒会が動かないなら、別の道を探すしかない。
まだ、名前を付けるほどの繋がりではない。
ただ、正規の道が詰まった時に使えるかもしれない、細い糸だった。
昼は、連邦生徒会が動かなかった記録を集める。
夜は、連邦生徒会が動かなくてもアビドスを回すための手段を探す。
どちらも同じことだった。
アビドスを終わらせないための作業だ。
*
二週間が経つ頃には、連邦生徒会の建物の癖をほとんど覚えていた。
何時に人が増えるか。
何時に窓口が混むか。
どの職員が話を引き延ばすか。
どの廊下がよく使われるか。
どの出入口が形だけの導線になっているか。
どの生徒が警備寄りの目をしているか。
覚えたくて覚えたわけじゃない。
待たされる時間が長すぎて、勝手に頭へ入ってくるだけだ。
この日も、ヒバリは若い担当者の前に立っていた。
担当者は以前より少し疲れて見えた。抱えている資料の角は相変わらず揃っていたが、目の下には薄い影がある。
それでも、背筋は曲がっていなかった。
「緊急物資支援は」
「現在確認中です」
「校区機能維持補助は」
「予算配分の確認中です」
「債務交渉への行政仲介は」
「別部署へ確認中です」
「現地確認の派遣は」
「現在、派遣可否を確認中です」
ヒバリは端末を見た。
同じ文言が、記録の中にいくつも並んでいる。
「確認中、は前回も聞きました」
「はい。前回もそうお伝えしました」
「なら、今回は別の答えをください」
「現時点で、正式な回答は下りていません」
「下りていない、じゃなくて。誰が止めてるの」
「予算配分と学校間支援の判断は、私の権限では確定できません」
「じゃあ、その権限がある人を出して」
「現在、確認中です」
「それも前回聞いた」
担当者は黙った。
ヒバリは端末を開いたまま、相手を見る。
「日時と担当名、対応内容は全部残しています」
「承知しています」
「このまま進展なしで記録が増え続けたら、後で困るのはそっちだよ」
「……その可能性はあります」
「分かってるなら、返事を出して」
「私の権限では、正式回答を出せません」
「じゃあ、出せる人を呼んで」
「申し訳ありません。現在、確認中です」
また、それだった。
確認中。
調整中。
上に報告中。
便利な言葉だった。
「それ、アビドスが無くなるまで言えるんだ」
担当者の息が、ほんの少し止まった。
ヒバリは続ける。
「確認中です。上へ報告しています。正式回答は下りていません。そう言っていれば、一ヶ月でも二ヶ月でも引き延ばせる」
「……」
「その間に学校が潰れても、記録上は対応中で済む」
若い担当者は、視線を落とさなかった。
けれど、すぐには返せなかった。
沈黙が落ちる。
少しして、担当者は低く言った。
「……こちらも、承知しています」
その声には、逃げも誤魔化しもなかった。
だから余計に、ヒバリの苛立ちは逃げ場を失った。
「承知してて止まってるのが、一番腹立つ」
「……申し訳ありません」
「謝罪はいらないって言った」
担当者は唇を結ぶ。
ヒバリは端末の画面を見る。
助ける気がないことは、最初から薄々分かっていた。
アビドスの優先順位が低いことも分かっていた。
それでも、腹は立つ。
助けないなら助けないで、そう言えばいい。
無理なら無理と返せばいい。
確認中という言葉で、こちらの時間だけ奪うな。
だから、ただでは終わらせない。
連邦生徒会が動かないなら、それも記録にする。
いつ、誰が、どの窓口で、何を止めたのか。
どの返答が来なかったのか。
どの資料を出させて、どれだけ放置したのか。
全部残す。
後で、知らなかったとは言わせない。
「明日」
ヒバリは端末を閉じた。
「明日、もう一度来ます」
「はい」
「その時も同じ答えなら、こっちも別のやり方に切り替えます」
担当者の目がわずかに動いた。
「別のやり方、とは」
「正規支援が止まるなら、外部協力先を探すだけ」
「それは、推奨できません」
「こっちも、二週間待たされるのは推奨してない」
担当者は言葉を失った。
その時だった。
ヒバリの端末が震えた。
着信。
画面に表示された名前を見て、ヒバリは眉を動かす。
ホシノ。
珍しい、と思うより先に、嫌な予感が喉を掴んだ。
「席を外す」
ヒバリは短く言って、立ち上がる。
「梔子さん、まだ確認事項が――」
「待てない」
それだけ返して、ヒバリは面談用の小さな部屋を出た。
廊下へ出て、通話に出る。
「何」
返ってきた声は、硬かった。
『姉がいない』
一瞬、意味が遅れた。
「……は?」
『昨日から戻ってない』
『学校にもいない。家にも帰ってない』
そこで、頭の中の何かが一気に飛んだ。
連邦生徒会。
若い担当者。
上層判断。
予約。
窓口。
明日の予定。
夜に繋ぎかけていた取引先。
記録。
外部協力先。
全部どうでもよくなる。
「何で今――」
言いかけて、止まる。
責める順番じゃない。
そんなことは分かる。
分かるのに、喉が勝手に詰まる。
『夜には戻ると思った』
『前にも遅くなることはあったから』
『でも、朝になっても戻ってない』
ホシノの声は、いつもより少しだけ掠れていた。
『探した』
『でも見つからない』
ヒバリはもう、端末を握り直していた。
「分かった」
それだけ言う。
通話を切る。
次の瞬間には、足が動いていた。
面談室へ戻る。
机の上の書類を掴む。
端末を鞄に突っ込む。
明日の予定も、交渉も、記録も、外への連絡も、全部捨てる。
若い担当者が驚いたように立ち上がった。
「梔子さん? まだ面談は――」
「帰る」
「ですが、先ほどの件はまだ」
「後で」
「ちょっ、梔子さん!」
声が背中にかかる。
ヒバリは振り返らなかった。
呼び止める声も、面談の途中だったことも、二週間積み上げた記録も、その瞬間には全部後回しになった。
帰らないといけない。
その一点だけで十分だった。
昼に積み上げた抗議の記録も、夜に繋ぎかけた取引先も、連邦生徒会に痛い思いをさせるための材料も、その瞬間には全部後回しになった。
ユメがいない。
それだけで、すべての優先順位がひっくり返る。
遅い。
嫌な予感が、もう遅いと喉元で騒いでいる。
ヒバリはそれを押し潰すみたいに足を速めた。
連邦生徒会も、交渉も、明日の計画も、もう関係なかった。
帰るしかない。
それだけだった。