アビドスへ戻ったのは、翌日の昼頃だった。
夜をまたいで移動し、途中で何度か乗り継ぎ、ほとんど眠らないまま戻ってきた。
空は白く焼けていた。砂の照り返しが強く、駅から学校へ向かう道はいつもより長く感じた。半日。連邦生徒会の建物を出てから、ここへ戻るまでにかかった時間はそれだけだった。
二週間かけても、何も進まなかった場所がある。
半日で、戻らなければならない場所がある。
その差が、ヒバリにはひどく馬鹿らしく思えた。
鞄の中には、連邦生徒会へ提出するはずだった資料が詰め込まれている。支援要請の控え。送信済みのメール履歴。予算不足の一覧。足りない物資と人員の内訳。昨日までなら、どれも必要なものだった。
けれど今は、全部ただの重りだった。
端末の画面には、ホシノからの短い連絡だけが残っている。
『ユメ先輩がいない』
『昨日から戻ってない』
『学校にもいない。家にも帰ってない』
短すぎる文面だった。
だからこそ、余計な希望が入っていない。ホシノがどれだけ焦っているかも、どれだけ言葉を選べなくなっているかも、その短さだけで分かった。
ヒバリは歩きながら、情報を頭の中で並べ直す。
昨日から不在。
学校にも家にもいない。
端末も繋がらない。
最後に見たのはホシノ。
姉さんが何も言わずに長時間戻らないことは、ない。
ありえない。
そう言いたかった。
けれど、言い切れなかった。
嫌な予感がある時ほど、頭は冷えていく。喉の奥が焼けるように熱いのに、考える部分だけがどんどん温度を失っていく。
泣くより先に、怒るより先に、何をすべきかが浮かぶ。
そういう癖がついたのは、いつからだったのか分からない。
校門を抜ける。
校舎は、いつも通り静かだった。砂に削られた外壁。風で細く鳴る窓枠。誰もいない廊下。見慣れたはずの景色なのに、今日はやけに遠く見える。
生徒会室の扉は、少しだけ開いていた。
ヒバリはノックもせずに入る。
ホシノがいた。
机の前に立ったまま、こちらを見た。顔色が悪い。いつもの尖った目つきも、強がるような口元も、どこか半分抜け落ちている。
机の上には、破れた紙が広がっていた。
何かのポスター兼企画書のようだった。大きな紙に、祭りの文字と手書きの地図や予定表、協力先らしい名前、出店の配置案、必要な物資の一覧が書き込まれている。中央から斜めに裂けていて、文字の一部が読めなくなっていた。
ヒバリはそれを一度だけ見てから、ホシノへ視線を戻す。
「状況」
それだけ言った。
ホシノは一瞬、唇を噛んだ。
「……昨日の夕方から、ユメ先輩が戻ってない」
「学校は」
「いない」
「家は」
「帰ってない」
「端末は」
「繋がらない」
「最後に見たのは」
ホシノの肩が、わずかに震えた。
「……私」
答えた声は、小さかった。
ヒバリは表情を変えない。
「何があった」
その問いに、ホシノはすぐには答えられなかった。
視線が机の上の破れた紙へ落ちる。
言わなければならない。
ホシノ自身も、それは分かっている顔だった。
ヒバリに何を言われても仕方ない。怒鳴られても、罵られても、それでも言わなければならない。
ユメがいない。
その最後に、自分がいた。
「……昨日」
ホシノは絞り出すように言った。
「ユメ先輩と、喧嘩した」
ヒバリの指が、ほんの少し曲がる。
けれど、声は動かなかった。
「内容」
「ユメ先輩が、アビドス砂祭りをやろうって言ってた」
「砂祭り?」
ヒバリは眉を寄せる。
知らなかった。
そんな話は聞いていない。連邦生徒会に通い詰めていた間に出た話なのか、それとも姉さんが前から一人で考えていたことなのかも分からない。
ホシノは机の紙を見下ろしたまま続ける。
「学校のこと、少しでも外に知ってもらうためだって。近所の人とか、まだ残ってる店とか、協力してくれそうなところに声をかけて……小さくてもいいから、アビドスはまだ残ってるって見せたいって」
声が、途中から少し震えた。
「でも、私は反対した」
「何て言った」
ホシノは一度、目を閉じた。
その先を言えば、もう誤魔化せない。
けれど、誤魔化すつもりもないらしかった。
「そんな余裕ないって。人もお金も足りないのに、また一人で勝手に動かないで下さいって」
ヒバリは黙って聞いている。
「甘い言葉なんて簡単に信じないで下さい。何回目ですか。もう知りません、って」
最後の言葉だけが、やけに小さかった。
言い終えた瞬間、ホシノは身構えた。
何を言われても仕方ないと思っている顔だった。
お前が言うな、と言われても。
姉さんに何を言った、と怒鳴られても。
もっと早く連絡しろと責められても。
全部、返せない。
その顔をしていた。
けれど、ヒバリはすぐには何も言わなかった。
ただ、机の上の破れた紙を見ていた。
「それで」
ヒバリは短く続けさせた。
「言い合いになった。ユメ先輩は、ちゃんと考えてるって言ってた。協力してくれそうな人もいるって。少しでも学校のためになるって」
それは、姉さんらしい言葉だった。
だからこそ、ホシノには怖かったのだろう。
「でも、私には無理に見えた。危ないって思った。また一人でどこかに行くって思った」
ホシノの視線が、破れた紙へ落ちる。
「だから、これをなくせば止まると思った」
言葉だけでは止まらないなら、形を壊せば止まる。
その瞬間は、本気でそう思ってしまったのだろう。
「カッとなって、掴んで……破いた」
最後の声は、ほとんど吐き出すようだった。
「破れたんじゃない。私が、破いた」
ヒバリは、すぐには何も言わなかった。
アビドス砂祭りを止めたこと自体は、責めきれなかった。
ヒバリだって、同じことを言ったかもしれない。
今のアビドスに、祭りを開く余裕はない。
人手も、金も、警備も足りない。
外の協力先を簡単に信用できるほど、これまでの失敗は軽くない。
だから、止める判断そのものは分かる。
分かるからこそ、腹が立った。
止めるなら最後まで止めろ。
突き放すな。
一人にするな。
姉さんがそれでも動く人間だと、分かっていたはずだ。
何より。
もっと早く連絡しろ。
そう言いそうになって、ヒバリは奥歯を噛んだ。
今それを言っても、姉は戻らない。
ホシノを責めても、時間は戻らない。
責めるのは、見つけた後でいい。
まずは見つける。
「それの良し悪しは後」
ヒバリは短く言った。
「今は、姉さんがどこに行ったかが先」
ホシノは黙って頷いた。
その頷き方が、余計に腹立たしかった。
謝るな。
責められるために立つな。
姉さんを探すために立て。
言葉は喉まで上がって、また潰れた。
ヒバリは机へ近づく。
破れた紙面には、アビドス砂祭りの詳細が書かれていた。会場案。巡回ルート。物資の搬入経路。協力候補の名前。姉さんの字で、何度も修正された跡がある。
破れた部分のせいで、いくつかの文字が読めない。
ヒバリは、その紙を見下ろした。
姉が大事にしていたものだ。
学校を少しでも明るくしようとして、作ったものだ。
それが、破れている。
何を壊しているんだ、と言いたかった。
なぜ破れるまで言い合ったんだ、と言いたかった。
けれど、そのどれも今は使えない。
この紙には、姉さんが行ったかもしれない場所が載っているかもしれない。
協力先。搬入先。声をかける予定だった相手。会うつもりだった誰か。姉さんが最後に向かった場所へ繋がる情報が、ここに残っている可能性がある。
ヒバリは一つ息を吐いた。
「それ、修復しておいて」
ホシノが顔を上げる。
「……今?」
「少しでも情報が欲しい」
ヒバリは紙面を指で押さえる。
「姉さんが行ったかもしれない場所が載ってるかもしれない。協力先、出店場所、搬入ルート、声をかけた相手。全部拾えるようにしておけ」
「……うん」
「学校は空けるな」
ヒバリは続ける。
「姉さんが戻るなら、まずここに来る。誰かが情報を持ってくるなら、ここに来る。拠点は必要だ」
ホシノは黙って聞いていた。
分かっている顔だった。
それでも、ヒバリは言う。
「お前はここに残れ。紙を修復して、昨日からの行動、連絡、姉さんが話していたこと、全部書け」
「ヒバリは」
「外を見る」
「外って」
「姉さんがよく行く場所。近所の住民。求人を出していた企業。最近話を持ちかけてきた連中。手を出しそうな奴ら。砂祭りの協力先候補」
ホシノの目が少しだけ揺れる。
「……荒っぽいことは、しないよね」
「相手による」
「ヒバリ」
「今はまだ、聞くだけにしておく」
今はまだ。
その言葉に、ホシノの顔がわずかに強張った。けれど何も言わなかった。言える立場ではないと思ったのかもしれない。
それもまた、ヒバリの中に引っかかった。
そんな顔をするな。
今、そんな顔をしている場合じゃない。
ヒバリは鞄から予備の端末メモを出して、机に置いた。
「連絡は短くていい。場所と結果だけ送れ」
「分かった」
「感想はいらない。推測も後でいい。まず事実だけ」
「……分かった」
ホシノは頷いた。
それから、破れた紙へ手を伸ばす。裂け目を丁寧に合わせようとして、指先が少し震えた。
ヒバリはそれを見ないふりをした。
見たら、また何かを言いそうだった。
誰を責めても、最後は同じところへ戻る。
自分は、そこにいなかった。
姉のそばにいなかった。
連邦生徒会に通っていた。
外との取引先を探していた。
学校のために動いていた。
それは事実だ。
けれど、姉のそばにはいなかった。
その事実だけは、どうやっても消えない。
*
昼の明るさは、少しずつ夕方へ傾いていった。
生徒会室には、紙を擦る音だけが残っている。ホシノは机に向かい、破れたポスター兼企画書の端を合わせていた。テープを貼る。読めなくなった文字を別のメモから拾う。地名を照合する。
アビドス砂祭り。
姉さんがやろうとしていたこと。
学校がまだ終わっていないと、誰かに見せようとしていた跡。
破れた紙は、まだ祭りの顔をしていた。
そのことが、ヒバリには少しだけ腹立たしかった。
「ヒバリ」
部屋を出ようとした背中に、ホシノの声がかかる。
「何」
「……見つけよう」
謝罪ではなかった。
許しを求める言葉でもなかった。
ただ、それ以外に言えることがなかった。
ヒバリは振り返らない。
振り返ったら、ホシノの顔を見てしまう。
見てしまえば、また飲み込む言葉が増える。
「当たり前だ」
それだけ返した。
廊下へ出る。
昼から夕方へ変わるアビドスは、やけに静かだった。砂が薄く流れている。校舎の窓の一つにだけ、ホシノのいる部屋の明かりが残っていた。
ホシノは学校に残った。
帰ってくる場所を、破れた紙ごと繋ぎ直すために。
ヒバリは外へ出た。
帰ってこない理由を、一つずつ潰すために。
まだ、この時は。
二人とも、探せば見つかると思っていた。