ヒバリが出ていったあと、生徒会室は急に広くなった。
もともと人の多い学校じゃない。廊下に足音が響くことも少ないし、窓の外から聞こえるのは風と砂の擦れる音ばかりだ。それでも、さっきまでそこにいた誰かがいなくなると、部屋の温度まで変わったように感じる。
ホシノはしばらく、扉の方を見ていた。
ヒバリは振り返らなかった。
当たり前だ。振り返るような性格じゃない。昔からそうだった。必要なことだけを言って、必要な場所へ行く。感情を混ぜるより先に動く。
でも今日のヒバリは、それだけじゃなかった。
怒っていた。
責めなかっただけだ。
ホシノには、それが分かった。
「……そりゃ、怒るよね」
小さく呟いて、机の上へ視線を落とす。
破れた紙がそこにあった。
アビドス砂祭り。
ユメ先輩がそう呼んでいた企画の紙。
最初に聞いた時、ホシノは冗談だと思った。今のアビドスで祭りなんて、何を言っているのか分からなかった。人も足りない。お金も足りない。校舎の修理すら満足にできていない。毎日を回すだけで精一杯なのに、祭りなんてできるはずがない。
だから、止めた。
止めたつもりだった。
でも、今机の上に広がっている紙を見ると、ユメ先輩はただ思いつきで言っていたわけじゃないのだと分かる。
ホシノは椅子に座り、破れた紙の端に指を添えた。
中央から斜めに裂けている。力任せに引っ張った跡があり、紙の繊維が白く毛羽立っていた。破れ目のそばには、ユメ先輩の字が残っている。
旧商店街前広場。
駅前掲示板。
住民会への相談。
物資搬入ルート。
砂漠側道路は要確認。
協力候補、後日再訪。
細かい。
思っていたより、ずっと細かい。
ホシノは紙の端を合わせながら、息を止めた。
出店の配置案。簡易的な人員表。必要な水と食料の数。発電機の手配先。協力してくれそうな住民の名前。断られた時の代案まで、小さく書き足されている。
雑な夢物語ではなかった。
ユメ先輩は、ちゃんと考えていた。
「……何やってるんですか、ほんと」
それがユメ先輩に向けた言葉なのか、自分に向けた言葉なのか、ホシノにも分からなかった。
指先が震える。
紙の端がうまく合わない。
裂け目の向こうに、昨日の光景がちらついた。
ユメ先輩が紙を持って、少し困ったように笑っていた。
『ホシノちゃん、そんなに怒らなくても……』
『怒ってません』
『怒ってるよぉ』
『怒ってますよ』
そこまでは覚えている。
そこから先は、声が荒くなった。
ユメ先輩がまた一人で何かを進めようとしているように見えた。甘い話を信じて、またどこかへ行こうとしているように見えた。何度も危ない目に遭っているのに、それでも人を信じようとするのが、どうしても許せなかった。
『また一人で勝手に動かないで下さい』
自分の声が、頭の中で戻ってくる。
『甘い言葉なんて簡単に信じないで下さい』
違う。
本当は、そう言いたかったわけじゃない。
危ないから行かないでほしかった。
一人で抱え込まないでほしかった。
もう少し、自分たちを頼ってほしかった。
なのに口から出たのは、責める言葉ばかりだった。
『何回目ですか』
『もう知りません』
紙が破れたのは、その時だった。
どちらの手にどれだけ力が入っていたのかは、もう分からない。
でも、破いたのは自分だ。
少なくとも、ホシノはそう思っていた。
ユメ先輩の手から紙がずれて、ホシノの指にも引っかかって、乾いた音がした。
びり、と。
その音だけが、やけにはっきり残っている。
ユメ先輩は、破れた紙を見ていた。
それから、ホシノを見た。
怒ってはいなかった。
それが、余計に嫌だった。
ホシノは目を伏せる。
「……最低」
言ってから、何に対しての言葉なのか分からなくなる。
紙を破ったこと。
ユメ先輩を傷つけたこと。
昨日のうちに追いかけなかったこと。
朝まで待ってしまったこと。
ヒバリへの連絡が遅れたこと。
全部が、胸の奥で同じ場所に積もっていく。
でも、今それを数えてもユメ先輩は戻らない。
ヒバリもそう思ったから、怒鳴らなかったのだろう。
怒っていないわけじゃない。
怒るより先に、探す方を選んだだけだ。
ホシノは息を吐き、破れた紙に向き直る。
「……直します」
誰に言ったわけでもない。
机の引き出しからテープを出す。定規を置く。破れた端を合わせる。ズレた地図の線を繋ぎ、読めなくなった文字を別のメモと照合する。
昼の光が、少しずつ傾いていく。
紙の上には、ユメ先輩の考えたアビドス砂祭りの全体像が、少しずつ戻ってきた。
旧商店街の前で、小さな出店を並べる。
駅前に告知を貼る。
まだ残っている住民に声をかける。
水と食料は最低限。
大きな催しではなく、学校がまだ残っていることを知らせるための小さな集まり。
ユメ先輩らしいと思った。
無茶だ。
甘い。
でも、ただの思いつきじゃない。
ホシノは端末を開き、紙から拾った候補を打ち込んだ。
旧商店街前広場。
駅前掲示板。
住民会。
物資搬入予定の倉庫。
修理業者。
協力候補の企業名。
砂漠側搬入ルート。
最後の言葉を打った時、指が止まった。
砂漠側。
ただの搬入経路だ。
そう処理するべきだと思った。
それでも、見落とすのは嫌だった。
ホシノは一度画面を閉じかけて、すぐに開き直す。感覚だけで消すのは駄目だ。ヒバリに言われた。感想はいらない。推測も後でいい。まず事実だけ。
だから、そのまま送った。
『企画書から候補地を拾った』
『旧商店街、駅前、住民会、物資倉庫、修理業者、協力候補企業』
『砂漠側搬入ルートの記載あり』
しばらくして、返信が来た。
『順に見る』
それだけだった。
少し置いて、もう一つ。
『学校を空けるな』
ホシノは画面を見つめる。
短い文だった。
でも、そこにヒバリがいる気がした。
『分かった』
そう返してから、ホシノは椅子にもたれた。
部屋の中は静かだった。
静かすぎて、廊下の向こうから足音が聞こえた気がした。
ホシノは顔を上げる。
誰もいない。
風で窓枠が鳴っただけだった。
「……ユメ先輩?」
呼んでから、自分で嫌になる。
返事はない。
当たり前だ。
まだ帰ってきていないのだから。
*
ホシノは修復した企画書から拾った連絡先へ、短い確認を送っていた。
ユメ先輩を見ていないか。
砂祭りの話を聞いていないか。
昨日、どこかへ向かう姿を見なかったか。
夕方になる頃、何件か連絡が入った。
近所の住民からだった。
『昨日の夕方前、ユメちゃんらしい子を見た気がする』
『でも遠目だったから、確かじゃない』
『誰かと話していたようにも見えた』
別の店からも連絡が来た。
『砂祭りの話なら聞いた』
『本当にやるつもりだったんだね』
『でも昨日は見ていない』
全部、曖昧だった。
見た気がする。
聞いた気がする。
確かじゃない。
でも、何もないよりはマシだった。
ホシノは一つずつ記録する。時間。場所。相手の名前。言葉の内容。確度。確認が必要な場所。
手を動かしている間は、まだ耐えられた。
何かをしていれば、探している気がした。
何かを書いていれば、まだ間に合う気がした。
日が沈む少し前、ヒバリからまた連絡が来た。
『旧商店街、なし』
『駅前、なし』
『住民二名、目撃不確定』
『倉庫、これから確認』
ホシノは返信欄に指を置く。
『無茶しないで』
打ってから、送信した。
すぐに返事が来た。
『今それを言うな』
ホシノは画面を見たまま、息を止めた。
責められたわけじゃない。
でも、刺さった。
昨日、自分はユメ先輩に同じようなことを言った。勝手に動くな。甘い話を信じるな。一人で行くな。
それでも、ユメ先輩はいなくなった。
今、ヒバリにも同じようなことを言おうとしている。
止めたいのに、止められない。
追いかけたいのに、学校を空けられない。
ホシノは端末を机に置いた。
「……分かってるよ」
誰に向けた言葉でもなかった。
*
夜になっても、ユメ先輩は帰ってこなかった。
部屋の明かりだけが、暗い校舎の中で浮いている。
ホシノは生徒会室に残り、修復した紙を机の上に広げていた。破れ目はまだ分かる。テープの跡も残っている。読めない文字もいくつかある。
それでも、遠目には元通りに見えた。
アビドス砂祭り。
その文字だけは、ちゃんと読める。
帰ってきたら、ユメ先輩はきっと笑う。
『ホシノちゃん、不器用だね』
そう言って、紙のズレを直すかもしれない。
それから、いつものように困った顔で笑って、でも最後には「ありがとう」と言うかもしれない。
そんなことを考える。
考えていないと、別のことを考えてしまうから。
ホシノは端末を握ったまま、椅子に深く座った。廊下で音がするたびに顔を上げる。窓が鳴るたびに息を止める。外の砂が流れる音にさえ、足音を探してしまう。
けれど、扉は開かない。
ユメ先輩は帰ってこない。
夜遅く、ヒバリから短い連絡が来た。
『今日は戻らない』
『外を続ける』
『何かあれば送れ』
ホシノはしばらく画面を見ていた。
それから返信する。
『分かった』
少し迷って、もう一文打つ。
『ユメ先輩が帰ってきたら連絡する』
送信する。
返事はすぐには来なかった。
ホシノは机の上の紙を見る。
破れた跡は残っている。
それでも、まだ形は残っている。
だから、きっと大丈夫だ。
そう思うことにした。
その夜、ユメは帰ってこなかった。