十五日目の朝、ヒバリは学校へ戻らなかった。
戻る理由がなかったわけではない。ホシノと情報を突き合わせる必要はあったし、修復したアビドス祭りの紙も、もう一度見ておきたかった。水も食料も、少しは補給した方がいい。体を休める必要があることも、頭では分かっていた。
けれど、戻れなかった。
戻れば、待つ時間が生まれる。
待つ時間が生まれれば、考えてしまう。
姉さんは、どこにいるのか。
まだ生きているのか。
考えたくないことほど、動きを止めた瞬間に追いついてくる。だからヒバリは、夜が明けても旧市街の外縁を歩いていた。
五日目までは、ホシノは学校に残っていた。
学校には連絡が来るかもしれない。ユメを見たという目撃情報も、祭りの話を聞いたという住民からの報告も、まずは学校へ届く。それに、校舎を空にすれば、外の連中が入り込むかもしれない。
だから、ホシノは学校に残った。
帰ってくる場所を守るために。
情報が戻る場所を空にしないために。
けれど、十日を過ぎたあたりから、それも崩れた。
連絡は来ない。
来ても、曖昧なものばかりだった。
見た気がする。
似ていた。
別人だった。
分からない。
その間に、ヒバリは外で怪しい連中を潰して回っていた。アビドスに手を出そうとしていた連中も、学校へ近づくことを避け始めた。
学校に残る意味が、少しずつ薄れていった。
*
十日目の夜、一度だけ二人は学校で顔を合わせた。
生徒会室の机には、修復されたアビドス祭りの紙と、目撃情報の一覧が広がっていた。けれど、そのほとんどには斜線が引かれている。
見た気がする。
別人だった。
昨日ではなかった。
聞いただけ。
分からない。
情報は集まっているようで、何一つ近づいていなかった。
「私も出る」
先に言ったのは、ホシノだった。
ヒバリは端末から顔を上げる。
「学校は」
「もう、ここで待ってても情報は増えない」
ホシノの声は疲れていた。
けれど、揺れてはいなかった。
「最初は、ここに連絡が来ると思ってた。ユメ先輩が戻るならここだし、誰かが何か知ってたら学校に言ってくると思ってた」
ホシノは机の上の記録を見る。
「でも、来ない。来ても、曖昧な話ばっかり。見た気がする、似てた気がする、違ったかもしれない。それだけ」
ヒバリは黙っていた。
「それに、学校に手を出そうとする連中も減ったでしょ」
「……外で少し黙らせてるからな」
「少し?」
「少し」
いつもなら、そこで少しは言い合いになった。
けれど、その日はならなかった。
ホシノは修復された紙を見下ろす。
「だから、ここに一人でいるより、外を探した方がいい」
「……戻る場所は必要だ」
「分かってる。でも、戻る場所だけ守ってても、ユメ先輩は戻ってこない」
ヒバリは、その言葉に返せなかった。
正しい。
正しいから、腹が立つ。
「報告はする」
ホシノが言った。
「場所と結果だけ。余計なことは言わない」
それは、ヒバリが最初に決めたやり方だった。
ヒバリはしばらく黙ってから、短く答えた。
「勝手に死ぬな」
「そっちもね」
「私は死なない」
「ユメ先輩も、そう言いそうだよ」
その一言で、部屋の空気が止まった。
ホシノはすぐに目を伏せる。
「……ごめん」
ヒバリは何も言わなかった。
言えば、たぶん責める言葉になる。
だから、端末を閉じるだけにした。
「報告だけ送れ」
「うん」
それから二人は、学校で顔を合わせる回数を減らしていった。
十五日目には、二人とも外にいた。
学校へ戻るのではなく、端末で報告だけを送り合うようになっていた。
*
端末が震える。
ホシノからだった。
『北側、なし』
『旧駅周辺、なし』
『昨日の目撃情報、別人だった』
『次、外縁側を見る』
短い文が並ぶ。
会話ではない。
報告だった。
ヒバリも同じように返す。
『南倉庫、なし』
『企業担当、逃亡』
『住民会、追加情報なし』
『正規外の業者筋、継続』
送信。
それで終わり。
大丈夫か、とは聞かない。
休め、とも言わない。
どちらも、相手が休むはずがないことを知っていた。知っているから、言っても意味がない。言えば、余計な感情が混ざる。
だから、報告だけになる。
いつからそうなったのかは分からない。
少なくとも、五日目までは違った。
あの時はまだ、学校で顔を合わせた。ホシノは少しだけ笑った。ユメなら誰かを助けているだけかもしれない、と言った。
ヒバリも、それを否定しなかった。
否定できなかった。
だが、十五日目になると、同じ言葉はもう喉を通らなかった。
*
昼前、ヒバリは外縁の小さな事務所に踏み込んだ。
数日前に接触した支援企業の、下請けの一つだった。書類上は物資仲介。実際には、人手不足の場所へ怪しい仕事を回している。アビドスのような、断る余裕のない場所に入り込むには都合のいい顔をした連中だ。
受付はいなかった。
奥の部屋から、慌てた足音がする。
「おい、裏から――」
言い終わる前に、ヒバリはリボルバーを抜いていた。
一発。
逃げようとした男の足元で床が弾ける。
「次は当てる」
それだけで、男の足は止まった。
別の男が棚の裏から銃を取ろうとする。ヒバリは盾を構えたまま踏み込んだ。大きな盾の縁が男の腕を弾き、続けて胴へ押し込む。男は棚ごと後ろへ倒れ、声を上げる間もなく床に沈んだ。
五日前より、力の加減が雑になっている。
その自覚はあった。
だが、直す余裕はなかった。
盾を持つ腕が、少し遅れて上がる。
リボルバーを握る指先に、乾いた砂がこびりついていた。
最後にまともに眠ったのがいつだったか、思い出せない。
ヒバリは倒れた男の胸元を踏み、低く聞く。
「アビドスの生徒に仕事を回したか」
「し、知らない……!」
「梔子ユメ」
名前を出した瞬間、男の目が揺れた。
ヒバリはそれを見逃さない。
「見たな」
「俺は……直接じゃない。相談に来たって聞いただけだ」
「内容」
「祭りの協力とか、物資の相談とか……詳しくは知らねぇ」
「誰が受けた」
「別の担当だ。もういない。昨日から連絡が取れない」
「どこへ回した」
「知らない。本当に知らない。契約も残ってない。話だけだったんだ」
ヒバリの足に、わずかに力が入る。男が苦しげに息を詰まらせた。
「他には」
「砂漠側の道路とか、搬入経路とか、そんな話が出たかもしれない。でも、はっきり覚えてない。本人が行ったかも知らない。本当だ!」
砂漠側。
その言葉が、耳の奥に残った。
ヒバリは男から足をどける。
事務所の端末を確認する。記録は薄い。名前はない。残っているのは、祭りの協力に関する曖昧なメモと、物資搬入らしい走り書きだけだった。
叩けば何か出ると思っていた。
怪しい連中は、叩けばだいたい何かを吐く。企業は、記録を追えばどこかに名前が残る。業者は、金の流れを見れば繋がりが見える。
けれど、出てこなかった。
出てくるのは、祭りの話ばかりだった。
協力できるか相談された。
物資の搬入先を探していた。
砂漠側道路の確認をしていたかもしれない。
けれど、契約はしていない。
本人かは分からない。
最後にどこへ行ったかは知らない。
何もない。
なさすぎる。
ヒバリは、そこで初めて考えた。
もしかして。
砂漠か。
砂漠に?
一人で?
私にも連絡しないで?
そんなわけがない。
姉さんが、何も持たずに砂漠へ出るはずがない。砂漠用のバッグは学校に残っていた。水も、道具も、持ち出されていない。行くなら必ず連絡する。
そういう人だ。
そういう姉だ。
だから、そんなことはない。
あってはならない。
けれど、十五日だった。
十五日。
もし本当に砂漠なら。
もし、何も持っていないなら。
もし、端末も繋がらないままなら。
保たない。
そこまで考えて、ヒバリは奥歯を噛んだ。
考えるな。
今は、まだ考えるな。
その可能性を認めた瞬間、足が止まる。
足が止まれば、探せなくなる。
ヒバリは情報を抜き、地図を確認する。
外縁の先。
砂漠に近い。
だが、まだ市街地側とも言える。
ヒバリは端末に記録を送る。
『正規外の業者筋、確認』
『祭り関連の相談履歴あり』
『物資・搬入経路の相談があった可能性』
『ユメ本人の移動先は不明』
少し間を置いて、ホシノから返る。
『砂漠側?』
ヒバリは返信欄に指を置く。
砂漠用のバッグは学校にあった。
水も、道具も、持ち出されていない。
姉さんが砂漠に出るなら、準備をする。必ず連絡もする。何も持たずに一人で行くはずがない。
そう判断した。
合理的だった。
間違っていないはずだった。
『外縁寄り』
そう返す。
『砂漠内とは限らない』
送ってから、ヒバリはしばらく画面を見ていた。
限らない。
その言葉が、自分に言い聞かせているものだと分かっていた。
*
午後、ホシノから続けて報告が届いた。
『外縁の倉庫、一つ確認』
『誰もいない』
『古い搬入記録だけ残ってた』
『名前なし』
少し間が空く。
『まだ探してない場所がある』
『ユメ先輩なら、誰かに助けられてるかもしれない』
ヒバリは、廃ビルの階段に座ったまま画面を見ていた。
十五日。
その数字が、頭の中に残り続ける。
水は。
食料は。
端末は。
砂漠なら。
そこまで考えて、ヒバリは奥歯を噛んだ。
返信欄に文字を打つ。
『十五日だぞ』
消す。
『水は』
消す。
『砂漠なら持たない』
消す。
指が止まる。
言えば終わる気がした。
ホシノはまだ信じている。生きていると。どこかで待っていると。ユメなら、誰かを助けていて戻れなくなっているだけだと。
それを否定した瞬間、何かが本当に壊れる。
だから、送ったのは短い文だけだった。
『了解』
『場所を送れ』
すぐに位置情報が届いた。
ヒバリは立ち上がる。
膝が少し重い。
寝ていないせいか。食べていないせいか。それとも、考えないようにしていることが増えすぎたせいか。
目の奥だけが、どんどん乾いていく。
涙が出ないのではない。
泣く場所を、身体が忘れ始めていた。
探していないわけじゃない。
旧商店街を回った。
住民会を当たった。
協力候補の企業も、外縁の業者も、正規ではない仕事を回す連中も潰して回った。
捜索届も出した。
連邦生徒会の窓口にも、治安維持側の窓口にも、出せる場所には全部出した。
特徴も伝えた。
服装も、髪色も、話し方も、持っていた物も、全部書いた。
それでも、返ってくるのは確認中だった。
連邦生徒会でも聞いた言葉。
業者でも聞いた言葉。
今度は、姉の捜索でも同じ言葉を聞いている。
確認中。
該当なし。
情報なし。
目撃なし。
そのたびに、何かが少しずつ削れていく。
痕跡を辿っても、途中で消える。
誰かに聞いても、曖昧な答えしか返ってこない。
記録を追っても、別人に行き着く。
名前を出しても、知らないと言われる。
姉さんが、どこにもいない。
その事実だけが、日を追うごとに形を持ち始めていた。
ヒバリは、それを認めたくなかった。
認めたら、動けなくなる。
動けなくなれば、終わる。
だから、次の場所へ行く。
次の名前を叩く。
次の記録を開く。
そうやっていないと、立っていられなかった。
*
夕方、アビドス高等学校の生徒会室には誰もいなかった。
机の上には、修復されたアビドス祭りの紙だけが広がっている。
破れ目にはテープが貼られ、読めなかった文字はいくつか書き足されていた。遠目には、元通りに見えなくもない。だが近くで見れば、裂けた跡は隠せていない。
窓の隙間から、細かい砂が入り込む。
紙の端に、薄く積もっていく。
アビドス祭り。
その文字だけが、誰もいない部屋でまだ明るかった。
*
夜に入る頃、ヒバリは外縁の高所にいた。
崩れたビルの屋上。風が強く、砂が足元を流れていく。遠くには砂漠が広がっていた。昼の熱を失い始めた砂は、暗がりの中で静かに沈んで見える。
端末が震える。
ホシノからだ。
『東側、なし』
『外縁道路、なし』
『今日は戻らない』
『もう少し先を見る』
ヒバリは画面を見つめた。
もう少し先。
その先には、砂漠がある。
返信欄に文字を打つ。
『戻れ』
消す。
『そっちを見るなら合流する』
少し考えて、送信する。
返事はすぐに来た。
『大丈夫』
『私が見る』
ヒバリは端末を握る手に力を込めた。
大丈夫。
その言葉が、ひどく頼りなく見えた。
ホシノはまだ信じている。
それが悪いとは言えない。
ヒバリだって、信じたい。姉さんがどこかで生きていると。少し困った顔で帰ってきて、二人に怒られて、いつものように笑うのだと。
でも、十五日だ。
十五日経っている。
その事実だけが、どれだけ目を逸らしても消えない。
砂漠用のバッグは学校に残っている。
水も、道具も、持ち出されていない。
姉さんなら、何も持たずに一人で行くはずがない。
そのはずだった。
ヒバリは、初めて砂漠の方を長く見た。
何もない。
風が流れているだけだ。
どこまでも砂が続いているだけだ。
あそこにいるはずがない。
そう思いたかった。
けれど、もう砂漠の線を除外できない。
砂漠の線は薄い。
それは今も変わらない。
けれど、薄いから見ない、とはもう言えなかった。
端末がまた震える。
『外縁側、なし』
ホシノからの報告だった。
ヒバリは、しばらく画面を見つめた。
返信欄を開く。
何も打てなかった。
十五日目の夜。
二人はもう、学校へ戻らなかった。
直接顔を合わせることもなくなった。
残っているのは、端末に積み上がる短い報告だけだった。
なし。
なし。
なし。
その文字だけが、少しずつ二人を削っていった。