アビドスに、もう一人の三年生がいた   作:ゴリさん39

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第31話 三十日目

 

 三十日目の朝、ホシノは砂漠側へ向かった。

 

 空はまだ白み始めたばかりだった。夜の冷たさが砂の上に残っていて、歩くたびに靴底から乾いた感触が返ってくる。アビドスの外縁を抜ける旧搬入路は、もうほとんど道の形を保っていなかった。ところどころに古い標識が立ち、割れた舗装の隙間から砂が盛り上がっている。

 

 昔は、ここを物資の車両が通っていたらしい。

 

 今は違う。

 

 風が通るだけだ。

 

 ホシノは肩にかけた砂漠用のバッグを握り直した。水も、簡易食料も、道具も入っている。砂漠へ出るなら当然持つべきもの。学校に置いてあった三つ分のバッグのうち、一つを持ってきた。

 

 ユメ先輩は、持っていかなかった。

 

 だから、ここにいる可能性は低い。

 

 そう判断した。

 

 そう判断したはずだった。

 

 ユメ先輩なら、連絡する。水も持つ。道具も持つ。何も言わず、何も持たずに、こんな場所へ出るはずがない。

 

 それなのに、もう他に見る場所が残っていなかった。

 

 端末を開く。

 

 ヒバリには位置情報を送ってある。ヒバリからは、別方向から砂漠側を確認する、とだけ返ってきていた。

 

『奥へ行きすぎるな』

 

 短い文面。

 

 ホシノはその文面をしばらく見つめた後、静かに返信を送った。

 

『大丈夫』

 

『ユメ先輩は見つかる』

 

 送信してから、端末をしまった。

 

 見つかる。

 

 その言葉だけは、まだ言えた。

 

     *

 

 旧搬入路沿いを歩く。

 

 端末の地図では、昨日まで白く残っていた場所だった。何度か見ようとして、まだ奥までは入っていなかった場所。今日、初めてそこへ線を伸ばしていた。

 

 砂に足を取られ、何度も速度が落ちた。風が吹くたびに、わずかな足跡もすぐ薄くなる。人が通った痕跡を探すには、遅すぎる。そんなことは分かっている。

 

 それでも探す。

 

 道の脇に落ちていた紙片を拾う。古い物資搬入票だった。端が焼け、文字の一部は読めない。そこに、アビドス祭りの企画書にあった協力候補企業のロゴが薄く残っていた。

 

 ホシノはそれを見つめる。

 

 心臓の奥が、冷たくなる。

 

 けれど、まだ確定じゃない。

 

 端末を出しかけて、やめた。

 

 ヒバリへ送るには早い。まだ、ただの紙だ。ユメ先輩のものとは限らない。ここを企業の誰かが通っただけかもしれない。

 

 そう思うことにした。

 

 さらに進む。

 

 壊れた標識。埋まりかけた車止め。砂に半分沈んだ搬入用の目印。どれも古く、どれも頼りない。

 

 途中で、ペンのキャップを見つけた。

 

 青いキャップだった。

 

 ユメ先輩がよく使っていたペンに似ている。

 

 ホシノはしゃがみ込み、それを拾う。

 

 指先が震えた。

 

 違う。

 

 同じようなペンなんて、いくらでもある。

 

 ユメ先輩のものだと決まったわけじゃない。

 

 そう思った。

 

 思おうとした。

 

 何度も似たものを見つけて、違うと分かってきた。

 

 でもこれは、すぐに捨てられなかった。

 

 端末のメモに記録する。

 

 青いペンキャップ。旧搬入路沿い。砂漠側。

 

 保存する。

 

 画面の文字だけが、妙に冷たく見えた。

 

     *

 

 昼前には、太陽が高くなっていた。

 

 砂の白さが強くなる。見える景色の輪郭が揺れて、遠くのものほど曖昧になる。ホシノは水を飲み、息を整えた。

 

 まだ探せる。

 

 まだ歩ける。

 

 ユメ先輩なら、きっとどこかで待っている。

 

 そう言い聞かせて、顔を上げた。

 

 砂丘の向こうに、何かが見えた。

 

 最初は、砂に引っかかった金属片だと思った。

 

 太陽の光を受けて、鈍く光っている。

 

 近づいて、それが盾だと分かった。

 

 ユメ先輩の盾だった。

 

 ホシノの足が止まる。

 

「……なんで」

 

 声が漏れる。

 

 ここにあるはずがない。

 

 そう思いながら、砂に半分埋まった盾へ手を伸ばした。

 

 引き抜こうとする。

 

 動かない。

 

 砂に埋まっているだけにしては、重すぎた。

 

 もう一度、力を込める。

 

 盾が、少しだけ浮く。

 

 その下で、何かが引っかかった。

 

 まるで、重いものが埋まっているみたいに。

 

 ホシノの呼吸が止まる。

 

 手が震えた。

 

 嫌な予感だけが、はっきりしていく。

 

 膝をつき、素手で砂を払う。

 

 一掻き。

 

 また一掻き。

 

 指先が、布に触れた。

 

 白い布だった。

 

 見覚えがあった。

 

 ユメ先輩の制服だった。

 

「……ユメ先輩」

 

 声が漏れる。

 

 さらに砂を払う。

 

 髪が見えた。

 

 肩が見えた。

 

 砂に埋もれていた輪郭が、少しずつ現れる。

 

 目の前にいる。

 

 ずっと探していた人が、ここにいる。

 

 やっと見つけた。

 

 やっと。

 

「……ここにいたんですね、ユメ先輩」

 

 言葉は、思ったより静かに出た。

 

 怒るつもりだった。

 

 帰ってきたら、絶対に怒るつもりだった。どうして一人で行ったんですか。どうして連絡しなかったんですか。どれだけ探したと思ってるんですか。そう言うつもりだった。

 

 なのに、出てきたのはそれだけだった。

 

「帰ろう」

 

 ホシノは言う。

 

「ユメ先輩、帰ろう」

 

 返事はない。

 

「怒ってないから」

 

 嘘だった。

 

「いや、怒ってるけど」

 

 声が震える。

 

「でも、帰ろう」

 

 手を伸ばす。

 

 触れた。

 

 何も返ってこなかった。

 

 その瞬間、頭の中が真っ白になった。

 

 動かない、と思った。

 

 違う。

 

 疲れているだけだ。

 

 返事がない、と思った。

 

 違う。

 

 眠っているだけだ。

 

 聞こえていないだけだ。

 

 違う。

 

 違う。

 

 違う。

 

 否定する言葉だけが、頭の中で何度も回る。

 

 けれど、目の前の現実は何も変わらない。

 

 ユメ先輩は、返事をしない。

 

 笑わない。

 

 困ったように眉を下げない。

 

 ホシノちゃん、と呼ばない。

 

 風が吹いた。

 

 砂が、二人の間を薄く流れていく。

 

 ホシノは、そこで初めて息を吸えなくなった。

 

 泣くより先に、音が消えた。

 

 風の音も、砂の音も、自分の呼吸も、全部遠くなった。

 

 端末を取り出さなければならない。

 

 ヒバリに連絡しなければならない。

 

 分かっている。

 

 でも、指が動かなかった。

 

 何度も画面を押し間違える。通話履歴を開いて、閉じて、また開く。ヒバリの名前を見つける。押そうとして、押せない。

 

 押したら、終わる。

 

 ヒバリに伝えたら、本当に終わる。

 

 それでも、押さなければならない。

 

 ホシノは震える指で、通話ボタンを押した。

 

     *

 

 通話はすぐに繋がった。

 

『見つけた?』

 

 ヒバリの声だった。

 

 いつもより低い。

 

 けれど乱れてはいない。

 

 ホシノは口を開く。

 

 声が出ない。

 

『ホシノ』

 

「……うん」

 

 やっと出た声は、自分のものとは思えないくらい小さかった。

 

「見つけた」

 

 短い沈黙。

 

 その後、ヒバリが聞いた。

 

『生きてる?』

 

 ホシノは答えられなかった。

 

 言葉が出ない。

 

 喉が詰まる。

 

 違う、と言いたかった。

 

 まだ分からない、と言いたかった。

 

 助かるかもしれない、と言いたかった。

 

 でも、何も言えなかった。

 

 通話の向こうで、ヒバリの呼吸が止まった気がした。

 

 次に聞こえた声は、平坦だった。

 

『場所を送れ』

 

「ヒバリ」

 

『場所を送れ』

 

 二度目は、少しだけ強かった。

 

 怒鳴ってはいない。

 

 泣いてもいない。

 

 ただ、感情が全部抜けたみたいな声だった。

 

 ホシノは位置情報を送る。

 

 送信完了。

 

 その文字だけが、妙に冷たく見えた。

 

『そこを動くな』

 

 ヒバリはそれだけ言った。

 

 通話が切れる。

 

 ホシノは端末を握ったまま、しばらく動かなかった。

 

     *

 

 砂漠側の旧搬入路の先で、ホシノはユメのそばに座った。

 

 帰ろう、ともう一度言おうとした。

 

 でも声は出なかった。

 

 代わりに、砂の上に視線を落とす。

 

 ここまで来るまでに、ユメ先輩は何を考えていたのだろう。

 

 学校のことだろうか。

 

 祭りのことだろうか。

 

 ホシノと喧嘩したことだろうか。

 

 ヒバリが帰ってきたら怒られるな、とか、そんなことを考えていたのだろうか。

 

 分からない。

 

 もう、聞けない。

 

 ホシノは手を伸ばし、砂のついた袖に触れた。

 

「……ごめんなさい」

 

 声は砂に落ちた。

 

「ごめんなさい、ユメ先輩」

 

 何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。

 

 喧嘩したこと。

 

 止められなかったこと。

 

 探すのが遅れたこと。

 

 ここが最後だと気づけなかったこと。

 

 全部だった。

 

 遠くで、車両の音がした。

 

 最初は風の音かと思った。

 

 けれど、違った。

 

 まっすぐこちらへ近づいてくる音だった。

 

 ヒバリが来る。

 

 そう思った瞬間、胸の奥がまた冷たくなる。

 

 風の向こうから来る車両音は、もうはっきり聞こえていた。

 

 その音が近づくほど、ホシノは怖くなった。

 

 ユメ先輩を見つけたことよりも。

 

 この現実を、ヒバリに渡さなければならないことが。

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