アビドスに、もう一人の三年生がいた   作:ゴリさん39

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第32話 帰り道

 

 砂漠の風は、何も言わなかった。

 

 ホシノはユメのそばに座ったまま、ただ待っていた。端末には位置情報の送信完了が表示されたまま残っている。何度見ても、文字は変わらない。送った。ヒバリは来る。それだけは分かっている。

 

 でも、それ以外が分からなかった。

 

 何を言えばいいのか。

 どんな顔をすればいいのか。

 ヒバリが来た時、自分は最初に何を伝えればいいのか。

 

 謝ればいいのか。

 

 それとも、黙っていればいいのか。

 

 ユメ先輩は、もう答えてくれない。

 

 風が吹くたび、砂が薄く流れる。ホシノはそのたびに、ユメの袖にかかった砂を払った。払っても、すぐにまた積もる。それでも払った。

 

 遠くから、車両の音が聞こえた。

 

 軽装甲車の低い駆動音。

 

 ヒバリだ。

 

 そう思った瞬間、ほんの少しだけ息ができた。

 

 けれど、すぐに胸の奥が冷える。

 

 ヒバリが来る。

 来てしまう。

 

 この場所に。

 このユメ先輩の前に。

 

 車両は砂を巻き上げながら近づき、少し離れた場所で止まった。

 

 扉が開く。

 

 降りてきたヒバリを見て、ホシノは思った。

 

 久しぶりに見た気がした。

 

 実際、そうだった。十五日目を過ぎてから、二人はほとんど顔を合わせていない。端末で場所と結果を送り合うだけ。なし、なし、なし。そんな短い報告だけで繋がっていた。

 

 だから、今のヒバリの姿を見るのは、ひどく久しぶりだった。

 

 そして、ひどく遠かった。

 

 頬の線が鋭くなっている。目の下には濃い影が落ち、唇の色も薄い。制服も盾も、砂と埃で汚れていた。細い身体が、前よりさらに細く見える。

 

 やつれている。

 

 そう思った。

 

 けれど、歩き方だけは変わらなかった。まっすぐで、無駄がなくて、迷いがない。いつも通りに見える。

 

 いつも通りに見せているだけだと、すぐに分かった。

 

 ヒバリは何も言わずに近づいてきた。

 

 ホシノは立ち上がろうとして、うまく足に力が入らなかった。それでもどうにか立つ。

 

「ヒバリ……」

 

 呼んだ声は、砂に落ちた。

 

 ヒバリは返事をしなかった。

 

 そのままホシノの横を通り過ぎ、ユメの前で膝をついた。

 

 手が伸びる。

 

 けれど、その手は途中で一度止まった。

 

 触れたら、認めることになる。

 

 そんなふうに見えた。

 

 それでも、ヒバリはゆっくり手を伸ばした。

 

 ユメの袖に触れる。

 

 ほんの少しだけ、指先が沈む。

 

 それ以上は、何も起きなかった。

 

 ユメ先輩は動かない。

 

 ヒバリも動かない。

 

 ホシノは、ヒバリの顔を見られなかった。

 

 目を見たら、何かを言われる気がした。

 

 言われなくても、分かってしまう気がした。

 

 だから、見られなかった。

 

     *

 

 作業は、ほとんど無言で進んだ。

 

 軽装甲車には、搬送用ケースが積まれていた。救助用の担架や布、固定具と一緒に、いつからか積まれていたものだった。ヒバリがいつからそれを準備していたのか、ホシノには分からない。

 

 聞けなかった。

 

 二人でユメを納める。

 

 ホシノの手は震えていた。

 

 ヒバリの手は、震えていないように見えた。

 

 それが余計に怖かった。

 

 泣かない。怒らない。叫ばない。何も言わない。ただ、必要な動きだけをする。いつものヒバリと同じように。

 

 違う。

 

 同じなわけがない。

 

 そう思うのに、ホシノはやはりヒバリの目を見られなかった。

 

 搬送用ケースの蓋が閉じる。

 

 その音は、小さかった。

 

 小さいのに、砂漠全体に響いたような気がした。

 

 ホシノは息を止めた。

 

 ユメ先輩が、見えなくなった。

 

     *

 

 帰りの軽装甲車の中で、二人は一言も喋らなかった。

 

 運転席にはヒバリ。

 助手席にはホシノ。

 後部には、ユメの入った搬送用ケース。

 

 エンジン音だけが続いている。

 

 砂を踏む音。

 車体が小さく軋む音。

 時々、どこかの金具が揺れる音。

 

 ヒバリは前だけを見ていた。

 

 ホシノは、その横顔すら見られなかった。

 

 後ろにある搬送用ケースのことを、見なくても分かっていた。

 

 見えないのに、そこだけが車内で一番重かった。

 

 何度も謝ろうとした。

 

 ごめん、と。

 

 でも、車内では言えなかった。

 

 今言えば、何かが壊れる気がした。もう十分壊れているはずなのに、それでもまだ、壊れていないふりをしている何かがあった。

 

 だから黙っていた。

 

 ヒバリも黙っていた。

 

 砂漠は後ろへ流れていく。

 

 どれくらい走ったのか、ホシノには分からなかった。

 

 アビドスの校舎が見えてきた時、ホシノは一瞬だけ、帰ってきたと思った。

 

 でもすぐに違うと思った。

 

 学校に戻っただけだ。

 

 帰ってきたわけじゃない。

 

     *

 

 夕方、軽装甲車はアビドス高等学校の校舎前に止まった。

 

 空は赤くなり始めていた。校舎の窓が淡く光り、砂に埋もれかけた道だけがいつもと同じようにそこにある。

 

 ここは、ユメ先輩が帰ってくるはずだった場所だ。

 

 ホシノが待っていた場所だ。

 

 破れたアビドス祭りの紙を直して、いつでも戻ってこられるようにしていた場所だ。

 

 その場所に、二人は搬送用ケースを下ろした。

 

 重かった。

 

 重いはずだった。

 

 それなのに、ホシノには重さがよく分からなかった。手に力が入っているのかも分からない。ただ、ヒバリの動きに合わせて、落とさないように、倒れないように、運ぶ。

 

 校舎の中は静かだった。

 

 いつもの生徒会室の前まで運んだところで、ホシノの足が止まった。

 

 もう無理だった。

 

 胸の奥に押し込めていたものが、喉まで上がってくる。

 

「……ごめんなさい」

 

 声が出た。

 

 かすれた声だった。

 

「ごめんなさい、ユメ先輩」

 

 搬送用ケースの前で、ホシノは膝をついた。

 

「私が、あんなこと言わなければ」

 

 止まらない。

 

「私が、ちゃんと止めてれば」

 

 言ってはいけない気がした。

 

 今さら言うなと、どこかで分かっていた。

 

 それでも、止まらない。

 

「私が……あの日のうちに探してれば」

 

 視界が滲む。

 

「ごめん」

 

 それは、ユメに向けた言葉だった。

 

 そして、ヒバリに向けた言葉でもあった。

 

「ごめん、ヒバリ」

 

 言った瞬間、自分の声がひどく遠く聞こえた。

 

 空気が止まった。

 

 ヒバリが、ゆっくり動いた。

 

 ホシノは顔を上げる。

 

 そこで初めて、ヒバリの目を見た。

 

 正気がなかった。

 

 怒っている目ではなかった。

 泣いている目でもなかった。

 責めている目でもなかった。

 

 何かが抜け落ちた後の、空っぽの目だった。

 

 その目を見て、ホシノはようやく気づいた。

 

 ヒバリは、もうとっくに壊れていたのだ。

 

 砂漠で会った時から。

 車の中で黙っていた時から。

 いや、もっと前から。

 

 きっと、ずっと。

 

 気づかなかった。

 

 見られなかったから。

 

 見ようとしなかったから。

 

 ヒバリは何も言わない。

 

 ただ、ホシノの前に立っていた。

 

 搬送用ケースのそばで、夕方の赤い光を背に受けて、まるで影だけが立っているみたいだった。

 

 その手が、ゆっくり持ち上がる。

 

 ホシノは動けなかった。

 

 逃げるとか、避けるとか、そういう考えが浮かばなかった。

 

 ヒバリの視線が、ホシノではなく、一度だけ搬送用ケースへ落ちた。

 

 そしてまた、ホシノへ戻る。

 

 ヒバリの指先が近づいてくる。

 

 遅い。

 

 あまりにも遅い。

 

 その遅さが、怖かった。

 

 叩かれるのだと思った。

 

 殴られるのだと思った。

 

 それでもいい、と思った。

 

 けれど、ヒバリの手はホシノの頬に触れた。

 

 冷たい指だった。

 

 砂と埃で少しざらついた指先が、ホシノの頬に添えられる。

 

 優しくはなかった。

 

 でも、乱暴でもなかった。

 

 ただ、そこに置かれた。

 

 ホシノは息を止める。

 

 ヒバリの指が、わずかに動く。

 

 頬を押さえられ、ゆっくりと顔を上げさせられる。

 

 目を逸らせない。

 

 逸らすことを許されない。

 

 正面から、ヒバリの目を見る。

 

 空っぽだった。

 

 そこには怒りも悲しみも見えなかった。

 

 なのに、底だけがない。

 

 深いのではなく、抜けている。

 

 ホシノの背筋が、遅れて冷たくなる。

 

「ヒバリ……?」

 

 呼びかけた声は、自分でも驚くほど小さかった。

 

 返事はない。

 

 ヒバリの手が、頬から離れる。

 

 その瞬間、少しだけ息が戻った。

 

 次の瞬間。

 

 細い指が、ホシノの首元にかかった。

 

 何をされたのか、最初は分からなかった。

 

 ただ、喉に冷たいものが触れたと思った。

 

 それから、力が入った。

 

「――っ」

 

 息が止まる。

 

 声が潰れる。

 

 首を掴まれているのだと、ようやく分かった。

 

 ヒバリの腕は細い。ホシノとほとんど変わらない小柄な身体。なのに、信じられない力で持ち上げられる。

 

 足が床から離れた。

 

 背中が壁に近づく。

 

 喉の奥で、みし、と嫌な音がした気がした。

 

 実際に鳴ったのか、自分の中だけで聞こえたのか分からない。

 

 でも、聞こえた。

 

 みし、みし、と。

 

 少しずつ、何かが軋むような音。

 

 空気が入らない。

 

 指を動かそうとしても、力が入らない。

 

 視界の端が白くなる。

 

 ヒバリは何も言わなかった。

 

 無表情のまま、空っぽの目でホシノを見つめている。

 

 そこには怒りすらなかった。

 

 だからこそ、怖かった。

 

 ああ。

 

 ここで終わるんだ。

 

 ホシノは、そう思った。

 

 不思議と抵抗する気にはならなかった。

 

 抵抗していい理由が、思いつかなかった。

 

 謝るのが遅すぎた。

 

 探すのが遅すぎた。

 

 気づくのが、何もかも遅すぎた。

 

 最後に見えたのは、ヒバリの目だった。

 

 何も映していない、乾いた目。

 

 その目だけが最後まで、ホシノを見ていた。

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