砂漠の風は、何も言わなかった。
ホシノはユメのそばに座ったまま、ただ待っていた。端末には位置情報の送信完了が表示されたまま残っている。何度見ても、文字は変わらない。送った。ヒバリは来る。それだけは分かっている。
でも、それ以外が分からなかった。
何を言えばいいのか。
どんな顔をすればいいのか。
ヒバリが来た時、自分は最初に何を伝えればいいのか。
謝ればいいのか。
それとも、黙っていればいいのか。
ユメ先輩は、もう答えてくれない。
風が吹くたび、砂が薄く流れる。ホシノはそのたびに、ユメの袖にかかった砂を払った。払っても、すぐにまた積もる。それでも払った。
遠くから、車両の音が聞こえた。
軽装甲車の低い駆動音。
ヒバリだ。
そう思った瞬間、ほんの少しだけ息ができた。
けれど、すぐに胸の奥が冷える。
ヒバリが来る。
来てしまう。
この場所に。
このユメ先輩の前に。
車両は砂を巻き上げながら近づき、少し離れた場所で止まった。
扉が開く。
降りてきたヒバリを見て、ホシノは思った。
久しぶりに見た気がした。
実際、そうだった。十五日目を過ぎてから、二人はほとんど顔を合わせていない。端末で場所と結果を送り合うだけ。なし、なし、なし。そんな短い報告だけで繋がっていた。
だから、今のヒバリの姿を見るのは、ひどく久しぶりだった。
そして、ひどく遠かった。
頬の線が鋭くなっている。目の下には濃い影が落ち、唇の色も薄い。制服も盾も、砂と埃で汚れていた。細い身体が、前よりさらに細く見える。
やつれている。
そう思った。
けれど、歩き方だけは変わらなかった。まっすぐで、無駄がなくて、迷いがない。いつも通りに見える。
いつも通りに見せているだけだと、すぐに分かった。
ヒバリは何も言わずに近づいてきた。
ホシノは立ち上がろうとして、うまく足に力が入らなかった。それでもどうにか立つ。
「ヒバリ……」
呼んだ声は、砂に落ちた。
ヒバリは返事をしなかった。
そのままホシノの横を通り過ぎ、ユメの前で膝をついた。
手が伸びる。
けれど、その手は途中で一度止まった。
触れたら、認めることになる。
そんなふうに見えた。
それでも、ヒバリはゆっくり手を伸ばした。
ユメの袖に触れる。
ほんの少しだけ、指先が沈む。
それ以上は、何も起きなかった。
ユメ先輩は動かない。
ヒバリも動かない。
ホシノは、ヒバリの顔を見られなかった。
目を見たら、何かを言われる気がした。
言われなくても、分かってしまう気がした。
だから、見られなかった。
*
作業は、ほとんど無言で進んだ。
軽装甲車には、搬送用ケースが積まれていた。救助用の担架や布、固定具と一緒に、いつからか積まれていたものだった。ヒバリがいつからそれを準備していたのか、ホシノには分からない。
聞けなかった。
二人でユメを納める。
ホシノの手は震えていた。
ヒバリの手は、震えていないように見えた。
それが余計に怖かった。
泣かない。怒らない。叫ばない。何も言わない。ただ、必要な動きだけをする。いつものヒバリと同じように。
違う。
同じなわけがない。
そう思うのに、ホシノはやはりヒバリの目を見られなかった。
搬送用ケースの蓋が閉じる。
その音は、小さかった。
小さいのに、砂漠全体に響いたような気がした。
ホシノは息を止めた。
ユメ先輩が、見えなくなった。
*
帰りの軽装甲車の中で、二人は一言も喋らなかった。
運転席にはヒバリ。
助手席にはホシノ。
後部には、ユメの入った搬送用ケース。
エンジン音だけが続いている。
砂を踏む音。
車体が小さく軋む音。
時々、どこかの金具が揺れる音。
ヒバリは前だけを見ていた。
ホシノは、その横顔すら見られなかった。
後ろにある搬送用ケースのことを、見なくても分かっていた。
見えないのに、そこだけが車内で一番重かった。
何度も謝ろうとした。
ごめん、と。
でも、車内では言えなかった。
今言えば、何かが壊れる気がした。もう十分壊れているはずなのに、それでもまだ、壊れていないふりをしている何かがあった。
だから黙っていた。
ヒバリも黙っていた。
砂漠は後ろへ流れていく。
どれくらい走ったのか、ホシノには分からなかった。
アビドスの校舎が見えてきた時、ホシノは一瞬だけ、帰ってきたと思った。
でもすぐに違うと思った。
学校に戻っただけだ。
帰ってきたわけじゃない。
*
夕方、軽装甲車はアビドス高等学校の校舎前に止まった。
空は赤くなり始めていた。校舎の窓が淡く光り、砂に埋もれかけた道だけがいつもと同じようにそこにある。
ここは、ユメ先輩が帰ってくるはずだった場所だ。
ホシノが待っていた場所だ。
破れたアビドス祭りの紙を直して、いつでも戻ってこられるようにしていた場所だ。
その場所に、二人は搬送用ケースを下ろした。
重かった。
重いはずだった。
それなのに、ホシノには重さがよく分からなかった。手に力が入っているのかも分からない。ただ、ヒバリの動きに合わせて、落とさないように、倒れないように、運ぶ。
校舎の中は静かだった。
いつもの生徒会室の前まで運んだところで、ホシノの足が止まった。
もう無理だった。
胸の奥に押し込めていたものが、喉まで上がってくる。
「……ごめんなさい」
声が出た。
かすれた声だった。
「ごめんなさい、ユメ先輩」
搬送用ケースの前で、ホシノは膝をついた。
「私が、あんなこと言わなければ」
止まらない。
「私が、ちゃんと止めてれば」
言ってはいけない気がした。
今さら言うなと、どこかで分かっていた。
それでも、止まらない。
「私が……あの日のうちに探してれば」
視界が滲む。
「ごめん」
それは、ユメに向けた言葉だった。
そして、ヒバリに向けた言葉でもあった。
「ごめん、ヒバリ」
言った瞬間、自分の声がひどく遠く聞こえた。
空気が止まった。
ヒバリが、ゆっくり動いた。
ホシノは顔を上げる。
そこで初めて、ヒバリの目を見た。
正気がなかった。
怒っている目ではなかった。
泣いている目でもなかった。
責めている目でもなかった。
何かが抜け落ちた後の、空っぽの目だった。
その目を見て、ホシノはようやく気づいた。
ヒバリは、もうとっくに壊れていたのだ。
砂漠で会った時から。
車の中で黙っていた時から。
いや、もっと前から。
きっと、ずっと。
気づかなかった。
見られなかったから。
見ようとしなかったから。
ヒバリは何も言わない。
ただ、ホシノの前に立っていた。
搬送用ケースのそばで、夕方の赤い光を背に受けて、まるで影だけが立っているみたいだった。
その手が、ゆっくり持ち上がる。
ホシノは動けなかった。
逃げるとか、避けるとか、そういう考えが浮かばなかった。
ヒバリの視線が、ホシノではなく、一度だけ搬送用ケースへ落ちた。
そしてまた、ホシノへ戻る。
ヒバリの指先が近づいてくる。
遅い。
あまりにも遅い。
その遅さが、怖かった。
叩かれるのだと思った。
殴られるのだと思った。
それでもいい、と思った。
けれど、ヒバリの手はホシノの頬に触れた。
冷たい指だった。
砂と埃で少しざらついた指先が、ホシノの頬に添えられる。
優しくはなかった。
でも、乱暴でもなかった。
ただ、そこに置かれた。
ホシノは息を止める。
ヒバリの指が、わずかに動く。
頬を押さえられ、ゆっくりと顔を上げさせられる。
目を逸らせない。
逸らすことを許されない。
正面から、ヒバリの目を見る。
空っぽだった。
そこには怒りも悲しみも見えなかった。
なのに、底だけがない。
深いのではなく、抜けている。
ホシノの背筋が、遅れて冷たくなる。
「ヒバリ……?」
呼びかけた声は、自分でも驚くほど小さかった。
返事はない。
ヒバリの手が、頬から離れる。
その瞬間、少しだけ息が戻った。
次の瞬間。
細い指が、ホシノの首元にかかった。
何をされたのか、最初は分からなかった。
ただ、喉に冷たいものが触れたと思った。
それから、力が入った。
「――っ」
息が止まる。
声が潰れる。
首を掴まれているのだと、ようやく分かった。
ヒバリの腕は細い。ホシノとほとんど変わらない小柄な身体。なのに、信じられない力で持ち上げられる。
足が床から離れた。
背中が壁に近づく。
喉の奥で、みし、と嫌な音がした気がした。
実際に鳴ったのか、自分の中だけで聞こえたのか分からない。
でも、聞こえた。
みし、みし、と。
少しずつ、何かが軋むような音。
空気が入らない。
指を動かそうとしても、力が入らない。
視界の端が白くなる。
ヒバリは何も言わなかった。
無表情のまま、空っぽの目でホシノを見つめている。
そこには怒りすらなかった。
だからこそ、怖かった。
ああ。
ここで終わるんだ。
ホシノは、そう思った。
不思議と抵抗する気にはならなかった。
抵抗していい理由が、思いつかなかった。
謝るのが遅すぎた。
探すのが遅すぎた。
気づくのが、何もかも遅すぎた。
最後に見えたのは、ヒバリの目だった。
何も映していない、乾いた目。
その目だけが最後まで、ホシノを見ていた。