「……シノちゃ……」
声がした。
遠かった。
砂嵐の向こうから聞こえるように、途切れ途切れで掠れていたが、それでも聞き慣れた声だった。
「……ホシノちゃん!」
今度は、はっきりと聞こえた。
わずかに焦りを含んだ声。
起きて、と促す声。
ユメ先輩の声だった。
ホシノは反射的に目を開けた。
「っ、ゲホッ……! げほっ、ごほ――ッ!」
激しく咳き込む。
喉が焼けつくように痛んだ。
「ッ……ひゅっ……はっ……!」
空気がうまく入らない。
息を吸うたび、喉の奥が細く潰れたように軋む。
ひゅう、ひゅう、と、自分でも耳を塞ぎたくなるような音が漏れた。
視界が滲む。
床が冷たい。
頭が重い。
しばらく、自分がどこにいるのか理解できなかった。
視界に入ったのは、暗い天井だった。割れた蛍光灯。古い染みの残る天井板。窓の外はすでに夜になっている。夕方に学校へ戻ってきたはずなのに、廊下も部屋も、すっかり暗く沈んでいた。
そこに、ユメはいなかった。
最初に強く戻ってきた感覚は、喉の痛みだった。
首の奥だけではない。
顎の下から鎖骨のあたりまで、鈍い熱が張りついている。飲み込もうとしても、喉が狭まったように引っかかる。息を吸うたびに、どこかが擦れているようだった。
声を出そうとしても、音になる前に崩れた。
「……ぁ」
自分の声ではないようだった。
ホシノは反射的に首へ手を当てた。
触れただけで痛みが走る。
なぜ。
どうして、こんな場所で倒れていたのだったか。
周囲を見る。
少し離れた場所に、ユメ先輩の搬送用ケースがあった。砂漠から学校まで持ち帰ってきたもの。二人で運んだもの。
そこまでは思い出せる。
砂漠。
ユメ先輩。
帰り道。
生徒会室の前。
謝った。
ごめんなさい、と言った。
ユメ先輩にも。
ヒバリにも。
そこで、記憶が一気に戻った。
ヒバリの目。
空虚で、何も映していない目。
頬に触れた冷たい指。
顔を上げさせられたこと。
首元にかかった手。
息が止まったこと。
足が床から離れたこと。
視界が白くなり、最後にヒバリの目だけが見えていたこと。
思い出した瞬間、身体が冷えた。
ヒバリに、首を絞められた。
その事実が、遅れて胸の奥へ沈んでいく。
だが、恐怖を覚えるより先に、ホシノは別のことに気づいた。
ヒバリがいない。
「……ヒバリ」
声はかすれ、ほとんど音にならなかった。
返事はない。
ホシノはもう一度周囲を見る。ユメ先輩の搬送用ケースはある。自分は生きている。しかし、ヒバリがいない。
嫌な予感がした。
あの目をしたヒバリが、自分を殺しかけた後にどこかへ行った。
それだけで十分だった。
探さなければならない。
今すぐに。
けれど、足を踏み出そうとして、ホシノは一度だけ振り返った。
ユメ先輩の搬送用ケースが、暗い部屋の中にある。先ほどまで、あれを見失わないようにしていた。砂漠から帰る間も、学校へ運ぶ間も、ずっと。
今、そこから離れようとしている。
置いていくようだ、と思った。
違う。
置いていくのではない。
ヒバリを探しに行くだけだ。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥は冷えたままだった。
ユメ先輩には間に合わなかった。
ヒバリにも間に合わなかったら。
その先は、考えられなかった。
ホシノは立ち上がろうとした。足に力が入らない。膝が一度崩れ、手を床につく。
それでも、立った。
廊下へ出ようとした時、ふと中庭側の窓の向こうに何かが見えた。
向かいにある、いつもの生徒会室の窓。
その奥に、人影があった。
揺れている。
最初は、誰かが立っているのだと思った。暗い教室の中で、窓際に誰かがいるのだと。
しかし、すぐに違うと分かった。
位置がおかしい。
頭の高さが、ありえない場所にあった。
足元が床についている高さではない。
その瞬間、ホシノの中で何かが弾けた。
「ヒバリ……!」
喉が裂けるように痛んだ。
だが、そんなものはどうでもよかった。
ホシノは走った。
先ほどまで動かなかった足が、勝手に前へ出る。廊下の壁に肩がぶつかる。膝が笑う。視界の端が何度も暗くなる。
それでも止まらなかった。
ユメ先輩は、もう連れ戻せなかった。
だから、ヒバリまで失うわけにはいかなかった。
階段を駆け上がる。足を踏み外しそうになる。手すりにしがみつき、身体を引き上げる。視界が滲む。すべてどうでもよかった。
生徒会室の扉は、少しだけ開いていた。
風で開いたのかもしれない。
そうであってほしかった。
ホシノは扉を押し開けた。
中に、ヒバリがいた。
一瞬、何が起きているのか理解できなかった。
次の瞬間、全身の血が引いた。
ヒバリの身体が、かすかに揺れていた。
「ヒバリ!!」
喉が潰れたような声が出た。
ホシノは転がるように駆け寄った。痛みも、息苦しさも、足の震えも、すべて置き去りにする。
ヒバリの身体を支える。
軽い。
あれほどの力で自分を持ち上げた身体が、今は信じられないほど軽く感じた。
どこを支えればいいのか分からなかった。首元に触れるのが怖い。だが、支えなければ落ちてしまう。
自分の首が、まだ痛んでいる。
それでも、今はヒバリの首を守らなければならなかった。
「ヒバリ、ヒバリ!」
名前を呼ぶ。
返事はない。
しかし、かすかに動いた。
ほんのわずかに。
それだけだった。
それだけで、ホシノは縋るように息を吸った。
生きている。
まだ、生きている。
そこから先のことは、順番が曖昧だった。
それでも、いくつかの感触だけは残っている。
ヒバリの身体を床へ下ろした時の軽さ。
呼吸を確かめようとして、自分の手が震えていたこと。
端末を落とした。
拾おうとしても、指先がうまく動かなかった。
画面に砂がつき、何度も拭った。
誰に連絡すればいいのか分からない。
連邦生徒会など、今は思い浮かびもしない。
助けを呼ばなければならない。
しかし声が出ない。
焦れば焦るほど喉が詰まる。助けて、と言いたいのに、音にならない。
ヒバリの胸が、かすかに上下している。
それだけを見て、ホシノは何度も息を吸った。
まだ大丈夫。
まだ間に合う。
まだ。
その言葉だけが、頭の中で繰り返されていた。
通話。
繋がらない。
もう一度。
かすれた声。
届いているのかも分からない声。
アビドスに残された、古い救護室。
以前、ユメ先輩が「何かあった時のために」と頭を下げ、撤去されずに残してもらった医療機器。
棚には、ユメ先輩の字で書かれた古いメモが貼られていた。
緊急時は、画面の手順を見ること。
その丸い字を見た瞬間、ホシノはまた息が詰まった。
端末に表示された手順を追いながら、意味も分からないまま必死に動かした装置。
白い灯り。
警告音。
動かないヒバリ。
かすかな呼吸。
ホシノは何度も名前を呼んだ。声は途中からほとんど出なくなっていた。それでも呼んだ。呼ばなければ、ヒバリがそのままどこかへ行ってしまう気がした。
本当は、自分もまともに息ができていなかった。
喉は焼けつくように痛み、声はほとんど出ない。首に触れれば、そのたびに鋭い痛みが走る。
それでも、今は自分のことを気にしている場合ではなかった。
「起きて……」
言葉にならない声で言う。
「お願いだから、起きてよ……」
答えはなかった。
それでも、機械の音が鳴り始めた。
白い灯りがヒバリの顔を照らす。口元には補助装置が当てられ、細い身体にいくつもの管が繋がれていく。
ヒバリは目を覚まさない。
眠っているようにも見えない。
ただ、そこに繋ぎ止められているだけだった。
ホシノは、そこでようやくヒバリの首元をまともに見た。
赤黒い痕が残っていた。
ホシノは息を止める。
自分の首に手を当てる。
そこにも痛みが残っている。息を吸うたびに喉の奥が軋む。触れれば、焼けるように痛む。
しかし、同じではなかった。
ヒバリの首の痕は、ホシノの痛みよりもはるかに深く見えた。
ホシノは震える手で、ヒバリの手を握った。
冷たい。
だが、完全には冷えていない。
そのことだけに、ホシノは縋った。
「……ごめん」
何度目か分からない言葉が漏れる。
ユメ先輩にも言った。
ヒバリにも言った。
しかし、何度言っても何も戻らない。
ユメ先輩は帰ってこなかった。
ヒバリは目を覚まさない。
自分は何も守れなかった。
ユメ先輩に言われたことを思い出す。
ヒバリを守って。
あの声が、胸の奥でゆっくり沈んでいく。
守れていない。
何一つ。
ユメ先輩を止められなかった。
ヒバリが壊れるところまで、気づけなかった。
そのヒバリに、自分を殺しかけさせた。
そして今、ヒバリ自身まで失いかけている。
機械の音だけが、夜の救護室に残っていた。
ユメ先輩の搬送用ケースは、少し離れた場所にあった。
ホシノはヒバリの手を握り続けた。
握っていなければ、またどこかへ消えてしまう気がした。
眠れば、また何かを見逃してしまう気がした。
ユメ先輩が帰ってこなかった夜も、最初は待っていた。少し遅れているだけだと、自分に言い聞かせていた。朝になれば戻るかもしれないと、どこかで思っていた。
その結果が、これだった。
だから、目を閉じることができなかった。
目を閉じた瞬間に、機械の音が途切れるかもしれない。
握っている手が、少しずつ冷たくなるかもしれない。
そんなことを考え始めると、まばたきすら恐ろしくなった。
あの時、聞こえた声は何だったのだろう。
ホシノちゃん、と呼んだ声。
ユメ先輩の声。
本当に聞こえたのか、夢だったのか、もう分からない。
だが、もしあの声がなかったなら。
もし目を覚まさなかったなら。
ホシノは、きっと間に合わなかった。
「……ユメ先輩」
かすれた声で呟く。
返事はない。
それでも、ホシノはヒバリの手を離さなかった。
誰も帰ってこなかった夜に。
ホシノだけが、
目を閉じることを許されなかった。