アビドスに、もう一人の三年生がいた   作:ゴリさん39

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第33話 首の痕

 

「……シノちゃ……」

 

 声がした。

 

 遠かった。

 

 砂嵐の向こうから聞こえるように、途切れ途切れで掠れていたが、それでも聞き慣れた声だった。

 

「……ホシノちゃん!」

 

 今度は、はっきりと聞こえた。

 

 わずかに焦りを含んだ声。

 

 起きて、と促す声。

 

 ユメ先輩の声だった。

 

 ホシノは反射的に目を開けた。

 

「っ、ゲホッ……! げほっ、ごほ――ッ!」

 

 激しく咳き込む。

 

 喉が焼けつくように痛んだ。

 

「ッ……ひゅっ……はっ……!」

 

 空気がうまく入らない。

 

 息を吸うたび、喉の奥が細く潰れたように軋む。

 

 ひゅう、ひゅう、と、自分でも耳を塞ぎたくなるような音が漏れた。

 

 視界が滲む。

 

 床が冷たい。

 

 頭が重い。

 

 しばらく、自分がどこにいるのか理解できなかった。

 

 視界に入ったのは、暗い天井だった。割れた蛍光灯。古い染みの残る天井板。窓の外はすでに夜になっている。夕方に学校へ戻ってきたはずなのに、廊下も部屋も、すっかり暗く沈んでいた。

 

 そこに、ユメはいなかった。

 

 最初に強く戻ってきた感覚は、喉の痛みだった。

 

 首の奥だけではない。

 

 顎の下から鎖骨のあたりまで、鈍い熱が張りついている。飲み込もうとしても、喉が狭まったように引っかかる。息を吸うたびに、どこかが擦れているようだった。

 

 声を出そうとしても、音になる前に崩れた。

 

「……ぁ」

 

 自分の声ではないようだった。

 

 ホシノは反射的に首へ手を当てた。

 

 触れただけで痛みが走る。

 

 なぜ。

 

 どうして、こんな場所で倒れていたのだったか。

 

 周囲を見る。

 

 少し離れた場所に、ユメ先輩の搬送用ケースがあった。砂漠から学校まで持ち帰ってきたもの。二人で運んだもの。

 

 そこまでは思い出せる。

 

 砂漠。

 

 ユメ先輩。

 

 帰り道。

 

 生徒会室の前。

 

 謝った。

 

 ごめんなさい、と言った。

 

 ユメ先輩にも。

 

 ヒバリにも。

 

 そこで、記憶が一気に戻った。

 

 ヒバリの目。

 

 空虚で、何も映していない目。

 

 頬に触れた冷たい指。

 

 顔を上げさせられたこと。

 

 首元にかかった手。

 

 息が止まったこと。

 

 足が床から離れたこと。

 

 視界が白くなり、最後にヒバリの目だけが見えていたこと。

 

 思い出した瞬間、身体が冷えた。

 

 ヒバリに、首を絞められた。

 

 その事実が、遅れて胸の奥へ沈んでいく。

 

 だが、恐怖を覚えるより先に、ホシノは別のことに気づいた。

 

 ヒバリがいない。

 

「……ヒバリ」

 

 声はかすれ、ほとんど音にならなかった。

 

 返事はない。

 

 ホシノはもう一度周囲を見る。ユメ先輩の搬送用ケースはある。自分は生きている。しかし、ヒバリがいない。

 

 嫌な予感がした。

 

 あの目をしたヒバリが、自分を殺しかけた後にどこかへ行った。

 

 それだけで十分だった。

 

 探さなければならない。

 

 今すぐに。

 

 けれど、足を踏み出そうとして、ホシノは一度だけ振り返った。

 

 ユメ先輩の搬送用ケースが、暗い部屋の中にある。先ほどまで、あれを見失わないようにしていた。砂漠から帰る間も、学校へ運ぶ間も、ずっと。

 

 今、そこから離れようとしている。

 

 置いていくようだ、と思った。

 

 違う。

 

 置いていくのではない。

 

 ヒバリを探しに行くだけだ。

 

 そう自分に言い聞かせても、胸の奥は冷えたままだった。

 

 ユメ先輩には間に合わなかった。

 

 ヒバリにも間に合わなかったら。

 

 その先は、考えられなかった。

 

 ホシノは立ち上がろうとした。足に力が入らない。膝が一度崩れ、手を床につく。

 

 それでも、立った。

 

 廊下へ出ようとした時、ふと中庭側の窓の向こうに何かが見えた。

 

 向かいにある、いつもの生徒会室の窓。

 

 その奥に、人影があった。

 

 揺れている。

 

 最初は、誰かが立っているのだと思った。暗い教室の中で、窓際に誰かがいるのだと。

 

 しかし、すぐに違うと分かった。

 

 位置がおかしい。

 

 頭の高さが、ありえない場所にあった。

 

 足元が床についている高さではない。

 

 その瞬間、ホシノの中で何かが弾けた。

 

「ヒバリ……!」

 

 喉が裂けるように痛んだ。

 

 だが、そんなものはどうでもよかった。

 

 ホシノは走った。

 

 先ほどまで動かなかった足が、勝手に前へ出る。廊下の壁に肩がぶつかる。膝が笑う。視界の端が何度も暗くなる。

 

 それでも止まらなかった。

 

 ユメ先輩は、もう連れ戻せなかった。

 

 だから、ヒバリまで失うわけにはいかなかった。

 

 階段を駆け上がる。足を踏み外しそうになる。手すりにしがみつき、身体を引き上げる。視界が滲む。すべてどうでもよかった。

 

 生徒会室の扉は、少しだけ開いていた。

 

 風で開いたのかもしれない。

 

 そうであってほしかった。

 

 ホシノは扉を押し開けた。

 

 中に、ヒバリがいた。

 

 一瞬、何が起きているのか理解できなかった。

 

 次の瞬間、全身の血が引いた。

 

 ヒバリの身体が、かすかに揺れていた。

 

「ヒバリ!!」

 

 喉が潰れたような声が出た。

 

 ホシノは転がるように駆け寄った。痛みも、息苦しさも、足の震えも、すべて置き去りにする。

 

 ヒバリの身体を支える。

 

 軽い。

 

 あれほどの力で自分を持ち上げた身体が、今は信じられないほど軽く感じた。

 

 どこを支えればいいのか分からなかった。首元に触れるのが怖い。だが、支えなければ落ちてしまう。

 

 自分の首が、まだ痛んでいる。

 

 それでも、今はヒバリの首を守らなければならなかった。

 

「ヒバリ、ヒバリ!」

 

 名前を呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 しかし、かすかに動いた。

 

 ほんのわずかに。

 

 それだけだった。

 

 それだけで、ホシノは縋るように息を吸った。

 

 生きている。

 

 まだ、生きている。

 

 そこから先のことは、順番が曖昧だった。

 

 それでも、いくつかの感触だけは残っている。

 

 ヒバリの身体を床へ下ろした時の軽さ。

 

 呼吸を確かめようとして、自分の手が震えていたこと。

 

 端末を落とした。

 

 拾おうとしても、指先がうまく動かなかった。

 

 画面に砂がつき、何度も拭った。

 

 誰に連絡すればいいのか分からない。

 

 連邦生徒会など、今は思い浮かびもしない。

 

 助けを呼ばなければならない。

 

 しかし声が出ない。

 

 焦れば焦るほど喉が詰まる。助けて、と言いたいのに、音にならない。

 

 ヒバリの胸が、かすかに上下している。

 

 それだけを見て、ホシノは何度も息を吸った。

 

 まだ大丈夫。

 

 まだ間に合う。

 

 まだ。

 

 その言葉だけが、頭の中で繰り返されていた。

 

 通話。

 

 繋がらない。

 

 もう一度。

 

 かすれた声。

 

 届いているのかも分からない声。

 

 アビドスに残された、古い救護室。

 

 以前、ユメ先輩が「何かあった時のために」と頭を下げ、撤去されずに残してもらった医療機器。

 

 棚には、ユメ先輩の字で書かれた古いメモが貼られていた。

 

 緊急時は、画面の手順を見ること。

 

 その丸い字を見た瞬間、ホシノはまた息が詰まった。

 

 端末に表示された手順を追いながら、意味も分からないまま必死に動かした装置。

 

 白い灯り。

 

 警告音。

 

 動かないヒバリ。

 

 かすかな呼吸。

 

 ホシノは何度も名前を呼んだ。声は途中からほとんど出なくなっていた。それでも呼んだ。呼ばなければ、ヒバリがそのままどこかへ行ってしまう気がした。

 

 本当は、自分もまともに息ができていなかった。

 

 喉は焼けつくように痛み、声はほとんど出ない。首に触れれば、そのたびに鋭い痛みが走る。

 

 それでも、今は自分のことを気にしている場合ではなかった。

 

「起きて……」

 

 言葉にならない声で言う。

 

「お願いだから、起きてよ……」

 

 答えはなかった。

 

 それでも、機械の音が鳴り始めた。

 

 白い灯りがヒバリの顔を照らす。口元には補助装置が当てられ、細い身体にいくつもの管が繋がれていく。

 

 ヒバリは目を覚まさない。

 

 眠っているようにも見えない。

 

 ただ、そこに繋ぎ止められているだけだった。

 

 ホシノは、そこでようやくヒバリの首元をまともに見た。

 

 赤黒い痕が残っていた。

 

 ホシノは息を止める。

 

 自分の首に手を当てる。

 

 そこにも痛みが残っている。息を吸うたびに喉の奥が軋む。触れれば、焼けるように痛む。

 

 しかし、同じではなかった。

 

 ヒバリの首の痕は、ホシノの痛みよりもはるかに深く見えた。

 

 ホシノは震える手で、ヒバリの手を握った。

 

 冷たい。

 

 だが、完全には冷えていない。

 

 そのことだけに、ホシノは縋った。

 

「……ごめん」

 

 何度目か分からない言葉が漏れる。

 

 ユメ先輩にも言った。

 

 ヒバリにも言った。

 

 しかし、何度言っても何も戻らない。

 

 ユメ先輩は帰ってこなかった。

 

 ヒバリは目を覚まさない。

 

 自分は何も守れなかった。

 

 ユメ先輩に言われたことを思い出す。

 

 ヒバリを守って。

 

 あの声が、胸の奥でゆっくり沈んでいく。

 

 守れていない。

 

 何一つ。

 

 ユメ先輩を止められなかった。

 

 ヒバリが壊れるところまで、気づけなかった。

 

 そのヒバリに、自分を殺しかけさせた。

 

 そして今、ヒバリ自身まで失いかけている。

 

 機械の音だけが、夜の救護室に残っていた。

 

 ユメ先輩の搬送用ケースは、少し離れた場所にあった。

 

 ホシノはヒバリの手を握り続けた。

 

 握っていなければ、またどこかへ消えてしまう気がした。

 

 眠れば、また何かを見逃してしまう気がした。

 

 ユメ先輩が帰ってこなかった夜も、最初は待っていた。少し遅れているだけだと、自分に言い聞かせていた。朝になれば戻るかもしれないと、どこかで思っていた。

 

 その結果が、これだった。

 

 だから、目を閉じることができなかった。

 

 目を閉じた瞬間に、機械の音が途切れるかもしれない。

 

 握っている手が、少しずつ冷たくなるかもしれない。

 

 そんなことを考え始めると、まばたきすら恐ろしくなった。

 

 あの時、聞こえた声は何だったのだろう。

 

 ホシノちゃん、と呼んだ声。

 

 ユメ先輩の声。

 

 本当に聞こえたのか、夢だったのか、もう分からない。

 

 だが、もしあの声がなかったなら。

 

 もし目を覚まさなかったなら。

 

 ホシノは、きっと間に合わなかった。

 

「……ユメ先輩」

 

 かすれた声で呟く。

 

 返事はない。

 

 それでも、ホシノはヒバリの手を離さなかった。

 

 誰も帰ってこなかった夜に。

 

 ホシノだけが、

 目を閉じることを許されなかった。

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