夜明け前、救護室代わりに使われている教室には、機械の音だけが残っていた。
規則正しい音だった。
途切れそうで、途切れない音。
薄い灯りの中で、その音だけが、ヒバリがまだこちら側にいることを教えていた。
ヒバリはベッドの上で目を閉じていた。
眠っている、という言い方が正しいのかは分からない。呼んでも返事はない。口元には補助装置が当てられ、細い身体にはいくつもの管が繋がれている。
顔色は悪かった。
いつもなら、どれだけ疲れていても睨むくらいはしてきた。気に入らないことがあれば、すぐに噛みついてきた。黙っていても、そこにはちゃんとヒバリの意思があった。
今は、それがない。
ただ、機械の音に繋ぎ止められているだけだった。
ホシノは椅子に座ったまま、ヒバリの手を握っていた。
冷たい。
けれど、完全には冷えていない。
そのことだけに縋っていた。
「……ヒバリ」
名前を呼んでも、返事はない。
分かっている。
それでも呼んだ。
呼ばなければ、今度こそどこかへ行ってしまう気がした。
*
ヒバリを見つけたあと、ホシノは何度も端末を操作した。
連絡先を探す。
通話をかける。
声にならない声で助けを求める。
最初に繋がったのは、アビドスの外れで小さな診療所を続けている大人だった。
ユメ先輩が、何度か相談に行っていた人だった。ホシノも顔を知っている。ヒバリのことも、直接深く関わってはいなくても、アビドス高等学校の三人組として知っていた。
その人は、夜中にもかかわらず来てくれた。
必要な医療機器を持ち込み、足りないものは診療所から追加で運び込んだ。教室の一角が、臨時の処置室みたいになった。
ホシノは何度も謝った。
何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。
こんな時間に呼び出したこと。
お金をすぐに払えるか分からないこと。
アビドスがこんな状態であること。
ヒバリをこうなるまで止められなかったこと。
全部だった。
「すみません……お金は、必ず……」
そう言いかけた時、医者はホシノの言葉を手で止めた。
「今はその話じゃない」
静かな声だった。
「この子を助ける。お金の話は、その後でいい」
「でも、アビドスは……」
「知ってるよ」
医者は短く言った。
「知ってるから言ってる。少しずつでいい。返せる時に返しなさい」
ホシノは何も言えなくなった。
優しい言葉だった。
けれど、その優しさすら重かった。
「あんたたちが何もしてこなかったなら、こんなことは言わない」
医者は処置の手を止めずに続けた。
「ユメちゃんも、あんたも、ヒバリちゃんも、この街のために動いてた。それくらい、みんな知ってる」
その言葉を聞いた瞬間、ホシノは崩れそうになった。
ユメ先輩は、もういない。
ヒバリは、目を覚まさない。
それでも、誰かは覚えている。
三人で足掻いていたことを。
この街を、学校を、どうにか残そうとしていたことを。
それが、救いのようで。
罰のようでもあった。
「あんたも診る」
医者が言った。
ホシノは反射的に首を横に振ろうとして、痛みで顔をしかめた。
「私は、いいです」
「よくない」
短く返される。
ホシノはヒバリの手を離さなかった。離したら、そのままどこかへ行ってしまう気がした。
医者はそれ以上強くは言わなかった。ただ、ホシノの首元を見て、必要な確認だけを手早く済ませる。
「あとでちゃんと診る。今は喋らないこと。無理に声を出さない」
ホシノは小さく頷いた。
返事をする声も、もうほとんど残っていなかった。
*
夜が薄くなり始めた頃、医者はようやく大きく息を吐いた。
「命は繋がった」
その言葉に、ホシノは顔を上げた。
けれど、医者の表情は明るくなかった。
「ただ、かなり危ない状態なのは変わらない。しばらくは装置が必要だ。すぐに目を覚ますとは思わない方がいい」
「……どれくらい」
「分からない」
分からない。
その言葉は、もう聞き慣れていた。
ユメ先輩を探していた間も、何度も聞いた。
見たかもしれない。
知らない。
分からない。
確認できない。
今度は、ヒバリだった。
生きている。
でも、目を覚ますか分からない。
助かった。
そう言っていいのか、ホシノには分からなかった。
ヒバリは生きている。
でも、目を開けない。
自分の手を握り返してもくれない。
それは、本当に助かったと言えるのだろうか。
ホシノは、ベッドの上のヒバリを見る。
首元には、赤黒い痕が残っていた。
見ているだけで、喉が詰まる。
自分の首もまだ痛む。息を吸うたび、奥が軋む。
でも、そんなものとは比べものにならなかった。
あの痕は、自分が間に合わなかった時間の形に見えた。
*
少しして、ホシノは教室を出た。
ユメ先輩の搬送用ケースは、別の部屋に移してあった。
静かだった。
ホシノはその前に立つ。
言葉は出なかった。
昨日から、何度も謝った。砂漠で謝った。学校に戻って謝った。ヒバリに向かっても謝った。
でも、何度言っても足りなかった。
足りないのに、もう言葉が残っていなかった。
ごめんなさい。
その一言さえ、今は喉に引っかかる。
ホシノは搬送用ケースの前で立ち尽くした。
ユメ先輩の声が、頭の中で戻ってくる。
ヒバリを守って。
守れなかった。
ホシノは目を伏せる。
ユメ先輩も守れなかった。
ヒバリも守れなかった。
守ると約束したものが、指の間から全部こぼれていく。
それでも、まだ立っている。
立っていなければならない。
それが、ひどく苦しかった。
*
教室に戻る途中、ホシノは足を止めた。
ヒバリを見つけた生徒会室。
扉は開いたままだった。
中には、夜の名残が残っている。倒れた椅子。ずれた机。床に散った埃。窓から差し込む薄い朝の光。
その床に、赤いものが落ちていた。
最初は、血かと思った。
息が止まる。
けれど、違った。
ホシノはゆっくり近づき、それを拾い上げる。
マフラーだった。
赤いマフラー。
砂と埃がついている。端が少し擦れている。それでも、見間違えようがなかった。
ユメ先輩が、ヒバリに渡したものだった。
青と赤。
ホシノには青。
ヒバリには赤。
あの日の声が、ほんの一瞬だけ戻る。
『色違いだよ。ホシノちゃんは青。ヒバリは赤ね』
『ペアルックみたいで嫌なんですけど』
『えー、いいじゃん。かわいいよ?』
『かわいくない』
ユメ先輩は笑っていた。
ヒバリは素直に赤を巻いていた。
ホシノは少し恥ずかしくて、でも完全には嫌ではなくて、だから余計に腹が立っていた。
そんな日があった。
確かにあった。
ホシノは無意識に、自分の首元へ手を伸ばした。
そこには、何も巻けなかった。
青いマフラーを巻くには痛すぎて、何より、今の自分がそれを巻いていいのかも分からなかった。
ホシノは赤いマフラーの砂を払った。手が震える。どう畳めばいいのか分からない。ユメ先輩なら、もっと綺麗に畳んだだろう。
「……下手で、ごめん」
誰に向けた謝罪なのか、また分からなかった。
*
ホシノは赤いマフラーを持って、ヒバリのいる部屋へ戻った。
機械の音は続いている。
ヒバリは目を覚まさない。
枕元に立ち、しばらくマフラーを見下ろす。
そして、首に巻こうとして、手が止まった。
そこには、痕があった。
触れていい場所ではない気がした。
隠してしまえば、少しは見えなくなるかもしれない。けれど今それをするのは、何かをなかったことにするみたいで、できなかった。
ホシノは赤いマフラーを畳み、ヒバリの枕元へ置いた。
首の傷を隠すには、まだ早かった。
何もなかったことにするには、遅すぎた。
赤いマフラーは、ただそこにあるだけだった。
ユメ先輩が残したものとして。
ヒバリがまだここにいる証拠として。
ホシノが何も守れなかったことの印として。
青と赤。
あの時は、ただの色違いだと思っていた。
少し恥ずかしくて、少し面倒で、少しだけ嬉しかった。
今は、どちらも重かった。
*
朝日が、割れた窓から差し込み始める。
医者は一度診療所へ戻ると言った。必要な機器は置いていく。何かあればすぐ連絡しろとも言ってくれた。
ホシノは何度も頭を下げた。
医者は、最後に少しだけ困ったように笑った。
「倒れる前に寝なさい」
ホシノは返事をしなかった。
寝られる気がしなかった。
医者が出ていったあと、教室にはまた機械の音だけが残る。
ホシノは椅子に座り、ヒバリの手を握った。
守る。
そう言うには、遅すぎた。
だから、ただ握る。
今のホシノにできることは、それだけだった。
ヒバリは目を覚まさない。
ユメ先輩は戻らない。
赤いマフラーは、ヒバリの枕元で静かに畳まれている。
ホシノはそれを見つめたまま、目を閉じなかった。
夜明けの教室に、
機械の音だけが続いていた。
赤いマフラーだけが、
朝の光を受けていた。