アビドスに、もう一人の三年生がいた   作:ゴリさん39

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第34話 赤いマフラー

 

 夜明け前、救護室代わりに使われている教室には、機械の音だけが残っていた。

 

 規則正しい音だった。

 途切れそうで、途切れない音。

 薄い灯りの中で、その音だけが、ヒバリがまだこちら側にいることを教えていた。

 

 ヒバリはベッドの上で目を閉じていた。

 

 眠っている、という言い方が正しいのかは分からない。呼んでも返事はない。口元には補助装置が当てられ、細い身体にはいくつもの管が繋がれている。

 

 顔色は悪かった。

 

 いつもなら、どれだけ疲れていても睨むくらいはしてきた。気に入らないことがあれば、すぐに噛みついてきた。黙っていても、そこにはちゃんとヒバリの意思があった。

 

 今は、それがない。

 

 ただ、機械の音に繋ぎ止められているだけだった。

 

 ホシノは椅子に座ったまま、ヒバリの手を握っていた。

 

 冷たい。

 

 けれど、完全には冷えていない。

 

 そのことだけに縋っていた。

 

「……ヒバリ」

 

 名前を呼んでも、返事はない。

 

 分かっている。

 

 それでも呼んだ。

 

 呼ばなければ、今度こそどこかへ行ってしまう気がした。

 

     *

 

 ヒバリを見つけたあと、ホシノは何度も端末を操作した。

 

 連絡先を探す。

 通話をかける。

 声にならない声で助けを求める。

 

 最初に繋がったのは、アビドスの外れで小さな診療所を続けている大人だった。

 

 ユメ先輩が、何度か相談に行っていた人だった。ホシノも顔を知っている。ヒバリのことも、直接深く関わってはいなくても、アビドス高等学校の三人組として知っていた。

 

 その人は、夜中にもかかわらず来てくれた。

 

 必要な医療機器を持ち込み、足りないものは診療所から追加で運び込んだ。教室の一角が、臨時の処置室みたいになった。

 

 ホシノは何度も謝った。

 

 何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。

 

 こんな時間に呼び出したこと。

 お金をすぐに払えるか分からないこと。

 アビドスがこんな状態であること。

 ヒバリをこうなるまで止められなかったこと。

 

 全部だった。

 

「すみません……お金は、必ず……」

 

 そう言いかけた時、医者はホシノの言葉を手で止めた。

 

「今はその話じゃない」

 

 静かな声だった。

 

「この子を助ける。お金の話は、その後でいい」

 

「でも、アビドスは……」

 

「知ってるよ」

 

 医者は短く言った。

 

「知ってるから言ってる。少しずつでいい。返せる時に返しなさい」

 

 ホシノは何も言えなくなった。

 

 優しい言葉だった。

 

 けれど、その優しさすら重かった。

 

「あんたたちが何もしてこなかったなら、こんなことは言わない」

 

 医者は処置の手を止めずに続けた。

 

「ユメちゃんも、あんたも、ヒバリちゃんも、この街のために動いてた。それくらい、みんな知ってる」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ホシノは崩れそうになった。

 

 ユメ先輩は、もういない。

 

 ヒバリは、目を覚まさない。

 

 それでも、誰かは覚えている。

 

 三人で足掻いていたことを。

 この街を、学校を、どうにか残そうとしていたことを。

 

 それが、救いのようで。

 

 罰のようでもあった。

 

「あんたも診る」

 

 医者が言った。

 

 ホシノは反射的に首を横に振ろうとして、痛みで顔をしかめた。

 

「私は、いいです」

 

「よくない」

 

 短く返される。

 

 ホシノはヒバリの手を離さなかった。離したら、そのままどこかへ行ってしまう気がした。

 

 医者はそれ以上強くは言わなかった。ただ、ホシノの首元を見て、必要な確認だけを手早く済ませる。

 

「あとでちゃんと診る。今は喋らないこと。無理に声を出さない」

 

 ホシノは小さく頷いた。

 

 返事をする声も、もうほとんど残っていなかった。

 

     *

 

 夜が薄くなり始めた頃、医者はようやく大きく息を吐いた。

 

「命は繋がった」

 

 その言葉に、ホシノは顔を上げた。

 

 けれど、医者の表情は明るくなかった。

 

「ただ、かなり危ない状態なのは変わらない。しばらくは装置が必要だ。すぐに目を覚ますとは思わない方がいい」

 

「……どれくらい」

 

「分からない」

 

 分からない。

 

 その言葉は、もう聞き慣れていた。

 

 ユメ先輩を探していた間も、何度も聞いた。

 

 見たかもしれない。

 知らない。

 分からない。

 確認できない。

 

 今度は、ヒバリだった。

 

 生きている。

 

 でも、目を覚ますか分からない。

 

 助かった。

 

 そう言っていいのか、ホシノには分からなかった。

 

 ヒバリは生きている。

 でも、目を開けない。

 自分の手を握り返してもくれない。

 

 それは、本当に助かったと言えるのだろうか。

 

 ホシノは、ベッドの上のヒバリを見る。

 

 首元には、赤黒い痕が残っていた。

 

 見ているだけで、喉が詰まる。

 

 自分の首もまだ痛む。息を吸うたび、奥が軋む。

 でも、そんなものとは比べものにならなかった。

 

 あの痕は、自分が間に合わなかった時間の形に見えた。

 

     *

 

 少しして、ホシノは教室を出た。

 

 ユメ先輩の搬送用ケースは、別の部屋に移してあった。

 静かだった。

 

 ホシノはその前に立つ。

 

 言葉は出なかった。

 

 昨日から、何度も謝った。砂漠で謝った。学校に戻って謝った。ヒバリに向かっても謝った。

 

 でも、何度言っても足りなかった。

 

 足りないのに、もう言葉が残っていなかった。

 

 ごめんなさい。

 

 その一言さえ、今は喉に引っかかる。

 

 ホシノは搬送用ケースの前で立ち尽くした。

 

 ユメ先輩の声が、頭の中で戻ってくる。

 

 ヒバリを守って。

 

 守れなかった。

 

 ホシノは目を伏せる。

 

 ユメ先輩も守れなかった。

 ヒバリも守れなかった。

 

 守ると約束したものが、指の間から全部こぼれていく。

 

 それでも、まだ立っている。

 

 立っていなければならない。

 

 それが、ひどく苦しかった。

 

     *

 

 教室に戻る途中、ホシノは足を止めた。

 

 ヒバリを見つけた生徒会室。

 

 扉は開いたままだった。

 

 中には、夜の名残が残っている。倒れた椅子。ずれた机。床に散った埃。窓から差し込む薄い朝の光。

 

 その床に、赤いものが落ちていた。

 

 最初は、血かと思った。

 

 息が止まる。

 

 けれど、違った。

 

 ホシノはゆっくり近づき、それを拾い上げる。

 

 マフラーだった。

 

 赤いマフラー。

 

 砂と埃がついている。端が少し擦れている。それでも、見間違えようがなかった。

 

 ユメ先輩が、ヒバリに渡したものだった。

 

 青と赤。

 

 ホシノには青。

 ヒバリには赤。

 

 あの日の声が、ほんの一瞬だけ戻る。

 

『色違いだよ。ホシノちゃんは青。ヒバリは赤ね』

 

『ペアルックみたいで嫌なんですけど』

 

『えー、いいじゃん。かわいいよ?』

 

『かわいくない』

 

 ユメ先輩は笑っていた。

 

 ヒバリは素直に赤を巻いていた。

 

 ホシノは少し恥ずかしくて、でも完全には嫌ではなくて、だから余計に腹が立っていた。

 

 そんな日があった。

 

 確かにあった。

 

 ホシノは無意識に、自分の首元へ手を伸ばした。

 

 そこには、何も巻けなかった。

 

 青いマフラーを巻くには痛すぎて、何より、今の自分がそれを巻いていいのかも分からなかった。

 

 ホシノは赤いマフラーの砂を払った。手が震える。どう畳めばいいのか分からない。ユメ先輩なら、もっと綺麗に畳んだだろう。

 

「……下手で、ごめん」

 

 誰に向けた謝罪なのか、また分からなかった。

 

     *

 

 ホシノは赤いマフラーを持って、ヒバリのいる部屋へ戻った。

 

 機械の音は続いている。

 

 ヒバリは目を覚まさない。

 

 枕元に立ち、しばらくマフラーを見下ろす。

 

 そして、首に巻こうとして、手が止まった。

 

 そこには、痕があった。

 

 触れていい場所ではない気がした。

 

 隠してしまえば、少しは見えなくなるかもしれない。けれど今それをするのは、何かをなかったことにするみたいで、できなかった。

 

 ホシノは赤いマフラーを畳み、ヒバリの枕元へ置いた。

 

 首の傷を隠すには、まだ早かった。

 

 何もなかったことにするには、遅すぎた。

 

 赤いマフラーは、ただそこにあるだけだった。

 

 ユメ先輩が残したものとして。

 ヒバリがまだここにいる証拠として。

 ホシノが何も守れなかったことの印として。

 

 青と赤。

 

 あの時は、ただの色違いだと思っていた。

 

 少し恥ずかしくて、少し面倒で、少しだけ嬉しかった。

 

 今は、どちらも重かった。

 

     *

 

 朝日が、割れた窓から差し込み始める。

 

 医者は一度診療所へ戻ると言った。必要な機器は置いていく。何かあればすぐ連絡しろとも言ってくれた。

 

 ホシノは何度も頭を下げた。

 

 医者は、最後に少しだけ困ったように笑った。

 

「倒れる前に寝なさい」

 

 ホシノは返事をしなかった。

 

 寝られる気がしなかった。

 

 医者が出ていったあと、教室にはまた機械の音だけが残る。

 

 ホシノは椅子に座り、ヒバリの手を握った。

 

 守る。

 

 そう言うには、遅すぎた。

 

 だから、ただ握る。

 

 今のホシノにできることは、それだけだった。

 

 ヒバリは目を覚まさない。

 

 ユメ先輩は戻らない。

 

 赤いマフラーは、ヒバリの枕元で静かに畳まれている。

 

 ホシノはそれを見つめたまま、目を閉じなかった。

 

 夜明けの教室に、

 機械の音だけが続いていた。

 

 赤いマフラーだけが、

 朝の光を受けていた。

 

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