アビドスに、もう一人の三年生がいた   作:ゴリさん39

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第35話 眠る場所

 

 ヒバリは、目を覚まさなかった。

 

 一日経っても。

 

 三日経っても。

 

 一週間経っても。

 

 機械の音だけが、毎朝同じように続いていた。

 

 アビドス高等学校の一室は、いつの間にか病室のようになっていた。教室の机は隅に寄せられ、代わりにベッドと機械が置かれている。窓には薄いカーテンがかけられ、砂が入り込まないように隙間には布が詰められていた。

 

 その真ん中で、ヒバリは眠っている。

 

 口元には補助装置。

 

 細い腕には管。

 

 枕元には、畳まれた赤いマフラー。

 

 首元の痕は、まだ消えない。

 

 ホシノは毎朝、最初にその音を確認するようになった。

 

 機械の音がしている。

 

 ヒバリはまだ生きている。

 

 それだけを確認してから、一日が始まる。

 

 生きている。

 

 でも、戻ってきたわけではなかった。

 

     *

 

 ヒバリが倒れてから、学校の中のいろいろなものが止まり始めた。

 

 最初に止まったのは、備蓄の補充だった。

 

 いつもなら、足りなくなる前に少しずつ届いていた水や保存食が来なくなった。校舎の補修に使う資材も、予定より遅れるようになった。小さな修理を頼んでいた業者からは、しばらく対応できないという連絡が入った。

 

 理由は、だいたい同じだった。

 

「梔子さんと連絡が取れないなら、今回は見送らせてもらいます」

 

「支払いが安定しないと、これ以上は難しいです」

 

「申し訳ありませんが、こちらも余裕がなくて」

 

 ホシノはそのたびに、端末の画面を見つめた。

 

 ヒバリがどれだけ外で繋いでいたのか、倒れてから知った。

 

 備蓄。

 

 修理。

 

 取引先。

 

 住民との連絡。

 

 危ない相手への牽制。

 

 ホシノが知らなかった場所で、ヒバリは学校を支えていた。

 

 それが全部、少しずつ切れていく。

 

 怒る気力はなかった。

 

 責める相手もいなかった。

 

 ただ、足りないものだけが増えていった。

 

     *

 

 机の上には、請求書が並んでいる。

 

 借金の返済予定。

 

 校舎の補修費。

 

 水と食料の補充。

 

 電力維持費。

 

 ヒバリの治療費。

 

 生命維持装置の維持費。

 

 何度計算しても、数字は合わなかった。

 

 足りない。

 

 何度やり直しても、その結論だけは変わらない。

 

 どれかを削れば、どれかが壊れる。

 

 校舎の修理を後回しにすれば、次の砂嵐で窓が持たないかもしれない。

 

 備蓄を削れば、学校に残ること自体が難しくなる。

 

 治療費を遅らせれば、ヒバリの機械を維持できない。

 

 借金の返済を止めれば、カイザーがまた隙を見つける。

 

「……無理じゃん」

 

 ホシノは小さく呟いた。

 

 でも、無理でもやるしかなかった。

 

 ユメ先輩はいない。

 

 ヒバリは目を覚まさない。

 

 今ここで動けるのは、自分だけだった。

 

     *

 

 いつからか、ホシノは青いマフラーを毎日巻くようになった。

 

 最初は、首の痕を隠すためだった。

 

 息を吸うたびに痛むそこを、誰かに見られたくなかった。鏡を見るたび、ヒバリの手を思い出した。空っぽの目を思い出した。あの時、自分が抵抗しなかったことまで思い出した。

 

 でも、それだけではなかった。

 

 ユメ先輩がくれたもの。

 

 ヒバリの赤と並んでいたもの。

 

 赤はヒバリの枕元にある。

 

 青はホシノの首元にある。

 

 それだけで、二人ともまだここにいる気がした。

 

 だから、ホシノは毎朝それを巻いた。

 

 少しだけ息苦しい。

 

 けれど、外す方がもっと苦しかった。

 

     *

 

 朝、機械の音を確認する。

 

 昼、仕事へ行く。

 

 夕方、学校へ戻る。

 

 夜、帳簿を見る。

 

 それが、ホシノの日課になった。

 

 仕事は選べなかった。荷運び。修理の手伝い。簡単な護衛。砂に埋もれた道具の回収。外縁の見回り。危なくない仕事だけを選ぶ余裕は、もうなかった。

 

 それでも、戻る場所は学校だった。

 

 夕方になると、ホシノは埃まみれのまま校舎へ帰ってくる。最初にヒバリの部屋へ行き、機械の音を聞く。赤いマフラーが枕元にあるのを確認する。ヒバリの顔色を見る。

 

 変わらない。

 

 昨日と同じ。

 

 そのことに安心して、同じだけ苦しくなる。

 

 診療所の医者は、何度も言った。

 

「無理に全部払おうとしなくていい」

 

「でも、払わないわけにはいかないです」

 

「今は倒れないことを考えなさい」

 

「倒れてる暇はないので」

 

 そう返すと、医者は困ったような顔をした。

 

「あんたまで倒れたら、この子を見る人間がいなくなる」

 

 それは脅しではなかった。

 

 ただの事実だった。

 

 ホシノは何も返せなかった。

 

 優しい人だった。

 

 だからこそ、返さなければならなかった。

 

 少しずつでいいと言われた。

 

 でも、少しずつでも返すには、働くしかない。

 

 善意は、軽くなかった。

 

 ホシノには、むしろ重かった。

 

     *

 

 夜になると、学校は静かになる。

 

 昔から賑やかな学校ではなかった。けれど今の静けさは、前とは違う。ユメ先輩の声がない。ヒバリの足音もない。言い合いもない。誰かが机を叩く音も、廊下で呼び合う声もない。

 

 ただ、機械の音だけがある。

 

 ホシノは毎晩、ヒバリのベッド脇の椅子に座った。

 

 自分の部屋に戻って眠ることもできた。そうした方が体にはいい。それくらい分かっている。

 

 でも、できなかった。

 

 離れたら、また消えてしまう気がした。

 

 だから、ヒバリの手を握る。

 

 細い手。

 

 冷たいけれど、まだ温度の残っている手。

 

 この手を握っていれば、少なくとも今夜はどこにも行かない。

 

 そう思えた。

 

 ホシノは椅子に座ったまま、ベッドの端にうつ伏せになる。身体は痛い。背中も首も限界だった。けれど、横になって眠るよりはずっとましだった。

 

 眠る場所は、いつの間にかここになっていた。

 

 ヒバリの横。

 

 機械の音が聞こえる場所。

 

 赤いマフラーが見える場所。

 

     *

 

 眠る前、よくユメ先輩の声を思い出す。

 

 ヒバリを守って。

 

 あの言葉だけが、何度も戻ってくる。

 

 守れていない。

 

 何一つ。

 

 ユメ先輩を止められなかった。

 

 ヒバリが壊れるところまで、気づけなかった。

 

 借金は減らない。校舎は傷んでいく。備蓄は細っていく。取引先は離れていく。治療費は増えていく。

 

 それでも、毎日は来る。

 

 昨日が終わっても、今日が来る。

 

 今日が終わっても、明日が来る。

 

 終わってくれない。

 

「……ねえ、ユメ先輩」

 

 ホシノは、誰もいない部屋で呟いた。

 

「私たち、あそこで終わった方がまだ良かったのかな」

 

 言ってから、息が止まる。

 

 言ってはいけないことだった。

 

 でも、思ってしまった。

 

 ユメ先輩を見つけた砂漠で。

 

 ヒバリに首を掴まれたあの瞬間に。

 

 自分たちも、全部終わっていた方が、まだよかったのではないか。

 

 そんな考えが、夜になるたびに胸の奥から浮いてくる。

 

 ホシノはヒバリの手を強く握った。

 

「……ごめん」

 

 何に謝っているのかは、もう分からなかった。

 

 ただ、謝るしかなかった。

 

 ヒバリから返事はない。

 

 機械の音だけが返ってくる。

 

     *

 

 朝は、必ず来た。

 

 どれだけ眠れなくても。

 

 どれだけ昨日が終わらなくても。

 

 窓の外は白くなり、砂が流れ、学校はまた一日を始める。

 

 ホシノは重い身体を起こす。

 

 ヒバリの手を離す前に、機械の音を確認する。

 

 鳴っている。

 

 今日も、まだ繋がっている。

 

「……行ってくるね」

 

 返事はない。

 

 それでもホシノは、毎朝そう言うようになった。

 

 机には、昨日片づけきれなかった請求書がある。

 

 端末には、新しい仕事の連絡が入っている。

 

 借金はある。

 

 治療費もある。

 

 学校も、まだ残っている。

 

 だから動く。

 

 動くしかない。

 

 明日も仕事がある。

 

 明日も借金がある。

 

 明日も治療費がある。

 

 明日も、学校は終わってくれない。

 

 そして夜になると、ホシノはまたヒバリの手を握った。

 

 椅子に座り、ベッドの端にうつ伏せになる。

 

 眠るというより、限界が来て落ちるだけだった。

 

 赤いマフラーは、枕元に置かれたまま。

 

 青いマフラーは、ホシノの首元にある。

 

 ヒバリから返事はない。

 

 機械の音だけが、夜の病室代わりの教室に続いていた。

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