ヒバリは、目を覚まさなかった。
一日経っても。
三日経っても。
一週間経っても。
機械の音だけが、毎朝同じように続いていた。
アビドス高等学校の一室は、いつの間にか病室のようになっていた。教室の机は隅に寄せられ、代わりにベッドと機械が置かれている。窓には薄いカーテンがかけられ、砂が入り込まないように隙間には布が詰められていた。
その真ん中で、ヒバリは眠っている。
口元には補助装置。
細い腕には管。
枕元には、畳まれた赤いマフラー。
首元の痕は、まだ消えない。
ホシノは毎朝、最初にその音を確認するようになった。
機械の音がしている。
ヒバリはまだ生きている。
それだけを確認してから、一日が始まる。
生きている。
でも、戻ってきたわけではなかった。
*
ヒバリが倒れてから、学校の中のいろいろなものが止まり始めた。
最初に止まったのは、備蓄の補充だった。
いつもなら、足りなくなる前に少しずつ届いていた水や保存食が来なくなった。校舎の補修に使う資材も、予定より遅れるようになった。小さな修理を頼んでいた業者からは、しばらく対応できないという連絡が入った。
理由は、だいたい同じだった。
「梔子さんと連絡が取れないなら、今回は見送らせてもらいます」
「支払いが安定しないと、これ以上は難しいです」
「申し訳ありませんが、こちらも余裕がなくて」
ホシノはそのたびに、端末の画面を見つめた。
ヒバリがどれだけ外で繋いでいたのか、倒れてから知った。
備蓄。
修理。
取引先。
住民との連絡。
危ない相手への牽制。
ホシノが知らなかった場所で、ヒバリは学校を支えていた。
それが全部、少しずつ切れていく。
怒る気力はなかった。
責める相手もいなかった。
ただ、足りないものだけが増えていった。
*
机の上には、請求書が並んでいる。
借金の返済予定。
校舎の補修費。
水と食料の補充。
電力維持費。
ヒバリの治療費。
生命維持装置の維持費。
何度計算しても、数字は合わなかった。
足りない。
何度やり直しても、その結論だけは変わらない。
どれかを削れば、どれかが壊れる。
校舎の修理を後回しにすれば、次の砂嵐で窓が持たないかもしれない。
備蓄を削れば、学校に残ること自体が難しくなる。
治療費を遅らせれば、ヒバリの機械を維持できない。
借金の返済を止めれば、カイザーがまた隙を見つける。
「……無理じゃん」
ホシノは小さく呟いた。
でも、無理でもやるしかなかった。
ユメ先輩はいない。
ヒバリは目を覚まさない。
今ここで動けるのは、自分だけだった。
*
いつからか、ホシノは青いマフラーを毎日巻くようになった。
最初は、首の痕を隠すためだった。
息を吸うたびに痛むそこを、誰かに見られたくなかった。鏡を見るたび、ヒバリの手を思い出した。空っぽの目を思い出した。あの時、自分が抵抗しなかったことまで思い出した。
でも、それだけではなかった。
ユメ先輩がくれたもの。
ヒバリの赤と並んでいたもの。
赤はヒバリの枕元にある。
青はホシノの首元にある。
それだけで、二人ともまだここにいる気がした。
だから、ホシノは毎朝それを巻いた。
少しだけ息苦しい。
けれど、外す方がもっと苦しかった。
*
朝、機械の音を確認する。
昼、仕事へ行く。
夕方、学校へ戻る。
夜、帳簿を見る。
それが、ホシノの日課になった。
仕事は選べなかった。荷運び。修理の手伝い。簡単な護衛。砂に埋もれた道具の回収。外縁の見回り。危なくない仕事だけを選ぶ余裕は、もうなかった。
それでも、戻る場所は学校だった。
夕方になると、ホシノは埃まみれのまま校舎へ帰ってくる。最初にヒバリの部屋へ行き、機械の音を聞く。赤いマフラーが枕元にあるのを確認する。ヒバリの顔色を見る。
変わらない。
昨日と同じ。
そのことに安心して、同じだけ苦しくなる。
診療所の医者は、何度も言った。
「無理に全部払おうとしなくていい」
「でも、払わないわけにはいかないです」
「今は倒れないことを考えなさい」
「倒れてる暇はないので」
そう返すと、医者は困ったような顔をした。
「あんたまで倒れたら、この子を見る人間がいなくなる」
それは脅しではなかった。
ただの事実だった。
ホシノは何も返せなかった。
優しい人だった。
だからこそ、返さなければならなかった。
少しずつでいいと言われた。
でも、少しずつでも返すには、働くしかない。
善意は、軽くなかった。
ホシノには、むしろ重かった。
*
夜になると、学校は静かになる。
昔から賑やかな学校ではなかった。けれど今の静けさは、前とは違う。ユメ先輩の声がない。ヒバリの足音もない。言い合いもない。誰かが机を叩く音も、廊下で呼び合う声もない。
ただ、機械の音だけがある。
ホシノは毎晩、ヒバリのベッド脇の椅子に座った。
自分の部屋に戻って眠ることもできた。そうした方が体にはいい。それくらい分かっている。
でも、できなかった。
離れたら、また消えてしまう気がした。
だから、ヒバリの手を握る。
細い手。
冷たいけれど、まだ温度の残っている手。
この手を握っていれば、少なくとも今夜はどこにも行かない。
そう思えた。
ホシノは椅子に座ったまま、ベッドの端にうつ伏せになる。身体は痛い。背中も首も限界だった。けれど、横になって眠るよりはずっとましだった。
眠る場所は、いつの間にかここになっていた。
ヒバリの横。
機械の音が聞こえる場所。
赤いマフラーが見える場所。
*
眠る前、よくユメ先輩の声を思い出す。
ヒバリを守って。
あの言葉だけが、何度も戻ってくる。
守れていない。
何一つ。
ユメ先輩を止められなかった。
ヒバリが壊れるところまで、気づけなかった。
借金は減らない。校舎は傷んでいく。備蓄は細っていく。取引先は離れていく。治療費は増えていく。
それでも、毎日は来る。
昨日が終わっても、今日が来る。
今日が終わっても、明日が来る。
終わってくれない。
「……ねえ、ユメ先輩」
ホシノは、誰もいない部屋で呟いた。
「私たち、あそこで終わった方がまだ良かったのかな」
言ってから、息が止まる。
言ってはいけないことだった。
でも、思ってしまった。
ユメ先輩を見つけた砂漠で。
ヒバリに首を掴まれたあの瞬間に。
自分たちも、全部終わっていた方が、まだよかったのではないか。
そんな考えが、夜になるたびに胸の奥から浮いてくる。
ホシノはヒバリの手を強く握った。
「……ごめん」
何に謝っているのかは、もう分からなかった。
ただ、謝るしかなかった。
ヒバリから返事はない。
機械の音だけが返ってくる。
*
朝は、必ず来た。
どれだけ眠れなくても。
どれだけ昨日が終わらなくても。
窓の外は白くなり、砂が流れ、学校はまた一日を始める。
ホシノは重い身体を起こす。
ヒバリの手を離す前に、機械の音を確認する。
鳴っている。
今日も、まだ繋がっている。
「……行ってくるね」
返事はない。
それでもホシノは、毎朝そう言うようになった。
机には、昨日片づけきれなかった請求書がある。
端末には、新しい仕事の連絡が入っている。
借金はある。
治療費もある。
学校も、まだ残っている。
だから動く。
動くしかない。
明日も仕事がある。
明日も借金がある。
明日も治療費がある。
明日も、学校は終わってくれない。
そして夜になると、ホシノはまたヒバリの手を握った。
椅子に座り、ベッドの端にうつ伏せになる。
眠るというより、限界が来て落ちるだけだった。
赤いマフラーは、枕元に置かれたまま。
青いマフラーは、ホシノの首元にある。
ヒバリから返事はない。
機械の音だけが、夜の病室代わりの教室に続いていた。