アビドスに、もう一人の三年生がいた   作:ゴリさん39

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第36話 目覚め

 

 ヒバリは、ずっと夢を見ていた。

 

 アビドス高等学校の生徒会室。

 

 窓枠は少し歪み、風が吹くたびに細く鳴る。

 机は古く、椅子は軋む。

 床には砂が入り込み、掃いても掃いてもどこかに残る。

 

 それでも、夢の中の部屋は明るかった。

 

「ヒバリ、そっちの資料取って!」

 

 ユメが机の向こうから手を伸ばす。

 

「自分で取れ、姉さん」

 

「えー、遠いんだもん」

 

「一歩動け」

 

「ヒバリが取ってくれた方が早いよ」

 

 悪びれもなく笑うユメに、ヒバリはため息をついた。文句を言いながらも資料を取って渡す。

 

 その横で、ホシノが箱を抱えていた。

 

「これ、どこ置けばいいんですか」

 

「そこの棚かな」

 

「入らないんですけど」

 

「じゃあ入るようにして!」

 

「無茶言わないで下さい」

 

 ホシノは昔の姿だった。

 

 髪は今より短く、目つきは少し尖っていて、何かあるたびにすぐ文句を言う。けれど、その声にはまだ今ほどの疲れはない。苛立ちも、諦めも、くたびれた笑いもない。

 

 ユメが笑う。

 

 ホシノが文句を言う。

 

 ヒバリが呆れる。

 

 それだけの夢だった。

 

 ただ、三人でアビドス生徒会として動いているだけの夢。

 

 借金はある。校舎は古い。砂は入ってくる。やらなければいけないことは山ほどある。

 

 それでも、ユメがいる。

 

 ホシノがいる。

 

 自分もいる。

 

 それだけで、夢の中のアビドスは壊れていなかった。

 

     *

 

 最初に光が見えたのは、いつだったのか分からない。

 

 視界の端に、うっすらと白いものがあった。

 

 最初は窓から差し込む日差しだと思った。砂漠の照り返しが、部屋の隅に映っているだけだと思った。

 

 けれど、違った。

 

 その光は、日が変わるたびに強くなっていった。

 

 夢の中で何日が過ぎたのかは分からない。

 

 ユメが資料をまとめている日もあった。

 ホシノが修理道具を抱えて文句を言っている日もあった。

 ヒバリが外から戻り、ユメに「遅い」と怒られる日もあった。

 

 そのたびに、視界の端の光は少しずつ広がっていく。

 

 最初は部屋の隅だけだった。

 

 次は窓の外が白くなった。

 

 その次は、机の端がぼやけた。

 

 ユメの声が、少し遠くなった。

 

 ホシノの輪郭が、少し薄くなった。

 

 ヒバリは気づいていた。

 

 この夢は、長く続かない。

 

 それでも、目を覚ましたくなかった。

 

 夢の中には姉がいる。

 

 夢の中のホシノは、まだ今みたいに擦り切れていない。

 

 夢の中の自分も、まだ何もしていない。

 

 だから、そこにいたかった。

 

     *

 

 ある日、部屋の中はほとんど白くなっていた。

 

 机の輪郭も、椅子の脚も、窓枠も、砂の色も、全部が光に溶けていく。

 

 ユメが何かを言っている。

 

 ホシノも何かを返している。

 

 けれど、顔がよく見えない。

 

「姉さん」

 

 ヒバリは呼んだ。

 

 ユメの輪郭が、白い光の中で揺れる。

 

「ホシノ」

 

 ホシノの姿も、もうはっきり見えない。

 

 ヒバリは手を伸ばした。

 

 届かない。

 

 足元の感覚が消えていく。

 

 部屋が遠ざかる。

 

「待って」

 

 声が出た。

 

「まだ――」

 

 その時、背中を押された。

 

 強く。

 

 優しく、ではなかった。

 

 迷っている相手を無理やり送り出すみたいな、遠慮のない力だった。

 

 振り返る。

 

 ユメがいた。

 

 光の中で、顔はもうほとんど見えない。

 

 それでも、笑っている気がした。

 

「ヒバリ」

 

 姉の声だった。

 

「起きて」

 

 ヒバリは首を振る。

 

「待って、姉さん」

 

「ホシノちゃん、待ってるよ」

 

 その言葉だけが、やけにはっきり聞こえた。

 

「行って」

 

 光が強くなる。

 

 ユメの姿が見えなくなる。

 

 ヒバリは手を伸ばした。

 

 届かなかった。

 

     *

 

 目を開けた。

 

 最初に見えたのは、知らない天井だった。

 

 いや、知らないわけではない。アビドス高等学校の教室の天井だ。古い染み。ひび割れた板。見慣れたはずのもの。

 

 けれど、夢の中の生徒会室ではなかった。

 

 白い灯り。

 

 機械の音。

 

 口元に当たる補助装置。

 

 身体に繋がる管。

 

 腕が重い。

 

 指が動かない。

 

 喉が焼けるように痛い。

 

 息を吸うだけで、身体の奥が軋んだ。

 

 ヒバリは声を出そうとした。

 

 出なかった。

 

 代わりに、機械の音だけが規則正しく続いている。

 

 ここは夢じゃない。

 

 その事実が、ゆっくりと胸の奥へ沈んでいった。

 

 姉はいない。

 

 夢の中にはいた。

 

 でも、ここにはいない。

 

 思い出すより先に、身体がそれを知っていた。

 

 ヒバリは目だけを動かす。

 

 手が握られていた。

 

 誰かの手が、自分の手を握っている。

 

 ベッドの脇に、ホシノがいた。

 

 椅子に座ったまま、ベッドの端にうつ伏せになって眠っている。髪は夢の中より長く、乱れていた。頬はこけ、目の下には濃い影が落ちている。制服はくたびれていて、手には細かい傷がいくつもあった。

 

 夢の中のホシノより、ずっとやつれていた。

 

 ホシノの首元には、青いマフラーが巻かれている。

 

 昔は、たまにしか巻かなかったもの。

 

 ペアルックみたいで嫌だと、文句を言っていたもの。

 

 それを今は、当たり前みたいに巻いていた。

 

 ヒバリは、その青を見た。

 

 青いマフラーの下に、何が隠れているのか。

 

 見えなくても分かった。

 

 自分の手が、そこに残したものだった。

 

 そして、自分の枕元に置かれた赤いマフラーを見る。

 

 その瞬間、記憶が戻ってきた。

 

 姉を探していた。

 

 ずっと見つからなかった。

 

 ホシノが見つけた。

 

 砂漠。

 

 箱。

 

 学校。

 

 ホシノの謝罪。

 

 ごめん、ヒバリ。

 

 その声。

 

 自分の手。

 

 ホシノの首。

 

 床から離れたホシノの足。

 

 空気を求めて震えた喉。

 

 意識を落としたホシノの目。

 

 それから。

 

 自分は、逃げようとした。

 

 全部から。

 

 姉がいない現実から。

 

 ホシノを殺しかけた自分から。

 

 守れなかったことから。

 

 何もかもから逃げようとした。

 

 ホシノまで、置いていくつもりだった。

 

 なのに、生きている。

 

 ホシノが、自分の手を握っている。

 

 ヒバリは手を引こうとした。

 

 けれど、指がほとんど動かなかった。

 

 力が入らない。

 

 逃げることすらできない。

 

 それなのに、ホシノの手だけは、しっかり自分を握っていた。

 

「……なんで」

 

 かすれた声が漏れた。

 

 声になったのか、呼吸が崩れただけなのか、自分でも分からなかった。

 

 何に対しての言葉なのかも分からない。

 

 なんで目が覚めた。

 

 なんで生きている。

 

 なんで助けた。

 

 なんで、手を握っている。

 

 ホシノの指が、少しだけ動いた。

 

 ゆっくりと顔が上がる。

 

 眠りから引き戻された目が、ぼんやりとヒバリを見る。

 

 次の瞬間、ホシノは固まった。

 

「……ヒバリ?」

 

 声はひどく掠れていた。

 

 首を痛めた声だった。

 

 ヒバリは、その声を聞いて、胸の奥が冷たくなる。

 

 自分がやった。

 

 その痕が、まだホシノに残っている。

 

「起きた……?」

 

 ホシノの声が震えた。

 

 泣きそうだった。

 

 けれど、うまく泣けない顔だった。

 

 ヒバリは何かを言おうとする。

 

 ごめん。

 

 その一言が、喉まで上がった。

 

 でも出なかった。

 

 言った瞬間に、自分がしたことが全部、言葉の形になる気がした。

 

 もう、なかったことにはできないのに。

 

 自分が逃げているだけなのに。

 

 言葉は出なかった。

 

 ホシノも、何も言わなかった。

 

 ただ、握った手に少しだけ力を込めた。

 

 ヒバリはそれを見て、もう一度枕元の赤いマフラーを見た。

 

 姉の声が戻る。

 

『ヒバリは赤ね』

 

 戻るのに、姉はいない。

 

 夢の中では、ユメがいた。

 

 ホシノもいた。

 

 自分も、まだ壊れていなかった。

 

 けれど、目を開けた先に姉はいない。

 

 代わりに、青いマフラーを巻いたホシノが、自分の手を握っている。

 

「……なんで」

 

 もう一度、ヒバリは呟いた。

 

 ホシノは答えなかった。

 

 答えの代わりに、握った手を離さなかった。

 

 機械の音だけが、二人の沈黙の間に続いていた。

 

 その手の温度だけが、

 ヒバリを現実へ繋ぎ止めていた。

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