ヒバリは、ずっと夢を見ていた。
アビドス高等学校の生徒会室。
窓枠は少し歪み、風が吹くたびに細く鳴る。
机は古く、椅子は軋む。
床には砂が入り込み、掃いても掃いてもどこかに残る。
それでも、夢の中の部屋は明るかった。
「ヒバリ、そっちの資料取って!」
ユメが机の向こうから手を伸ばす。
「自分で取れ、姉さん」
「えー、遠いんだもん」
「一歩動け」
「ヒバリが取ってくれた方が早いよ」
悪びれもなく笑うユメに、ヒバリはため息をついた。文句を言いながらも資料を取って渡す。
その横で、ホシノが箱を抱えていた。
「これ、どこ置けばいいんですか」
「そこの棚かな」
「入らないんですけど」
「じゃあ入るようにして!」
「無茶言わないで下さい」
ホシノは昔の姿だった。
髪は今より短く、目つきは少し尖っていて、何かあるたびにすぐ文句を言う。けれど、その声にはまだ今ほどの疲れはない。苛立ちも、諦めも、くたびれた笑いもない。
ユメが笑う。
ホシノが文句を言う。
ヒバリが呆れる。
それだけの夢だった。
ただ、三人でアビドス生徒会として動いているだけの夢。
借金はある。校舎は古い。砂は入ってくる。やらなければいけないことは山ほどある。
それでも、ユメがいる。
ホシノがいる。
自分もいる。
それだけで、夢の中のアビドスは壊れていなかった。
*
最初に光が見えたのは、いつだったのか分からない。
視界の端に、うっすらと白いものがあった。
最初は窓から差し込む日差しだと思った。砂漠の照り返しが、部屋の隅に映っているだけだと思った。
けれど、違った。
その光は、日が変わるたびに強くなっていった。
夢の中で何日が過ぎたのかは分からない。
ユメが資料をまとめている日もあった。
ホシノが修理道具を抱えて文句を言っている日もあった。
ヒバリが外から戻り、ユメに「遅い」と怒られる日もあった。
そのたびに、視界の端の光は少しずつ広がっていく。
最初は部屋の隅だけだった。
次は窓の外が白くなった。
その次は、机の端がぼやけた。
ユメの声が、少し遠くなった。
ホシノの輪郭が、少し薄くなった。
ヒバリは気づいていた。
この夢は、長く続かない。
それでも、目を覚ましたくなかった。
夢の中には姉がいる。
夢の中のホシノは、まだ今みたいに擦り切れていない。
夢の中の自分も、まだ何もしていない。
だから、そこにいたかった。
*
ある日、部屋の中はほとんど白くなっていた。
机の輪郭も、椅子の脚も、窓枠も、砂の色も、全部が光に溶けていく。
ユメが何かを言っている。
ホシノも何かを返している。
けれど、顔がよく見えない。
「姉さん」
ヒバリは呼んだ。
ユメの輪郭が、白い光の中で揺れる。
「ホシノ」
ホシノの姿も、もうはっきり見えない。
ヒバリは手を伸ばした。
届かない。
足元の感覚が消えていく。
部屋が遠ざかる。
「待って」
声が出た。
「まだ――」
その時、背中を押された。
強く。
優しく、ではなかった。
迷っている相手を無理やり送り出すみたいな、遠慮のない力だった。
振り返る。
ユメがいた。
光の中で、顔はもうほとんど見えない。
それでも、笑っている気がした。
「ヒバリ」
姉の声だった。
「起きて」
ヒバリは首を振る。
「待って、姉さん」
「ホシノちゃん、待ってるよ」
その言葉だけが、やけにはっきり聞こえた。
「行って」
光が強くなる。
ユメの姿が見えなくなる。
ヒバリは手を伸ばした。
届かなかった。
*
目を開けた。
最初に見えたのは、知らない天井だった。
いや、知らないわけではない。アビドス高等学校の教室の天井だ。古い染み。ひび割れた板。見慣れたはずのもの。
けれど、夢の中の生徒会室ではなかった。
白い灯り。
機械の音。
口元に当たる補助装置。
身体に繋がる管。
腕が重い。
指が動かない。
喉が焼けるように痛い。
息を吸うだけで、身体の奥が軋んだ。
ヒバリは声を出そうとした。
出なかった。
代わりに、機械の音だけが規則正しく続いている。
ここは夢じゃない。
その事実が、ゆっくりと胸の奥へ沈んでいった。
姉はいない。
夢の中にはいた。
でも、ここにはいない。
思い出すより先に、身体がそれを知っていた。
ヒバリは目だけを動かす。
手が握られていた。
誰かの手が、自分の手を握っている。
ベッドの脇に、ホシノがいた。
椅子に座ったまま、ベッドの端にうつ伏せになって眠っている。髪は夢の中より長く、乱れていた。頬はこけ、目の下には濃い影が落ちている。制服はくたびれていて、手には細かい傷がいくつもあった。
夢の中のホシノより、ずっとやつれていた。
ホシノの首元には、青いマフラーが巻かれている。
昔は、たまにしか巻かなかったもの。
ペアルックみたいで嫌だと、文句を言っていたもの。
それを今は、当たり前みたいに巻いていた。
ヒバリは、その青を見た。
青いマフラーの下に、何が隠れているのか。
見えなくても分かった。
自分の手が、そこに残したものだった。
そして、自分の枕元に置かれた赤いマフラーを見る。
その瞬間、記憶が戻ってきた。
姉を探していた。
ずっと見つからなかった。
ホシノが見つけた。
砂漠。
箱。
学校。
ホシノの謝罪。
ごめん、ヒバリ。
その声。
自分の手。
ホシノの首。
床から離れたホシノの足。
空気を求めて震えた喉。
意識を落としたホシノの目。
それから。
自分は、逃げようとした。
全部から。
姉がいない現実から。
ホシノを殺しかけた自分から。
守れなかったことから。
何もかもから逃げようとした。
ホシノまで、置いていくつもりだった。
なのに、生きている。
ホシノが、自分の手を握っている。
ヒバリは手を引こうとした。
けれど、指がほとんど動かなかった。
力が入らない。
逃げることすらできない。
それなのに、ホシノの手だけは、しっかり自分を握っていた。
「……なんで」
かすれた声が漏れた。
声になったのか、呼吸が崩れただけなのか、自分でも分からなかった。
何に対しての言葉なのかも分からない。
なんで目が覚めた。
なんで生きている。
なんで助けた。
なんで、手を握っている。
ホシノの指が、少しだけ動いた。
ゆっくりと顔が上がる。
眠りから引き戻された目が、ぼんやりとヒバリを見る。
次の瞬間、ホシノは固まった。
「……ヒバリ?」
声はひどく掠れていた。
首を痛めた声だった。
ヒバリは、その声を聞いて、胸の奥が冷たくなる。
自分がやった。
その痕が、まだホシノに残っている。
「起きた……?」
ホシノの声が震えた。
泣きそうだった。
けれど、うまく泣けない顔だった。
ヒバリは何かを言おうとする。
ごめん。
その一言が、喉まで上がった。
でも出なかった。
言った瞬間に、自分がしたことが全部、言葉の形になる気がした。
もう、なかったことにはできないのに。
自分が逃げているだけなのに。
言葉は出なかった。
ホシノも、何も言わなかった。
ただ、握った手に少しだけ力を込めた。
ヒバリはそれを見て、もう一度枕元の赤いマフラーを見た。
姉の声が戻る。
『ヒバリは赤ね』
戻るのに、姉はいない。
夢の中では、ユメがいた。
ホシノもいた。
自分も、まだ壊れていなかった。
けれど、目を開けた先に姉はいない。
代わりに、青いマフラーを巻いたホシノが、自分の手を握っている。
「……なんで」
もう一度、ヒバリは呟いた。
ホシノは答えなかった。
答えの代わりに、握った手を離さなかった。
機械の音だけが、二人の沈黙の間に続いていた。
その手の温度だけが、
ヒバリを現実へ繋ぎ止めていた。