ヒバリが目を覚ました翌日の昼、医者は絶対安静であると告げた。
口調は穏やかだった。
けれど、告げられた内容は少しも軽くなかった。
目を覚ましたこと自体が奇跡に近いこと。
しばらくは補助機器を外せないこと。
自力で立つどころか、まともに会話することすら負担になること。
ホシノは黙って聞いていた。
ヒバリはベッドの上で目を閉じていた。眠っているわけではない。時折、薄く目を開ける。だが、その視線はどこか遠く、部屋の中を見ているようで見ていなかった。
枕元には赤いマフラーが丁寧に畳まれている。
ホシノの首元には青いマフラーがあった。
医者が帰ったあと、部屋には再び機械音だけが残された。
ホシノは水を用意し、薬を確認し、医者に言われた通りにヒバリの状態を見守った。何かしていなければ落ち着かなかった。何もしていないと、ヒバリがまたどこかへ消えてしまうような気がした。
だから、何度も確認する。
機械の音。
呼吸。
手の温度。
赤いマフラー。
すべて、そこにある。
それでも、安心することはできなかった。
「……ホシノ」
掠れた声が響いた。
ホシノはすぐに顔を上げる。
「どうしたの? 水?」
ヒバリは首を動かさず、目だけをこちらへ向けた。
声は細い。
それでも、言葉だけは妙にはっきりしていた。
「アビドスを離れる」
ホシノは、一瞬その意味を理解できなかった。
「……は?」
「外へ行く」
外へ行く。
その言葉だけで、ホシノの胸の奥が冷えた。
ユメ先輩も、そうやって学校の外へ出た。
そして、帰ってこなかった。
「最初から決めていた」
ホシノの手が止まった。
今、何を言っているのか。
目を覚ましたばかりの相手が、まだ管に繋がれている相手が、なぜ当然のようにそんなことを口にするのか。
「何を言ってるの」
声がわずかに硬くなる。
「今、目を覚ましたばかりなんだよ」
「分かっている」
「分かってないでしょ」
ヒバリは目を細めた。
その表情だけは、少しだけいつものヒバリに見えた。
「分かっている」
「分かっていたら、そんなこと言わないよ」
ホシノは言う。
「今は休まなきゃ駄目でしょ。お医者さんも絶対安静だって言ってたじゃない」
「休んでいる場合じゃない」
返ってきた言葉は短かった。
ホシノは息を呑む。
怒りより先に、恐怖が込み上げた。
この子は本気だ。
目を覚ましたばかりなのに。
身体だって動かないのに。
もう、外へ行くことしか考えていない。
「……どうして」
ホシノは尋ねた。
「どうして、そこまでして外へ行こうとするの」
ヒバリは少し黙った。
機械音が二人の間に落ちる。
「連邦生徒会は動かない」
やがて、ヒバリは言った。
「最初から、そう予測していた」
「……え?」
「支援要請は出した。手順も踏んだ。予約もした。資料も揃えた。窓口にも通った」
掠れた声で淡々と続ける。
「でも、あそこが本気でアビドスに手を貸すとは思っていなかった」
ホシノは言葉を失った。
「じゃあ……何のために、あんなに通っていたの」
「外に繋がりを作るため」
「外?」
「連邦生徒会に通えば、人の流れが見える。どこの企業が出入りしているか。どの業者が支援案件に関わっているか。どこが利用できて、どこが危険か」
ヒバリはそこで息を詰まらせた。
短く咳き込む。
ホシノは慌てて身を乗り出した。
「もう喋らないで」
「……喋る」
「駄目だって」
「今、言わないと」
ヒバリはかすかに息を整える。
一言話すだけでも苦しそうだった。
それでも止まらない。
「ブラックマーケット側にも繋げた。物資、仕事、情報、護衛、運搬。アビドスの中だけでは回らないものを、外から確保する準備をしていた」
ホシノは呆然とヒバリを見る。
知らなかった。
ヒバリが連邦生徒会に通い詰めていたのは、ただ支援要請のためだと思っていた。ユメ先輩の代わりに、外で頭を下げているのだと思っていた。
違った。
ヒバリは最初から、連邦生徒会が動かない場合を想定していた。
それどころか、そちらこそ本命だった。
「どうして言わなかったの」
ホシノの声が震える。
ヒバリは少しだけ目を逸らした。
「言えば止めるだろう」
「当たり前でしょ」
「だから言わなかった」
あまりにも当然のような返答だった。
ホシノは思わず笑いそうになった。
笑える話ではないのに。
「……最悪」
「分かっている」
「分かっているなら、やめてよ」
「やめたら学校が立ち行かなくなる」
ヒバリは言う。
「連邦生徒会が支援しないなら、アビドスの中だけで仕事を回しても限界が来る。物資も、修理も、金も、人も足りない」
そこでまた、声が少し乱れた。
それでもヒバリは続けた。
「姉さんとお前が学校を支える。私は外から金と物資を入れる。そのつもりだった」
「ユメ先輩も知らなかったの?」
「言えば止める」
「止めるよ」
「だから言わなかった」
同じ言葉。
それが少しずつホシノの心を削っていく。
ヒバリは昔からそうだった。
必要だと思えば勝手に動く。
止められると分かっていることほど、黙って進める。
自分が危険な場所へ行くことを、当然のように計画へ組み込む。
だが今は、それが恐ろしかった。
「私が倒れている間に、外との繋がりが切れた」
ヒバリは続ける。
「取引先も離れた。負債も増えた。治療費も増えた。お前一人で回せるわけがない」
ホシノの手が膝の上で握られる。
その言葉は、心配に近かったのかもしれない。
けれど、その言い方はひどく胸に刺さった。
「だから、取り戻す」
「どうやって」
「外で稼ぐ。物資を引き込む。切れた繋がりを結び直す」
「その身体で?」
「動けるようになればいい」
「今は動けないでしょ」
「少し戻れば行ける」
「行けない」
「行く」
ホシノは立ち上がった。
「行かせない」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
ヒバリがこちらを見る。
「ユメ先輩に頼まれたんだよ」
ホシノは言った。
「ヒバリを守ってって」
部屋の空気が一瞬止まった。
ヒバリの目がわずかに揺れる。
しかし次に発せられた声は冷たかった。
「守れていないだろう」
その一言が静かに落ちた。
ホシノは何も言えなかった。
胸の奥を直接抉られたようだった。
守れていない。
その通りだった。
ユメ先輩を守れなかった。
ヒバリも守れなかった。
それどころか、ヒバリに自分を殺しかけさせた。
今この部屋で、何かを守るなどと言える立場ではない。
ヒバリは言った直後に少しだけ顔を歪めた。
「……今のは」
声が途切れる。
「違う」
ホシノはゆっくり首を横に振った。
「違わないよ」
「違う」
ヒバリはもう一度言う。
だが、それ以上は続かなかった。
謝れない。
謝れば、二人とも正面から向き合わなければならない。
ユメのことも。
砂漠のことも。
ホシノの首に残った痕のことも。
自分が逃げようとしたことも。
だから、言葉が止まる。
沈黙の中で、ヒバリがゆっくり腕を動かした。
「何をしてるの」
「立つ」
「駄目」
「離せ」
ヒバリは管を避けるように身体を起こそうとする。腕に力が入っていないことが、見ているだけで分かった。肩が震え、息が乱れる。
それでも、ベッドから降りようとする。
ホシノは慌てて支えた。
「やめて」
「離せ」
「離したら倒れる」
「倒れている場合じゃない」
「今倒れてるでしょ!」
叫んだ瞬間、喉が痛んだ。
ホシノは自分の首を押さえそうになって、やめた。そんなものを気にしている場合ではない。
ヒバリの身体が傾く。
次の瞬間、膝が崩れた。
ホシノは咄嗟に抱き止めた。
軽かった。
信じられないほど軽い。
あれほど強かったヒバリが。
あれほどの力で自分を持ち上げたヒバリが。
今は、支えなければ座ることすらできない。
「……くそ」
ヒバリが小さく吐き捨てる。
悔しそうだった。
怒っているというより、自分の身体が動かないことを許せない顔だった。
「だから無理だって言ったでしょ」
「無理でも行く」
「行かせない」
「行く」
「行かせない!」
ホシノはヒバリの肩を支えたまま言った。
「もう、勝手にいなくならないでよ」
その言葉に、ヒバリの動きが止まる。
ホシノの声は、もう怒鳴り声ではなかった。
疲れていた。
掠れていた。
怯えていた。
「ユメ先輩も、勝手にいなくなった」
言葉がこぼれる。
「ヒバリまで、また勝手にいなくなるの?」
ヒバリは答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
その時、機械の音がわずかに変わった。
いつもより高い警告音が、短く鳴る。
直後、扉が開いた。
異常な数値に気づいて戻ってきたのか、診療所の医者が部屋に入ってくる。
部屋の状況を見て、深く息を吐いた。
「何をしているの」
静かな声だった。
怒鳴らない分、余計に重い。
ホシノはヒバリを支えたまま固まる。
ヒバリは目を逸らした。
医者はベッドのそばへ来て、手早くヒバリの状態を確認する。機械の数値を見る。管の位置を直す。ベッドへ戻すよう促す。
「今動けば、本当に戻れなくなるよ」
その言葉に、ヒバリの眉がわずかに動いた。
「外へ行く話は、せめて歩けるようになってからにしなさい」
「……時間がない」
「時間がないからといって、今ここで壊れていい理由にはならない」
医者は淡々と言う。
「君が動けなくなれば、もっと悪くなる」
ヒバリは何も言わなかった。
納得した顔ではない。
ただ、身体が動かないから黙っただけだった。
ホシノには、それが分かった。
*
その日、ヒバリは外へ出ることができなかった。
ベッドへ戻され、処置を受け、しばらくは会話も禁じられた。ホシノは隣の椅子に座っていた。何度も何度も、ヒバリの手を見つめた。
ヒバリの手はシーツの上に出ていた。
指先は細く、まだ力がない。
握りたい。
だが、今握れば振り払われる気がした。
結局、握ることはできなかった。
ヒバリは目を閉じている。
眠っているのか、ただ目を閉じているだけなのかは分からない。
枕元には赤いマフラーがある。
ホシノの首元には青いマフラーがある。
青と赤。
ユメ先輩が残したものだけが、まだ二人を同じ部屋に繋ぎ止めていた。
夕方になる頃、ホシノはようやく理解した。
今日、ヒバリを止められたわけではない。
ただ、身体が動かなかっただけだ。
体力が戻れば、必ず行く。
学校の中に留まる気など、もうない。
夜になっても、ホシノは眠れなかった。
ヒバリの手は、今もそこにある。
だが、たとえ握っても、止められない気がした。
ユメ先輩を止められなかった時と、同じように。
また、手の中から誰かが消えていく。
そんな気がして、ホシノはただ機械音を聞いていた。