アビドスに、もう一人の三年生がいた   作:ゴリさん39

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第37話 外へ行く

 

 ヒバリが目を覚ました翌日の昼、医者は絶対安静であると告げた。

 

 口調は穏やかだった。

 けれど、告げられた内容は少しも軽くなかった。

 

 目を覚ましたこと自体が奇跡に近いこと。

 しばらくは補助機器を外せないこと。

 自力で立つどころか、まともに会話することすら負担になること。

 

 ホシノは黙って聞いていた。

 

 ヒバリはベッドの上で目を閉じていた。眠っているわけではない。時折、薄く目を開ける。だが、その視線はどこか遠く、部屋の中を見ているようで見ていなかった。

 

 枕元には赤いマフラーが丁寧に畳まれている。

 

 ホシノの首元には青いマフラーがあった。

 

 医者が帰ったあと、部屋には再び機械音だけが残された。

 

 ホシノは水を用意し、薬を確認し、医者に言われた通りにヒバリの状態を見守った。何かしていなければ落ち着かなかった。何もしていないと、ヒバリがまたどこかへ消えてしまうような気がした。

 

 だから、何度も確認する。

 

 機械の音。

 

 呼吸。

 

 手の温度。

 

 赤いマフラー。

 

 すべて、そこにある。

 

 それでも、安心することはできなかった。

 

「……ホシノ」

 

 掠れた声が響いた。

 

 ホシノはすぐに顔を上げる。

 

「どうしたの? 水?」

 

 ヒバリは首を動かさず、目だけをこちらへ向けた。

 

 声は細い。

 

 それでも、言葉だけは妙にはっきりしていた。

 

「アビドスを離れる」

 

 ホシノは、一瞬その意味を理解できなかった。

 

「……は?」

 

「外へ行く」

 

 外へ行く。

 

 その言葉だけで、ホシノの胸の奥が冷えた。

 

 ユメ先輩も、そうやって学校の外へ出た。

 

 そして、帰ってこなかった。

 

「最初から決めていた」

 

 ホシノの手が止まった。

 

 今、何を言っているのか。

 

 目を覚ましたばかりの相手が、まだ管に繋がれている相手が、なぜ当然のようにそんなことを口にするのか。

 

「何を言ってるの」

 

 声がわずかに硬くなる。

 

「今、目を覚ましたばかりなんだよ」

 

「分かっている」

 

「分かってないでしょ」

 

 ヒバリは目を細めた。

 

 その表情だけは、少しだけいつものヒバリに見えた。

 

「分かっている」

 

「分かっていたら、そんなこと言わないよ」

 

 ホシノは言う。

 

「今は休まなきゃ駄目でしょ。お医者さんも絶対安静だって言ってたじゃない」

 

「休んでいる場合じゃない」

 

 返ってきた言葉は短かった。

 

 ホシノは息を呑む。

 

 怒りより先に、恐怖が込み上げた。

 

 この子は本気だ。

 

 目を覚ましたばかりなのに。

 

 身体だって動かないのに。

 

 もう、外へ行くことしか考えていない。

 

「……どうして」

 

 ホシノは尋ねた。

 

「どうして、そこまでして外へ行こうとするの」

 

 ヒバリは少し黙った。

 

 機械音が二人の間に落ちる。

 

「連邦生徒会は動かない」

 

 やがて、ヒバリは言った。

 

「最初から、そう予測していた」

 

「……え?」

 

「支援要請は出した。手順も踏んだ。予約もした。資料も揃えた。窓口にも通った」

 

 掠れた声で淡々と続ける。

 

「でも、あそこが本気でアビドスに手を貸すとは思っていなかった」

 

 ホシノは言葉を失った。

 

「じゃあ……何のために、あんなに通っていたの」

 

「外に繋がりを作るため」

 

「外?」

 

「連邦生徒会に通えば、人の流れが見える。どこの企業が出入りしているか。どの業者が支援案件に関わっているか。どこが利用できて、どこが危険か」

 

 ヒバリはそこで息を詰まらせた。

 

 短く咳き込む。

 

 ホシノは慌てて身を乗り出した。

 

「もう喋らないで」

 

「……喋る」

 

「駄目だって」

 

「今、言わないと」

 

 ヒバリはかすかに息を整える。

 

 一言話すだけでも苦しそうだった。

 

 それでも止まらない。

 

「ブラックマーケット側にも繋げた。物資、仕事、情報、護衛、運搬。アビドスの中だけでは回らないものを、外から確保する準備をしていた」

 

 ホシノは呆然とヒバリを見る。

 

 知らなかった。

 

 ヒバリが連邦生徒会に通い詰めていたのは、ただ支援要請のためだと思っていた。ユメ先輩の代わりに、外で頭を下げているのだと思っていた。

 

 違った。

 

 ヒバリは最初から、連邦生徒会が動かない場合を想定していた。

 

 それどころか、そちらこそ本命だった。

 

「どうして言わなかったの」

 

 ホシノの声が震える。

 

 ヒバリは少しだけ目を逸らした。

 

「言えば止めるだろう」

 

「当たり前でしょ」

 

「だから言わなかった」

 

 あまりにも当然のような返答だった。

 

 ホシノは思わず笑いそうになった。

 

 笑える話ではないのに。

 

「……最悪」

 

「分かっている」

 

「分かっているなら、やめてよ」

 

「やめたら学校が立ち行かなくなる」

 

 ヒバリは言う。

 

「連邦生徒会が支援しないなら、アビドスの中だけで仕事を回しても限界が来る。物資も、修理も、金も、人も足りない」

 

 そこでまた、声が少し乱れた。

 

 それでもヒバリは続けた。

 

「姉さんとお前が学校を支える。私は外から金と物資を入れる。そのつもりだった」

 

「ユメ先輩も知らなかったの?」

 

「言えば止める」

 

「止めるよ」

 

「だから言わなかった」

 

 同じ言葉。

 

 それが少しずつホシノの心を削っていく。

 

 ヒバリは昔からそうだった。

 

 必要だと思えば勝手に動く。

 

 止められると分かっていることほど、黙って進める。

 

 自分が危険な場所へ行くことを、当然のように計画へ組み込む。

 

 だが今は、それが恐ろしかった。

 

「私が倒れている間に、外との繋がりが切れた」

 

 ヒバリは続ける。

 

「取引先も離れた。負債も増えた。治療費も増えた。お前一人で回せるわけがない」

 

 ホシノの手が膝の上で握られる。

 

 その言葉は、心配に近かったのかもしれない。

 

 けれど、その言い方はひどく胸に刺さった。

 

「だから、取り戻す」

 

「どうやって」

 

「外で稼ぐ。物資を引き込む。切れた繋がりを結び直す」

 

「その身体で?」

 

「動けるようになればいい」

 

「今は動けないでしょ」

 

「少し戻れば行ける」

 

「行けない」

 

「行く」

 

 ホシノは立ち上がった。

 

「行かせない」

 

 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。

 

 ヒバリがこちらを見る。

 

「ユメ先輩に頼まれたんだよ」

 

 ホシノは言った。

 

「ヒバリを守ってって」

 

 部屋の空気が一瞬止まった。

 

 ヒバリの目がわずかに揺れる。

 

 しかし次に発せられた声は冷たかった。

 

「守れていないだろう」

 

 その一言が静かに落ちた。

 

 ホシノは何も言えなかった。

 

 胸の奥を直接抉られたようだった。

 

 守れていない。

 

 その通りだった。

 

 ユメ先輩を守れなかった。

 

 ヒバリも守れなかった。

 

 それどころか、ヒバリに自分を殺しかけさせた。

 

 今この部屋で、何かを守るなどと言える立場ではない。

 

 ヒバリは言った直後に少しだけ顔を歪めた。

 

「……今のは」

 

 声が途切れる。

 

「違う」

 

 ホシノはゆっくり首を横に振った。

 

「違わないよ」

 

「違う」

 

 ヒバリはもう一度言う。

 

 だが、それ以上は続かなかった。

 

 謝れない。

 

 謝れば、二人とも正面から向き合わなければならない。

 

 ユメのことも。

 

 砂漠のことも。

 

 ホシノの首に残った痕のことも。

 

 自分が逃げようとしたことも。

 

 だから、言葉が止まる。

 

 沈黙の中で、ヒバリがゆっくり腕を動かした。

 

「何をしてるの」

 

「立つ」

 

「駄目」

 

「離せ」

 

 ヒバリは管を避けるように身体を起こそうとする。腕に力が入っていないことが、見ているだけで分かった。肩が震え、息が乱れる。

 

 それでも、ベッドから降りようとする。

 

 ホシノは慌てて支えた。

 

「やめて」

 

「離せ」

 

「離したら倒れる」

 

「倒れている場合じゃない」

 

「今倒れてるでしょ!」

 

 叫んだ瞬間、喉が痛んだ。

 

 ホシノは自分の首を押さえそうになって、やめた。そんなものを気にしている場合ではない。

 

 ヒバリの身体が傾く。

 

 次の瞬間、膝が崩れた。

 

 ホシノは咄嗟に抱き止めた。

 

 軽かった。

 

 信じられないほど軽い。

 

 あれほど強かったヒバリが。

 

 あれほどの力で自分を持ち上げたヒバリが。

 

 今は、支えなければ座ることすらできない。

 

「……くそ」

 

 ヒバリが小さく吐き捨てる。

 

 悔しそうだった。

 

 怒っているというより、自分の身体が動かないことを許せない顔だった。

 

「だから無理だって言ったでしょ」

 

「無理でも行く」

 

「行かせない」

 

「行く」

 

「行かせない!」

 

 ホシノはヒバリの肩を支えたまま言った。

 

「もう、勝手にいなくならないでよ」

 

 その言葉に、ヒバリの動きが止まる。

 

 ホシノの声は、もう怒鳴り声ではなかった。

 

 疲れていた。

 

 掠れていた。

 

 怯えていた。

 

「ユメ先輩も、勝手にいなくなった」

 

 言葉がこぼれる。

 

「ヒバリまで、また勝手にいなくなるの?」

 

 ヒバリは答えなかった。

 

 答えられなかったのかもしれない。

 

 その時、機械の音がわずかに変わった。

 

 いつもより高い警告音が、短く鳴る。

 

 直後、扉が開いた。

 

 異常な数値に気づいて戻ってきたのか、診療所の医者が部屋に入ってくる。

 

 部屋の状況を見て、深く息を吐いた。

 

「何をしているの」

 

 静かな声だった。

 

 怒鳴らない分、余計に重い。

 

 ホシノはヒバリを支えたまま固まる。

 

 ヒバリは目を逸らした。

 

 医者はベッドのそばへ来て、手早くヒバリの状態を確認する。機械の数値を見る。管の位置を直す。ベッドへ戻すよう促す。

 

「今動けば、本当に戻れなくなるよ」

 

 その言葉に、ヒバリの眉がわずかに動いた。

 

「外へ行く話は、せめて歩けるようになってからにしなさい」

 

「……時間がない」

 

「時間がないからといって、今ここで壊れていい理由にはならない」

 

 医者は淡々と言う。

 

「君が動けなくなれば、もっと悪くなる」

 

 ヒバリは何も言わなかった。

 

 納得した顔ではない。

 

 ただ、身体が動かないから黙っただけだった。

 

 ホシノには、それが分かった。

 

     *

 

 その日、ヒバリは外へ出ることができなかった。

 

 ベッドへ戻され、処置を受け、しばらくは会話も禁じられた。ホシノは隣の椅子に座っていた。何度も何度も、ヒバリの手を見つめた。

 

 ヒバリの手はシーツの上に出ていた。

 

 指先は細く、まだ力がない。

 

 握りたい。

 

 だが、今握れば振り払われる気がした。

 

 結局、握ることはできなかった。

 

 ヒバリは目を閉じている。

 

 眠っているのか、ただ目を閉じているだけなのかは分からない。

 

 枕元には赤いマフラーがある。

 

 ホシノの首元には青いマフラーがある。

 

 青と赤。

 

 ユメ先輩が残したものだけが、まだ二人を同じ部屋に繋ぎ止めていた。

 

 夕方になる頃、ホシノはようやく理解した。

 

 今日、ヒバリを止められたわけではない。

 

 ただ、身体が動かなかっただけだ。

 

 体力が戻れば、必ず行く。

 

 学校の中に留まる気など、もうない。

 

 夜になっても、ホシノは眠れなかった。

 

 ヒバリの手は、今もそこにある。

 

 だが、たとえ握っても、止められない気がした。

 

 ユメ先輩を止められなかった時と、同じように。

 

 また、手の中から誰かが消えていく。

 

 そんな気がして、ホシノはただ機械音を聞いていた。

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