アビドスに、もう一人の三年生がいた   作:ゴリさん39

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第3話 黒服との交渉

 

 夜の砂漠は、昼より静かで、昼より気味が悪い。

 

 アビドス市街の戦いが終わったあとも、火薬の匂いは服に残っていた。風は冷えているのに、その匂いだけが妙に生々しい。人気のない廃ビル街へ向かう道のりは長くないはずなのに、やけに遠く感じる。

 

 背後に生徒はいない。連れてきていない。連れてくる話ではなかった。黒服と話す。それは交渉であって、同時に、ひどく手触りの悪い何かでもある。少なくとも、生徒を立たせる場所じゃない。

 

 瓦礫の間を抜けた先。崩れた高架の影に、その男はいた。

 

 まるで旧友でも迎えるみたいに、黒服は薄く微笑む。

 

「お待ちしておりました、先生」

 

 低く滑るような声だった。暗がりに立っていても、輪郭だけが妙にはっきりしている。人の形をしているくせに、そこだけ現実から少し浮いているような、不快な存在感だった。

 

 先生は足を止める。

 

「話は短くしてくれ」

 

 黒服は楽しそうに肩をすくめた。

 

「つれないですね。ですが、そういうところも含めて、私はあなたに興味を持っているのですよ」

 

 一歩、前に出る。

 

「改めて名乗りましょう。私たちはゲマトリア。私は黒服」

 

 芝居がかった仕草で胸に手を当て、薄く一礼する。

 

「どうでしょう。私たちと協力するつもりはありませんか?」

 

 先生は間を置かなかった。

 

「断る」

 

 その一言で、夜気が少しだけ冷えた。

 

「ただホシノを返してもらう。退部届も、顧問である私がまだ承認していない」

 

 黒服の口元がわずかに歪む。

 

「なるほど」

 

 楽しげだった声に、少しだけ別の色が混じる。

 

「大人とは、責任を負う者――そう言いたいのですか?」

 

 先生は答えない。

 

 黒服はその沈黙を否定ではなく、続きを促す余白として扱った。

 

「ですが、私の知る大人とは違う。権力を持ち、知識を持ち、力なき者を支配する。それこそが大人でしょう」

 

 砂が流れる音がした。誰もいないはずの夜が、妙に息苦しい。

 

 先生はポケットへ手を入れた。

 

 取り出した一枚を見た瞬間、黒服の笑みが初めて止まる。

 

「……それを切りますか」

 

 大人のカード。

 

 夜の薄闇の中でさえ、それだけは妙に重く見えた。

 

「必要なら」

 

 先生の声は静かだった。

 

 黒服はカードを見つめたまま、低く呟く。

 

「理解できません」

 

 その声から、さっきまでの余裕が薄く剥がれる。

 

「全てを支配できる可能性を前にして、なおそれを捨てる選択をする。どうしてです?」

 

 先生は少しだけ目を細めた。

 

「言っても、きっと理解できないと思うよ」

 

 沈黙。

 

 黒服はそこで、ふっと笑った。さっきまでの営業めいた笑みではない。もっと薄く、もっと嫌な笑い方だった。

 

「……そうですか。ですが、あなたがそのような選択をするのも、少し分かる気がします」

 

 黒服はわずかに首を傾ける。

 

「アビドスという土地は、奇妙ですね。失ったものに執着する者が多い」

 

 先生は無言のまま見る。

 

 黒服はその視線を受けながら、軽く続けた。

 

「小鳥遊ホシノもそうだ。過去に縛られ、責任を抱え込み、自分から沈んでいく」

 

 一拍。

 

「そういえば、アビドスでは三年生が一人、行方不明のままだそうですね」

 

 その言葉で、先生の目つきが変わる。

 

 黒服はそれを見逃さなかった。

 

「おや。やはりご存じでしたか」

 

 先生は低く返す。

 

「何を知ってる」

 

「さて」

 黒服は楽しげに笑う。

「古い傷に触れただけですよ。あなた方は、失ったものを放置したまま、まだ前へ進んでいるつもりらしい」

 

 先生の声が少しだけ硬くなる。

 

「関係ない話で揺さぶるな」

 

「関係はありますとも」

 黒服は即答した。

「あなた方は、喪失を抱えたまま無理に形を保っている。だから壊しやすい」

 

 その一言は、夜気より冷たかった。

 

 先生は大人のカードを持つ手に力を込める。

 

 黒服はそれを見て、ようやく肩をすくめた。

 

「……失礼。少し余計でしたね」

 

 だが、謝っている声ではない。

 

「では交渉は決裂です、先生」

 

 淡々と、だが確実に線を引く声音だった。

 

 黒服は軽く視線を上げる。

 

「ホシノは、アビドス砂漠のPMC基地中央にある実験室にいます」

 

 先生の視線が鋭くなる。

 

 黒服はそれを受けてもなお、愉快そうに続けた。

 

「せいぜい頑張って、生徒を助けるといいでしょう」

 

 薄く笑う。

 

「幸運を祈ります」

 

 その言葉が終わる頃には、黒服はもう夜の中へ溶けていた。最初からそこにいなかったみたいに、気配だけを薄く残して。

 

 先生はしばらく、その場を動かなかった。

 

 PMC基地中央。

 実験室。

 

 ようやく掴んだ。嫌な形で。最悪の相手から。

 

 だが、それだけではなかった。

 

 三年生が一人、行方不明のまま。黒服の言葉は、ただの挑発にしては妙に生々しかった。アビドスの奥に残った傷を、最初から知っているような口ぶりだった。

 

 先生は何も言わず、踵を返す。

 

 砂漠の風が、遅れて頬を撫でた。アビドス高等学校へ戻る頃には、空はすっかり黒く沈んでいた。

 

     *

 

 校舎の明かりは少ない。その少ない明かりの中で、対策委員会の面々はまだ起きていた。

 

 先生が部室の扉を開けると、最初に立ち上がったのはアヤネだった。

 

「先生、お待ちしておりました」

 

 声は落ち着いていたが、ずっと張っていたのだろう。その一言に、ようやく息を吐いた気配があった。

 

 セリカが椅子から半分立ち上がる。

 

「で!? どうだったのよ!」

 

 ノノミも表情を引き締める。

 

「何か、分かりましたかぁ……?」

 

 シロコだけは座ったまま、先生の顔を見る。じっと。無駄な言葉を挟まずに。

 

 その視線に気づいたのは、たぶん先生だけじゃなかった。

 

 シロコが小さく言う。

 

「……何か掴んだ顔だね」

 

 その言葉で、部室の空気が変わる。

 

 期待。

 不安。

 覚悟。

 

 先生は全員の顔を見た。

 

 アヤネ。

 シロコ。

 ノノミ。

 セリカ。

 

 ホシノがいない場所。

 

 先生は短く告げた。

 

「ホシノを助けに行こう」

 

 沈黙は、一瞬だった。

 

 アヤネが真っ先に端末を引き寄せる。

 

「場所は分かったんですね」

 

「カイザーPMC基地。中央の実験室だ」

 

 セリカが息を呑む。

 

「……実験室?」

 

 ノノミの笑顔が消える。

 

「嫌な言い方ですねぇ」

 

 シロコは、ただ静かに頷いた。

 

「行く」

 

 それだけだった。

 

 先生は続ける。

 

「対策委員会だけじゃ足りない。協力を取り付ける必要がある」

 

 アヤネがすぐに応じる。

 

「風紀委員会、トリニティ側、便利屋68……当たれるところは全部当たります」

 

「うん」

 

 セリカも、今度は文句を言わなかった。

 

「ホシノ先輩を連れ戻せるなら、それでいい」

 

 ノノミが柔らかく頷く。

 

「最後まで行きましょう」

 

 シロコはもう地図へ目を落としていた。最短。進入路。退路。必要なもの。考えるべきことだけを、もう追っている顔だった。

 

 先生は、その少し外れに置かれたホシノの端末へ視線を向ける。画面は暗い。けれど、その中にはまだ、あの短いメモが残っている。

 

 『本当に困った時に連絡して』

 

 ヒバリ。

 

 名前だけで終わっているはずの相手が、今は妙に現実味を帯びていた。黒服がわざわざ三年生の行方不明者に触れたのも、偶然とは思えない。

 

 先生は端末を手に取る。

 

 何も言わず、ポケットへしまう。

 

 部室の外では、夜の風がまた窓枠を鳴らしていた。嫌な形で掴んだ道筋は、それでも前へ進むしかないものだった。

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