夜の砂漠は、昼より静かで、昼より気味が悪い。
アビドス市街の戦いが終わったあとも、火薬の匂いは服に残っていた。風は冷えているのに、その匂いだけが妙に生々しい。人気のない廃ビル街へ向かう道のりは長くないはずなのに、やけに遠く感じる。
背後に生徒はいない。連れてきていない。連れてくる話ではなかった。黒服と話す。それは交渉であって、同時に、ひどく手触りの悪い何かでもある。少なくとも、生徒を立たせる場所じゃない。
瓦礫の間を抜けた先。崩れた高架の影に、その男はいた。
まるで旧友でも迎えるみたいに、黒服は薄く微笑む。
「お待ちしておりました、先生」
低く滑るような声だった。暗がりに立っていても、輪郭だけが妙にはっきりしている。人の形をしているくせに、そこだけ現実から少し浮いているような、不快な存在感だった。
先生は足を止める。
「話は短くしてくれ」
黒服は楽しそうに肩をすくめた。
「つれないですね。ですが、そういうところも含めて、私はあなたに興味を持っているのですよ」
一歩、前に出る。
「改めて名乗りましょう。私たちはゲマトリア。私は黒服」
芝居がかった仕草で胸に手を当て、薄く一礼する。
「どうでしょう。私たちと協力するつもりはありませんか?」
先生は間を置かなかった。
「断る」
その一言で、夜気が少しだけ冷えた。
「ただホシノを返してもらう。退部届も、顧問である私がまだ承認していない」
黒服の口元がわずかに歪む。
「なるほど」
楽しげだった声に、少しだけ別の色が混じる。
「大人とは、責任を負う者――そう言いたいのですか?」
先生は答えない。
黒服はその沈黙を否定ではなく、続きを促す余白として扱った。
「ですが、私の知る大人とは違う。権力を持ち、知識を持ち、力なき者を支配する。それこそが大人でしょう」
砂が流れる音がした。誰もいないはずの夜が、妙に息苦しい。
先生はポケットへ手を入れた。
取り出した一枚を見た瞬間、黒服の笑みが初めて止まる。
「……それを切りますか」
大人のカード。
夜の薄闇の中でさえ、それだけは妙に重く見えた。
「必要なら」
先生の声は静かだった。
黒服はカードを見つめたまま、低く呟く。
「理解できません」
その声から、さっきまでの余裕が薄く剥がれる。
「全てを支配できる可能性を前にして、なおそれを捨てる選択をする。どうしてです?」
先生は少しだけ目を細めた。
「言っても、きっと理解できないと思うよ」
沈黙。
黒服はそこで、ふっと笑った。さっきまでの営業めいた笑みではない。もっと薄く、もっと嫌な笑い方だった。
「……そうですか。ですが、あなたがそのような選択をするのも、少し分かる気がします」
黒服はわずかに首を傾ける。
「アビドスという土地は、奇妙ですね。失ったものに執着する者が多い」
先生は無言のまま見る。
黒服はその視線を受けながら、軽く続けた。
「小鳥遊ホシノもそうだ。過去に縛られ、責任を抱え込み、自分から沈んでいく」
一拍。
「そういえば、アビドスでは三年生が一人、行方不明のままだそうですね」
その言葉で、先生の目つきが変わる。
黒服はそれを見逃さなかった。
「おや。やはりご存じでしたか」
先生は低く返す。
「何を知ってる」
「さて」
黒服は楽しげに笑う。
「古い傷に触れただけですよ。あなた方は、失ったものを放置したまま、まだ前へ進んでいるつもりらしい」
先生の声が少しだけ硬くなる。
「関係ない話で揺さぶるな」
「関係はありますとも」
黒服は即答した。
「あなた方は、喪失を抱えたまま無理に形を保っている。だから壊しやすい」
その一言は、夜気より冷たかった。
先生は大人のカードを持つ手に力を込める。
黒服はそれを見て、ようやく肩をすくめた。
「……失礼。少し余計でしたね」
だが、謝っている声ではない。
「では交渉は決裂です、先生」
淡々と、だが確実に線を引く声音だった。
黒服は軽く視線を上げる。
「ホシノは、アビドス砂漠のPMC基地中央にある実験室にいます」
先生の視線が鋭くなる。
黒服はそれを受けてもなお、愉快そうに続けた。
「せいぜい頑張って、生徒を助けるといいでしょう」
薄く笑う。
「幸運を祈ります」
その言葉が終わる頃には、黒服はもう夜の中へ溶けていた。最初からそこにいなかったみたいに、気配だけを薄く残して。
先生はしばらく、その場を動かなかった。
PMC基地中央。
実験室。
ようやく掴んだ。嫌な形で。最悪の相手から。
だが、それだけではなかった。
三年生が一人、行方不明のまま。黒服の言葉は、ただの挑発にしては妙に生々しかった。アビドスの奥に残った傷を、最初から知っているような口ぶりだった。
先生は何も言わず、踵を返す。
砂漠の風が、遅れて頬を撫でた。アビドス高等学校へ戻る頃には、空はすっかり黒く沈んでいた。
*
校舎の明かりは少ない。その少ない明かりの中で、対策委員会の面々はまだ起きていた。
先生が部室の扉を開けると、最初に立ち上がったのはアヤネだった。
「先生、お待ちしておりました」
声は落ち着いていたが、ずっと張っていたのだろう。その一言に、ようやく息を吐いた気配があった。
セリカが椅子から半分立ち上がる。
「で!? どうだったのよ!」
ノノミも表情を引き締める。
「何か、分かりましたかぁ……?」
シロコだけは座ったまま、先生の顔を見る。じっと。無駄な言葉を挟まずに。
その視線に気づいたのは、たぶん先生だけじゃなかった。
シロコが小さく言う。
「……何か掴んだ顔だね」
その言葉で、部室の空気が変わる。
期待。
不安。
覚悟。
先生は全員の顔を見た。
アヤネ。
シロコ。
ノノミ。
セリカ。
ホシノがいない場所。
先生は短く告げた。
「ホシノを助けに行こう」
沈黙は、一瞬だった。
アヤネが真っ先に端末を引き寄せる。
「場所は分かったんですね」
「カイザーPMC基地。中央の実験室だ」
セリカが息を呑む。
「……実験室?」
ノノミの笑顔が消える。
「嫌な言い方ですねぇ」
シロコは、ただ静かに頷いた。
「行く」
それだけだった。
先生は続ける。
「対策委員会だけじゃ足りない。協力を取り付ける必要がある」
アヤネがすぐに応じる。
「風紀委員会、トリニティ側、便利屋68……当たれるところは全部当たります」
「うん」
セリカも、今度は文句を言わなかった。
「ホシノ先輩を連れ戻せるなら、それでいい」
ノノミが柔らかく頷く。
「最後まで行きましょう」
シロコはもう地図へ目を落としていた。最短。進入路。退路。必要なもの。考えるべきことだけを、もう追っている顔だった。
先生は、その少し外れに置かれたホシノの端末へ視線を向ける。画面は暗い。けれど、その中にはまだ、あの短いメモが残っている。
『本当に困った時に連絡して』
ヒバリ。
名前だけで終わっているはずの相手が、今は妙に現実味を帯びていた。黒服がわざわざ三年生の行方不明者に触れたのも、偶然とは思えない。
先生は端末を手に取る。
何も言わず、ポケットへしまう。
部室の外では、夜の風がまた窓枠を鳴らしていた。嫌な形で掴んだ道筋は、それでも前へ進むしかないものだった。