夜のアビドス高等学校は、昼より静かだった。
窓の外では砂が流れている。砕けた窓枠が風に細く鳴るたび、部室の中の沈黙が少しだけ揺れた。校舎に残る明かりは少なく、机の上に広げられた地図と端末だけが白く浮いて見える。
出発前の準備は、もうほとんど終わっていた。風紀委員会には頭を下げた。トリニティ側にも協力を取りつけた。便利屋68も、表向きの了承はなくても、たぶん勝手に来る。それでも先生の手元には、まだ残っているものがあった。ホシノの端末。画面を開けば、短いメモが一つだけ残っている。
『本当に困った時に連絡して』
その下に、ヒバリという名前。
番号が一つ。
誰も口を開かないまま、その文字を見ていた。
最初に息を吐いたのはノノミだった。
「ホシノ先輩が最後に残した相手、ですもんねぇ……」
アヤネも、端末を見つめたまま言う。
「風紀委員会とトリニティの協力は得られました。でも、救出の成功率を少しでも上げるなら……この番号も使うべき、だと思います」
セリカは露骨に顔をしかめた。
「今まで一回も聞いたことないんだけど。そんなアビドスの先輩がいるなら、なんでホシノ先輩は何も言わなかったわけ?」
シロコが短く返す。
「ホシノ先輩が、話さなかった」
それだけだった。
責めてもいない。
庇ってもいない。
ただ事実だけを置く言い方だった。
先生は端末を握り直す。
「かける」
セリカが腕を組んだ。
「感じ悪かったら私、絶対キレるから」
「今から宣言しないでください……」
アヤネが困ったように言う。
ノノミが小さく笑った。
「でも、ちょっと分かりますぅ」
シロコは何も言わない。
ただ、止めもしなかった。
先生が通話ボタンを押す。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
四回目で、繋がった。
『……誰』
女の声だった。
低い。
乾いている。
最初から、人と仲良くする気がないと分かる声だった。
セリカの眉がぴくりと跳ねる。
ノノミも、少しだけ表情を固くした。
先生が言う。
「アビドスの先生だ。ホシノの件で連絡した」
短い沈黙。
その向こうで、風の音がした。校舎の中でも街中でもない。もっと開けた、何もない場所の音だった。
『……あいつ、消えたんだ』
心配ではない。
呆れと苛立ちが先に来る言い方だった。
先生は続ける。
「居場所は分かった。今から助けに行く。協力してほしい」
また、少しの沈黙。
『……場所は?』
それだけだった。
感情ではなく、確認すべきことだけ確認する声。
「アビドス砂漠。カイザーPMC基地だ。中央の実験室に囚われている」
一拍。
「手を貸してほしい」
通話の向こうは、また少しだけ黙った。
それから、低い声が落ちてくる。
『勘違いするな』
冷たい声だった。
『……お前達と仲良くするつもりはない。アビドスを守るために必要なことをするだけだ』
その一言で、部室の空気がまた変わる。
自分たちを最初から輪の外に置いている。
助ける。だが関わらない。
そういう線の引き方だった。
セリカが小さく吐き捨てる。
「感じ悪っ……!」
ヒバリは構わない。
『もう切る』
「待っ――」
通話はそこで終わった。
短い電子音。
沈黙。
最初に爆発したのは、やはりセリカだった。
「何なのよあいつ!! ホシノ先輩が最後に頼る相手っていうから、もっとこう……せめて普通に話せるやつだと思うでしょ!」
「普通じゃないから最後なんじゃないかなぁ……」
ノノミが困ったように笑う。
アヤネはまだ整理している顔だった。
「少なくとも、敵ではなさそうです。それと……ホシノ先輩とは、かなり空気が悪いですね」
シロコが静かに言う。
「でも、来る」
短い断定だった。
先生は頷く。
「対策委員会だけじゃ足りない。取り付けられる協力は全部使う」
アヤネがすぐに端末を引き寄せる。
「風紀委員会、トリニティ側、便利屋68……再確認します。進入経路も整理し直します」
「ホシノ先輩を連れ戻せるなら、それでいいわ」
セリカも今度は文句を言わなかった。
ノノミが柔らかく頷く。
「最後まで行きましょう」
シロコはもう地図へ目を落としていた。最短。進入路。退路。必要なもの。考えるべきことだけを、もう追っている顔だった。
*
施設襲撃当日。
砂漠の空気は朝から乾いていた。遠くで銃声が響くたび、その乾きが少しだけ震える。
東ではトリニティ側の牽制で巡回部隊が引き寄せられている。西では風紀委員会が車列を食い止め、断続的な火線を作っていた。さらに別方向では、便利屋68が好き勝手に騒ぎを大きくしているらしい。
その隙を縫って、先生たちは前へ出た。
先生。
シロコ。
ノノミ。
セリカ。
アヤネは後方支援。
四人と一人で進むには、砂漠は広すぎた。
けれど、今はそれでも行くしかない。
『先生、東側の巡回が少し薄くなりました。今なら予定ルートで前進できます』
「了解。速度を上げる」
瓦礫混じりの砂地を進み、外周の起伏へ身を伏せたところで、基地の全景がようやく見えた。
近くで見るそれは、遠目よりさらに硬かった。
高い外壁。
正面に据えられた固定式機関銃。
巡回する装甲車両。
土煙の向こうに見える戦車。
そして、鈍い巨体を軋ませるゴリアテ。
セリカが息を呑む。
「……多すぎでしょ」
ノノミも笑みを失う。
「これは、さすがに正面からは厳しいですねぇ」
無線越しのアヤネの声も硬かった。
『正面火力、想定よりさらに厚いです。固定機関銃二、装甲車複数、戦車一、ゴリアテ一。このまま飛び出すのは危険です』
「危険で済むの?」
セリカが小声で言う。
「普通に死ぬでしょ、これ」
シロコは施設を見据えたまま、短く言った。
「正面はだめ」
先生も同じ判断だった。
足止めはされている。
他方面も動いている。
それでも、最後の一押しにはまだ一手足りない。
高台から見える外周の守りは、想定以上に厚かった。
このままでは、突破する前にこちらが削られる。
その時だった。
先生のポケットの中で、ホシノの端末が震えた。
全員の視線が集まる。
先生が取り出す。
画面に表示されていた名前を見て、セリカが眉を寄せた。
「……ヒバリ?」
端末は、もう一度だけ震えた。
乾いた風の中で、その小さな振動だけが妙に大きく感じられた。