アビドスに、もう一人の三年生がいた   作:ゴリさん39

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第6話 次は無い

 

 施設の外へ出た時、先生はようやく少しだけ息をついた。

 

 理事との戦いは、結局決着にはならなかった。追い詰めきる前に、あちらが切ったのだ。捨て台詞と一緒に、残った部隊を引き連れて。

 

 その背中を追うより先に、先生たちはホシノを抱えて外へ出た。

 

 それでよかったのだと、頭では分かっている。今は勝ち負けじゃない。取り戻せたかどうか、それだけだ。

 

 ホシノはまだ支えがいる。けれど、ちゃんと自分の足で立っていた。顔色は悪い。いつもの気の抜けた余裕も薄い。それでも、自分たちの手の届くところにいる。

 

「ホシノ先輩……!」

 

 ノノミが、泣きそうなのを堪えるような顔で駆け寄る。セリカも続いた。言いたいことは山ほどあるはずなのに、最初に出たのは怒鳴り声ではなかった。

 

「……ほんと、バカじゃないの」

 

 掠れた声だった。

 

 シロコは何も言わない。ただ一歩だけ近づき、ホシノが倒れない位置へ立つ。無言のまま、そこにいるだけで「勝手にいなくなるな」と告げているみたいだった。

 

 ホシノは先生に肩を貸されたまま、どうにか口元を緩めようとした。

 

「いやぁ……手間かけたねぇ」

 

 軽く言おうとしている。けれど、軽くならない。声の芯が削れていた。

 

 先生はその横顔を見る。無理に立っている。歩ける、というだけだ。今はまず、この場から離れた方がいい。

 

「話はあとにしよう。とにかく――」

 

 そこまで言いかけた、その時だった。

 

 ホシノの端末が震えた。

 

 短い着信音。誰よりも先に反応したのは、ホシノだった。

 

 さっきまで無理に作っていた緩い笑みが、きれいに消える。曇るというより、固まる。端末の画面を見る前から、誰から来たのか分かっていたみたいな顔だった。

 

 先生は視線を落とす。

 

 表示されていた名前は、短い。

 

 ヒバリ

 

 ノノミが目を瞬く。セリカが眉をひそめる。シロコだけが、何も言わずホシノを見ていた。

 

 ホシノは一拍だけ躊躇ってから、先生の手から端末を取った。

 

「……もしもし」

 

 受話口の向こうから落ちてきた声は、夜気より冷たかった。

 

『……ふざけた事をしてくれたね』

 

 低い。

 

 怒鳴ってはいない。むしろ静かすぎるくらいだった。

 

 なのに、その一言だけで、その場の空気が一段冷えた。

 

 ホシノは返さない。

 

 返せない、の方が近かった。

 

 次の瞬間、すぐ脇のコンクリート壁が弾けた。

 

 ――バァンッ!!

 

 破片が飛び、白い粉塵が舞い、遅れて乾いた反響が走る。

 

「っ!?」

 

 セリカが反射的に身を低くする。ノノミが息を呑み、先生は周りを警戒。シロコの銃口が、一瞬で跳ね上がる。

 

 どこからだ。

 

 先生が視線を上げるより早く、シロコが弾道の先を拾っていた。

 

「あそこ」

 

 近くの廃ビル、その屋上。

 

 風に揺れる、緑の外套。フードを深く被った人影が、細く立っている。

 

 夜の中で、そこだけ輪郭が妙にはっきりして見えた。さっきまでどこにいたのかも、どうやってそこへ立ったのかも分からない。ただ、見つけた瞬間に全員が理解した。

 

 あれが――ヒバリ。

 

 ホシノの肩が、目に見えて強張る。

 

 電話の向こうで、ヒバリは続ける。

 

『次は無い』

 

 それだけだった。

 

 通話は切れる。

 

 短い電子音が、妙に乾いて聞こえた。

 

 屋上の人影は、こちらを見下ろしたまま一瞬だけ動かず、次の瞬間には背を向けた。外套の裾が翻る。足場を蹴った音も、ワイヤーを撃ち込んだ気配も、先生には分からない。ただ、緑の影だけが廃ビル群の闇へ溶けるみたいに消えた。

 

 残ったのは、壁に穿たれた穴と、誰もすぐには喋れない沈黙だった。

 

 最初に言葉を取り戻したのは、やはりセリカだった。

 

「……何なのよ、あいつ」

 

 怒っている。けれど、その怒りはさっきまでみたいな単純な苛立ちではない。戸惑いが混じっていた。

 

 ノノミも、まだ屋上のあった場所を見たまま小さく言う。

 

「ホシノ先輩、あの人のこと知ってたんですよねぇ……?」

 

 シロコはホシノから目を逸らさない。

 

「ホシノ先輩。あの人は誰」

 

 短い問いだった。

 

 けれど、逃がさない声だった。

 

 ホシノは端末を見下ろしたまま、曖昧に口元を歪める。

 

「いやぁ……ちょっと昔の知り合い、かなぁ」

 

「ちょっとで済む感じじゃなかったでしょ」

 セリカが即座に返す。

「何よ、“次は無い”って。しかも撃ってきたし!」

 

「撃ったのは壁だよぉ」

 ホシノは力なく言った。

「ほら、おじさん、ちゃんと生きてるし」

 

 軽口。いつもの調子に寄せたつもりなのだろう。

 

 でも、寄せ切れていない。

 

 先生はその無理を見た。ノノミも、セリカも、シロコも、同じだった。

 

 誤魔化している。しかも、下手だ。

 

 シロコがさらに一歩だけ詰める。

 

「ホシノ先輩」

 

 その先を問うより先に、先生が低く言った。

 

「ここではやめよう」

 

 全員の視線が先生へ向く。

 

「まだ落ち着いて話せる場所じゃない。続きは学校で聞く」

 

 それは正しい判断だった。理事は退いた。カイザーの部隊も引き始めている。けれど、完全に終わったわけじゃない。何より、ホシノは今にも気を抜けばその場に座り込みそうだった。

 

 セリカが不満そうに舌打ちする。

 

「……分かったわよ」

 

 ノノミも頷く。

 

「帰りましょうかぁ」

 

 シロコはしばらくホシノを見ていたが、やがて短く息をついて視線を外した。

 

 ホシノは端末を握ったまま、小さく笑おうとする。

 

「いやぁ……帰ったらちゃんと話すよぉ」

 

 その台詞に、誰も安心しなかった。

 

 先生たちは夜の砂漠をあとにする。

 

 来る時にはやけに長く感じた道が、帰りはもっと長かった。ホシノを挟み、誰も無駄口を叩かない。セリカは前を向いたまま、何度も何か言いたそうにしてはやめる。ノノミも口元を引き結んだまま、時々ホシノの顔色をうかがっている。シロコは変わらず静かだが、その沈黙は普段より重い。

 

 アビドス高等学校へ戻る頃には、空はもう白み始める手前だった。

 

 部室の明かりは変わらない。ホシノが消えた日から、空気だけがずっと少しずつ違っている。

 

 先生が椅子を引く。ホシノはそこへ腰を下ろしたが、いつものようにだらしなく凭れかかる余裕はない。

 

 一息つくより先に、セリカが口を開いた。

 

「で?」

 

 間髪入れない声音だった。

 

「さっきの、何。ヒバリって誰なの。なんでホシノ先輩にあんなこと言ってたわけ?」

 

 ノノミも静かに続ける。

 

「普通のお知り合い、ではないですよねぇ……?」

 

 アヤネは端末を抱えたまま、慎重な声で言った。

 

「少なくとも、隠しておきたい相手ではありそうですね」

 

 シロコは、最後に一言だけ落とす。

 

「説明して」

 

 ホシノは四人分の視線を受けて、珍しく本気で困った顔をした。

 

「いやぁ……」

 

 笑って誤魔化そうとする。その癖だけは、まだ残っている。

 

「ほんとに、ちょっと昔の知り合いでねぇ。おじさんにもいろいろあるわけで」

 

「雑すぎるんだけど」

 セリカが即座に切る。

「それで納得すると思ってる?」

 

「しないよねぇ」

 

 ホシノは観念したように肩を落とした。けれど、そこから先が出てこない。

 

 先生はその沈黙を見ていた。

 

 話せないのか。話したくないのか。たぶん、その両方だ。

 

 今ここで無理にこじ開けても、まともな答えは出ないだろう。出たとしても、ホシノがまた雑に自分を切り売りするだけだ。

 

「今日はもうやめよう」

 

 先生が言うと、セリカがすぐに顔を上げた。

 

「でも――」

 

「ホシノも限界だ」

 

 その一言で、部屋が少し静かになる。

 

 実際、その通りだった。助け出したばかりだ。施設の中で何をされていたか、まだ全部は分からない。そんな状態で、すぐに説明まで求めるのは酷だった。

 

 ノノミが小さく頷く。

 

「……そうですねぇ」

 

 アヤネも唇を引き結び、端末を抱え直した。

 

「分かりました」

 

 シロコは何も言わない。ただ、最後にもう一度だけホシノを見た。その目は、問いを下げたのではなく、先送りにしただけの目だった。

 

 ホシノは、ほんの少しだけ助かったように笑う。

 

「いやぁ、悪いねぇ」

 

 その軽さは、最後まで薄かった。

 

 先生は窓の外を見る。

 

 もう廃ビル群は見えない。

 それでも、あの一言だけが、まだ部室のどこかに残っていた。

 

 ――次は無い。

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