施設の外へ出た時、先生はようやく少しだけ息をついた。
理事との戦いは、結局決着にはならなかった。追い詰めきる前に、あちらが切ったのだ。捨て台詞と一緒に、残った部隊を引き連れて。
その背中を追うより先に、先生たちはホシノを抱えて外へ出た。
それでよかったのだと、頭では分かっている。今は勝ち負けじゃない。取り戻せたかどうか、それだけだ。
ホシノはまだ支えがいる。けれど、ちゃんと自分の足で立っていた。顔色は悪い。いつもの気の抜けた余裕も薄い。それでも、自分たちの手の届くところにいる。
「ホシノ先輩……!」
ノノミが、泣きそうなのを堪えるような顔で駆け寄る。セリカも続いた。言いたいことは山ほどあるはずなのに、最初に出たのは怒鳴り声ではなかった。
「……ほんと、バカじゃないの」
掠れた声だった。
シロコは何も言わない。ただ一歩だけ近づき、ホシノが倒れない位置へ立つ。無言のまま、そこにいるだけで「勝手にいなくなるな」と告げているみたいだった。
ホシノは先生に肩を貸されたまま、どうにか口元を緩めようとした。
「いやぁ……手間かけたねぇ」
軽く言おうとしている。けれど、軽くならない。声の芯が削れていた。
先生はその横顔を見る。無理に立っている。歩ける、というだけだ。今はまず、この場から離れた方がいい。
「話はあとにしよう。とにかく――」
そこまで言いかけた、その時だった。
ホシノの端末が震えた。
短い着信音。誰よりも先に反応したのは、ホシノだった。
さっきまで無理に作っていた緩い笑みが、きれいに消える。曇るというより、固まる。端末の画面を見る前から、誰から来たのか分かっていたみたいな顔だった。
先生は視線を落とす。
表示されていた名前は、短い。
ヒバリ
ノノミが目を瞬く。セリカが眉をひそめる。シロコだけが、何も言わずホシノを見ていた。
ホシノは一拍だけ躊躇ってから、先生の手から端末を取った。
「……もしもし」
受話口の向こうから落ちてきた声は、夜気より冷たかった。
『……ふざけた事をしてくれたね』
低い。
怒鳴ってはいない。むしろ静かすぎるくらいだった。
なのに、その一言だけで、その場の空気が一段冷えた。
ホシノは返さない。
返せない、の方が近かった。
次の瞬間、すぐ脇のコンクリート壁が弾けた。
――バァンッ!!
破片が飛び、白い粉塵が舞い、遅れて乾いた反響が走る。
「っ!?」
セリカが反射的に身を低くする。ノノミが息を呑み、先生は周りを警戒。シロコの銃口が、一瞬で跳ね上がる。
どこからだ。
先生が視線を上げるより早く、シロコが弾道の先を拾っていた。
「あそこ」
近くの廃ビル、その屋上。
風に揺れる、緑の外套。フードを深く被った人影が、細く立っている。
夜の中で、そこだけ輪郭が妙にはっきりして見えた。さっきまでどこにいたのかも、どうやってそこへ立ったのかも分からない。ただ、見つけた瞬間に全員が理解した。
あれが――ヒバリ。
ホシノの肩が、目に見えて強張る。
電話の向こうで、ヒバリは続ける。
『次は無い』
それだけだった。
通話は切れる。
短い電子音が、妙に乾いて聞こえた。
屋上の人影は、こちらを見下ろしたまま一瞬だけ動かず、次の瞬間には背を向けた。外套の裾が翻る。足場を蹴った音も、ワイヤーを撃ち込んだ気配も、先生には分からない。ただ、緑の影だけが廃ビル群の闇へ溶けるみたいに消えた。
残ったのは、壁に穿たれた穴と、誰もすぐには喋れない沈黙だった。
最初に言葉を取り戻したのは、やはりセリカだった。
「……何なのよ、あいつ」
怒っている。けれど、その怒りはさっきまでみたいな単純な苛立ちではない。戸惑いが混じっていた。
ノノミも、まだ屋上のあった場所を見たまま小さく言う。
「ホシノ先輩、あの人のこと知ってたんですよねぇ……?」
シロコはホシノから目を逸らさない。
「ホシノ先輩。あの人は誰」
短い問いだった。
けれど、逃がさない声だった。
ホシノは端末を見下ろしたまま、曖昧に口元を歪める。
「いやぁ……ちょっと昔の知り合い、かなぁ」
「ちょっとで済む感じじゃなかったでしょ」
セリカが即座に返す。
「何よ、“次は無い”って。しかも撃ってきたし!」
「撃ったのは壁だよぉ」
ホシノは力なく言った。
「ほら、おじさん、ちゃんと生きてるし」
軽口。いつもの調子に寄せたつもりなのだろう。
でも、寄せ切れていない。
先生はその無理を見た。ノノミも、セリカも、シロコも、同じだった。
誤魔化している。しかも、下手だ。
シロコがさらに一歩だけ詰める。
「ホシノ先輩」
その先を問うより先に、先生が低く言った。
「ここではやめよう」
全員の視線が先生へ向く。
「まだ落ち着いて話せる場所じゃない。続きは学校で聞く」
それは正しい判断だった。理事は退いた。カイザーの部隊も引き始めている。けれど、完全に終わったわけじゃない。何より、ホシノは今にも気を抜けばその場に座り込みそうだった。
セリカが不満そうに舌打ちする。
「……分かったわよ」
ノノミも頷く。
「帰りましょうかぁ」
シロコはしばらくホシノを見ていたが、やがて短く息をついて視線を外した。
ホシノは端末を握ったまま、小さく笑おうとする。
「いやぁ……帰ったらちゃんと話すよぉ」
その台詞に、誰も安心しなかった。
先生たちは夜の砂漠をあとにする。
来る時にはやけに長く感じた道が、帰りはもっと長かった。ホシノを挟み、誰も無駄口を叩かない。セリカは前を向いたまま、何度も何か言いたそうにしてはやめる。ノノミも口元を引き結んだまま、時々ホシノの顔色をうかがっている。シロコは変わらず静かだが、その沈黙は普段より重い。
アビドス高等学校へ戻る頃には、空はもう白み始める手前だった。
部室の明かりは変わらない。ホシノが消えた日から、空気だけがずっと少しずつ違っている。
先生が椅子を引く。ホシノはそこへ腰を下ろしたが、いつものようにだらしなく凭れかかる余裕はない。
一息つくより先に、セリカが口を開いた。
「で?」
間髪入れない声音だった。
「さっきの、何。ヒバリって誰なの。なんでホシノ先輩にあんなこと言ってたわけ?」
ノノミも静かに続ける。
「普通のお知り合い、ではないですよねぇ……?」
アヤネは端末を抱えたまま、慎重な声で言った。
「少なくとも、隠しておきたい相手ではありそうですね」
シロコは、最後に一言だけ落とす。
「説明して」
ホシノは四人分の視線を受けて、珍しく本気で困った顔をした。
「いやぁ……」
笑って誤魔化そうとする。その癖だけは、まだ残っている。
「ほんとに、ちょっと昔の知り合いでねぇ。おじさんにもいろいろあるわけで」
「雑すぎるんだけど」
セリカが即座に切る。
「それで納得すると思ってる?」
「しないよねぇ」
ホシノは観念したように肩を落とした。けれど、そこから先が出てこない。
先生はその沈黙を見ていた。
話せないのか。話したくないのか。たぶん、その両方だ。
今ここで無理にこじ開けても、まともな答えは出ないだろう。出たとしても、ホシノがまた雑に自分を切り売りするだけだ。
「今日はもうやめよう」
先生が言うと、セリカがすぐに顔を上げた。
「でも――」
「ホシノも限界だ」
その一言で、部屋が少し静かになる。
実際、その通りだった。助け出したばかりだ。施設の中で何をされていたか、まだ全部は分からない。そんな状態で、すぐに説明まで求めるのは酷だった。
ノノミが小さく頷く。
「……そうですねぇ」
アヤネも唇を引き結び、端末を抱え直した。
「分かりました」
シロコは何も言わない。ただ、最後にもう一度だけホシノを見た。その目は、問いを下げたのではなく、先送りにしただけの目だった。
ホシノは、ほんの少しだけ助かったように笑う。
「いやぁ、悪いねぇ」
その軽さは、最後まで薄かった。
先生は窓の外を見る。
もう廃ビル群は見えない。
それでも、あの一言だけが、まだ部室のどこかに残っていた。
――次は無い。