ヒバリの名前が、対策委員会室の空気にまだ残っていた。
救出から数日。カイザーPMC基地での一件は終わったはずなのに、あの夜の一撃と、低い声だけが、片づかないまま部屋の隅に残っている。
放課後の対策委員会室。机の上には書類、修理予定のメモ、足りない備品の一覧。いつもなら誰かが文句を言って、誰かが笑って、ホシノが気の抜けた顔で流しているはずの時間だった。
今日は違う。
セリカが腕を組んだまま、真正面からホシノを見る。
「で」
開口一番、それだった。
「そろそろちゃんと説明してくれない? ヒバリって誰なの。どういう関係なわけ」
ノノミは柔らかい顔をしていたが、誤魔化すつもりはないらしい。
「私も知りたいですぅ。あの人、ホシノ先輩のことだけ見てましたし」
アヤネも端末を抱えたまま続ける。
「ホシノ先輩が“本当に困った時に連絡して”と残した相手で、学校のことも知っている。しかも私たちには何も説明がなかった。普通の知り合いではありませんよね」
シロコは短かった。
「話して」
逃げ道を一つずつ塞ぐような声だった。
ホシノは、いつものように困った顔で笑おうとした。
「いやぁ……」
その軽口は、半分も形にならない。
先生は少し離れた位置から、その空気を見ていた。今のホシノは、救出直後みたいに限界ではない。だからこそ、もう何も聞かないでは済まない。後輩たちの顔にも、それが出ている。
ホシノは視線を落とし、机の上を指先で軽く叩いた。
「……ヒバリちゃんは、アビドスの子だよ」
「それは見りゃ分かるのよ」
セリカが即座に返す。
「うん、まあ、そうだねぇ」
ホシノは苦く笑う。
「昔からいた子。おじさんと同じ三年生」
ノノミが首を傾げる。
「でも、私たち見たことないですよねぇ」
「見せる気、なかったからねぇ」
ホシノが言う。
「向こうが」
アヤネが眉を寄せる。
「意図的に顔を出していなかった、と」
「そういうこと」
ホシノは椅子の背にもたれようとして、途中でやめた。まだ楽な姿勢を取るには体が噛み合っていないらしい。
「昔から、おじさんとは喧嘩ばっかりしてたよ」
「それはなんか想像つく」
セリカが呆れたように言う。
「でしょ?」
ホシノが少しだけ笑う。
「会えば噛みつかれてたし、おじさんも売り言葉に買い言葉だったしねぇ」
「なんでそんなに仲悪かったんですか?」
アヤネが聞く。
ホシノは少しだけ黙った。
「……昔から、合わなかったんだよ」
雑な答えだった。だが、それ以上綺麗に言おうとすると、たぶん何かを誤魔化しすぎるのだろうと先生は思った。
ノノミが慎重に続ける。
「でも、ずっとそうだったわけじゃないんですよねぇ」
ホシノは目を細めた。
「間に入ってくれる先輩がいたからねぇ」
その言い方だけで、部屋の空気が少し変わる。
シロコが聞く。
「その先輩がいなくなってから?」
ホシノはすぐには頷かなかった。けれど、否定もしなかった。
「……あの人がいた間は、まだ何とかなってたよ。おじさんが尖っても、ヒバリちゃんが噛みついても、結局はその先輩が止めてた。笑いながらねぇ」
セリカが顔を曇らせる。
「その先輩がいなくなって、あいつは学校を出たってこと?」
「うん」
ホシノの返事は短い。
「退学届を置いて、そのまま勝手にいなくなった」
アヤネが言う。
「じゃあ、もうアビドスの生徒では――」
「そこまで綺麗に終わってないよぉ」
ホシノが小さく割り込む。
「書類だけ置いて出ていった。手続きがどうなったかは……まあ、あの時のアビドスだしねぇ」
曖昧だった。だが、それで十分だった。綺麗に区切れた別れ方ではなかったのだ。
「でも、完全に消えたわけじゃなかった」
セリカが言う。
「そうだねぇ」
ホシノは目を伏せたまま続ける。
「夜中に時々戻ってきてた。誰もいない時間にねぇ」
その言い方が妙に淡々としていて、逆に引っかかった。
「戻ってきて、何してたの」
シロコが問う。
「勝手に見て、勝手にいなくなる。で、たまに金だけ置いていってた」
全員が止まった。
「……は?」
セリカが最初に声を出す。
「金って何よ」
アヤネも固まる。
「現金、ですか」
「うん。封筒だったり、裸だったり、その時々だけど」
ノノミが小さく息を呑む。
「じゃあ……学校の修理とか、備品のお金って……」
「全部じゃないよぉ」
ホシノはゆっくり言う。
「でも、かなり助かってた」
セリカが机を叩く。
「そんな大事なこと、なんで今まで言わなかったのよ!」
「言ったところで困るだけでしょ」
あまりにもあっさりした返しだった。
「君たちが入る前から、もうそうだったしねぇ」
アヤネが低く言う。
「私は、ホシノ先輩が何とか帳尻を合わせていたんだと思っていました」
「まあ、半分は合ってるよぉ。使ってたのはおじさんだし」
「笑い事じゃありません」
アヤネの声は珍しく硬かった。
「私は知らないまま、そのお金込みで学校を回していたんですね」
ホシノは何も返さなかった。
シロコが静かに聞く。
「出所は知ってた?」
一番痛いところを、迷わず突く。
ホシノは少しだけ黙った。
「……だいたいは」
「綺麗なお金じゃないって?」
セリカが食いつく。
「うん。全部細かく聞いたわけじゃないよぉ。でも、そういうお金だってことくらいは分かる」
部屋の空気がまた重くなる。
ノノミが小さく言う。
「それでも、使ってたんですねぇ」
「使わないと学校が保たなかったからねぇ」
あまりにもまっすぐな答えだった。
そこに開き直りはない。ただ、そうするしかなかった事実だけがある。
「一人で決めた」
シロコが言った。
短い一言だった。
責めるでもなく、けれど逃がしもしない。
ホシノは苦く笑う。
「言えるわけないでしょぉ。“実は昔いた先輩が、どこかで汚い金を稼いで学校に入れてます”なんて」
軽口だった。だが、部屋は少しも軽くならなかった。
ノノミがそっと聞く。
「それでも、ホシノ先輩はヒバリさんに会ってたんですかぁ」
ホシノは首を横に振る。
「会うってほどじゃないよぉ。おじさんが夜の巡回してる時に、時々気づくくらい」
「気づく?」
アヤネが聞き返す。
「ポストの中身が増えてたり、誰もいないはずの屋上に気配があったり」
ホシノの目が少しだけ遠くなる。
「まあ、あの子なりに“まだ見てる”ってことだよ」
「学校は見捨ててない」
シロコが言う。
「うん」
「でも私たちとは関わらない」
「うん」
「ホシノ先輩とは仲悪い」
「昔からねぇ」
「で、今も最悪」
そこだけは、ホシノは少しだけ言葉に詰まった。
「……まあ、うん」
ノノミが苦笑する。
「整理すると、だいぶややこしいですねぇ」
「ややこしいで済むかな、これ」
セリカが呟く。
アヤネは端末を胸元へ引き寄せる。
「少なくとも、ヒバリさんが学校を完全に切ったわけではないのは分かりました」
シロコは最後に一言だけだった。
「ホシノ先輩は、まだ何か隠してる」
逃がさない目だった。
ホシノはその視線を受けて、珍しく本気で困った顔をする。
「いやぁ……それは、その……あるけど」
「あるんじゃない」
セリカが即座に返す。
「あるのね」
ホシノは観念したように肩を落とした。けれど、それ以上は出てこない。
先生はそこで口を開いた。
「今日はここまででいい」
全員の視線が先生へ向く。
「聞きたいことはまだある。でも、今ここで全部出させても、きれいな答えにはならない」
「でも――」
セリカが言いかける。
「ホシノもまだ万全じゃない」
その一言で、部屋が少し静かになる。
事実だった。助け出されてからまだ日が浅い。体力も戻りきっていない。精神的にも、平気な顔をしているだけだ。
ノノミが小さく頷く。
「……そうですねぇ」
アヤネも唇を引き結んだまま頷いた。
「分かりました」
シロコは何も言わない。ただ、最後にもう一度だけホシノを見た。その目は、問いを諦めたのではなく、預けただけの目だった。
ホシノは、ほんの少しだけ助かったように笑う。
「いやぁ、悪いねぇ」
その軽さは最後まで薄かった。
*
その日の帰り、先生は一人でアビドスを出た。
夜はだいぶ深い。砂漠の風は冷たく、昼間よりも街の骨組みだけがよく見える。頭の中では、さっきの話がまだ綺麗に沈みきっていなかった。
ヒバリ。
学校を出た在籍者。
夜中に戻ってきて、金だけ置いていく影。
ホシノが知っていて、受け取っていた金。
歩きながら考えていると、ふと、湯気が見えた。
こんな時間に、と思って視線を向ける。暖簾の揺れる、小さな屋台。
柴崎ラーメン屋。
先生は少しだけ足を止めた。腹は減っている。頭も回りすぎている。ちょうどいいかもしれないと思って、暖簾をくぐる。
「先生、いらっしゃい」
柴大将が顔を上げた。
その声につられて視線を向けた先、カウンターの端に、見覚えのある緑色の外套があった。