もう少しだという油断が命取りだった。蛇の体が僕に伸びてくる。あの記憶と同じように、僕の心臓めがけて蛇が迫ってくる。
ガキイイン!という金属と金属がぶつかったかのような音が聞こえた。それが僕の体から聞こえたというのを理解するまでに少々時間がかかった。僕の体は後ろに吹っ飛ばされて地面に転がっていた。きっとこれは、紅葉が最初に僕に施してくれた呪文の効果だったのだろう。これがなければ僕の体はどうなっていたのか分からない。
しかし、安心できたのもほんのわずかな時間だった。鵺がこちらに突進してきた。地面に転がっている僕では回避は間に合わないだろう。
あ、死んだ。なんてあっけない。走馬灯すらも見ることのできないわずかな時間の中、僕は目をつむることすらもできないで迫りくる鵺を見つめる事しかできなかった。
「ダメえええええ!!!」
ガキインと何かがぶつかる音がする。僕と鵺の間に紅葉が割って入ってきたのだ。がりがりと紅葉が張ったバリアのようなものと、鵺の体がぶつかっているのが見える。
「う、うう…!」
しかし、鵺の勢いは止まらない。青白いバリアが徐々に引き裂かれ、破けていくのが見える。
「う、うう…に、にげて…!京介さん…!やはり、今の私じゃ…勝てなかった…!不完全な私じゃ…!」
「ふ、不完全…!?どういうこと!?」
「ま、まだ完全に記憶が戻っていないんです…!どうしても、名前が思い出せなくて…!」
『信じてませんね?まず私のために残ってくれただけですごいです!それに、京介さんのおかげで記憶も…取り戻せました!』
あの一瞬止まっていたのは、僕に気を使っていたのか…!冷静に考えたら紅葉は僕がつけた名前じゃないか!なんでそんなこと気が付かなかったんだよ!?記憶のカケラを繋ぎ合わせたときもドーナツ型だったのではなく本来はきれいな円だったのだ。真ん中の部分が欠けていたのだ、僕のバカ!どうしてこんな初歩的な見落としを!?
ぎりぎりと目の前では紅葉と鵺の攻防が繰り広げられている。状況は劣勢も劣勢、バリアが破られるのも時間の問題だろう。
「早く…にげて…!」
完全に足を引っ張っているのは僕だ。僕がいなければもう少し紅葉は戦えていたかもしれない。日本刀で応戦?そんなもの一瞬で蹴散らされて一巻の終わりだ。お酒を投げる?今更そこまで通用しないだろう。僕たちを仕留めてから勝利の美酒にでも酔いしれるだろう。逃げたとしても脱出する方法も何もない。死ぬまでの時間がほんのわずかに伸びるだけだ。
紅葉の体がじりじりと押され、僕に触れるほどだ。眼前には迫りくる爪、その手で引きさかれたらひとたまりもないだろう。完全に詰みだ。
「紅葉…!」
僕は紅葉の体を支える。このままでは引き裂かれる前に壁とバリアに押しつぶされそうだ。僕たちを守るためのバリアで死にかけるとは皮肉な。
僕が死んだら少しはみんな悲しんでくれるだろうか。そうだとうれしいな。それにしても死にかけているのになんでこんなことを考えているのだろう。もしかしてこれが走馬灯というのだろうか。走馬灯というのは死に直面した時、過去の記憶から生き延びる術を探し出すためらしい。しかし思い出すのは平凡な日常、花村と一緒に花壇の世話をしたこと、本庄さんとご飯を食べたこと、林君と一緒に帰ったこと、大園さんとくだらない話をしたこと…とても今の状況を打開する方法は出てきていない。でもありふれた日常がこんなにも尊いとは思わなかった。
『京介、己の違和感を大事にするんだぞ。何か違和感を覚えたらそれは気になる何かがあるはずだ』
走馬灯の中で僕のお姉ちゃんの言葉を思い出す。陸上競技で名を馳せ、才能の塊のような姉は感覚というものを非常に重要視していた。少しでも体に違和感を覚えれば必ず違和感の原因を分析していた。僕は感覚というものは分からない。姉のような才能はないのだから…
でも、ここにきて一度だけ違和感を覚えたときがある。それはおじいさんの日記を読んだあの時だ。何が違和感だったのだろう。
あの日記は紅葉との生活や普段のこと、紅葉の幸せが達筆な文字で願われていた。
まさに天からの恵だ。
思えば恵まれた人生だった。
…違和感の正体はこれだ。これだけ達筆な文字を書く人が、恵みを「恵」だけ書くだろうか。送り仮名がないのだ。その一方で恵まれたと書くのはおかしい。最初の「恵」は書き間違いではなく…
「恵…」
「え…?」
「君の名前は、恵(めぐみ)だ!」
僕は大声で叫ぶ。最初の恵は天の恵みとかけたダブルミーニングだったのだ。
「!!!!!」
「そう、私の、私の本当の名前は…!」
強い光があたりを包んだ。まぶしくて僕は目をつぶってしまう。次に目を開けたときには…
「ありがとう、京介さん。あなたのおかげで本当の名前を思い出せました」
目の前には、一人の女性が立っていた。
女性、いや本来の姿を取り戻した紅葉は手をかざして鵺を吹き飛ばす。
名前を思い出したことで、本来の力を取り戻したということだろうか。
「ここはあなたのいていい場所じゃない、消えなさい」
紅葉の手がすっと動く。すると幾重もの縄が鵺の体に絡みついた。
「グガア!!」
「封印します。離れて」
「う、うん!」
紅葉、いや恵さんというべきだろうか、ともかく彼女は口から何かを唱えている。
「…封印」
封印という言葉が最後聞こえたかと思うと、鵺の体が徐々に溶けていくように消えていく。
「グガアアアアアアア!!!」
断末魔とでもいうべき咆哮があたりに響く。その時だった、蛇が彼女めがけて飛び掛かった。
ガキイイン!
「…そうくると思ってたわよ、私も」
蛇が首に食らいつく瞬間、まるで見えない壁でもあるかのように蛇の攻撃が阻まれた。
「そして京介さんも」
僕は動きの止まった蛇に向かって渾身の力で日本刀を振り下ろす。記憶で見たときのように、最後に何かをしてくると思っていたのだ。
「うりゃあああ!!!」
蛇の胴体は真っ二つに引き裂かれ、宙を舞った。本体に関しては、最後ひときわ大きな断末魔を上げながら完全に消えていった。