理想だけでは人は救えない。
利益を守り、居場所を築き、未来を繋ぐためには――
地味で、泥臭くて、誰にも見えない仕事を積み重ねるしかない。
唐突だが、ジムリーダーの仕事とはなんだろうか。
多くの人はジムバッジをかけて戦う認定者の印象を抱いていると思う。
だが実態はより多岐に渡る。
例えばジムトレーナーの育成。
独力で旅をして強くなれるものは稀だ。多くの新人はより体系立てた指導を求めてジムの門戸を叩く。
メジャーのジムならその人数は優に100人は超えるだろう。
例えば初心者用ポケモンの育成と手続き。
多くの若者は自分の街のジムまたはジムに準ずる機関(研究所等)から最初のポケモンを渡される。
当然初心者用となるポケモンはなつきやすいポケモンであり、育てやすいポケモンであることを求められる。
一部ドラゴンポケモン専門のような特殊なケースを除き、トレーナーが幼くても扱いやすいポケモンの捕獲や育成はジムに求められる役割だ。
また、自分の強さも当然だが、ジムトレーナーを指揮することも求められるため、ジムトレーナーへの指導も欠かせない。
そしてジムチャレンジの対応。
多くのトレーナーが目指すポケモンリーグ、その挑戦にはジムバッジの取得が必須。
原則としてジムリーダーはジムチャレンジシーズン中所属地方から移動することはできない。
そしてジムリーダーはそのエリアの最高戦力でもあるためいざというときの防衛戦力であることも求められる。
これはジムチャレンジと防衛の両面からポケモンリーグ本部より義務付けられている。
審査側がいないってのは問題だし、防衛戦力が不在ってのも問題だろう。
という具合に多種多様の業務がある。
まあ、何が言いたいかというとだ。
「し、書類が……書類が終わらない……」
俺は今、最も重要な仕事である各種申請や承認関連の書類作成に追われている。
文字を追いすぎて目が疲れてきた。
頭から煙が吹いているのではと錯覚してしまう。
思わず手に持つペンを放り、そのまま机に伏せる。
「ジェイドさん、気持ちはわかるけど頑張ってください。あと少しですから」
同じように書類作業に勤しむラシルの声。
視線だけラシルの方へ向けると彼女は淀みなくペンを走らせていた。
ただその瞳からはハイライトが消えており、疲れているのが見て取れた。
そうだ、彼女も手伝ってくれている。
ここで俺がへこたれるわけにはいかないか。
バチンと両手で頬を叩き、気合を入れ直して再び書類へと向き直った。
文字を書く音、書類を捲る音と2人の息使いのみが室内を満たす。
しばらくして……
「「終わった~」」
俺とラシルの気の抜けた声とペンが机を転がる音が同時に響き渡る。
流石ジム運営。
仮にも一地方主幹事業であり、世界的に普及している事業なだけはある。
必要な書類や申請の多いことといったら。
「ジェイドさん、コーヒーでも飲みませんか? 淹れますよ?」
「いいね、じゃあお願いしようかな?」
「はい!」
ラシルがすっと席から立つと併設してある仮設キッチンへと向かい、慣れた手つきでコーヒーを準備し始めた。
このリーダー用執務室で長時間書類仕事をすることが多いせいか、コーヒーメーカーまで設置してある。
ラシル曰く「本当はコーヒーミルとかから拘りたいのですけどね。無理に高級品を置いても仕方がないので」らしい。
だが淹れ方が上手いのだろうか。いつもおいしいコーヒーをご馳走してくれる。
「はい、ジェイドさん」
「ありがとう」
ラシルが手に持ったマグカップを手渡してきた。
俺がそれを受け取ると、彼女はそのまま俺の方へ近づいて執務机の上へと腰かける。
コーヒーの香りがふわりと鼻孔をくすぐる。
しかし、他に誰もいないとはいえラシルが机に乗るとは。
慎み深い彼女にしては珍しい。
「なんとか目途が付きそうですね」
「ああ。本当にいつも助けられてるよ」
「それが私の仕事で、やりたいことですから」
口ではそう言いながらもラシルの表情は仕事中より柔らかい。
プライベート時に見せてくれるそれだ。
コーヒーを飲みながらこちらにウィンクしてくれる。
それにちょっと気恥ずかしさを覚えて視線を逸らした。
沈黙が室内に満ちる。
しばらくそのまま二人きりの静かな時間が過ぎる。
どれくらいたっただろうか、机の上にラシルの持っていたカップが置かれた音がした。
その音に誘われて視線を向けたとき、目の前にラシルの背中があった。
「……え?」
頭に疑問符が飛び交う中、俺の膝の上にラシルがポスンと座った。
視界に彼女のまるで太陽のような金髪が広がる。
「ちょ、え?!ラ、ラシル?!」
「まあまあ」
そのまま俺の体に背中を預け、頭を俺の左肩に乗せるようのけぞってくる。
彼女の香水の香りと体の柔らかさに心臓が跳ねる。
「ふむ、ヴァイスがやりたくなるのが理解できました」
「は?」
「この安心できる感じ。何事にも代えがたいです」
ラシルがそのまま大きく息を吐いて体から力を抜いたのがわかる。
彼女の頭が近いからか、その吐息が耳にかかってこそばゆい。
思わずビクンと体が跳ねた。
「あら?どうしました?」
「うぇ?!」
彼女へと視線を向けると、まるで悪戯の成功した猫のように目を細めながらクスクス笑う彼女の姿。
それに恥ずかしくなって思わず視線を背けようとして、
「逸らしちゃだめですよ」
いつの間にか伸ばされていた彼女の右手が優しく頬に触れ、視線を逸らすことを許されなかった。
眼鏡越しに彼女の視線と交差する。
彼女はさっきまでの猫みたいな笑みではなく、静かに優しく微笑んでいる。
その太陽な金の瞳にまるで吸い込まれるような錯覚を覚えた。
でも離れようとは思えなくなって、
「……時間切れ、ですね」
彼女の瞳が一瞬輝いたかと思うと、すっとまるで陽炎のように離れていた。
あまりに突然のことに頭の理解が追いついてこない。
一体何が、そう思ったとき執務室のドアがノックされる。
「あ、どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのはオレンジの長い髪を腰のあたりでまとめている長身の女性、アネットだ。
ラシルが信頼する優秀な部下であり、我がシセンジム総務部門の秘書課に所属している。
なるほど、彼女が来るのを感じ取ったから離れたのか。
ほっとしたような、ちょっと残念だったような。
「何かありました?」
「はい。ジェイドさんにリアン室長が報告したいことがあるから、トレーニングルームに来てほしいとの連絡が……」
「リアンさん、あの人は本当に……」
ラシルが困ったように額に指を置いて溜息をつく。
ラシル的には仮にもジムのトップである俺を呼びつけるというのが納得いかないのだろう。
「わかった。じゃあこれから向かうよ」
「……まあ、承認関係も一旦落ち着きましたからいいですけど」
ちょっと不満そうなラシル。
そんな姿に申し訳ないなと思いながら、アネットの横を通り抜けて執務室を出るとトレーニングルームへと向かった。
我がジムのトレーニングルームは最新式のレベル調整装置、わざマシン作成装置、わざ習得装置にパルデア式回復装置を完備。
バトルコートは水辺、森林、岩場などを再現したものから、ひでりやあめなどの天候状態固定、トリックルームや重力、各種フィールドなどのバトル環境を選択できる場所も用意している。
正直な話、これらは現時点では維持に多大なコストがかかっている。
ビルド〜マイナーランクのジムでここまでの設備をジムトレーナーに提供できるのはうちだけだろう。
メジャーでも類を見ない部類だ。
手入れ専用のポケモンの育成、管理、設備の保守点検だけでも目が眩む額なのに、それらのアップデート費用に加えて進化アイテムや育成補助アイテムも完備しているので更にドン。
だが、これからの目的を考えると必要な投資だ。
それに回収の目はある。だからといって不安がないわけではないが。
そんなことをつらつらと考えていると、次第にジムトレーナーたちの声が聞こえてきた。
「いけ!!フシギダネ!!つるのムチ!!」
「怯むなリーフィア、はっぱカッター!!」
「次の組!! 不意打ち取り合い10本始め!!」
「そこ!!適当に指示を出すな!!もっとわざを打つタイミングを意識しろ!!」
「君、それ以上は君もポケモンもオーバーワークだ。しっかりと休憩を取りなさい。大丈夫、自力はついてきてる。焦らず行こう」
「そっちの君はまだトレーナーとポケモンのコミュニケーションが足りないな。よし、今から特別メニューだ。ランニングコースを10周+α。勿論ポケモンと並走でだ。……?そのピカチュウはなんだって?そりゃ一定より遅いと罰ゲームならぬ罰電撃波だからさ。ホラ走った走った!!」
トレーニングルームの扉を開けると活気に溢れていた。
バトルして練度を上げるもの、わざの訓練により精度を上げるもの、それを見守る上位トレーナー。
コンディションをよく確認し、人もポケモンも正しく成長していく姿。
誰も彼も真剣に自らの相棒と心通わせ、集中し、己が練度を高めるべく鍛錬している。一部若干スパルタコースに入った気がするが見ないことにしよう。どちらにせよ体力は必要だし。
人数はメジャーのジムと比較すればまだ少ないものの、先日のビルドから昇格したことで以前より増えた。
今後のことを考えるともっと拡張するか、それとも……
「あ、ジェイドさん。いらっしゃいませ。今日は視察ですか?」
訓練風景を眺めながら次のジムの方針について思考している声をかけられたので、そちらへと視線を向ける。
そこにはリアンの部下であり、ジムトレーナー育成部門の副リーダーであるフィアが駆けてきた。
金髪のアホ毛がぴょこぴょこ揺れるのがその身長も相まって可愛らしい
だが、ぱっと見幼女っぽく見えるが年齢は俺たちと同年代。酒も飲めればタバコも吸える。
お酒に限ればウワバミだ。
「なんか今失礼なこと考えませんでした?」
「そんなことないよ?うちの育成部門は頼もしいな、と思っただけ」
「そうですか? ま、それほどでもありますけどね!」
得意満面な表情で胸を張るフィア。
鋭い。そしてそれ以上にチョロい。
まあ、これくらいのほうがリアンと一緒にやっていく上ではちょうどいいのかもしれない。
「それで忙しいところ悪いんだけどリアンに呼ばれてるんだ。どこにいるか知らないかな」
「リアンさ、リアン室長なら奥の部屋に。今新人とポケモンの育成データをチェックしてるところです」
私もこの指導が終わったらそっちに合流する予定です、といってフィアは再びジムトレーナーたちの下へと駆けていった。
それを見送ってから俺も奥の目的の部屋に向かう。
「おう、ジェイド。呼びつけて悪かったな」
「大丈夫。リアンの方が忙しいのは知ってるから」
扉を開け、部屋に入るやいなや複数のPCを操作してデータを纏めるリアンの後姿。
いつもの特性ハーバルシガレットを咥えているのか、白い煙が細く立ち昇っている。
「まあ、用とは言ってもそんな大したことはない。1つはマイナーリーグマッチ用のメンバーの調整が完了した件。明日からでいいからジムトレーナーの前で連携の確認とか開始してくれ」
「わかった。いつも助かるよ。でも皆の前でやる意味ある?」
「ある。今の手持ちをアピールすることはジムトレーナー側の士気高揚に繋がる。俺たちのボスはこれだけ強いんだぞ、ってな。ついでにバトルの一つでもしてもらえたら尚良しだ」
入力作業を止め、くるりとこちらへ振り向くリアン。
吸いきったシガレットを取り、吸殻入れに入れた。
「あとは一般来場者へのアピールだな。うちのジムリーダーはしっかりと後進育成もしていますって様子が見えると参加者も増えやすい。どうせラシルもその時には来るだろうから人寄せにはピッタリだ」
リアンはクククっと悪い笑みを浮かべながら新しいシガレットを取り出す。
加えると同時に手慣れた手つきでジッポで火をつけ、吸い始めた。
「なるほどね。色んな理由があるわけだ」
本当はこんなことも俺が考えたほうがいいんだろうけど、そんなこと思いつきもしなかった。
ほとほと上に立つのに向いてないな、と思う。
「なんか余計なことを考えてそうだから釘を差しておくが」
「ん?」
「俺達は、それぞれ思惑はあれど”お前だから“ついていくんだ。お前じゃなかったらこんなブラックスレスレの職場にいるものかよ。そこは間違えるなよ?お前が頭だから俺達は動けるんだ」
リアンが火のついたシガレットをこちらへと向ける。
その煙の向こうにあるのは真剣な瞳。
「……わかった、ありがとう」
「ならいい。それと2つ目だかボールペイント用塗料が完成した。量産体制もすぐ整うらしいから来月にはうちの商品として出せるはずだ」
「それは朗報だね。正直ジム活動のコストの高さには目が眩みそうだったから、定期収入の宛は大きい」
ボールペイント用塗料とはボールデコシールの塗料版だ。
シールだと形状が固定化されてしまうが、これならお絵描き感覚でボールデコできる。
ライト層にきっとうけるに違いない。
「あとは新ボール及びボール関連の開発もあと少しだ。もう少し安定化すればこれも目玉になるはずだ。細かい進捗や利益予想はラシルに提出したからそっちから聞いてくれ」
「わかった」
後はボールの開発とボール関連道具か。投げるのが苦手なトレーナー用の道具とか新型のボール類。
これも軌道に乗ればでかい。色々と前に進んでいる。
「最後に3つ目だが、お前のメインメンバーたちが寂しがっている。忙しいのは分かるが息抜きがてらそろそろ顔を出してやれ。特に新入りはまだまだだから一度立場をはっきりさせたほうが良い」
「たしかに、そういえば最近あっちに行ってなかったな。ありがとう、このあと顔出しにいくよ」
「要件は以上だ。また進捗はメールで共有するから、ちゃんとスマホロトム見ておけよ?」
リアンはそういうと再びPCへと向き直り、猛然と操作を再開した。画面が目まぐるしく変わっていく。
これ以上リアンも報告ないみたいだし、邪魔になる前にお暇するか。
そう判断し、静かに部屋を出た。
トレーニングをしている皆の邪魔をしないようそっとトレーニングルームからでて、再び執務室へと足を向けた。
これから向かう場所は特別な場所だから、今のところ執務室からしか出入りする場所がないようにしている。
ゆくゆくは別の場所からも出入り可能にしたいのだけれど、現時点ではまだ目処が立っていない。
このあたりは適正的にリアンとヴァイスに任せるしかないのが申し訳ない。
とにかく、今は自分にやれることをやろう。
そう気合を入れ直す。
「ジェ〜イド!!」
「おぅっ?!」
と意気込むや否や、“真上”から落ちてきた衝撃と柔らかい感触。
なんとか背中にのしかかるそれを落とさないよう態勢を保ちつつ振り向く。
そこにいたのは満面の笑みを浮かべるヴァイス。
腕をこちらの首から回し、いつの間にか足でもしがみつかれていた。
まるで猫だな、と思いつつまさか上から降ってくることに気付けないことに情けなさを感じてしまう。
昔は全方位に意識を巡らせていたんだが。
いや。これは成長したヴァイスを褒めるべきなんだろう。
それはそれとして自分の鍛え直しも要るだろうけど。
「あ〜、また難しい顔してる。どうせ私に上を取られた〜とか昔は〜とか思ってるんでしょ」
「え、思考を読まれた?」
「それくらいジェイドの顔見れば一発だよ?」
多分ラシルとかでもわかるんじゃないかな、とケラケラ笑いながら語るヴァイスにそんなに分かりやすいかなと思わずペタペタ顔を触ってしまう。
「まあ、普通はわからないから気にしないで。それより〜」
「?」
まるでチェシャ猫のような笑みを浮かべるヴァイス。
彼女の腕と脚に込められた力が苦しくない程度に強くなる。
彼女の艷やかな唇が耳元へとよせられ、強く抱きしめられることで彼女の香りが鼻腔を擽った。
そして意識してしまう彼女の身体の柔らかさ。
一気に頬が熱くなる。
「どう?今の状態のご感想は?ラシルほどじゃないにせよ抱き締められ心地、いいんじゃない?」
「ば、バカ!?こんなところで何いってんだ!?」
「アハハ、ごめんごめん。よっと」
そういうとまるで軽業師のように身体を翻して俺の前に降り立つ。
ちょっとだけ残念と思ってしまったのは墓の下まで持っていこう。
「たく……それで、何かあったのか?」
「ううん?別に何も?ラシルに進捗報告した帰りにジェイド見つけたからきただけ」
「そっか、何事もないならいいんだ」
「あ、一応口頭で言っておくと、私のとこの捕獲室で初心者向けのポケモンとしてフシギダネやワニノコ、ヒバニー等を数匹ずつ。あと街の開発用のポケモンでドテッコツやカイリキー、ブロロローム等を数匹ずつ捕獲してきたよ。ポケモンはいつも通りリアンのとこに、内訳はラシルに書類で渡してるから確認しといて」
「ああ、わかった。いつも助かるよ」
ヴァイスには捕獲部門で新人トレーナー向けポケモンや街の再開発用にポケモンを捕獲するチームを編成してもらい、各地で捕獲作業をお願いしている。
勿論乱獲なんかはせず、テレパシーの得意なエスパータイプ、サーナイトなどと一緒に協力を依頼してからの捕獲だ。
どこぞの暴力団まがいのところとは違う。
最大限生態系にも、ポケモンの意思も尊重しているつもりだ。
「これでまた街の開発が進むね」
「ああ、これで港の開発にも着手できるようになるから他地方の商品を仕入れることもできる。そしたら人の雇用も増やせるようになるから、人の行き来も増える」
「頑張らないとね!!」
「ああ。……ごめんな、いつも色んなところに行かせて」
「な〜に言ってるの。いつもテレポートで戻ってるし、それに拠点が決まったらリアンがマーキングして、いつでも行き来できるようになるんだから」
気にした様子も見せずウィンクで答える彼女。
そんなことより、と続け
「ジェイドは何してるの?」
「ああ、俺はリアンから調整終わったって聞いたから様子を観に行くところだけど」
「ふぅん。……ねぇ、私も一緒に行っていい?」
「別に構わないけど」
そう答えたことに満足したのか、ヴァイスは満面の笑みを浮かべて小さくガッツポーズすると俺の横に立つ。
そんな姿にワンパチの姿を幻視しながら、そのまま彼女と並んで執務室へと向かった。
執務室の扉を開くとそこにラシルの姿はなかった。
休憩にでも行っているのだろうか。
まあ、そこまで気にすることではないだろう。
そのまま執務室の奥にある本棚の前へと立つと、そこにある翠、紅の本を同時に引いてから蒼の本を押し込む。
すると本棚が少しだけ前にせり出すと横にスライドし、その後ろの景色が露わになる。
闇だ。
明らかに周囲の壁とは違う空間がそこにあった。
勿論、足元には階段も床もない。
俺はそこにためらいもなく踏み込んだ。
一瞬視界が黒く染まり、ほぼ間を置かずに陽光で照らされた草原が広がる空間へと降り立つ。
先ほどまでの執務室とは打って変わって明らかに自然豊かな場所。
風が吹き、温かな陽気に満ちたそこに不似合いなものがあった。
何かが地面に叩きつけられて砕ける音、空を切り裂く銀色の光線。
明らかに戦闘中だ。
近くはないが、決して余波が及ばない距離ではない。
「ソウル」
「……」
俺の影に向かって呼びかけると、音もなく1匹のポケモンが浮かび上がるように姿を現す。
それは深紫の鎧と桔梗色の炎を纏うポケモン、ソウブレイズ。
最も付き合いの長い相棒だ。
生まれ故郷で初めて出会ったポケモンであり、一緒に流浪の旅を生き抜いてきた友。
試合以外の時は俺の影に潜んでいる。
その菫色の瞳が今なお戦闘が続く方を睨み、両腕の炎剣を構えた。
次の瞬間、再度響き渡る咆哮と打撃音。
遅れて目の前に落ちてくる1匹のポケモン。
枯葉の体と白色の蔦でできた目を持つカタツムリに似た姿であり、その背中には貝ではなく多数の木簡が渦のように連なり貝殻状になっている。
厄災ポケモン、チオンジェンだ。
リアンと出会った頃にパルデアの地で見つけ、捕獲したポケモンの一体。
だが、その姿は所々焦げ、背中の貝の部分が少し欠けている。
明らかに何かしらの形でダメージを受けている様子だ。
だがその目は鋭くこちらを睨んでいる。
流石準伝説級のポケモンだ。
普通ならモンスターボールで捕獲されたら格付けされていうことを聞く様になるのにまだこちらへの敵意を失っていない。
いや、これは恨みか。
背中の木簡は処罰された人の恨み、当時の王への告発と推測されるものらしい。
たかが一回捕獲しただけではだめか。
ソウルもそれを察したのか、すっと俺たちの前へと出る。
両腕の剣へ炎を纏って臨戦態勢だ。
「シィィィィイイイ!!」
チオンジェンが咆哮すると悪の波動を放つ。
流石準伝説。
耐久寄りの能力配分のはずなのにその辺のエリートトレーナーの主力並みの威力が出せるのか。
しかも明らかにトレーナーの俺を狙っているところから、野生のポケモンとはいえ一味違う。
だが、
「ソウ!!」
ソウルが剣から噴き出す炎を強め、無念の剣で波動を切り払った。
俺を狙ったことを察したソウルの闘志に火が付いた(こうげき6段階アップ)
そして、
「ジェイドを狙ったね?」
俺の横に立っていたヴァイスがさっきまでの笑みを消した。
まるで刃のような殺気に近い怒気がチオンジェンへとまっすぐに注がれる。
いつの間にボールから出したのか、彼女の相棒であるマスカーニャも鋭く睨みつけている。
「ニャオカ、燕返し」
さっきまでの明るさなどないいっそ底冷えするような声音で出された指示を受け、マスカーニャがチオンジェンへととびかかった。
一気に懐に入り、変幻自在でタイプ一致となった燕返しを放ち、チオンジェンを打ち上げる。
「そのままアクロバット。地上の有難みを教えてやって?」
「ニャ!!」
まるで鳥ポケモンのように宙を駆け、連撃を見舞うマスカーニャ。
チオンジェンもやどりぎの種を放ってペースを握ろうとするが、その悉くをマスカーニャが叩き落としていく。
それを見ながら俺もソウルに指示を出す。
「ソウル、日本晴れ」
ソウルがその剣を掲げると日差しが一気に強くなる。
その恩恵を受けて纏う炎の出力が上がる。
「ニャオカ、チオンジェンをアクロバットで打ち上げてからサイドチェンジ!!」
「ニャーオ!!」
マスカーニャが空中で回転してチオンジェンを蹴り落とすとサイドチェンジを発動する。マスカーニャとソウルが一瞬で入れ替わり、ソウルが空中で剣を掲げた。
それと同時に地面へとチオンジェンが叩きつけられた。
「正怒の剣」
俺の指示に合わせてソウルの右腕の剣に纏われた炎が一気に巨大化した。
無念の剣から育成、派生させた新技だ。
今掛けられている強化量に応じて威力を上げる、アシストパワーに近い技。
攻撃後に強化は失うが、威力はアシストパワーより上だ。
「シィイイ?!?!」
「ソォォォォウ!!」
ソウルの放つ技に何かを察したのだろう。
チオンジェンが悪の波動をソウルへとがむしゃらに打ち始めた。
「ニャオカ、はどうだんで撃ち落として」
「ニャ!!」
ヴァイスの指示でソウルを狙った悪の波動がすべて撃ち落とされた。
絶好の機会。
巨大化した炎が収束、長大な剣の形状へと変化し、それがまっすぐに振り下ろされた。
一閃。
チオンジェンを中心に炎剣により大地が切り裂かれる。
そのままチオンジェンがその体を大地へと横たえた。
「ヴァイス、ありがとう。助かったよ」
「いいよいいよ、気にしないで」
俺はヴァイスへとお礼を言いながら倒れるチオンジェンの方へと向かう。
正怒の剣を振るったソウルがチオンジェンへと剣を向けている。
小さくなるほどには弱ってはいないものの、先ほどより恨みの視線は薄くなり僅かながらの畏れを感じる。
やはり準伝説は”準”伝説なのだ。
身体強度や能力は間違いなく一般の野生ポケモンより強力ではある。
だがそれだけだ。
鍛えに鍛えた一般ポケモンに対しては後れを取る。
勿論鍛えたら別なのだろうけど、それは互いの信頼関係がいる。
ただ訓練すれば、ただ道具を使えば、ただ技を覚えさせれば
そんな単純な話ではないのだ。
信頼関係があれば未確認の技だけでなく特性を生み出すこともできる。
だがトレーナーとポケモン双方に信頼がなければ何の意味もないのだ。
だから、
「わかったか、チオンジェン。人間を恨むのも憎むのも、俺に対して敵意を向けるのもわからなくはない。だが、今のお前じゃ俺達には勝てない」
「……」
「別に全面的に従え、なんていう気はない。お前もある意味被害者だからな、あんなところに封印されてたんだから。だがそれはそれだ。悪いようにはしないから俺の仲間たちに耳を傾けてくれ」
「…………シィ」
不承不承といった感じではあるが肯くチオンジェン。
とりあえずではあるが、なんとかなったか。リアンの想定までいっているかは不明だが。
あとは……
「だけど、あいつらの説得は無理だから。そのあたりは諦めてくれ」
「シィ?」
俺の言葉を待っていたのか大地を引き裂いて飛び出した蔦と空から降り注いだ雷が即席の檻となりチオンジェンを拘束した。
突然変わった状況にヴァイス、マスカーニャは目を丸くしていたが、俺とソウルはおよそ想定していた。
あいつらが俺に対して害意を向けた存在を簡単に許すとは思えなかったからだ。
「シ?!シ?!シィイィィイィ?!?!」
もがきながら蔦と電撃の檻を振りほどこうとするチオンジェン。
だが振りほどけない。
より一層に蔦が締め付ける力が増し、電撃の出力が上がった。
「だから言ったろ。俺達には勝てないって。まあ、一応方針には納得してくれたみたいだから、そこまでではないだろう」
次第にチオンジェンが蔦の飛び出した裂け目へと引き摺り込まれていく。
「シィイ?!シィィィイイイイ?!」
「まあ、あいつらには一言言っておいてやるから」
「シイイイイイイイィィィィ…………」
悲痛な叫びを上げながら裂け目の奥へと消えていくチオンジェン。
叫び声が遠くへと消えていき、遠くから再び爆音が鳴り響き始めた。
チオンジェンに起きている悲劇を重い、思わず合唱してしまった。
「ま、残当ってやつだよね」
「ニャア」
ヴァイスが一連の流れを当たり前だと呟き、マスカーニャが同意するように頷いている。
「まあ、どうせ様子は見てただろうし、あとはあいつらに任せよう。それより……」
振り向くとフーナ、バーナ、レディ、それに加えてオリーヴァのリーヴァ、タルップルのループ、キノガッサのサガ、リーフィアのアーリ、オーロットのロットの姿があった。
全員前シーズンのビルドリーグマッチに登録したメンバーだ。
「みんな調整お疲れ。そろそろ今シーズンのジム巡りも終わり、来シーズンのマイナーリーグマッチが始まる」
昨年と今年のメジャーは波乱の年だった。
昨年はリーダーマクワがリーダーサイトウに敗北してマイナーへ落ち、今年はリーダーメロンがリーダーオニオンに敗れてマイナーへと落ちた。
つまり、今シーズンにはマイナーに落ちたとはいえメジャー経験者が2名もいるのだ。
厳しくないわけがない。
「みんな、またこのメンバーでマイナーリーグマッチに挑戦する。今度は前とは違う。間違いなくフルメンバーでの総力戦になるだろう」
一体一体をみつめて語り掛ける。
怯えも恐れもない。全員やる気に満ちている。
それはそうだ。
レディは古い付き合いだが、それ以外も一競技ポケモンとしてだけでなく俺の想いを応援してくれてここに立っている。
これくらいの状況で怯むものなどいない。
「だけどここで勝ってメジャーに上がる。俺の夢を叶えるためにもみんな力を貸してくれ」
「フーン!!」
「バナ!!」
「レディ!!」
「リーヴ!!」
「ルップ!!」
「キノ!!」
「リーア!!」
「オーロ!!」
全員の力強い鳴き声と咆哮。
心強い。
想定より一段上のハードルになってしまったが、こいつらと一緒ならきっとクリアできる。
「じゃあ、明日全員で調整状況の確認を兼ねてジムメンバーの前で模擬戦をするからそのつもりで。まずは久しぶりにキャンプでもして親睦を深めようか」
「レッディ!!」
レディの嬉しそうな声に合わせてあるものは枯れ木などを拾いに森林部へ、あるものは自分の好物を探しに移動を開始した。
そういえばこんな感じでコミュニケーションをとるのは久しぶりだったか。
俺も注意しないとなあ。
いっそのこと執務環境をこっちに、いやそれは色々不都合かあるからなあ。
あいつらがある程度動けるようにするにはどうしてもこの場所である必要がある。
「………ィ……シ………」
遠くに聞こえるお仕置き中のチオンジェンの悲鳴と爆音、轟音。
それを遠くに聞きながら、まだまだ考えることはいっぱいだとひそかに心中で溜息をついた。