シュガーケージ ─愚者は己の鎖を編む─   作:hl_be2

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第2話 恋する犬は尾をすぼめる

 液晶の放つ青白い光を、幸せな未来のまばゆい光が溢れてきているものだと錯覚していた。

 

 週末の自室。画面を震わせる着信音と、時間とともに増えていく数字は、誰の特別でもない私を見つけ出し、居場所を与えてくれる運命の足音だと信じ込んでいた。

 けれど、その電子的な輝きの点滅が、物も社会も知らぬ幼稚で哀れな獲物を釣り上げるための「デコイの輝き」でしかないと気がついた頃。──私は世間のいう『馬鹿な若者』という言葉が誰に向けられたものなのかを、抱えきれない負債を代償にようやく理解させられていた。

 

 画面越しの甘い誘いも頼られた高揚も、所詮それは私ではなく、私を新たな餌として呼び寄せられる、より大きな獲物に向けられたものに過ぎなかったのだ。

 

 *

 

 閉園間際の動物園のような淀み切った体育館で、市役所の職員のおじさんが、少しずつかすれ始めた声で説明を続けていた。

「──アマル犯罪の増加も見過ごせない問題になっています。特に嗅覚や聴覚の基準が異なる中、それにつけ込む違法な──」

 

 その退屈な声に揺られて、モコクンの脳が昼寝の時間だと錯覚し始めたころ、優秀で勤勉な鼻が嫌な匂いをとらえた。二度と嗅ぐことがないようにと願っていた匂いだった。

 わたあめのようにふかふかとした耳を掴み、顔に寄せて視界を狭くする。嗅覚がより鋭くなって、すぐに匂いの出所を特定できた。

 

 ラコだ。

 

 昔、幼馴染のラコが厳しい母親にひどく説教され、泣きじゃくっていた日と似た匂いだ。

 

 どうしてこんなときに?

 もう数年、まともに口も利いていないというのに、身体に染み付いたイヌの本能が、群れの仲間の危機に反応して警鐘を鳴らす。

 モコクンは考えるよりも先に、イヌのような低い姿勢でゆっくりと列の前に這い出していた。

「どした?」「モコ?」という友人たちの声や、ぺしぺしと腿を叩いてくる手をすり抜け、震える小さな肩に寄り添った。

 

「……ねえ」

 

 驚くラコとほんの短いやり取りの末、体育館を飛び出していく後ろ姿を見送るしかなかった。

 

 集会を終えても先ほどのラコの匂いと表情に思考を絡めとられ、立ち尽くしたまま動けなかった。仲のいいギャルグループが駆け寄ってくる。

 自身の行動について質問攻めにあうも、どれに答える間もないまま、さらに別の方向から声を掛けられることになった。

 声の主の職員は、マユゥと名乗った。

 

 ラコの様子が気になったモコクンとマユゥは、一時的な同盟を組んでラコの家に向かうことにした。

 その結果、幼馴染がなにか大きな問題から解放され、モコクンはその報酬として、三十種類もの「ありがとう」のスタンプを浴びる権利を得たのだった。

 

 *

 

 昼休みの教室。冬の柔らかい日差しの中で、友人たちの遠慮のない笑い声が飛び交っていた。

「えー、今日放課後カラオケ行こーよ」

「いかねー。今日ウチ、彼氏とデートだもん。駅前に新しくできたカフェ行くし」

 

 モコクンは机に突っ伏しながら、ストローで紙パックのミルクティーを音を立てて啜った。教室の隅には、相変わらず冬服を着込んだラコがひとりで座っている。だが、昨日よりも素直でおとなしい尾をもっているようで、スマートフォンを見つめるその横顔には、どこか静かで満たされたような熱が微かに灯っているように見えた。

 

「モコ誘えばいいじゃん」

 

 不意に、オレンジ色のトイプードルの耳を揺らしてぼんやりとしていたモコクンに、友人のひとりがニヤニヤしながら肩を小突いてきた。

「じゃんってなんだよ。むかつく言い方だなぁ」

 

 ゲラゲラと笑い合う友人たち。その悪意のない「彼氏いないいじり」が、どうしてかいつもより心臓を握りしめた。

 昨夜のドラマチックといえなくもない事件のせいか、当事者になりきれなかった自分には「孤独」という二文字がよく似合う気がしていた。

 

「……トイレ行ってくる」

「おーい、怒るなよ」

 

 少しだけ空気が崩れた教室から逃げるように、スマートフォンだけを握りしめて廊下を歩く。自ら本当の孤独に飛び込んだことを心の中で嘲笑しながら、スマートフォンの画面を開くと、派手なピンクのアイコンをタップしてマッチングアプリを開いた。

 恋人がいればこんな気持ちにもならないし、いじられることもなくなる。そう願って、いままで開いてもいなかった男とのトーク画面を開く。

 

『まず会おうよ』

 

 顔写真も設定されていないアカウントからのたった一言。普段は無視するようなメッセージだったが、今日に限っては寂しさが燃料となった。すぐにその下に、オレンジのイヌ耳が丸く切り取られたアイコンとともに、モコクンからのメッセージが並んだ。

『駅前の新しいカフェ。おごって』

 

 *

 

 悪びれた友達からのカラオケの誘いを正式に断って、日も沈みかけた駅前で待ち合わせていると、すぐに身なりの整った二十代前半に見える男が訪れた。スパイキーショートのヘアスタイルは、頭の横の丸い耳とのギャップを上手にファッションに取り入れて、首から襟の内側まで続く点描柄の毛は雄弁に強さを誇示していた。やや目尻下がりの黒い目は、優しさに溢れているようにも見えて、そのギャップが魅力的に映った。

 そんな男がスリーピースをパリッと着こなして胸を張って近づいて来るのだから、今度は自分自身の手で心臓をつよく握りしめたくなった。誰に聞いてもイケメンだと評されるだろう整った顔と自信に満ちた表情をしている。

 勤勉な鼻もついつい仕事を放棄してしまうほどだった。

 

「待たせてごめんね。モコちゃん、だよね?」

「ひゃい!」

 

 情けない声が飛び出した口を躾けるように、手のひらで自分の顔をべちんと打った。その様子を見てハハハと笑う男の視線が恥ずかしくて俯くも、しかしもう一度甘い顔を見つめたくて目線だけを持ち上げた。運命を感じていた。目が合うと男は自らの名をリカオと名乗り、また笑った。

 やや遅い時間のデートで、カフェの客はまばらだった。ふたりはこれ幸いと人目につきづらい奥の席で、ロマンチックな会話を楽しむことにした。

 リカオが注文した「キリマンジャロ」も、ミルクとシロップを断ったことも、モコクンがメニューを決められずに唸りはじめるとすぐに「モコちゃんだから、カフェモカが似合いそう」と強引に決めてくれたことも、すべてがかっこよく映って仕方がなかった。

 加えてひと切れのミルクレープを注文して、丸テーブルの四つの席の、片側に並んで座りながら他愛のない話ばかりをたくさん聞いてもらった。

 

 緊張からか、我慢できずに一度だけトイレへ立って席に戻ると、テーブルの上から伝票が消えていた。モコクンにとっては憧れのシチュエーションである『いつの間にかお会計済み』が起きたのだと気がつき、たまらなく嬉しかった。

 さっきよりもキラキラして見えるミルクレープの残りを食べ終えてしまったが、まだ別れたくないと会話を粘ってしまい、誰にでも尻尾を振るよだれ臭いイヌコロだと思われていないか心配になった。だが、気をつけようとしても尻尾の付け根の筋肉がしっかりと疲労を感じているのがわかって、手遅れだったと気がつき顔が茹で上がった。

 リカオのスマートフォンが鳴った。

 

「……うわぁ、この後か」

「ど、どうしたの?」

 

 リカオの大仰なリアクションを覗き込むと、透き通った瞳がバチンと音を立てて交差した。

「このあと、とても大事なお客さんからご飯の誘いがきたんだけど、どうしても深夜までに終わらせないといけない仕事があるんだよ。ああ、ここで断ったら気を悪くさせてしまうなぁ」

 

 仕事に一生懸命で忙しいメンズに、恋心のリードを奪われて、離れようにも離れられない。大人の男性にじっと憧れの目線を注ぎ続けていると、再び目が合ったリカオは、閃いたように頷いた。

 

「そうだ、モコちゃん。代わりに行ってくれないか?」

「は!? ええ? あたしが!?」

 

 絶対に無理な頼み事と想像もできない展開に、両手を突き出して拒もうとしたが、その手首をつかまれ身体ごと引き寄せられてしまう。その手首に、先ほどどこかで見たようなキラキラが光ったような気がしたが、意識をそこに向ける隙間などなく、心臓がキュンと飛び跳ねた。

 まつ毛や目元のほんのわずかな笑い皺までがトキメキを増幅させ、もうなにも言うことはできなかった。尻尾は壊れたメトロノームのようだった。

 

 リカオが手配したタクシーで約束のホテルに到着すると、待機していたホテルマンがレストランまで案内してくれた。あまりの手際の良さにレストランまでの道のりの記憶がひとつも残っていなかった。不安もあったが、リカオの役に立てることがとにかく嬉しかった。

 

 シャンデリアやキャンドルで飾られた、自らを高級であることを疑わない格式高い展望レストランには、煌びやかなスーツとドレスを優雅に着こなす客ばかりだった。そこにひとり、場違いなセーラー服姿で案内されたモコクンは、相手の到着まで、自分をティーカッププードルのアマルだと思い込もうと必死に自己催眠をかけていた。

 しばらくしてひとりの初老の男性が近づいてきた。流れる白髪はタテガミのようで、顎下から伸びた髭とひとつになって、胸元までたっぷりとたくわえていた。それが光沢のあるセットアップジャケットに包まれ、腰からは白い毛筆のような尾が見え隠れする。しかし、あまりにも柔らかそうな物腰のせいで、彼が百獣の王のアマルだと気がつくのに時間がかかった。

 男性はモコクンの横までくると、ぺこりと頭を下げた。

 モコクンはぼーっと見上げていたが、はっとして立ち上がり、椅子をバタンと倒しながら大きく頭を振ってお辞儀した。

 

「ははは。楽にしてほしい。イオーと呼んでください」

「あ、あの。も、モコ……です!」

 

 たどたどしく名乗るモコクンに優しく微笑んだイオーは、丸テーブルの上の花瓶を挟んでモコクンの向かいに着席した。

「リカオくんが来れなかったのは残念だけど、あの子はとても気立てがよいね。誰かと食卓を囲いたいという、寂しい爺さんのわがままをわざわざ叶えてくれるとは。モコさんも、ほんとうにありがとう」

 

 ゆっくりと心地の良い語り口調だった。モコクンの三倍以上は生きているだろう相手から、ひとりのレディーとして扱われることに最初は緊張したが、それもすぐに解けていった。

 いつしかモコクンは、ニコニコと微笑むイオーに向けて、学校や友達、リカオの話を夢中で語っていた。「ほうほう」と打たれる相槌が心地よかった。気がつけばデザートも終わり、レストランからのサプライズで小さなテディベアのぬいぐるみまでプレゼントされていた。

 

「そうだ、モコさん。リカオくんから預かっているものはないかな?」

「あ、忘れていました! ごめんなさい」

 

 わたわたとしながらテディベアを隣の椅子に置き、ポケットの中から小さな袋を取り出す。別れ際にリカオに持たされ、イオーに渡すように頼まれていたものだ。

 イオーは丁寧にお礼を言いながら受け取ると、その場で封を開けた。中から零れるキラキラとした粉を指に取ると、自らの手首にそれを塗布していった。

 見覚えのあるキラキラだった。それも、今日。何度か……。

 

(リカオさんの、手にもあった、ような。……そう、あと……トイレからもどったときの、ケーキ……にも……)

 

 もう少しで記憶の引っ掛かりに気がつけそうだったが、その前に急激な眠気に襲われたかのように思考がぼやけていった。イオーのキラキラを纏った手がモコクンの肩に置かれていた。鼻の内側が少し痛かった。もう一歩のところでなにかを思い出せそうで、必死に記憶をたどると、昨日の体育館の光景がおぼろげに浮かんできた。

 

「──アマル犯罪の増加も見過ごせない問題になっています。特に嗅覚や聴覚の基準が異なる中、それにつけ込む違法な──」

 

「あ、あれ……? もしかしてなんか、やば……い、ことに」

「おや、モコさん。具合が悪そうだね。私の部屋に行って休もうか」

 

 イオーの声がかろうじて鼓膜を揺らしたのがわかった。なんと言われているかまでは理解ができなかった。

 

「──はい」

 

 なにも理解できていなかったが、イオーに従うべきだと思った。従っていたいと思った。

 

 *

 

 気がつけば、自室のベッドの上だった。

 どうやって帰ったのかも、途中の記憶も靄がかかってはっきりと思い出せない。ただ、体の奥底に居座る知らない重みと、手のひらに食い込んだ爪の痛みが、現実からの逃避を許さない。脳と体が別の主人に従っているような感覚だった。

 

 枕元のスマートフォンが点滅した。体中の腱も筋も言うことを聞かず、シーツに磔となったままの姿勢で肘から先だけ辛うじて動かした。顔に寄せたスマートフォンに目線だけ向けるとリカオからのメッセージが届いていた。

 

『モコちゃん、昨日は本当にありがとう! お客さんすごく喜んでくれて、俺の大きな仕事が決まりそうだよ。モコちゃんは俺の恩人だ。また彼に会ってほしいんだけど、頼めるかな?』

 

 胃の奥から甘いヘドロが浮き上がってきて、とっさに唇をかんだ。この上、吐瀉物にまみれる屈辱だけは避けたかった。

 画面の中の白々しい文字の羅列が、見えない首輪となってモコクンの首をギリッと締め付けた。

 気力も体力もなく、怒ることも、助けを求めることもいまは諦めた。

 液晶の青白い光が、声を殺して泣きじゃくる私の顔を、どこまでも冷たく照らしていた。

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