液晶の放つ青白い光を、大いなる正義の後光だなどと錯覚したことは無かった。
昼間の執務室。幼い頃から醸成してきた人並みの正義感を、この部屋から繋がる社会に裏切られて落ち込んだものだ。しかしそれは、世間知らずの自分の「酸いも甘いも」の前半部分がこれから訪れるのだと信じることで納得することにしていた。
そうして、社会を導くはずのその光が、いつか「本当の光」になるのを待ち続けていた頃。──その光は、『悪の信念』を持った者が手を伸ばしたときだけ煌々と輝くものだったと理解せざるを得なかった。
画面越しの向社会性を掲げて集められた知識も、所詮それは社会のためではなく、社会に及ぼさんとする者のために、都合よく振りかざすことができるむき身の刀身でしかなかったのだ。
*
統一された青い制服のおかげで辛うじて整然と並ぶ、落ち着きのない動物百科図鑑をやや高い壇上から眺めながら、マユゥは左耳に届く上司の説明を頭の中で反芻する勤勉な先輩の振る舞いをしていた。
「──その場合は、決して自分だけで解決しようなどと思わないこと。事態が悪化してしまう場合がほとんどです。速やかな通報にご協力をお願いします。私たち大人に頼ってください」
眼前に広がる光景を眺めていると、着実に集中力を失っていく学生たちがふと意識を覚醒させた騒ぎがあった。
騒ぎの中心ではふたりの生徒が立ち上がっていて、なにか小さな揉め事が起きているようだった。
自分に猛禽類のような視力がないことを恨みながら訝しげな眼で伺っていると、黒いネコのようなアマルが足をもたつかせながら立ち去った。その背をオレンジのわたあめのアマルが呆然と見送っていた。
集会が終わった頃に再び渦中にいたオレンジの子に目を向けると、似たようなデコラファッションの友達に囲まれながら俯いていた。
マユゥはこの集会の内容が無関係ではないのではと感じ、上司にひとこと持ち場を離れることを伝えると、オレンジの少女へと駆け寄った。
「ちょっと、なにがあったか教えてもらえないかな」
振り向いた少女は不安げにマユゥを見上げた。しかし、すぐに瞳に決意を宿すと、マユゥの手を取って体育館の端へ移動した。少女はモコクンと名乗った。トラのアマルらしい少女ラコのSOSを嗅ぎ取ったという、モコクンの嗅覚への絶対的自信を信じ、ひとりの大人としてモコクンに付き添うことを決めた。
その後ラコの問題を知ったマユゥは、正しい手順で手助けし支えようと臨んだ。だが、現実はそうもいかない。
問題に直面した当事者は、いわゆる正しい対応ではすぐには救われない。そして自身の「決して誇れない淀んだオタクとしての私生活」こそが、目の前の被害者を救えるかもしれないと気がついてしまったのだ。
マユゥは職員としても大人としても着飾ったアバターを脱ぎ捨てて、どろどろとした電子の沼に生息する情けない自分をネタバレすることで、本来は得られないほどの大勝を収めることになった。
その夜、自室のベッドに沈み込みながら、あらゆるポスターやぬいぐるみ、フィギュアの目線が交差するこの空間にしか存在しないはずの誇れない自我が、ラコとモコに認知されてしまったことをやや後悔していた。しかし同時に、ラコから何度も届く感謝のメッセージはマユゥの自尊心をコンパウンドで磨き上げたかのように輝かせ、アクリルのケースに飾り立てることになった。
複雑な心境を、せめて次はちゃんとした大人として対応するのだという決意で納得して、ラコへ送り返す文章は大人らしさを装った。
*
平和を感じさせる何気ない昼休みに、ロッカーからスマートフォンとお弁当箱の入った巾着を取り出して食堂へ向かう。画面を確認すると無限とも思える通知が開封をいまかいまかと待ち望んでおり、辟易とした。あの夜からなんとも厄介な生徒を受け持ってしまった。
食堂にたどり着くまでの短い通路の間だけでも現実逃避しようと、ポケットにスマートフォンをしまい込む。しかし、懸命に震えて主張を続けるデバイス以上に自身の肩が怒りで震えるのを堪え切れそうにないと気がつき、諦めてスマートフォンをチェックすることにした。
予想だにしないことが起きていた。画面にはラコからのSOSが表示されていた。
大量の「メッセージが削除されました」というシステムテキストの下に続く、ラコからの長文の状況説明に、マユゥの心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
モコクンが数日前から茫然自失であること。明らかになにかに巻き込まれていること。友達とつるむこともやめて毎日どこかへ消えること。
そして最後に短いメッセージで『先生電話して』と添えられていたのを見て、マユゥのつま先は向かう先を改めた。
ひと気のない廊下の端に辿り着くなり、アプリの受話器マークを押して耳に運ぶ。顔の横に耳がある手間のなさを喜んだのは初めてだった。遠くで着信メロディが数秒流れた後の無音を聞き届けるとラコの名を呼んだ。
「先生! よかった……。お仕事中なのにごめんなさい」
「気にしないでいいよ。メッセージ読んだよ。いま、モコちゃんはどういう状況なの?」
「ちょっと前からすっごい落ち込んでて、帰りもどこかに行ってて……。今日とか、昨日くらいから、なんか様子が変で……、気持ち悪いくらいニコニコしてるし、誰の話も聞こえてないし……」
ラコから語られる現実味のない状況を聞いてぞっとした。マユゥには専門知識などなかったが、インターネットの暗い噂話でしか知らないような最悪の事態が、いま現実に起きているのだと感じた。
「わかった。どこまで私が力になれるか分からないけど、仕事が終わったら直接話そう。学校の近くに──」
「私が行きます! 最寄り駅どこですか?」
ラコの真剣さに応えて職場の最寄り駅で待ち合わせの約束をし、踵を返して自席に戻る。昼休みで机に突っ伏している数人以外は出払った執務室は、がらんとしていてとても都合がよかった。パソコンのスリープを解除すると、職員の無知と無関心に根差したセキュリティを潜り抜け、普段はアクセスしない戸籍データを閲覧した。
こっそり持ち込んだスマートフォンに、ラコから「プードルだけ!」と短いメッセージがきていた。なにか手がかりを探すため、モコクンのアマル特徴がふたつあるのかを確認していた。
データを「イヌ」「十代」「女性」でソートして眺める。ここからなにを見つけ出せるかも分かってはいないが、マユゥはとにかくデータを上から下まで舐めるしかなかった。しかしそう簡単に閃きは訪れなかった。
目を閉じて、ラコから聞いたモコクンの様子を思い出す。明らかに、アマル特徴を悪用されているような様子だ。モコクンたちの学校で注意喚起をしたような手口だと想像できた。マユゥはまた別のファイルに向かってマウスカーソルを移動させた。「DV・行方不明者等の連携支援ネットワーク」という名前が付けられていた。
先ほどと同じようにデータを絞り込む。すると、いくつかモコクンの状況と似たような状態の記録が確認できた。わずかな進展の喜びは、絶望の輪郭が一層くっきりしたことで簡単に踏みにじられ、額にじわりといやな汗が浮かんだ。
──イヌ用の合成フェロモン剤の投与疑い。
──脳の思考に関係のない反射を誘発する。
──自由意志を完全に奪う経口摂取の薬物。
強烈な吐き気と眩暈に襲われる。そのどれも、いまのモコクンの身に降りかかっている可能性を排除できなかったせいだ。
脳内のあらゆる負の感情のコレクションから、必死に理性をサルベージして平静を保ち情報を整理していく。すると最も凄惨な結末をたどったいくつかの事例は、四つの段階を踏んでいることが理解できた。
投与初期──対面での直接的なコントロールが容易となる。
前期──対象の自由意志が混濁し、特定の指示に対して反芻する。
中期──理性的な状態を取り戻すものの、強い主従関係に依存し疑わなくなる。
末期──自由意志は完全に奪われ、極度の被暗示性を示す。つまり、人形やゾンビのような状態。
おそらくモコクンは前期だが、ラコと会って詳しく確認をしなければいけない。だが、調べたこの凄惨な予想はとてもラコに伝える気にはなれなかった。
*
駅から少しだけ歩く古い純喫茶の入り口でラコと落ち合う。営業しているかもやや不安になる寂れた空気の店で、昼時でさえ賑わうことはないが、穴場と呼ぶにはサンドウィッチもコーヒーもクオリティが不足していた。扉を押し開くとカランカランと小気味良いベルが出迎えた。薄暗い店内は密談にはお誂え向きで、初めて穴場だと感じた。
広げた新聞紙の向こうから、老齢の主人の皺枯れた「いらっしゃい」という声を通り過ぎ、最も離れた席に陣取る。
注文を取りに来るであろう店主の動きに気を配りながら、マユゥはラコに状況をうかがった。
「モコちゃん、どんな感じ? しゃべった感じとか、詳しく教えてほしい」
「何日か前にひどい落ち込んでた日があって。モコの友達も私も心配して話しかけたんだけどなんにも言わ──」
店主の接近にマユゥが手で制止し、ミルクたっぷりのコーヒーをふたつ注文した。
ラコは店主がゆっくりと時間をかけて振り返るのを見届けると、再び口を開いた。
「なにも言わなくて……。私がモコを心配してるから、モコと仲いいやつが教えてくれたんだけど、最近彼氏ができたって」
「彼氏? なのに?」
そのニュースは事情が事情でなければ、オタクの矜持として羨ましいねと皮肉のひとつでも唱えるべきものだったが、それはしっかりと飲み込んだ。まずは単純な疑問を解決したかった。不思議がったままでいると、ラコが答えた。
「うん。ぜんぜん嬉しそうにしてないからみんなも気になったみたい。遊びに誘っても彼氏優先ってなっちゃってて、だからみんなでモコの後をつけたことがあったんだけど……」
「なにか分かったの?」
「ううん、ごめんなさい。モコは鼻が利くからすぐバレちゃって、撒かれた」
ラコの行動力にもモコクンの嗅覚にも驚くばかりだったが、事態の詳細や解決の糸口が見えない焦燥がその感情を押しのけた。マユゥの指が前髪を搔きまわしている横で、ラコがさらに続けた。
「それで、昨日からモコが怖くて……」
「怖い? メッセージでも様子が怖いってあったけど……」
「笑ってるの、ずっと」
ラコの怯える目を見て、ギャルの少女らしいカラッとした笑顔でないことははっきりわかった。
「そう……。彼氏とはどこで知り合ったのかな」
「マッチングアプリみたい。周りが言ってた」
熱々のマグカップがふたつ届いた。ふたりとも口はつけずに、カップを手で包んで冷えた心臓から温めた。
そのあと、カップが空になるまで話を聞いたが核心に迫ることはできず、役割だけを決めて解散することにした。マユゥは引き続きモコと接触している相手を調べることにした。ラコのように救ってあげたかった。ラコにはモコの様子を観察して連絡をもらうように頼んだ。話を聞く限り、現在はまだ前期で間違いはなさそうだが、末期というタイムリミットがあった。
ふたり分のコーヒー代を支払って、ラコのうやうやしい頭頂部を見送ってから自宅へ向かう。この時間からでは職場のデータを見ることは不可能だったので、マユゥは次の考えを実行することにした。
マユゥが住むマンションは職場からやや離れていて、帰宅して蒸れるつま先を靴から解放してやれたときには、すでに夜の二十時を過ぎていた。
ひとりで暮らすには少しだけ贅沢な間取りで、私生活では使わない部屋がひとつ必要だったのだ。引き換えに職場へのアクセスのしやすさは諦めていた。
玄関に鞄を投げ捨てて、ストッキングから足を引き抜き途中のランドリールームに放り投げる。反対にあるリビングの扉を開け放ち、ジャケットとスカートを放り込む。誰の目も存在しない自分だけのテリトリーで無防備な肌着姿になると、廊下の突き当りにある扉へと前進した。
静かに扉を開くとエナメルやレザーの匂いと、除湿剤のケミカル臭とが混ざった独特の匂いが鼻孔をくすぐった。自慢のコスプレ衣装が暗い部屋にひっそりと並び、出番を待ちわびていた。
「ギャルっぽいやつあったよなぁ。あれは既製品だから売りに出してないはず……。あとイヌ耳と……、デコラっぽいアクセサリーなんかあるかな」
ひとりでぶつぶつと確認するように呟きながら衣装を集めていく。衣装ケースの前にしゃがみこんで、樹脂でできた安っぽいアクセサリーを漁り、いくつかを掴み取った。
リビングの照明をつけ、持ってきた衣装をソファで丁寧に並べる。イヌ耳をかたどったカチューシャは三種類用意があった。つくづくオタクというのは物を集める生き物だなと自嘲したが、今日ばかりは勲章を贈るべきだと切り替えた。
衣装のめどが立ったので、アプリストアでマッチングアプリを検索する。コーヒーしか補充されていない胃を慰めるため、電気ケトルに水を汲んでスイッチを入れてからカップ麺のビニールに爪を突き立てた。
三分のタイマーが鳴った頃には、三つのマッチングアプリをダウンロードできた。おおよそカジュアルな、モコクンのような子が認知しているものは揃っただろう。
ずずずと音を立てながら麺をすすりつつ、左手でアプリに自分の情報を打ち込んでいく。アマル特徴の項目はしっかりとイヌを選択し、年齢も致し方なく鯖を読んだ。
ふたつめのアプリの登録を進めるときに小さな閃きがあった。相手が真剣にひとりの女の子を探しているわけではない。狩場となるアプリは広げているはず。すべてのアプリに同じ姿で同時に登場することは避けたほうが良いかもしれない。カップ麺を最後にひとすすりしてから、再び衣装部屋へ戻り、追加でいくつかの衣装を持って戻ってきた。
アニメのキャラクターが着ていた赤いジャージからコラボキャンペーンで手に入れたブルゾン、女児向けのキラキラした樹脂製宝石のアクセサリーまで、余すところなくイヌ耳カチューシャと組み合わせて即席の「イヌのアマル女子」を生み出していく。撮影と加工を手早く済ませ、ぱっと見は十分にアマルらしくなった写真をそれぞれのアプリに登録した。
「はぁ……っ、役に立ってくれよ私の散財……」
気がつけば日付が変わる直前だった。衣装を脱ぎながら天井を見上げる。守らなければいけないのはモコクンだけではなかった。始業時間や皆勤手当てのため、マユゥは急いで衣装を片付けると、バスルームへ向かって無理やり今日を終わらせることにした。
*
いつもより重い瞼を必死に持ち上げながら午前中を乗り切った。週も半ばを過ぎ、本来ならやや落ち着いているはずだったが、運命の悪戯なのか窓口対応に多く駆り出されてしまった。自席で調査を進めることのできない焦りを隠せないままロッカーに走る。昼休みしか確認することのできないラコからのメッセージを確認して、事態が悪化していないことが分かると胸を撫で下ろした。
職場でめんどうな誤解を生まぬように丁寧にディスプレイを隠しながらマッチングアプリのアイコンを見ると、すべてのアプリにメッセージが届いていた。ひとつ選んで開き、うるさいほど飛び出すポップアップの表示を一瞬たりとも許さぬという意思で、連続で閉じるボタンをタップした。メッセージの一覧を開くと画面の下まで未読のバッジが表示されていて、それを数えるには親指を三度往復させる必要があった。
ひとつひとつ開いていくしかない。しかし、またもなにを見つければ正解なのかもわからないまま、無数に届くメッセージをすべて読み終えた頃には、午後の残りの数時間を激しい空腹と格闘することが決まってしまっていた。
アメ玉を口に含んで空腹を誤魔化しながら業務を終えた。ちょうど集中力も底をついたところだった。ロッカーに駆けてラコのメッセージを確認する。ラコはなるべくモコクンと会話しようとしてくれているようで、モコクンが好きなキャラクターのストラップをプレゼントしたらしい。
ラコは自分にできることを必死にやっている。マユゥも焦る気持ちを抑え、なんとか手がかりを見つけ出すと決意を改めた。
帰りの電車に揺られる間、もう周りの目を気にしないことに決め、堂々とマッチングアプリを開いて、目を皿にしてメッセージを読み漁った。
改札を抜ける間も、横断歩道を待つ間も、何度も何度もアプリを往復してメッセージを読んだ。自宅に到着すれば、ストッキングを雑に脱ぎ捨て、お湯を沸かしながらソファに沈み、また読んだ。
疲れた両目を指の腹で押し込み、瞼の裏に幾何学模様を浮かばせて、目の疲労を無理やり押しのける。
ブブ──、スマートフォンの振動が新しいメッセージの到着を知らせる。少しだけ無視して心地よい瞳の圧迫感を堪能していると、ブブ──、……ブブ──。均等な間隔で三度の着信だった。ばっと上体を起こす。それぞれのアプリに同時に着信があったのではと期待して、震える指で画面を開く。──予感は見事に的中していた。
まったく同じ「とりあえず会ってみようよ」という簡素なメッセージが一通ずつ、それぞれのアプリに届いていた。
「これ……、そうだよね。繋がりはないかもしれないけど、怪しいは怪しい」
慎重に返信を考える。なんと返せば、食いついてくるだろうか。三回までチャンスはあるかもしれないが、事態が事態だ。一度も失敗をしたくなかった。
「モコちゃん……、いや。イヌのアマルらしく……」
画面をフリックしてメッセージを打ち込む。『会いたい会いたい』……。人懐っこく隙のある風を装って、送信された吹き出しの横に、既読の二文字が表示されるのを祈って待つ。
一分が途方もなく長い。二分、三分と経過した。リアクションが無い。次のアプリで返信をするか、判断に迷う。一度落ち着く必要があると思い、顔を洗うために立ち上がった時、ブブ──と合図が鳴り、飛びついた。
『ごめん、ちょっと仕事立て込んでて! 俺も会いたいな。いつ空いてる?』
定型文に毛が生えたような、適度に馴れ馴れしいノリ。相手の顔は見えないが、画面の向こうで無数の獲物を同時に捌いている姿が透けて見えた気がした。
マユゥはすかさず、千切れるほど尻尾を振ってすり寄るような、媚びきった文面を錬成する。
『えーお仕事おつかれさまですっ! いつでも平気! はやく会ってお話したーい』
送信。今度は五秒で既読と表示された。釣れた。相手は完全にこちらをロックオンしたはずだ。なんとか接触できれば、手掛かりがつかめるかもしれない。直接会うリスクを想像して躊躇う気持ちもあったが、これしか手段が思い浮かばない。
十数秒の入力中の表示のあと、ポップアップが跳ねた。
『ほんと? 嬉しいな。せっかくだからふたりでも会いたいけど、パーティに興味ある? 実は近々、俺の知り合いのVIPだけが集まるシークレットパーティがあるんだけど、特別に招待しちゃおうかな?』
──パーティ?
ドクン、と心臓がひときわ大きく鳴った。予想だにしない展開だった。思考が停止し、指が凍り付く。これがなにを意味するのか理解が追い付かない。
返信が遅れてしまうが、まずは冷静にならなければいけないと思った。スマートフォンをテーブルに置き、長く長く息を吐き出した。
パーティ……。モコクンとは関係のないことかもしれない。だが、この違和感を見過ごしてはいけない気がした。探りを入れるしかない。
『えっVIP!? すごーい! いつあるの??』
返信を待つ間も必死に考える。「VIP」「パーティ」、これらの言葉がどうして引っかかるのか、文脈がおかしいからというだけでは説明がつかなかった。やがて、短くメッセージが返ってきた。
『近々だよ。すっごくいい思いさせてあげる。詳しい場所とか日時は、また連絡する』
そこから先は、返信に既読の表示が並ぶことはなかった。スマートフォンをソファに放り投げ、深く息を吐き出す。
今日はここまでだ。深追いしてしまって、せっかく手繰り寄せた手掛かりを失うわけにもいかない。なにか大きな見落としをしているかもしれないという恐怖の時限爆弾を胸に抱えながら、今日は休むことに決めた。明日、職場のデータベースをもう一度調べよう。この引っ掛かりは、無意識の記憶に因るものではないかと思っていた。
気もそぞろのまま身支度を終え、ベッドに入って意識を手放そうとした瞬間だった。
はっとした気づき。飛び起きる。
立ち上がって思考を整理する。
「そうじゃん! パーティだよ! 最後はどこかへ連れて行くんだ」
モコクンの末期症状まで猶予があるだなんて、飛び切り能天気で悠長で愚かしい考えだった。ターゲットを末期症状にすることが目的なわけがない。別の目的があって、薬はその手段でしかない。
近々あるというパーティ。これがモコクンと関係があるなら、Xデーは末期症状への移行ではなく、パーティの開催だ。一切の猶予がないかもしれない。それまでにたどり着かなければ、想像もしたくない凄惨で残酷な結果が待っている。
「明日だ、とにかく明日中に会う約束を取り付けないと……」
時間が迫る中、待つことしかできない無力さを噛みしめて、再び眠りにつくしかなかった。せめて、体力だけは万全にしておくんだと自分に言い聞かせて、暗闇の中で強く目を閉じた。
*
翌朝。目が覚めるなりスマートフォンに飛びついたが、通知はなかった。
ラコが学校に到着するより前に始業時間になるため、最も連絡がきそうなタイミングにスマートフォンをロッカーに封印してしまうことになる。懲戒処分を覚悟して執務室に隠して持ち込むしかない。マッチングアプリの連絡がくるかもしれないと思うとなおさらだった。
前に進んでいると自分を慰めたかったが、その実、主導権はすべて自分の外側にあった。職場に着くまでに、見つかった時のとぼけた言い訳をシミュレーションすることしかできない無能さに、涙が滲んだ。
始業十分前の、同僚がぽつらぽつらとやってくる時間。マユゥはすでに席につき、いつもなら椅子の背もたれに預けるジャケットを着たまま、胸の内ポケットに潜ませた持込禁止物に意識を集中させていた。機密データにアクセスして調査も進めたかったが、歩き回る人の多いこの時間に怪しまれる行動を取ることは控えた。
ブブ──。スマートフォンが肋骨を揺らす。ラコからかもしれない。眠たげな挨拶をこぼしながら背後を通り過ぎる足音を、頭の後ろにつけた目で警戒する。そっとスマートフォンを取り出してデスクの天板の下に潜り込ませ、目線だけ下げて画面を確認する。メッセージ通知がラコからの悲痛な叫びを表示していた。
「モコが学校にきてない!」
凍り付いた指からスマートフォンが滑り落ち、灰色の踏みつくされたフロアカーペットの上にゴトリと音を立てた。
急いで拾い上げ、胸ポケットに再度しまい込むと、執務室を飛び出してトイレへと駆け込んだ。
「きてない……、来てない!? 今日がパーティだってこと……? なにが近々だ、昨日の今日じゃねぇか、あのテンプレ野郎……っ!」
焦りと怒りをブツブツと吐き出しながらラコにコールする。──出ない。ホームルームかなにかで反応できないのだろうか。
ラコに電話したところでなにが確認できるわけでもないが、居てもたってもいられなかった。就業時間はとっくに過ぎていた。
ブブ、ブブ、ブブ──。少ししてラコからの着信があり、すぐに通話に切り替えた。
「先生!」
「ラコちゃん!? モコちゃんにはやく会わなきゃ……。でも、ごめん! 私じゃ手掛かりがなにもつかめてなくって」
「先生、落ち着いて。だいじょうぶです。モコの居場所、分かります」
「どういうこと……?」
ブブ──、耳が揺れる。ラコが画像を一枚送ったというのでトーク画面に切り替えると、地図のキャプチャだった。ある一点が赤く示されている。
「GPS……?」
「はい。あの、紛失防止用のタグをモコにあげたストラップの中に仕込みました」
「な、なんでそれを……」
もっと早く言ってくれなかったのかという言葉を、すんでのところで口の中に留めた。この行き場のないストレスをラコにぶつける権利が無いことに、ギリギリで気がついた。
そうだ。自分自身だって、ラコになにひとつ共有していなかったじゃないか。会っても状況を聞くばかりで、見聞きする情報から組み立てられる卑陋で醜怪なストーリーをはっきりと知覚することを避けるために、ラコに対して説明する義務を本能的に避けていたじゃないか。ラコはこの数日どれほど不安だったろう。大人として情けなかった。
「よくやったね!! ラコちゃんの機転がなかったら危なかった。ここ、有名なホテルだね……。駅から近いはず。駅で会おう!」
「あ、えっと。先生、お仕事は……?」
「ふふ、ラコちゃんと一緒にサボるよ!」
「あ、はい!!」
休む許しを与える立場ではないが、せめて大人として、せめてもの数日間の恐怖の償いとして、ラコが友達を優先する理由を補強してあげてから通話を切った。
執務室に戻ると、自席に飛び掛かってノートパソコンを掴み取り、鞄に押し込んだ。
「マユゥさん!? どうしたの??」
やや離れた席から上司の困惑の問いかけがあった。
「すみません! 祖母が危篤で!! 申請は明日出します!!」
目を丸くして圧倒されている上司に深く一礼してから、職場を飛び出した。
*
まだ通勤ラッシュのピークを過ぎたばかりのアマルでごった返す改札に並ぶ。鋭いウロコがジャケットをダメにしないよう、比較的丸いアマルに身体を寄せながら、数年前より数が減った改札を睨む。アマルバリアフリー政策の一環で、大きな体躯や、尾や翼を持つアマルのために幅広に取られ直した改札のゲート。減らす政策ばかりは順調に進み、日々の快適さもちゃんと減っていた。ようやく改札を抜けると、指定した出口へ再び駆け抜けた。全力疾走をしたおかげでシャツも前髪も肌にピッタリ張り付いていた。
壁に寄りかかって不安げに待つラコの姿を見つけ、息を整えるためにややスピードを落とした。ラコもこちらに気がついて、小走りで駆け寄ってきた。
「はぁっ……、先生、ありがとうございます!」
「ううん、ラコちゃんもね。……ほんとうにありがとう。ラコちゃんがいなかったらダメだったかもしれない。私、ぜんぜんラコちゃんに情報共有もしないで……不安だったよね。ごめん!」
まずは絶対に謝ると決めていた。勢いよく頭を下げたせいで、前のめりに倒れるところだった。
少しの沈黙。そのあと、ぎゅっと優しく体を締め付けられた。
「ラコちゃん、あの……汗臭いから……」
「先生、ありがとう。ごめんなさい、先生を巻き込んで。わたしだけじゃなにもできないから」
ラコはさらにマユゥの体に額を埋没させて顔を見せまいとしていたが、震える肩を見れば本当に隠したいものが別にあることは伝わった。
ほんの少しだけお互いが真の仲間になる時間をとって、改めて顔を合わせ頷き合った。同じ決意を抱いたことが確認できた。
「たぶんパーティがある。昨日、モコちゃんに接触したっぽいやつと少しだけやり取りできたの。どんなパーティか分からないけど、それに参加させられる前に連れ戻したい」
ホテルの方へつま先を向け、速足で説明する。
「だからホテルなんだ。でもモコひとりでいるってことはなさそうですよね……」
もっともな問題提起だった。
「そう……、なんとか潜入しないとね。ラコちゃん、ネットはそこそこ強いよね?」
「え、は、はい」
ややしどろもどろな返事だった。おそらく自信がないのではなく、先日のネットでの大きな失態を思い出したのだろう。ならば、頼ってよさそうだと確信した。
「スマホを交換しよう。GPSがほしいの。あと、このバッグも預けるから、中のパソコン使って。念のため、テザリングもしておいてほしい」
「スマホは、はい。大丈夫ですけど。先生は?」
「私が潜入する。ホテルの近くにブティックがあったから、着れそうなドレスを買ってやる。もう惜しまない。ラコちゃんはホテルのレストランとかで私と通話つないだままにしておいて。なにか調べてもらうかもしれない」
ラコにバックアップを頼み、少しでも危険から遠ざけたかった。本心だが、守る対象が増えるのもリスクだと思っていた。これから相対する相手は、一般市民ではないはずだ。
「私もいきます!」
「ありがとう。でも、役割分担だよ。モコちゃんを助けるには、相手の弱点をすぐに見つけてやらなきゃいけないと思うんだ。目の前でパソコン開いて調べるわけにはいかないでしょ?」
ラコも頷かざるを得なかったようだ。
「……分かりました。特定、やってみます。練習しましたから」
ラコの練習についてツッコミたかったが、いまは素直に、ラコの安心してほしいというメッセージだと思うことにして、力強く頷いた。
ブティックの前にたどり着くと、再度目を見て頷きあい、二手に分かれた。
*
庶民には理解し難いセンスのけばけばしいドレスを纏って、ホテルの大きな回転扉に体重をかけた。
スパンコールで輝く、ほとんど物の入らないバッグのチェーンを握りながら、中の財布がとんでもなく軽くなった錯覚を覚えていた。
カードで決済できるギリギリのドレスでさえ、社会人二年目には相当手痛いダメージだった。ドレスとバッグだけで利用額の上限を叩いたので、スカートの中はボロボロのスニーカーのままだ。おかげで店員のセールスを振り切るのに苦労した。だが、スニーカーを隠すために裾の調整は要らなかったし、アマル特徴を服の外に出すためのスリット加工も必要がなく、時間と費用を大きく節約できていた。
ラコのスマホを取り出して、イヤホンマイク越しに会話する。
「お待たせ。ホテルに入った」
「見えてます。右手のレストランにいます」
そちらを向くとラコがテーブルに腰かけて小さく手を振っていた。頷きで返して、GPSの平面図を見る。
「そうか……、これじゃフロアが分からない。やっぱり最上階とかか?」
「調べておきました! 最上階のひとつ下に控室があるみたいです。開場までも三十分くらいあるから、モコもまだそこかも」
「す、すごい。ありがとう! 行ってみる」
マユゥは駆け出そうとした自分の足を必死に抑え込み、ドレスが似合うように、そしてスニーカーが主張しないように、それなりに淑やかに歩いてエレベーターへ向かったが、緊張した肩だけはかなり怒っていた。
エレベーターの中で、色気もなく頭の後ろで結ばれていた髪をほどき、イヤホンマイクを着けた耳を隠す。
「ラコちゃん、聞こえる?」
「……い、……こえます」
髪に遮られたイヤホンでも問題がないか試してみたかったが、エレベーターという鉄の箱の中ではそもそも通信がおぼつかないようだった。
縛り付けていたせいでついた左右非対称な癖を指で撫でつけたが、整うよりも早く目的のフロアに到着した。
エレベーターを降りてすぐに画面を見ると、真隣の部屋にGPSの反応があるようだった。
(いきなり突入して大丈夫だろうか……。せめて、誰か出入りしてくれれば……)
控室の向かい側の壁にある女子トイレ、その入り口に身を潜めて少しの間様子をうかがうことにした。誰かが出入りすれば、開いたドアの隙間から室内が観察できそうだ。
三十秒も経てば、数分も待っているような焦燥感だった。
早く早くと頭の中で唱える。そのとき、扉が内側から開いた。
──モコクンだった。
急いで体を引っ込める。セーラー服姿のモコクンと、丸い小さな耳のスーツの男が一緒に出てきて、ふたりで別の部屋に向かっていく。すぐに追跡してしまうと、モコクンにも隣の男にも察知される危険があったので、GPSをじっと見つめ、信号のポインタがどこかの部屋で止まるのを息を殺して待つしかなかった。アマルの動物的な鋭い五感をその身で理解できないことを心底呪った。
「ラコちゃん、モコちゃんを見つけた。隣にひとり男がいた。ちらっとしか見えなかったけど特徴を言うね」
「……、……はい、先生。聞こえてます」
手元の画面に釘付けになりながら、男の特徴を伝達する。性別。背格好から想像した年代。耳の形や首の模様から推測できるいくつかのアマル特徴。
「ごめん、一瞬だったからこのくらいしか。まだまだ絞れないと思うけど」
「探し……、……みます!」
エレベーターを降りてからも通信の調子が悪く、ラコの声が途切れてしまうことに一抹の不安を覚えたが、気にしている間もなくGPSの信号がピタリと止まった。
それはつまり、突入の合図だった。
ふたりが入ったのはこじんまりとしたクロークのようだった。追いかけて壁に耳を当てる。話し声は聞こえない。ふたりしかいないと賭けて、ドアノブをひねった。
「……。なんだ? お前」
余裕のある態度でゆっくり振り向いた男が問いかけてきた。
訝しむ目は、マユゥがパーティ参加者ではないことをすぐに見抜いていたようだった。
「モコちゃん!」
「なんだ、モコちゃん。知り合いなの?」
「うん。……でも、関係ないから……」
あっさりとしたモコクンの拒絶を受け、男の目が残念だったなと言いたげにこちらを見下ろしていた。
だが、モコクンのその反応は予想し得たものだ。こんなことで怯みはしない。
「モコちゃん、そんな……ツンツン頭の男なんて好みじゃなかったじゃん! そのガラ……、ハイエナみたいな。ハイエナみたいな男なんて一番好きじゃないでしょ!」
モコクンに訴えるフリをして、通話越しのラコに男の特徴を伝える。
不自然な言い回しに、男──リカオは怪訝そうな顔をし、その横のモコクンも、虚ろな目をしたままよく分からないという表情で、リカオの腕に持たれていた。リカオが腕でモコクンを押し返すと、さっさとドレスを選ぶように伝え、一歩マユゥの前に歩み出た。
「お前も、引っ搔き回してくれるなよ。忙しいんだ、見逃してやる。帰れ」
熱を含まない冷淡な言葉だった。しかし、対峙するマユゥにはその口調に込められた圧倒的な暴力性がはっきり分かった。もう、最終勧告だった。これ以上は、抗いようのない力の差で制圧される確信があった。硬い拳がいつ飛んでくる恐怖もあった。ぶわ、と全身から汗が吹き出し、膝が踊りだす。奥歯がガチガチとぶつかる音が、男にもモコクンにもはっきり聞こえてしまっているに違いない。呼吸のペースをコントロールできない。目は限界まで見開かれ、自分の体が思うように操れない。それでも必死に、ラコからの情報を待った。沈黙が恐ろしい。もしかしたらさっきの会話に紛れ込ませたメッセージもちゃんと伝わってないかもしれない。もうすでに詰みなのかもしれない。いや、もっと前から……、関わってはいけなかったのかもしれない。
「先生!」
ラコの声に脳髄を打たれてわずかな平静を取り戻した。片耳を手のひらで覆って、いまだに乱れ気味の音声を一言も聞き逃さないように、散り散りに逃げ出しそうな意識のすべてを耳へかき集めた。
「さ、三人。それっぽいのが……。はぁッ……全部言います。名前と特徴。……っ、ひとり目、ガロっていう人。ヒョウとオオカミのっ、アマルで、尖った耳とイヌの鼻……」
(違う。その人じゃない)
「……ふたり目。タイチっ……て人。チーターのアマルで、……丸い耳と……模様。……ヒゲと赤い目」
(違う。目の前の相手はヒゲはない。目の色も、……違う)
「最後……す。エィイーン。リカオンのアマ……。小さい耳と模様。うっ、……少し大きい鼻」
「……エィイーン」
「なんだと?」
三人目の特徴が最も一致していた。一縷の望みを託して、その名を口に出す。
リカオの顔色が変わった。
「お前、何者だ?」
「リカオさん……?」
マユゥが別の名を呼び、リカオがそれに反応したことに、モコクンもドレスを選ぶ手を止めて振り返った。
「あんた、エィイーンでしょ」
名を知った。奇跡的だった。
「面白い女だなぁ、無鉄砲に乗り込んできたわけでもないらしい。……仕事が増えたな」
再び向けられた狂気じみた圧力に、対抗できる武器はもう無い。浅はかにも、名前を知った程度ではなにもできないのだという結論にこの場でようやく辿り着いた。マユゥの膝は自分の形を忘れてしまっていた。
リカオ──エィイーンがマユゥに向かってゆっくり歩きだしたそのとき、背後の扉が激しい音を立てて開け放たれた。
「モコ!!」
ラコが飛び込んできたのだ。突入の勢いのままに、マユゥとエィイーンの横を駆け抜けてモコに飛びついた。
「ラコ、なんで……」
「目ぇ覚ませ! バカモコ!」
飛びつかれても立ちすくむだけのモコクンに、すがるように抱き着いて、握りこぶしを体に叩き付ける。
「……痛いよ、やめて。リカオさんは忙しいの」
エィイーンが、やれやれとでも言いたげにこめかみを押さえた。パーティの開催時間も迫る中で問題が増え、苛立ちが顔をもたげ始めたようだった。
エィイーンの視線が背後のモコクンたちに向かった隙に、マユゥもふたりに飛びつき、抱きしめた。せめて、ふたりにとって物理的な盾になろうという本能だった。
「とりあえず、ふたりともここに監禁させてもらうわ。夜中まで大人しくしといてくれよ」
エィイーンが腕を伸ばし、守ろうとするマユゥを意に介さずにラコの細い腕をつかむと、軽々と宙吊りにした。
「あぅっ!」
乱暴に掴まれた腕の痛みに苦痛の呻き声が漏れた。ラコを解放するためにマユゥが反射的に立ち上がろうとした時だった。
「……せ、んせい! ごめん!」
ラコの足が勢いよく向かってきて、マユゥは向けていた背中を蹴り飛ばされ、モコクンを押し潰す形で床に倒れた。意図的に狙った一撃だった。
「いっ、な、なにを──」
「モコ! 嗅げぇぇ!!」
割れんばかりの声で叫ぶ。鬼気迫るそれは、モコクンを本能的に従わせた。モコクンの顔を覆い隠すマユゥの胸に、濡れた鼻が押し付けられる感触があった。クン──、クン、クン──。何度も何度も、モコクンが自分の匂いを嗅いでいる。事態が混沌としすぎていて思考が付いていかなかった。だが、ラコがなにかを狙っている。それを信じることにした。モコクンの頭に腕を回し、自らも迎え入れて押し付けさせた。吊るされたままのラコが泣きじゃくりながら訴え続けるのを背中で聞き届けた。
「分かるだろモコぉ、お前なら、誰が味方か、ちゃんと分かるだろ……」
エィイーンはめんどうになったのか、ラコの手を放し床に落とした。
ラコがモコの方に這い寄り、震える声を枯らしながらまた抱きついた。
「お前のためにぃ……、先生はずっとがんばってたんだから! お前のために掻いた汗だろうがぁ……! その鼻ならうそじゃないって分かるだろうがぁ……!」
「……うん。…………うん……! ううぅ……、うああ……っ」
モコクンはラコの体にも顔を埋め、匂いを嗅ぎながら泣きじゃくり始めた。自慢の鼻がついに我を取り戻したようだった。
「モコ、お前……、自分の鼻だけはぜったい、信じるんだ、ろ……」
「うううう、ラコも信じるううう」
「ばかぁ、先生もだろぉ……っ」
「うん……、うううう、……うんっ!……っ」
「モコちゃん、モコちゃんよかった……!」
モコクンが我を取り戻したと確信したマユゥは、目尻に浮かぶ涙を拭って立ち上がり、エィイーンを振り向く。膝の震えは少しだけ落ち着いてきていた。エィイーンをどうにかして退けようとなにを言うかも決まる前に口を開こうとしたが、先に口を開いたのはエィイーンでした。
「おもしろいぞ、お前」
エィイーンの顔が眼前までぐいと迫り、たじろいでしまう。
「こんな状態のやつを連れなくても騒ぎになるだけだ。返してやるよ。もうパーティも始まるしな。ほら、行きな」
「え……?」
エィイーンは脇によけてドレスのかかったハンガーラックに緩く背を預け、扉までの道をマユゥに明け渡した。
「まさかパーティ自体を中止にできるなんて考えてないだろ?」
肯定はしなかったが、その問いには一切否定の余地はなかった。モコクンひとり救うのだって、奇跡の綱渡りの連続だったのだから、これ以上は破滅の道でしかないことは分かっていた。
「……あ、……ふたりとも、行こう」
急な譲歩と解放に、口からエィイーンへの礼の言葉が出かかったが、それは許されないことだと思い直し口を噤んだ。ふたりに声をかけ、立ち上がるのを助けながらゆっくり扉へと向かった。
「それにしても、よくお前らだけで来たもんだな。警察屋さんにでも駆け込んでいれば警戒できたもんを。ファインプレーだな」
背に語り掛けられる言葉にぞっとした。エィイーンは警察の力が及ばないほどの巨悪だったのだと理解させられた。
「もうモコちゃんに関わらないで」
振り向かないまま、最後にそう絞り出して、ラコとモコクンを部屋から出した。自分も続こうとしたとき、エィイーンの最後の言葉が贈られた。
「ノーアマだよな、お前。見上げた胆力だ。お前みたいなノーアマにと~っても興味がある方がいるんだ。くく、紹介しておくよ」
負け惜しみですらないその言葉に体の芯から震え上がる。恐怖の宣告だった。全力で逃げ出すことしかできなかった。
三人でエレベーターまで駆け抜けると、開きっぱなしのクロークからエィイーンの不気味な笑い声が廊下まで響いていた。
一階に降り、そのまま三人で手をつないで走り続けた。ドレスをセーラー服で挟んだ奇妙な三人組に向けられる視線も振り払い、改札を駆け抜け、電車に飛び込んだ。
昼を迎えようとしている太陽の光が差し込む車内で、三人は並んでシートに沈み込み、泣き疲れて少し眠りについた。