その日、空はどこまでも澄み渡っていた。
百合園セイアは、オープンカーのハンドルを静かに握っていた。頬を撫でる風は穏やかで、視界も広く、何の不安も感じさせない。ほんのわずかな時間ではあるが、日常から切り離されたような静けさがあった。
「……悪くない」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
その瞬間だった。
視界の端に、人影が入り込む。
「——っ」
思考よりも先に体が動いた。ブレーキを強く踏み込み、ハンドルを切る。判断は速く、操作にも迷いはない。避けられるはずだった。
だが——間に合わなかった。
鈍い衝撃が伝わる。
それは一瞬の出来事だったはずなのに、妙に長く感じられた。
次の瞬間、周囲の音が消える。
風も、エンジンの振動も、すべてが遠ざかっていく。
車は数メートル先でようやく停止した。
「……今のは」
かすかに声が漏れる。
ゆっくりと視線を前へ向ける。
そこに倒れているのは、男子生徒——◻️◻️。
動かない。
倒れたまま、何の反応もない。
「……起きてくれ」
自分でも驚くほど落ち着いた声だった。
だが、返事はない。
時間が引き延ばされたように、何も変わらない状態が続く。
「……冗談だろう」
現実味がない。
目の前の光景が、自分の理解を拒んでいる。
そのとき、不意に視線が逸れる。
白かったはずの車体が、視界に入る。
——赤く、染まっている。
「……ああ」
息が止まる。
ようやく、理解が追いついた。
「……そうか」
短い言葉と共に、現実が確定する。
否定は浮かばなかった。
ただ、何かが静かに崩れていく感覚だけが残る。
足は動かない。
視線も逸らせない。
その場に縫い付けられたように、ただ立ち尽くすしかなかった。
その日を境に、確実に何かが変わった。
⸻
それ以来、セイアはハンドルに触れていない。
車に近づくこと自体を避けるようになった。
理由は明確だった。
エンジン音を聞くだけで、あの瞬間が鮮明に蘇る。
判断も、操作も間違っていなかったはずだ。それでも結果は変わらなかったという事実が、繰り返し突きつけられる。
そして——赤。
それが視界に入った瞬間、思考が乱れる。
「……やめてくれ」
街中で見かけた赤い車。
ただそれだけのはずだった。
だが、呼吸が浅くなる。
胸の奥が強く締め付けられる。
「……やめてほしい」
足が止まる。
視界の焦点が合わなくなる。
現実と記憶の境界が曖昧になる。
「……来ないでくれ」
誰もこちらに向かっているわけではない。
分かっている。
それでも、あの光景が頭の中で再現される。
衝撃の感触。
静止した身体。
そして、赤。
「……やめてくれ」
声が震える。
普段の冷静さは保てない。
ただ、その場で立ち尽くすことしかできない。
「……もう、見たくない」
目を閉じても意味はなかった。
記憶は消えない。
むしろ、より鮮明になるだけだ。
「……どうしてだ」
小さく零れる問い。
答えは出ている。
あの瞬間、自分が選んだ結果だということも理解している。
それでも、受け入れるにはあまりにも重い。
後悔とも違う、言葉にできない感情が胸の奥に残り続ける。
そしてそれは、消えることがない。
——あの日、自分の手で終わらせてしまったという事実と共に。
それ以来。
百合園セイアが運転席に座ることは、二度となかった。