朝の礼拝堂は静かな空気に包まれていた。
高い天井から差し込む朝日がステンドグラスを透かし、赤や青、金色の光となって石造りの床を優しく彩る。その光を受けながら規則正しく並んだ長椅子にはシスターフッドのシスターたちが座り、それぞれ胸の前で手を組み、ただ静かに祈りを捧げていた。
ここはトリニティ総合学園。
自治組織であるシスターフッドは、生徒たちの信仰を支える存在であると同時に、学園の秩序を守るため、表に出せない任務も数多く担っている。
その前身である聖徒会は、必要悪とも呼べるような決断を幾度となく下してきた組織だった。
真実もあれば誇張もある。
それでも、「裏では何をしているか分からない組織」という印象だけは、多くの生徒の中へ深く根付いていた。
だからこそ、シスターフッドの長である歌澄サクラコは、その印象を少しでも変えたいと願っている。
怖い組織ではない。
自分たちは誰かを脅すためではなく、人々へ寄り添い、救いの手を差し伸べるために存在している。
そんな当たり前のことを知ってもらいたい。
その一心で、今日も彼女は誰よりも誠実に務めを果たしていた。
しかし、その努力とは裏腹に、サクラコ自身もまた誤解されることが少なくない。
穏やかな笑顔。
落ち着いた物腰。
そして独特な言葉選び。
本人には全くそのつもりがないにもかかわらず、なぜか相手は必要以上に緊張し、時には恐れてしまう。
改善しようとは思っている。
だが、何をどう変えればいいのかが分からない。
そのことだけが、サクラコの密かな悩みだった。
「皆様に祝福がありますように」
礼拝堂へ澄んだ声が響く。
祈りを終えたシスターたちは静かに顔を上げ、それぞれ胸元で組んでいた手を解いた。
サクラコも小さく息を吐き、祭壇へ一礼してから振り返る。
そのすぐ隣では、一人の男子生徒が静かに聖典を閉じていた。
◻️◻️。
キヴォトスで唯一の男子生徒。
トリニティへ籍を置き、シスターフッドで神父を務める、少し変わった経歴の持ち主でもある。
高校一年の春からサクラコとは親しく、礼拝の補助だけでなく懺悔の聞き役や書類整理、時にはシスターたちの相談役まで務めることもあった。
「では、書庫へ向かいましょう」
「了解」
短いやり取りを交わし、二人は並んで礼拝堂を後にする。
その背中を見送ったシスターたちは、互いに顔を見合わせると、どこか微笑ましそうに笑みを浮かべた。
「やっぱり仲が良いですよね」
「高校一年の頃からずっと一緒ですもの」
「礼拝も調査も会議も、気付けば隣にいますよね」
「サクラコ様、◻️◻️さんと話している時だけ少し雰囲気が柔らかい気がします」
「それ、私も思っていました」
一人のシスターが周囲を見回し、少しだけ声を潜める。
「もしかして、お付き合いされていたり……」
その一言で周囲は静まり返る。
やがて誰からともなく笑みが零れた。
「あり得なくはないですよね」
「お似合いだとは思います」
「何より、◻️◻️さんだけですよね。サクラコ様とあんなに自然に話せる方」
「唯一の男子生徒ですし、最初は皆さん戸惑っていましたけど……」
「今ではすっかりシスターフッドの一員ですものね」
「ええ。それに、サクラコ様も随分信頼していらっしゃるようですし」
悪意のある噂ではなかった。
からかうつもりもない。
ただ、高校一年から何年も変わらず寄り添い続ける二人を見ていれば、そんな話題が出るのも自然なことだった。
もちろん、その話題の中心にいる二人は知る由もない。
ーーーーーー
重厚な木製の扉を開けると、古い紙と木材の香りが静かに二人を迎えた。
天井まで届く本棚には年代ごとに整理された書物が並び、その圧倒的な蔵書量は、トリニティが積み重ねてきた長い歴史を物語っている。
サクラコは慣れた足取りで奥の机へ向かい、抱えていた資料を机へ置く。
◻️◻️もその向かいへ腰を下ろすと、山積みになった文献へ手を伸ばした。
「今日はアリウス分校とカタコンベについてだったな」
「ええ。エデン条約に向け、歴史を改めて整理しておきたいのです」
「調べれば調べるほど胃が痛くなりそうな内容だけどな」
「だからこそ、事実を正確に知る必要があります」
サクラコは静かに一冊目の資料を開いた。
エデン条約は、トリニティだけの問題では終わらない。
アリウス分校との歴史。
地下深く広がるカタコンベ。
聖徒会時代から続く因縁。
どれも目を逸らすことは許されない。
だからこそ、一つ一つ資料を読み解き、必要な情報を書き留めていく。
静かな書庫には紙をめくる音だけが響き、二人は時折気になる記述を確認し合いながら調査を進めていった。
そんな穏やかな時間を破ったのは、◻️◻️の何気ない一言だった。
「そういえばさ」
「何でしょう」
「俺たち、付き合ってるって噂になってるらしいぞ」
サクラコの手が止まる。
ちょうど資料へ書き込みをしていたペン先が紙の上で止まり、小さな黒い点だけを残した。
「……はい?」
「昨日、シスターの子たちが話してるのを偶然聞いたんだ」
◻️◻️は資料をめくりながら、まるで天気の話でもするような調子で続ける。
「俺とお前が付き合ってるんじゃないかってさ」
サクラコは何も言えなかった。
驚いた。
それ以上に、その話題をあまりにも自然に口にした◻️◻️にも驚いていた。
「初耳です」
「俺も最初はびっくりした」
「そのような噂があったのですね」
「まあ、高校一年からずっと一緒にいるしな」
◻️◻️は苦笑しながら肩を竦める。
「礼拝も一緒、調査も一緒、会議も一緒だろ。周りから見ればそう思われても仕方ないんじゃないか」
サクラコは小さく視線を落とした。
自分でも分かるほど鼓動が少しだけ早くなる。
そんな胸の内など知る由もない◻️◻️は、次の瞬間には苦笑交じりに言い切った。
「でも、そんなわけないだろ」
その一言に、サクラコはゆっくりと顔を上げる。
「高校一年からの付き合いだし、仲が良いから変な噂になっただけだよ。友達同士で一緒にいるなんて別に珍しくもないし」
あまりにも迷いのない口調だった。
少し照れる様子も、考え込む素振りもない。
心の底からそう思っていることが伝わってくる。
「……そうですね」
それだけ答えるのが精一杯だった。
向かいでは◻️◻️が何事もなかったように資料へ視線を戻し、ページをめくり始める。
昔からそうだった。
勉強はできる。
人付き合いも上手い。
相手が何を考えているのか察することも苦手ではない。
それなのに、自分へ向けられる好意だけは驚くほど鈍感だった。
その鈍感さに救われたこともあれば、少しだけ困らされたこともある。
サクラコは小さく息をつくと気持ちを切り替えるように本を閉じ、静かに◻️◻️を見つめた。
「◻️◻️には感謝しています」
「……どうした、急に」
不思議そうに首を傾げる◻️◻️へ、サクラコは穏やかな笑みを向ける。
「私では、どうしても皆さんを怖がらせてしまうようですし」
その言葉を聞くなり、◻️◻️は苦笑しながら首を横に振った。
「……はぁ、お前が口下手すぎるだけだと思うがね」
サクラコは少しだけ考え込む。
自分では、そのつもりは一度もなかった。
相手を威圧したいと思ったこともなければ、恐怖を与えようとしたこともない。
それでも現実には距離を置かれ、必要以上に身構えられてしまうことが少なくない。
「この前なんて一年生が泣きそうになってたぞ」
「そのようなことがあったのですか」
「『ご安心ください。すぐに終わりますので』って言われたらしい」
サクラコは少し首を傾げる。
「書類整理のお手伝いをお願いした時ですね」
「お前はそういう意味で言ったんだろ」
「もちろんです」
「でも相手は違う意味に受け取る」
◻️◻️は資料を閉じると、苦笑しながら続けた。
「お前、言葉が足りないんだよ。自分の中では全部繋がってるから説明しないけど、聞いてる側は何も分からない」
「そういうものでしょうか」
「例えば『少しお時間を頂けますか』って言われたら、普通は何の話かも一緒に言う」
「なるほど……」
「『書類整理をお願いしたいので、少しお時間を頂けますか』なら誰も怖がらない………はずだ」
サクラコは納得したように小さく頷いた。
「勉強になります」
「そんな難しい話じゃないけどな」
「私にとっては難しいですよ」
その返事に、◻️◻️は思わず笑みを零す。
「まあ、少しずつ直せばいい」
「はい」
短いやり取りだった。
けれど、その何気ない会話だけで不思議と心が軽くなる。
他の誰かに指摘されれば落ち込んでいたかもしれない。
それでも◻️◻️の言葉は責めるものではなく、「こうすればもっと伝わる」と自然に教えてくれるものだった。
昔からそうだった。
サクラコが言葉に詰まれば何気なく補足し、誤解されそうになれば横からさりげなく説明を添えてくれる。
本人は特別なことをしているつもりなどないのだろう。
それでも、その一言に何度助けられてきたか分からなかった。
だからこそ、サクラコは改めて口を開く。
「ですが」
◻️◻️が顔を上げた。
「それでも私は感謝しています」
「まだ言うのか?」
「ええ」
「何で?」
サクラコは少しだけ微笑む。
「私が説明し切れないことを、貴方は自然に伝えてくださいますから」
「そんな大したことしてないぞ」
「私にとっては大きなことです」
◻️◻️は照れくさそうに頭を掻いた。
「そう言われるとむず痒いな」
「本心です」
サクラコは真っ直ぐに答える。
その視線を受けた◻️◻️は、少し困ったように笑った。
「じゃあ俺も言っとくか」
「?」
「感謝するのは俺の方だ」
「私に、ですか」
「ああ」
◻️◻️は椅子にもたれながら天井を見上げた。
「お前がシスターフッドに誘ってくれなかったら、今頃どうなってたか分からない」
その言葉を聞いた瞬間、サクラコの手が止まる。
忘れたことなど、一度もなかった。
それでも、普段は思い出さないようにしていた記憶が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
高校一年の春。
初めて言葉を交わした日のこと。
そして、二年後の雨の日。
自分が友人の苦しみに、ようやく気付いた日のことを。
ーーーーーー
最初に◻️◻️と出会ったのは、高校一年の春だった。
まだ新しい制服にも慣れず、校舎の構造すら覚え切れていなかった頃、サクラコは中庭のベンチで一冊の本を読んでいる男子生徒を見つける。
キヴォトスで唯一の男子生徒。
その存在自体は入学前から噂になっていた。
だが、サクラコの興味を引いたのはそこではない。
彼が読んでいた本だった。
神学書。
一年生が読むには少し専門的で、シスターですら手に取る者は少ない本である。
思わず足が止まった。
「何を読んでいるのですか」
その一言が、二人の最初の会話だった。
◻️◻️は少し驚いたように顔を上げたが、嫌そうな顔はしない。
「神学の本」
「お好きなのですか」
「好きだな」
「難しくありませんか」
「難しいけど面白いぞ」
そう言って本を差し出してくる。
サクラコも少しだけページを覗き込み、自然と話が弾んだ。
神学のこと。
聖典の解釈。
歴史。
トリニティの文化。
話題は次々と移り変わり、気付けば昼休みが終わる鐘が鳴っていた。
「意外と時間経ってたな」
「そうですね」
それだけだった。
特別な出来事ではない。
だが、その翌週も図書館で会った。
さらにその次は食堂で。
放課後に顔を合わせれば立ち話をし、休日に書店で偶然会えば新刊の話をした。
互いに約束をしたわけではない。
それでも気付けば、一緒にいる時間が増えていた。
サクラコにとって◻️◻️は、数少ない気を遣わず話せる相手になっていた。
シスターフッドに所属してからはなおさらだった。
責任が増え、人と接する機会は多くなった一方で、本音を話せる相手は少なくなっていく。
そんな中でも、◻️◻️だけは昔と変わらなかった。
シスターフッドの長としてではなく、一人の友人として接してくれる。
そのことが、どれほど救いになっていたのか。
当時のサクラコは、まだ言葉にできなかった。
そして同時に、気付いてもいなかった。
唯一の男子生徒という立場が、◻️◻️へどれほど重い視線を向けさせていたのかを。
最初はただの好奇心だった。
「本当に男子なんだ」
「話してみたい」
「どんな感じなんだろう」
そんな声を、サクラコも何度か耳にしたことがある。
だが時間が経つにつれ、その視線は少しずつ変わっていった。
「どうして男子がトリニティにいるの?」
「特別扱いされてない?」
「サクラコ様とも仲が良いし」
事実ではない。
それでも噂は広がる。
噂は尾ひれを付ける。
そして、いつしか悪意へ変わっていく。
教科書がなくなる。
机に落書きをされる。
靴が隠される。
廊下で肩をぶつけられる。
最初は幼稚ないたずらのようなものだった。
だが、◻️◻️が誰にも言い返さず、先生にも訴えないことを知ると、行為は少しずつエスカレートしていった。
それでも、サクラコは気付かなかった。
気付けなかった。
◻️◻️はいつも通り笑っていたからだ。
図書館で会えば本の話をし、礼拝堂で顔を合わせれば何気ない会話を交わす。
疲れた様子を見せる日があっても、「昨日は夜更かしをしましたか」と冗談を言えば、「そんなところだ」と笑って返してくる。
だから疑わなかった。
友人が苦しんでいるなど、考えもしなかった。
その日も、シスターフッドの仕事は予定より長引いていた。
ようやく校舎を出た頃には、空は灰色の雲に覆われ、細かな雨が静かに降り始めている。
サクラコは傘を広げると、いつものように校門へ向かって歩き出した。
ふと、校舎裏から笑い声が聞こえる。
楽しそうな笑いではない。
誰かを見下し、嘲るような笑い声だった。
思わず足を止める。
直後、複数の足音が雨音に紛れて響き、数人の生徒が校舎裏から走り去っていく姿が目に入った。
顔までは見えない。
だが、その場へ残された空気だけが、嫌なほど重かった。
胸騒ぎがする。
理由は分からない。
それでも、足は自然と校舎裏へ向かっていた。
角を曲がった瞬間、サクラコは息を呑む。
雨に濡れた地面には教科書やノートが散乱し、水を吸ったページは泥に張り付いていた。
踏みつけられた鞄。
折れた筆記具。
そして、そのすぐ傍の壁へ背中を預けるように座り込んでいたのは――。
「……◻️◻️」
声が漏れた。
制服は泥で汚れ、頬には赤く腫れた痕が残り、前髪から滴る雨水が頬を伝って落ちていく。
普段なら身だしなみを崩さない彼が、そこにはいた。
「サクラコ……?」
◻️◻️はゆっくりと顔を上げ、一瞬だけ驚いた表情を浮かべる。
だが次の瞬間には、何事もなかったかのように笑ってみせた。
「ああ、見つかったか」
その笑顔が、サクラコには何より痛々しかった。
「何があったのですか」
「いや、ちょっと転んでさ」
「嘘です」
間髪入れずに言い切る。
サクラコは散らばった教科書へ視線を向け、静かに首を横へ振った。
「転んだだけで、このようにはなりません」
雨だけが静かに降り続く。
しばらくの沈黙の後、◻️◻️は小さく息を吐いて視線を逸らした。
「……本当に大したことじゃない」
その言葉を聞いた瞬間、サクラコは理解してしまう。
一度や二度ではない。
隠し慣れている。
誤魔化し慣れている。
誰かへ助けを求めることを、ずっと前に諦めてしまっている。
その事実が、胸を締め付けた。
友人だった。
高校一年の春から、ずっと隣で笑い合ってきた友人だった。
それなのに。
自分は何も知らなかった。
シスターフッドの仕事に追われる中で、彼の笑顔だけを見て安心し、その奥にある苦しみに一度も気付けなかった。
「帰りましょう」
「大丈夫だって」
「大丈夫ではありません」
静かな口調だった。
それでも、その声には普段にはない強さが宿っていた。
◻️◻️は少しだけ困ったように笑うと、それ以上は何も言わず、差し出されたサクラコの手をゆっくりと取った。
その日は、それ以上何も聞かなかった。
誰がやったのか。
いつから続いていたのか。
どうして誰にも話さなかったのか。
聞きたいことはいくらでもあった。
けれど、その答えを無理に聞き出すことが正しいとは思えなかった。
今の◻️◻️に必要なのは問い詰められることではない。
安心して隣を歩ける相手だ。
サクラコはそう考え、帰り道は他愛のない話だけをした。
今日読んだ資料のこと。
礼拝堂で一年生が聖歌を間違えてしまったこと。
食堂の新しいメニューのこと。
◻️◻️もいつも通り笑って返す。
その笑顔が、今はひどく痛々しく見えた。
翌日から、サクラコは独自に調べ始めた。
シスターフッドという立場を利用したわけではない。
ただ友人として、知りたかった。
あの雨の日が偶然ではないことだけは分かっていた。
最初は勘違いであってほしいと思っていた。
一度だけの出来事。
偶然巻き込まれただけ。
そんな結論を期待していた。
しかし現実は違う。
話を聞けば聞くほど、胸が苦しくなった。
◻️◻️は一年生の頃から陰湿ないじめを受けていた。
きっかけは、キヴォトスで唯一の男子生徒だったこと。
入学当初は珍しい存在として注目を集め、「男子ってどんな人なんだろう」と興味本位で話しかける生徒も少なくなかった。
だが時間が経つにつれ、その興味は嫉妬や偏見へと姿を変えていく。
「どうして男子がトリニティにいるの。」
「特別扱いされている。」
「サクラコ様とも仲が良い。」
根拠など何一つない。
それでも噂は一人歩きし、尾ひれが付き、いつしか悪意へ変わっていった。
教科書を隠される。
机に落書きをされる。
靴を捨てられる。
掃除当番を押し付けられる。
廊下ですれ違いざまに肩をぶつけられる。
最初は子どもじみた嫌がらせだった。
だが、◻️◻️が怒らないこと、誰にも言い返さないことを知ると、その行為は少しずつエスカレートしていった。
それでも彼は誰にも相談しなかった。
自治組織へ訴えることもなければ、問題を大きくしようともしない。
『俺一人が我慢すれば済む話だから。』
そう言って笑っていたらしい。
その話を聞いた瞬間、サクラコは言葉を失った。
友人だった。
高校一年からずっと一緒にいた。
図書館で本を読み、休日には書店へ足を運び、他愛ない話をしながら帰ったことも数え切れない。
それなのに。
何一つ気付かなかった。
自分は何を見ていたのだろう。
何を話していたのだろう。
どうして笑顔だけを見て安心してしまったのだろう。
胸が締め付けられる。
怒りより先に、後悔が押し寄せた。
自分は友人失格ではないのか。
そんな考えが頭から離れなかった。
その夜、サクラコは眠ることができなかった。
何度目を閉じても、雨の中で笑っていた◻️◻️の姿が浮かんでくる。
『ああ、見つかったか。』
あの一言が耳から離れない。
どうして、あんな状況で笑えたのか。
どれだけ一人で耐えてきたのか。
考えれば考えるほど胸が痛み、気付けば夜が明けていた。
その朝、サクラコは一つの決意を固める。
もう二度と、あのような思いはさせない。
今度こそ、自分が守る。
友人として。
そして――シスターフッドの長として。
ーーーーーー
数日後。
放課後の中庭は、授業を終えた生徒たちの話し声で賑わっていた。
サクラコは一通のメッセージを送り、◻️◻️を中庭へ呼び出す。
待ち合わせ場所に選んだのは、高校一年の春、初めて二人が言葉を交わしたあのベンチだった。
先に着いていたサクラコは、静かに腰を下ろしながら木漏れ日を見上げる。
しばらくして聞き慣れた足音が近付いてきた。
「悪い、待たせたか」
「いえ、今来たところです」
◻️◻️は隣へ腰を下ろす。
昔から変わらない距離だった。
近すぎず、遠すぎず。
互いに気を遣わなくて済む、心地よい距離。
「珍しいな。お前から呼び出すなんて」
「少し、お話がありまして」
「……その言い方だと、また誰かに怖がられるぞ」
思わず苦笑する◻️◻️に、サクラコも少しだけ困ったような表情を浮かべる。
「やはり、そうでしょうか」
「内容まで言えば大丈夫」
「勉強になります」
「ちゃんと実践してくれ」
「善処します」
その返事に、◻️◻️は思わず吹き出した。
「善処じゃなくて頼むから実践してくれ」
少しだけ笑いが生まれる。
その穏やかな空気を確かめるように、サクラコは一度息を整えた。
「実は、お誘いがあります」
「お誘い?」
「はい」
真っ直ぐに◻️◻️を見る。
もう迷いはなかった。
「シスターフッドへ来ませんか」
◻️◻️は目を瞬かせた。
予想もしていなかったのだろう。
数秒の沈黙が流れる。
「俺が?」
「はい」
「神父ってことか」
「ええ」
◻️◻️は腕を組み、小さく唸る。
「いや……俺、そんな大層な人間じゃないぞ」
「そのようなことはありません」
サクラコは静かに首を横へ振った。
「貴方は、人の話を最後まで聞いてくださいます」
「……」
「相手を否定せず、どうすれば伝わるかを考えてくださいます」
「買い被りすぎだ」
「いいえ」
その返答に迷いはなかった。
「私自身、何度も助けられました」
◻️◻️は苦笑する。
「それは、お前が口下手だからだろ」
「それもあるでしょう」
サクラコも珍しく苦笑を返した。
「ですが、それだけではありません」
少しだけ間を置き、ゆっくりと言葉を続ける。
「シスターフッドには、人の心へ寄り添える方が必要です」
「……」
「貴方なら、その役目を果たせます」
それは嘘ではなかった。
誰よりも適任だと思っている。
だから誘った。
それだけでも十分な理由だった。
だが。
サクラコの胸の内には、もう一つだけ理由がある。
雨の日以来、何度も考えた。
もし、あの時もっと近くにいられたなら。
もっと長く一緒に過ごしていたなら。
もっと早く気付けたのではないか。
そんな後悔が消えることはなかった。
だから。
守れる場所へ。
自分の目が届く場所へ。
シスターフッドなら、それができる。
それは長としての判断だった。
同時に。
もっと一緒にいたい。
もう一人で抱え込ませたくない。
そんな、友人としての願いでもあった。
その本音だけは、胸の奥へそっとしまい込む。
「少し考えてもいいか」
しばらく黙っていた◻️◻️が、ようやく口を開いた。
「もちろんです」
「簡単に返事をすることじゃないしな」
「ええ」
サクラコは頷いた。
急がせるつもりはない。
大切なのは、自分の意思で選んでもらうことだった。
ーーーーーーー
「本当にいいのか」
数日後。
放課後の礼拝堂で、◻️◻️は改めてサクラコへ尋ねた。
祭壇へ差し込む夕日が二人の足元を淡く照らしている。
「神父なんて務まるか分からないぞ」
「務まります」
サクラコは迷いなく答えた。
「貴方だからお願いしたのです」
「随分信頼されてるな」
「していますから」
あまりにも真っ直ぐな返事だった。
◻️◻️は少し照れくさそうに頬を掻く。
「そこまで言われると断りづらいな」
「無理にとは申しません」
「分かってる」
少しだけ考え込むように目を閉じる。
礼拝堂は静かだった。
聞こえるのは風に揺れる木々の音だけ。
やがて◻️◻️はゆっくりと目を開く。
「よろしく頼む」
その一言に、サクラコは静かに微笑んだ。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
その日から、◻️◻️はシスターフッドの神父となった。
礼拝を補助し、懺悔を聞き、書類整理を手伝い、時には悩みを抱えた生徒へ寄り添う。
自然とサクラコと行動を共にする時間も増えていった。
それは周囲から見れば仕事のため。
サクラコにとっては、それ以上の意味を持っていた。
今度こそ守れる。
もう一人で苦しませない。
その決意だけは、今日まで一度も揺らいでいない。
ーーーーーー
「……サクラコ?」
◻️◻️の声で、意識が現在へ引き戻される。
「どうした」
「いえ……少し昔を思い出していました」
「珍しいな」
「そうでしょうか」
「お前が仕事中にぼーっとしてるの、初めて見た」
サクラコは少しだけ頬を緩めた。
「申し訳ありません」
「謝るほどじゃないって」
◻️◻️も笑いながら資料を閉じる。
「これで最後だな」
机の上には付箋だらけになった資料が積み上がっていた。
アリウス分校。
カタコンベ。
エデン条約へ向けた確認事項。
予定していた内容は一通り整理し終えている。
サクラコも最後の資料を閉じ、小さく息を吐いた。
「思っていた以上に時間が掛かりましたね」
「もう夕方だしな」
窓の外を見ると、西日が書庫を橙色に染めていた。
静かだった書庫にも帰宅準備を始める生徒の足音が聞こえ始める。
「では、今日はここまでにしましょう」
「了解」
二人は資料を元の棚へ戻し、書庫を後にする。
校舎を出る頃には、空は夕焼けに染まり、柔らかな風が制服を揺らしていた。
しばらく並んで歩いていると、サクラコが不意に足を止める。
「◻️◻️」
「ん?」
「今日は私がお礼をしたいと思います」
「お礼?」
「本日も色々と助けていただきましたので」
そう言うと、道路の向かいにあるスイーツ店へ視線を向けた。
ガラス張りの店内には制服姿の生徒たちが並び、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「よろしければ、ご一緒にいかがでしょうか」
「いいけど……」
◻️◻️は少し困ったように笑う。
「奢りはなしな」
「ですが、お礼ですので」
「いや、それでも駄目」
「どうしてですか」
「男が奢られるわけにはいかないだろ」
「私は気にしません」
「俺が気にする」
即答だった。
サクラコは少しだけ考え込む。
「では……割り勘でしょうか」
「それなら気が楽だ」
「ですが、それではお礼になりません」
「気持ちだけ受け取っとく」
笑って言われると、それ以上強くは言えない。
「……分かりました」
二人は店の前まで歩いていく。
入口へ貼られた案内を見た◻️◻️が、小さく声を上げた。
「ん?」
「どうしたんですか」
「カップル割だって」
サクラコも案内へ目を向ける。
『カップルでご来店のお客様は、お会計二〇%オフ』
その文字を見た瞬間、思考が止まった。
「……」
「……」
数秒の沈黙。
先に口を開いたのは◻️◻️だった。
「これ使えば安くなるな」
「…………え?」
「店員に恋人ですって言えばいいだけだろ」
あまりにも自然な口調だった。
サクラコは思わず固まる。
「い、いえ、それは……」
「節約できるし」
「し、しかしですね」
「嫌か?」
真っ直ぐ聞き返される。
サクラコは言葉に詰まった。
嫌ではない。
むしろ、その逆だった。
だからこそ困る。
「……いえ」
「じゃあ決まりだな」
そう言って、何の迷いもなく店の扉を開ける◻️◻️を見ながら、サクラコは小さく胸元を押さえた。
(……貴方は、本当に)
その背中を追いかけながら、誰にも聞こえないほど小さく息を吐く。
本人は節約しか考えていない。
それが分かっているからこそ、余計に心臓が落ち着かなかった。
「いらっしゃいませ」
店員が笑顔で二人を迎える。
「二名様ですね」
「はい」
◻️◻️が答えると、店員は二人の顔を見比べ、小さく微笑んだ。
「カップル割をご利用でしょうか?」
「はい」
即答だった。
そのあまりの迷いのなさに、サクラコの肩が小さく震える。
「ありがとうございます。それではこちらのお席へどうぞ」
窓際の二人席へ案内され、向かい合って腰を下ろす。
店内は放課後ということもあり、制服姿の生徒で賑わっていた。
楽しそうに写真を撮る二人組。
パフェを分け合うカップル。
談笑しながらケーキを食べる友人同士。
そんな光景の中に、自分たちも混ざっている。
それだけでサクラコは落ち着かなかった。
一方で、向かいに座る◻️◻️はメニューを開きながら真剣な顔をしている。
「二〇%引きなら結構変わるな」
「……」
「このセットなら割引込みでこっちの方が安いか」
「◻️◻️」
「ん?」
「その……」
「どうした?」
サクラコは一瞬だけ言葉を探したが、結局何も言えず首を横に振る。
「いえ、何でもありません」
「そうか?」
やはり気付いていない。
カップルだと思われていることにも。
向かい合って座っていることにも。
周囲から恋人同士として見られていることにも。
本人の頭の中にあるのは、どうやら値段だけらしい。
「決めた」
◻️◻️がメニューを閉じる。
「俺、このショートケーキセット」
「私は……こちらのフルーツパフェにします」
注文を終え、しばらく他愛ない話をしながら待っていると、店員がスイーツを運んできた。
真っ白な生クリームが添えられたショートケーキ。
色鮮やかな果物が盛り付けられた大きなパフェ。
どちらも見た目からして美味しそうだった。
「いただきます」
「いただきます」
二人は同時に手を合わせる。
◻️◻️はフォークでケーキを一口切り分け、何気ない様子で口へ運んだ。
「うまい」
「お気に召したようですね」
「この店、当たりだな」
サクラコもパフェを一口食べる。
冷たいアイスと甘酸っぱい果物が口いっぱいに広がり、自然と頬が緩んだ。
「こちらも、とても美味しいです」
「そうか」
しばらく静かな時間が流れる。
その時だった。
サクラコはふと、◻️◻️のショートケーキへ視線を向ける。
本当に美味しそうだった。
それに気付いた◻️◻️が首を傾げる。
「……どうした?」
サクラコは少しだけ目を逸らし、それでも素直に答えた。
「いえ、◻️◻️が食べているものも、美味しそうだと思いまして」
「ん?」
「その……少し気になりまして」
「んじゃ食うか?」
「……へ?」
サクラコが聞き返すより早く、◻️◻️はフォークへケーキを乗せる。
そして。
「ほい、アーン」
あまりにも自然な動作だった。
まるでそれが当たり前であるかのように。
サクラコの思考が止まる。
目の前にはフォーク。
そして、それを差し出したまま首を傾げている◻️◻️。
「どうした?」
「え……あ……」
頬が熱い。
自分でも分かるほど顔が熱くなっていく。
周囲の視線まで意識してしまう。
「さ、サクラコ?」
「…………」
断る理由が見つからない。
というより、この状況をどうすればいいのか分からない。
しばらく固まっていたサクラコは、意を決したようにゆっくりと口を開き、小さくケーキを口へ運んだ。
「……お、美味しいです」
「だろ?」
◻️◻️は満足そうに笑い、自分の皿へフォークを戻す。
そこに特別な意味など一切ない。
サクラコだけが、その一口で胸の鼓動を抑えられなくなっていた。
(……このままでは、不公平です)
サクラコは胸の内で小さく呟く。
先ほどの一口だけで、こちらばかり動揺している。
対する◻️◻️は何事もなかったようにケーキを食べ続けていた。
少しだけ悔しい。
ほんの少しだけ。
だから、サクラコは静かにスプーンを手に取る。
パフェのアイスと果物を一口分だけすくい、何度か深呼吸をしてから、おそるおそる◻️◻️へ差し出した。
「あ、あの」
「ん?」
「こちらも……よろしければ」
◻️◻️は差し出されたスプーンとサクラコの顔を交互に見る。
「食べてみませんか」
「交換ってこと?」
「……はい」
少しだけ声が上擦る。
サクラコは覚悟を決め、小さく口を開いた。
「……アーン、してください」
言った。
とうとう言ってしまった。
耳まで熱くなっているのが自分でも分かる。
これなら少しは◻️◻️も照れるだろう。
そう思っていた。
しかし。
「おう」
返事は一言だった。
◻️◻️は何の躊躇もなく身を乗り出す。
「あーん」
本当に、それだけだった。
照れもない。
迷いもない。
恥ずかしがる様子もない。
ただ純粋に、「食べさせてくれるなら食べる」という反応だった。
サクラコは一瞬だけ固まる。
(え……)
思考が追いつかない。
「あれ?」
◻️◻️が首を傾げる。
「違ったか?」
「い、いえ」
慌ててスプーンを口元へ運ぶ。
◻️◻️はそのまま一口で食べると、小さく頷いた。
「これもうまいな」
「……そうですか」
「果物も甘いし、アイスもいい感じだ」
感想までいつも通りだった。
本当に何も変わらない。
サクラコだけが、胸の鼓動を必死に抑えている。
(どうして……)
ここまで反応がないのだろう。
普通なら少しくらい恥ずかしがるものではないのか。
カップル割を使う時もそうだった。
食べさせ合いもそうだった。
本人は何一つ意識していない。
その無自覚さが、かえってサクラコを振り回していた。
「サクラコ」
「は、はい」
「顔赤いぞ」
不意にそう言われ、心臓が跳ねる。
「だ、大丈夫です」
「店の中、ちょっと暑いか?」
◻️◻️は本気で心配しているようだった。
その様子を見たサクラコは、一瞬だけ言葉を失う。
そして。
「……ふふっ」
思わず笑みが零れた。
「ん?」
「いえ」
サクラコは小さく首を横へ振る。
「本当に、貴方らしいと思いまして」
「何だそれ」
「褒め言葉ですよ」
「ならいいけど」
そう言って◻️◻️は再びケーキへフォークを伸ばす。
その姿を見つめながら、サクラコも静かにスプーンを手に取った。
店の窓から差し込む夕日が、二人の席を優しく照らしている。
シスターフッドの長として過ごす時間は、責任と緊張の連続だった。
それでも。
こうして何気ない時間を共に過ごせる相手がいる。
自分の言葉を誤解せず、自然に受け止めてくれる友人がいる。
その当たり前ではない日常が、今のサクラコには何よりも大切だった。
だからこそ。
この穏やかな時間が、少しでも長く続いてほしい。
そう願わずにはいられなかった。
店を出る頃には、空は茜色から群青へと変わり始めていた。
会計を済ませた◻️◻️は、レシートを見ながら満足そうに頷く。
「思ったより安く済んだな」
「……そうですね」
サクラコは苦笑する。
結局、この人の頭の中は最後まで節約のことしかなかったらしい。
店を出た二人を見送りながら、店員が小さく微笑む。
「仲の良いカップルでしたね」
「見てるこっちまでほっこりしたね」
その言葉は、もちろん二人には届かない。
帰り道。
夕焼けに染まる石畳を並んで歩く。
「今日はありがとう」
不意に◻️◻️が口を開く。
「甘いもの食うなんて久しぶりだった」
「喜んでいただけたなら何よりです」
「今度は俺が奢るよ」
「本当ですか」
「ああ。今日のお返し」
「……楽しみにしています」
その言葉に嘘はなかった。
サクラコの頬には自然と笑みが浮かぶ。
隣を歩く◻️◻️は、その笑顔を見て小さく首を傾げる。
「今日はよく笑うな」
「そうでしょうか」
「仕事の時よりずっと楽しそうだ」
「貴方といる時間は、肩の力を抜けますから」
「そりゃ良かった」
照れる様子もなく笑う◻️◻️を見て、サクラコは心の中で小さくため息をつく。
(……やはり、気付いていないのですね)
自分の想いにも。
今日一日、自分がどれほど振り回されていたのかにも。
それでも。
そんな鈍感さも、この人らしい。
そう思うと、不思議と嫌ではなかった。
夕暮れのトリニティを二人は肩を並べて歩いていく。
その後ろ姿を見た生徒たちが、また新しい噂をすることになるとは、当の本人たちはまだ知らない。
ーーーーーー
数日後。
エデン条約へ向けた調査は、資料を読み解く段階から現地確認の段階へと移っていた。
今回の目的地は、トリニティの地下深くに広がるカタコンベ。
建設された時期も、全体の構造も、その多くが謎に包まれた地下施設である。
古い記録には断片的な記述が残されているものの、実際に足を踏み入れた者は少なく、現在でも全容は明らかになっていない。
そのため、シスターフッドでも定期的に調査が行われていた。
もっとも、危険が伴う以上、大人数では動けない。
今回はサクラコと◻️◻️の二人で向かうことになっていた。
夕方。
シスターフッドの詰所では、調査に必要な装備の最終確認が行われていた。
懐中電灯。
予備の電池。
筆記用具。
簡単な救急用品。
調査記録用の手帳。
一つひとつ確認し終えたサクラコは、小さく頷く。
「問題ありませんね」
「こっちも大丈夫」
◻️◻️は懐中電灯を軽く振って動作を確認すると、鞄へしまった。
「じゃあ、そろそろ行くか」
「ええ」
二人が詰所を出ようとすると、近くで書類整理をしていたシスターたちが顔を上げた。
「あれ、サクラコ様」
「もうお出掛けですか?」
「はい。これからカタコンベの調査へ向かいます」
サクラコが穏やかに答えると、シスターの一人が◻️◻️へ視線を向ける。
「◻️◻️さんもご一緒なんですね」
「まあな」
「お二人だけですか?」
「今回は少人数の方が調査しやすいですので」
その返事を聞いたシスターたちは顔を見合わせ、小さく笑みを浮かべた。
「夜にお二人で出掛けるなんて、何だかデートみたいですね」
その一言に、サクラコの動きがぴたりと止まる。
「え……」
思わず声が漏れた。
否定しようと口を開きかけた、その時。
「まぁ、そんな様なもんだ」
隣の◻️◻️が、あっさりと言った。
一瞬、時間が止まる。
「えっ?」
「ほ、本当にですか?」
「やっぱりそうだったんですか!」
詰所の空気が一気にざわつく。
サクラコは勢いよく◻️◻️の方を振り向いた。
「◻️◻️!」
「ん?」
「何を仰っているのですか!」
頬がみるみる赤く染まっていく。
しかし当の本人は不思議そうに首を傾げるだけだった。
「いや、目的地まで二人で出掛けるんだから、似たようなもんだろ」
「全く違います!」
「そうか?」
「そうです!」
サクラコは慌ててシスターたちへ向き直る。
「ち、違いますからね。あくまでも調査です。決して、そのような関係では――」
必死に説明するものの、一度膨らんだ誤解は簡単には収まらない。
「ふふ、お幸せに」
「応援しています」
「お気を付けて行ってらっしゃい」
温かな笑顔で送り出され、サクラコは思わず肩を落とした。
詰所を出てしばらく歩いたところで、小さくため息をつく。
「……誤解されてしまいました」
「そのうち分かるだろ」
「本当にそうでしょうか」
「大丈夫、大丈夫」
何の根拠もない励ましだった。
それでも悪気がないことだけは分かる。
だからこそ、怒ることもできない。
サクラコは困ったように微笑みながら歩き出す。
そんな自分を見て、◻️◻️も小さく笑った。
夜風が制服の裾を揺らす。
二人は並んで、静かなトリニティの校舎を後にした。
校舎から少し離れると、生徒たちの話し声も次第に聞こえなくなっていく。
夜のトリニティは昼間とは別の表情を見せていた。
街灯に照らされた石畳。
風に揺れる木々。
遠くに見える礼拝堂の尖塔。
二人は並んで歩きながら、目的地であるカタコンベの入口を目指す。
「先ほどは、どうしてあのようなことを仰ったのですか」
サクラコが静かに尋ねる。
先ほどからずっと気になっていた。
◻️◻️は歩調を変えないまま答える。
「何が?」
「『そんな様なものだ』というお言葉です」
「ああ」
ようやく思い当たったらしく、少し笑う。
「別に嘘は言ってないだろ」
「ですが、皆さんは別の意味で受け取っていました」
「そうか?」
「そうです」
サクラコは小さく息を吐いた。
「おかげで、また噂が増えてしまうかもしれません」
「まあ、その時はその時だ」
「貴方は気にならないのですか」
「別に困ることもないしな」
あまりにも気楽な返事だった。
本人は本当に何も考えていない。
サクラコは苦笑しながら視線を前へ戻す。
(……本当に。)
(こういうところなのですよ。)
悪気はない。
だから責めることもできない。
その無自覚さに振り回されるのは、昔から変わらなかった。
やがて二人は、木々に囲まれた古い石造りの建物へ辿り着く。
現在は使われていない礼拝堂。
その地下に、カタコンベへの入口が残されている。
重い扉を押し開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
地下へ続く石段は闇に包まれ、その先は懐中電灯の光でも見通せない。
サクラコは灯りを点け、小さく頷く。
「行きましょう」
「了解」
二人はゆっくりと石段を下り始めた。
階段を一段下りるごとに、外の音は遠ざかっていく。
代わりに聞こえるのは、自分たちの足音が石壁へ反響する音だけだった。
やがて最下層へ辿り着く。
目の前には石造りの通路が左右へ伸び、その先は深い闇に飲み込まれていた。
壁には年月を感じさせる亀裂が走り、崩れかけた柱や朽ちた燭台が静かに並んでいる。
サクラコは手帳を開き、周囲をゆっくり見渡した。
「……想像以上ですね」
資料では、地下礼拝堂跡としか記されていなかった。
だが実際に目の前へ広がっていたのは、一つの施設と呼ぶにはあまりにも広大な地下空間だった。
「これだけ残ってるとは思わなかったな」
◻️◻️も懐中電灯で周囲を照らしながら呟く。
光は奥まで届かず、暗闇がどこまでも続いているように見えた。
「現存する資料はごく一部です」
サクラコは壁面へ刻まれた紋様へ目を向ける。
花を模した意匠。
古い十字架。
今では使われなくなった装飾様式。
「実際に来てみなければ分からないことばかりですね」
そう言って、一つひとつ丁寧に手帳へ書き留めていく。
その間も、◻️◻️は少し離れた位置から周囲を警戒していた。
通路の先。
崩落した瓦礫。
人が通れそうな隙間。
物音がしないか、慎重に確認している。
調査に集中できるよう、自然と周囲へ気を配ってくれていた。
その姿を見て、サクラコはふと微笑む。
(貴方は、いつもそうですね。)
(決して前へ出ようとはせず、それでも気付けば隣で支えてくださる。)
だからこそ安心して背中を預けられる。
シスターフッドへ誘った理由は、決して間違っていなかった。
そんな思いを胸に抱きながら、二人はさらにカタコンベの奥へ歩みを進めていった。
通路を進むにつれ、カタコンベはさらに複雑な姿を見せ始めた。
真っ直ぐ続いていた石畳は途中でいくつもの分岐へ枝分かれし、崩落した壁が行き止まりを作っている場所もあれば、人一人がようやく通れるほど細い通路が奥へ伸びている場所もある。
サクラコは立ち止まり、懐中電灯で壁面を照らした。
そこには風化しかけたレリーフが刻まれている。
翼を広げた天使。
祈りを捧げる人々。
そして、今ではほとんど見ることのない古い紋様。
「この様式も、現在のトリニティとは少し異なりますね」
独り言のように呟きながら、手帳へ素早く書き留める。
文字だけではなく、簡単な図まで添えていた。
後から見返した時に分かるよう、細かな特徴も残しておく。
◻️◻️はその様子を横目で見ながら、少し前方まで歩いて周囲を確認する。
床へ視線を落とし、壁際にも目を配る。
「何かありましたか」
「いや、人が通ったような跡は見当たらない」
少し屈み込み、床へ手を触れる。
積もった埃はほとんど乱れていなかった。
「少なくとも最近ここを歩いた奴はいなさそうだ」
「そうですか」
サクラコは小さく頷いた。
それならば、少しは安心できる。
この地下がどれほど広いのかは分からない。
それでも、誰かと鉢合わせる可能性は低いだろう。
そう考えていた。
二人は再び歩き始める。
途中、崩れ落ちた礼拝堂跡へ足を踏み入れた。
祭壇は半ば崩れ、長椅子も朽ち果てている。
それでも天井だけは辛うじて形を保ち、静寂に包まれた空間にはどこか神聖さが残っていた。
サクラコは祭壇の前で足を止める。
「ここも……礼拝堂だったのでしょうか」
資料には載っていない場所だった。
祭壇へ刻まれた模様も、現在のトリニティでは見たことがない。
「後で他の資料とも照らし合わせてみる必要がありますね」
そう言って手帳へ書き込む。
◻️◻️は周囲を見渡しながら、小さく笑った。
「今日は結構収穫あるな」
「ええ。思っていた以上です」
サクラコも自然と笑みを浮かべる。
この調査を二人で担当して正解だった。
◻️◻️が周囲を見てくれるから、自分は安心して記録へ集中できる。
そんな穏やかな時間が流れていた。
その時だった。
礼拝堂跡を抜け、一つ先の分岐へ足を踏み入れた瞬間。
暗闇の奥で、白い光が揺れた。
懐中電灯。
サクラコは反射的に足を止める。
◻️◻️も同時に動きを止め、その光の先へ視線を向けた。
数メートル先。
こちらと同じように灯りを手にした四人ほどの生徒が立っている。
向こうも突然人影が現れたことに驚いたのだろう。
全員がその場で動きを止め、こちらを見つめていた。
地下に静寂が落ちる。
互いに一歩も動かない。
数秒にも満たない時間だった。
だが、それがひどく長く感じられた。
やがて、その沈黙を破るように相手の一人が目を見開く。
「……トリニティだ!」
その声には驚きと警戒、そして敵意が混ざっていた。
◻️◻️の表情が一変する。
視線は相手から外さないまま、小さくサクラコへ告げた。
「あいつら……アリウスだ。」
その言葉が終わるより早く。
相手の一人が迷いなく銃口をこちらへ向けた。
「伏せろ!」
乾いた銃声が、静まり返っていたカタコンベへ響き渡った。
サクラコは反射的に身を低くする。
放たれた銃弾が頭上を掠め、石壁へ当たって乾いた音を響かせた。
砕けた石片が床へ散る。
「走るぞ!」
◻️◻️がサクラコの腕を軽く引く。
二人は来た道へ向かって一気に駆け出した。
背後では続けざまに銃声が響く。
閉ざされた地下空間では音が何度も反響し、距離感が掴めない。
サクラコは懐中電灯を握り直しながら前を走る。
(応戦するべきでしょうか。)
一瞬だけ、その考えが頭をよぎる。
しかし、すぐに打ち消した。
この狭い通路では、相手の人数も正確な位置も把握できない。
何より、今回の目的は戦闘ではなく調査だ。
無理をする理由はない。
「右です!」
分岐へ差しかかり、サクラコが進路を示す。
◻️◻️は迷わずその後を追った。
息を整えながら周囲へ視線を巡らせる。
追ってくる足音。
壁へ反響する物音。
暗闇の向こうから再び銃声が響いた。
その瞬間だった。
「ぐっ……!」
短く押し殺した声が聞こえた。
サクラコが振り返る。
◻️◻️の身体が一瞬だけよろめき、右腕を押さえたまま足を止めかけていた。
「◻️◻️!」
胸が大きく脈打つ。
頭の中が真っ白になる。
(当たった……。)
(そんな……。)
ほんの一瞬、思考が止まった。
三年前の雨の日。
全身を濡らしながら、それでも笑っていた友人の姿が脳裏を過る。
『もう二度と。』
そう誓ったはずだった。
もう一人で苦しませない。
もう傷付けさせない。
今度こそ守る。
そう決めて、自分の傍へ迎えたのに。
「サクラコ!」
◻️◻️の声で我に返る。
痛みを堪えながらも、その目はしっかり前を向いていた。
「止まるな!」
その一言で、サクラコは唇を強く噛み締める。
立ち止まっている時間はない。
今ここで足を止めれば、二人とも危険になる。
「……はい!」
震えそうになる声を押さえ込み、◻️◻️の隣へ駆け寄る。
右腕を気遣いながら、少しでも負担が少なくなるよう歩調を合わせた。
(私のせいです。)
(私が調査を提案したから。)
(私が、ここへ連れて来たから。)
後悔が胸を締め付ける。
それでも、今は振り返っている場合ではない。
必ず連れて帰る。
そのために、自分はシスターフッドの長なのだから。
出口まで、あと少し。
サクラコは懐中電灯で前方を照らし、暗い通路を駆け抜けた。
カタコンベから脱出した頃には、夜はすっかり更けていた。
救護騎士団の医務室。
◻️◻️は椅子へ腰掛け、右腕へ包帯を巻かれていた。
幸い、弾は貫通しておらず、適切な処置も終わっている。
しばらく右腕は使えない。
それが診断だった。
サクラコは処置が終わってからも、黙ったまま俯いていた。
膝の上で握った手が、小さく震えている。
「……申し訳ありません。」
静かな声だった。
◻️◻️は首を傾げる。
「何が?」
「私が調査を提案したからです。」
返事はない。
サクラコは続けた。
「あの場へ向かわなければ、このような怪我を負わせることもありませんでした。」
「だから。」
「守ると決めていたのに。」
声が少しだけ震える。
「あの日、私は貴方を守るためにシスターフッドへ迎えました。」
「もう二度と、一人で苦しませないために。」
「それなのに。」
「また、傷付けてしまいました……。」
◻️◻️は困ったように笑う。
「気にし過ぎだ。」
「ですが。」
「撃ったのは俺でもお前でもない。」
「悪いのは撃った奴だ。」
あまりにも当然のように言う。
「だから、お前が謝る必要はない。」
「ですが……。」
「それに。」
◻️◻️は包帯でぐるぐる巻きになった右腕を少し持ち上げた。
「しばらく右手使えないんだよな。」
「はい。」
「じゃあ頼みがある。」
「何でしょう。」
「治るまで飯食わせてくれ。」
一瞬。
サクラコは何を言われたのか理解できなかった。
「……はい?」
「右手使えないし。」
「左でも食えなくはないけど面倒だ。」
「だから頼む。」
あまりにも自然だった。
まるで「荷物を持ってくれ」とでも言うような軽さである。
サクラコは思わず吹き出しそうになる。
涙を浮かべていたはずなのに。
少しだけ笑ってしまった。
「そのようなお願いですか。」
「駄目か?」
「……いいえ。」
小さく首を横へ振る。
「喜んで。」
その言葉を口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
“喜んで”。
思っていた以上に素直な言葉が出てしまった。
◻️◻️は特に気にした様子もなく笑う。
「助かる。」
サクラコはそんな友人を見つめながら、心の奥で静かに思う。
(治るまで、ではありません。)
(できることなら。)
(これからも、ずっと。)
(貴方の隣で、支えていたい。)
その願いは、誰にも聞こえない。
サクラコだけの、小さな秘密だった。
ーーーーーー
数日後。
昼休み。
中庭の木陰で、二人は昼食を取っていた。
「あーん。」
サクラコが箸で卵焼きを摘まみ、◻️◻️の口元へ運ぶ。
◻️◻️は何の躊躇もなく口を開けた。
「……うまいな。」
「それは何よりです。」
「毎日食わせてもらってると贅沢になりそうだ。」
「治るまでは我慢してください。」
「治ったら終わりか?」
何気ない一言。
サクラコは一瞬だけ動きを止めた。
「……いえ。」
「ご希望でしたら、その後も。」
言い掛けて、慌てて咳払いをする。
「……その、必要でしたら、お手伝いします。」
◻️◻️は気付かない。
「じゃあ、その時は頼む。」
「はい。」
それだけで胸が温かくなる自分に、サクラコはようやく気付いてしまう。
これは友人への情ではない。
もっと別の。
もっと深い想いだった。
(私は……。)
(貴方のことが、好きなのですね。)
その想いを胸へしまい、静かに決意する。
(エデン条約が無事に終わったら。)
(その時は、この気持ちを伝えましょう。)
未来が、当たり前のように続くものだと。
この時のサクラコは、まだ信じていた。
ーーーーーー
エデン条約調印式当日。
朝からトリニティは慌ただしかった。
会場では各校の代表者たちが最終確認を行い、シスターフッドも来賓の案内や警備、式典の進行に追われている。
サクラコもその中心に立ち、一つひとつ確認を重ねていた。
不安がなかったわけではない。
それでも、この条約が結ばれれば、キヴォトスはきっと前へ進める。
そう信じていた。
「緊張してるか?」
隣から声が掛かる。
振り向くと、正装に身を包んだ◻️◻️が立っていた。
右腕にはまだ包帯が巻かれていたものの、表情はいつもと変わらない。
「……少しだけ。」
「珍しいな。」
「大切な日ですから。」
サクラコは小さく微笑む。
「ですが、貴方がいてくださるので安心できます。」
「そんな大したことはしてない。」
「いいえ。」
その返事だけで十分だった。
サクラコは一度だけ胸元へ手を当てる。
(今日が終われば。)
(終わったら、伝えましょう。)
長い間、胸の奥へしまい続けた想い。
もう迷わない。
そう決めていた。
やがて式典は始まり、厳かな空気の中で進行していく。
誰もが静かに耳を傾け、平和への第一歩となる瞬間を見守っていた。
その時だった。
遠くから、聞き慣れない音が響く。
最初は誰も気付かなかった。
だが、その音は急速に大きくなっていく。
◻️◻️が空を見上げる。
「……サクラコ。」
その声には、今まで聞いたことのない緊張が混じっていた。
サクラコも反射的に視線を向ける。
次の瞬間。
轟音。
視界を埋め尽くす閃光。
「伏せろ!」
叫び声と同時に、◻️◻️がサクラコを強く突き飛ばした。
身体が地面を転がる。
衝撃。
爆風。
耳鳴り。
何も聞こえない。
視界は白く霞み、意識はそのまま暗闇へ沈んでいった。
ーーーーーー
目を覚ました時、周囲は混乱に包まれていた。
崩れた建物。
立ち込める砂埃。
飛び交う怒号。
サクラコはゆっくりと身体を起こす。
「……◻️◻️。」
返事はない。
立ち上がり、周囲を見回す。
どこにも姿が見えない。
「◻️◻️!」
何度呼んでも、返事は返ってこなかった。
探しに行こうとした、その時。
「サクラコ様!」
シスターが駆け寄ってくる。
「指示をお願いします! 負傷者の搬送が追いついていません!」
サクラコは唇を噛む。
今すぐ探したい。
一秒でも早く。
それでも。
自分はシスターフッドの長だった。
目の前には助けを必要としている人がいる。
震える手を握り締め、サクラコは顔を上げた。
「負傷者を礼拝堂へ。」
「動ける方は避難誘導を。」
「重傷者を最優先で搬送してください。」
声は震えていなかった。
けれど胸の奥では、ただ一つの願いだけが繰り返されていた。
(お願いです。)
(どうか無事でいてください。)
その願いを胸に抱えたまま、サクラコは三日間、シスターフッドの指揮を執り続けた。最後まで、その人を信じながら。
ーーーーーー
三日後。
瓦礫の撤去は、なおも続いていた。
爆発の跡は痛々しく残り、かつて厳かな式典が行われるはずだった場所は、見る影もなく崩れ去っている。
サクラコも捜索へ加わっていた。
指揮は他のシスターへ引き継いだ。
今だけは、シスターフッドの長ではなく、一人の友人として探したかった。
「……◻️◻️。」
名前を呼ぶ。
返事はない。
瓦礫を一つ運び、また一つ退かす。
制服は砂埃で白く汚れ、手袋も擦り切れていた。
それでも手は止まらない。
止めたくなかった。
止めてしまえば、本当に希望まで失ってしまう気がした。
(貴方なら。)
(きっと、どこかで笑っている。)
(『心配かけたな』と、そう言って出てきてくださる。)
そんな都合のいい願いを、何度も心の中で繰り返していた。
どれほど探しただろうか。
ふと、一角の瓦礫に目が留まる。
他より大きく崩れた石柱の下。
僅かに制服の裾が見えた。
サクラコの鼓動が大きく跳ねる。
「……っ。」
駆け寄り、夢中で瓦礫を退かしていく。
手が傷付くことも構わなかった。
一つ。
また一つ。
ようやく最後の瓦礫を動かした時、その姿が見えた。
「…………。」
◻️◻️だった。
瓦礫よって潰され、見るも無惨な姿になっていたが、『それ』は確かに◻️◻️だった。
その姿を見た瞬間、サクラコの思考は止まった。
「……◻️◻️。」
しゃがみ込み、震える声で名前を呼ぶ。
返事はない。
もう一度。
「◻️◻️。」
何も返ってこない。
その静けさが、何よりも現実を突き付けていた。
サクラコはゆっくりと俯く。
涙は出なかった。
あまりにも現実味がなく、悲しいという感情にすら辿り着けない。
ただ胸の奥に、大きな穴が空いたような感覚だけが残っていた。
(結局。)
(私は守れませんでした。)
カタコンベで傷付けた時、もう二度と同じ思いはさせないと誓った。
危険な場所へは、自分が必ず隣に立つと決めた。
だからエデン条約が終われば、この想いを伝えようと思っていた。
「好きです。」
その一言だけでよかった。
難しい言葉はいらなかった。
飾った言葉もいらなかった。
たった一言。
そのたった一言が、最後まで言えなかった。
「……どうして。」
小さく零れた声は、誰にも届かない。
どうして貴方だったのですか。
どうして最後まで、私を守る側だったのですか。
守ると誓ったのは私だったはずです。
シスターフッドへ迎えたのも、もう傷付けさせないためだったはずです。
それなのに。
最後に守られたのは、私でした。
爆発の直前、自分を突き飛ばした手の感触だけが、今も鮮明に残っている。
あの瞬間が何度も何度も頭の中で繰り返される。
もし、あと一歩早く気付いていたら。
もし、自分が前に立っていたら。
もし、もっと強ければ。
答えのない「もし」が、際限なく胸を締め付ける。
サクラコは静かに目を閉じた。
祈りは、人の幸せを願うものだと信じてきた。
神は、苦しむ人に寄り添ってくださると信じてきた。
だから今日まで、一度も祈ることをやめなかった。
それでも今だけは、問いかけずにはいられなかった。
(神様。)
(どうして、この人ばかりに試練を与えたのですか。)
(優し過ぎたからですか。)
(誰かを助けようとしたからですか。)
(それが、この人の背負うべき運命だったというのですか。)
返事はない。
ただ風が静かに吹き抜けるだけだった。
その沈黙が、何よりも残酷だった。
◻️◻️は苦しんで死ぬために生まれたんだ。それこそが彼の人生でなすべき最大のことで、運命で定められているんだ。どう生きるかより、どう死ぬかが大切で、そもそも生まれてきたこと自体が間違いなんだ。