医療室は静かだった。
器具は整っている。
記録にも乱れはない。
セナはカルテを閉じ、机の端に視線を落とした。
折られた紙。
――明日、放課後。少しお時間いただけますか。
「……回りくどいですね」
小さく呟く。
本来なら、その場で済ませればいい話だ。
わざわざ時間を区切る必要もない。
それでも――そうしなかった。
「……まあ、明日で問題ありません」
短く結論づけ、紙を引き出しにしまう。
それ以上、考えるのはやめた。
⸻
翌日。
遠くで発破の音が響く。
「……またですか」
温泉開発部。いつものことだ。
特に気にする必要はない――はずだった。
次の瞬間、揺れが走る。
「……近いですね」
違和感だけを残して、セナは立ち上がった。
医療キットを手に取る。
「確認しておきます」
⸻
現場は煙に覆われていた。
瓦礫の中に、倒れている生徒たち。
「動ける方は離れてください。意識のある方は返事を」
簡潔に指示を出し、近い者から状態を確認する。
軽傷は後回し。
重い者から優先。
いつも通りの手順。
淡々と処理していく――はずだった。
不意に、動きが止まる。
「……」
少し離れた場所に、一人。
見覚えのある姿。
視線が、そこから外れない。
「……まさか」
無意識に、足が向く。
いつもより、遅い。
⸻
「……◻️◻️さん」
名前を呼ぶ。
返事はない。
分かっているのに、呼んでしまう。
しゃがみ込み、手を伸ばす。
触れた瞬間、理解する。
冷たい。
それだけで、十分だった。
「……」
呼吸の確認。
反応なし。
もう、確かめる必要はない。
「……死体、ですね」
静かに、結論を口にする。
普段と同じ言葉。
ただの分類。
――のはずなのに。
⸻
手が、離れない。
服を掴んだまま、止まる。
「……どうして」
ぽつりと漏れる。
本来なら、次へ移るべきだ。
他にも助けるべき“患者”がいる。
分かっている。
「……行かないと」
言葉にする。
それでも、体は動かない。
⸻
頭に浮かぶのは、昨日のこと。
引き出しの中の紙。
明日。
「……まだ、伝えていません」
わずかに息が乱れる。
たったそれだけのこと。
後回しにしただけのこと。
それが――もう、取り戻せない。
「……困りますね」
自分に言い聞かせるように呟く。
思考は冷静なはずなのに、まとまらない。
優先順位が崩れている。
あり得ない状態。
⸻
「セナさん! こちらを――」
声が飛ぶ。
聞こえている。
理解もしている。
「……申し訳ありません」
少しだけ間を置いて、答える。
「今は……無理です」
それ以上、言葉が続かない。
理由を説明できない。
自分でも分からない。
⸻
もう一度、触れる。
変わらない。
分かっているのに、確かめてしまう。
「……どうして、あなたなんですか」
小さく零れる。
答えはない。
返ってくるはずもない。
それでも、ほんのわずかに待ってしまう。
⸻
何も変わらない。
呼んでも、触れても、揺らしても。
そこにあるのは、“死体”だけだった。
⸻
セナは、動けなかった。
助けるべき“患者”が他にいると理解していても。
目の前から、離れられない。
判断はできている。
次にやるべきことも、分かっている。
それなのに。
体が、まったく言うことを聞かない。
⸻
「……最悪です」
かすかに、呟く。
こんなことで止まるなど、あり得ない。
個人一人の損失で、機能が停止するなど。
あってはならない。
それでも。
視線は、動かない。
手も、離れない。
⸻
引き出しの中の紙。
未完了のままの言葉。
もう、渡す相手はいない。
⸻
氷室セナは、その場に立ち尽くしたまま。
ただ一つの現実だけを見続けていた。
――“患者”ではないもの。
自分が、どうしても切り捨てられなかった“死体”を。