最初は、ほんの些細な違和感だった。
ヒナ委員長が、誰かと話している。
それ自体はおかしくない。業務上の会話なんて日常だし、気にする必要もないはず。
……それなのに。
(……距離、近すぎじゃないですか)
視線が、勝手に向く。
相手は一年の風紀委員、男子生徒の◻️◻️。
ヒナ委員長のすぐ隣に、当然みたいな顔で立っている。
(……何なんですか、あれ)
胸の奥がざわつく。
理由もないのに、イライラする。
ヒナ委員長が、少しだけ笑った。
その瞬間――
(……は?)
思考が止まる。
(今の、何ですか)
あんな表情、見たことがない。
少なくとも、あんな距離で他人に向けるものじゃない。
意味が、わからない。
苛立ちが、一気に膨れ上がる。
抑えようとしても、うまくいかない。
(……なんで、あんなやつが)
感情が、止まらない。
⸻
気づいた時には、端末を開いていた。
◻️◻️の担当書類。
処理状況。
未処理案件。
それらを、片っ端から引っ張り出す。
報告書、照合、懲戒案、監査資料。
全部。
一人分にまとめる。
(……これでいい)
分かっている。
この量は異常だ。
一人でやる前提じゃない。
ヘイローがないなら、なおさら。
それでも。
(……知らないですよ、そんなの)
手は止まらない。
むしろ、どんどん積み上げていく。
「◻️◻️、来てください」
呼び出すと、すぐに来た。
「これ、あなたの担当です。今日中に全部終わらせてください」
端末を突き出す。
彼は画面を見て、固まる。
「……これ、全部ですか?」
「そうですけど」
「いや、その……多すぎませんか……」
「は?」
思わず声が強くなる。
「風紀委員の仕事ですよ?やるのが当たり前でしょう」
「でも――」
「できないんですか?」
遮る。
逃がさない。
「……いえ」
少し俯いて、
「……やります」
受け取った。
(……そうですか)
ほんの一瞬だけ、胸が痛む。
けれど。
(……今さらですよね)
もう止めない。
止められない。
⸻
連絡が来たのは、夕方。
「対象生徒、資料搬送中に階段から転落。意識不明――」
その一文で、指が止まる。
(……転落?)
頭の中で状況を整理する。
業務量。
移動回数。
疲労。
――事故として成立する。
理屈は通る。
なのに。
(……なんで)
嫌な予感が消えない。
現場に向かう。
階段の下。
散乱した書類。
動かない身体。
血。
「……っ」
呼吸が浅くなる。
(……違う)
これは、想定していた結果じゃない。
こんな――
(……私が、やった?)
思考が揺れる。
「アコちゃん」
声。
振り向く。
イオリとチナツ。
その表情を見た瞬間、理解する。
逃げられない。
「これ、どういうこと?」
イオリが睨む。
「この書類量、アコちゃんが振ったんでしょ」
「……業務として、割り当てました」
声が、少しだけ硬い。
「は? これが業務の範囲なわけないじゃん」
即座に返される。
「一人で処理させる量じゃありません」
チナツの声は静かで、重い。
「それに……あの子、ヘイローありませんよね」
その一言が、重く落ちる。
「分かっててやったんですか?」
「……」
言葉が出ない。
否定できない。
「……最低だね、アコちゃん」
イオリの言葉が刺さる。
思わず、視線を逸らす。
「言い訳あるなら聞くけど?」
「……ありません」
それしか言えなかった。
⸻
足音が響く。
空気が変わる。
ヒナ委員長。
その視線は、まず◻️◻️に向けられる。
ほんの一瞬。
それだけで、場が凍る。
そして、私に向いた。
「……アコ」
「……はい」
「あなたがやったの?」
「……はい」
喉が、少し詰まる。
それでも、否定はしない。
「……そう」
それだけだった。
怒りも、悲しみも見せない。
ただ。
完全に切り捨てる視線。
それが、一番きつい。
「次、視界に入ったら」
淡々と。
「地獄に落とす」
その一言で、すべてが終わる。
(……ああ)
胸の奥が、空っぽになる。
⸻
「……全員、下がれ」
低い声。
羽沼マコト。
真面目な顔。
「天雨アコ」
名前を呼ばれる。
「今回の件、報告は受けてる」
淡々と。
「業務割り当ての不正。結果として死亡事故」
一拍置く。
「弁明は?」
「……ありません」
即答する。
もう、言えることはない。
「……そうか」
小さく息を吐く。
「天雨アコを、風紀委員から除名」
周囲が息を呑む。
「加えて、ゲヘナ学園からの追放」
静寂。
「異議は認めない。本日付で執行」
終わり。
完全に。
⸻
全部、終わった。
たった一つの感情で。
抑えきれなかった、それだけで。
「……最悪ですね」
小さく呟く。
誰も、何も言わない。
当然だ。
私は――
取り返しのつかない結果を出した。