朝の光はやわらかく、ガラス張りの廊下を淡く照らしていた。
「おはようございます、ご主人様」
アカネは、いつものように微笑んだ。
柔らかな声音、整った所作、完璧な一礼。どこから見ても、非の打ちどころのない“メイド”だった。
「今日もご用件があれば、何なりと」
その言葉の裏に、いくつもの顔が重なっていることを、彼女自身が一番よく知っていた。
エージェント。
掃除屋。
時には交渉人。
時には取り立て屋。
――そして。
(……爆弾の、専門家)
ほんの一瞬、脳裏に火花のようなイメージが走る。
爆風。閃光。崩れ落ちる構造物。
それを「美しい」と思ってしまう自分に、アカネは小さく目を伏せた。
「どうしました?」
ご主人様が、不思議そうに首をかしげる。
「いえ。少し、考え事を」
ふっと、いつもの微笑みに戻る。
(私は……何なのでしょうね)
メイドとして仕えることは、心地よい。
命令を受け、役目を果たす。そこには迷いがない。
けれど同時に。
「本日、外出の予定はございますか?」
「うーん、特にないかな。ちょっとその辺ぶらぶらするくらい」
「承知いたしました」
(“掃除”の任務もありますし……)
心の中で、別のスイッチが入る。
穏やかな声のまま、アカネは告げた。
「では、私は少し席を外します。すぐに戻りますので」
「うん、気をつけて」
その言葉に、わずかに胸が温かくなる。
(……気をつける、ですか)
危険を扱う側の自分に向けられるには、少しだけ不思議な言葉だった。
――だが、その温かさを、彼女は否定しなかった。
***
任務地点は、都市の外れにある古びたビルだった。
「対象、確認」
イヤーピースに小さく囁く。
表向きは企業のオフィス。
だが実態は、不正資金を扱う組織の拠点。
「穏便な交渉は……失敗、ですか」
わずかに肩をすくめる。
(まあ、そういうこともありますよね)
柔らかな笑みのまま、爆薬のスイッチを確認する。
壁の内側、柱の要所、逃げ道の封鎖――
すべては計算済み。
「では、“お掃除”を開始いたします」
その声は、どこまでも穏やかだった。
――カチリ。
スイッチが押される。
次の瞬間。
轟音。
建物が内側から弾けるように崩壊し、爆風が街路へと吹き出す。
ガラスが砕け、コンクリートが裂け、煙と粉塵が一気に空を覆った。
(やはり……)
アカネは、その光景を見つめながら思う。
(綺麗ですね)
崩壊は、完璧だった。
無駄も、残骸も、ほとんど残さない“掃除”。
「任務、完了――」
そう告げようとして。
――ふと、違和感が走った。
***
◻️◻️は、ただの散歩のつもりだった。
「ちょっと遠くまで来すぎたかな……」
見慣れない通り。
古びたビルが並ぶ、人気の少ない場所。
(まあ、すぐ戻ればいいか)
そう思った、その瞬間。
――光。
視界が、白に塗りつぶされた。
次に来たのは、音ではなく衝撃だった。
空気が叩きつけられ、身体が宙に浮く。
何が起きたのか理解する前に、世界が崩れた。
「――っ」
声にならない。
視界の端で、建物が崩れてくるのが見えた。
(あ……)
妙にゆっくりと、時間が流れる。
(まずい)
そう思った時には、もう遅かった。
巨大なコンクリート片が、逃げ場を塞ぐ。
身体が動かない。
(……アカネ)
なぜか、最後に思い浮かんだのはその名前だった。
――衝撃。
視界が、潰れる。
***
煙が、ゆっくりと晴れていく。
「……?」
アカネは足を止めた。
何かが引っかかる。
(今の……)
瓦礫の山の中に、見慣れた“何か”が混じっている気がした。
「……まさか」
ゆっくりと、近づく。
足取りが、わずかに乱れる。
瓦礫を一つ、どかす。
もう一つ。
手が震えていることに、気づいてしまう。
「……嘘、ですよね」
誰にともなく、呟く。
そして。
赤く濡れた、カードが目に入った。
瓦礫の隙間に挟まれたそれは、ひどく歪んでいた。
だが。
そこに記された名前だけは、はっきりと読めた。
「……ご主人様……?」
理解が、追いつかない。
思考が止まる。
「そんな……どうして……」
手を伸ばす。
触れた瞬間、カードに付着した血が指に広がる。
温かくはない。
ただ、重い。
「……あ……」
その奥にあるものを、見てしまった。
原形を留めない、肉片。
瓦礫に押し潰され、判別もつかないほどに壊れた身体。
「……っ」
呼吸が止まる。
胸が締め付けられる。
「……違う……」
否定する。
「違います……これは……」
だが、証明はそこにある。
血に濡れたカード。
そして、その場所。
「……私、が……?」
声が、かすれる。
「私が……ご主人様を……?」
その瞬間。
何かが、完全に崩れた。
「――いやぁあああああああああああああああああああああああっ!!」
絶叫が、瓦礫の街に響いた。
膝から崩れ落ちる。
手にしたカードを、強く握りしめる。
「どうして……どうして……っ」
涙が止まらない。
「私は……掃除を……任務を……」
震える声で、繰り返す。
「エージェントとして……完璧に……」
だが。
「メイドとして……守るべき方を……」
言葉が、途切れる。
「……殺してしまった……」
静寂。
崩れた街の中で、アカネはただ一人、泣き崩れていた。
「……私は……何なんですか……?」
エージェントなのか。
メイドなのか。
掃除屋なのか。
それとも。
「……ただの……」
血に濡れた手を見つめる。
「……壊すだけの……」
声は、かすれて消えた。
答えは、どこにもなかった。