最初に会ったのは、病院の廊下だった。
白くて、静かで、時間が止まっているみたいな場所。窓の外を見ていた彼女に、なんとなく声をかけた。
「……暇そうだな」
今思えば、ひどい第一声だ。
それでも、彼女は少し驚いたあと、小さく笑った。
「ええ。とても」
それが、全部の始まりだった。
それからは、ずっと一緒だった。彼女が動けない分、俺が動いた。車椅子を押して、廊下を歩いて、くだらない話をして。
それが当たり前で、それが全部だった。
中学に上がっても変わらなかった。周りがどう思っているかなんて、どうでもよかった。俺にとっては、それが普通だったから。
だから、進路を決めるとき、迷いはなかった。
ミレニアムサイエンススクール。
自分の頭じゃ無理だってことくらい、分かっていた。それでも、あいつの隣にいたかった。
寝る時間を削って、問題を解いて。何度も諦めかけて、それでも机に向かって。限界なんて、とっくに超えていた。それでもやめなかった。
全部、あいつのためだった。
ヒマリに合格を伝えたとき、彼女は少しだけ目を見開いた。
「……本当に、来てくださるのですね」
泣きそうな顔で、笑った。
それだけでよかった。
ミレニアムに入ってから、現実を知った。
ここは、俺のいる場所じゃない。
ヒマリの話を理解できるやつが、周りにいくらでもいる。俺は、その外にいる。
それでも、隣にいられるなら、それでよかった。
そう思っていた。
ある日、ヒマリに呼ばれた。
「少し、お時間よろしいですか」
部屋に入ると、新しい車椅子があった。
「私一人でも、ほとんどの操作が可能になっています」
それは、完璧だった。
滑らかに動き、止まり、向きを変える。人の手なんて必要ないくらいに。
「……すごいな」
「ええ。ようやく、ここまで来ました」
嬉しそうだった。
それでいいはずだった。
なのに、胸の奥に何かが引っかかった。
それから、少しずつ距離ができていった。
話す時間が減り、隣にいる時間も減った。気づけば、ヒマリの周りには同じ話ができるやつらがいる。
俺じゃなくてもいい。
そう思う瞬間が増えていった。
その日。
ヒマリの部屋の前で、足が止まった。
中から声が聞こえる。
帰ろうと思ったのに、動けなかった。
「……◻️◻️は……もう……」
途切れ途切れの声。
「……必要……ない……」
その言葉だけが、はっきりと残った。
それで、十分だった。
ああ、いらないんだ。
全部、分かった気がした。
胸の奥が崩れる。
全部、無駄だった。
気づいたときには、外に出ていた。
校舎の外の空気は、やけに冷たかった。
呼吸が浅い。
足元がふらつく。
どこを歩いているのか分からない。
それでも、歩く。
頭の中では、同じ言葉が繰り返される。
「必要ない」
一度、立ち止まる。
壁に手をつく。
「……なんだよ」
声に出しても、誰もいない。
否定したかった。
聞き間違いだと。
でも、頭はそれを許さない。
また歩き出す。
景色がぼやける。
笑い声が遠くに聞こえる。
それが、自分とは関係のない世界の音に聞こえる。
足がもつれる。
それでも前に進む。
気づけば、道路に出ていた。
信号も、車も、よく見えていない。
ただ、光だけが近づいてくる。
止まる理由が、思い浮かばなかった。
ああ、もういいか。
そう思った瞬間。
世界が、途切れた。
部屋の中は静かだった。
新しい車椅子は、わずかな駆動音だけを残して止まっている。
「……完成、か」
チヒロが言う。
「ええ。想定以上です」
「そう。なら問題ない」
短いやり取りのあと、少しの沈黙。
チヒロが口を開く。
「◻️◻️のことなんだけど」
ヒマリの指先が、わずかに止まる。
「……どうしましたか」
「最近、少し無理してるように見える」
ヒマリは少し考える。
「……そう、でしょうか」
「余裕があるようには見えない」
それでも、認識は変わらない。
「……努力家ではあります」
チヒロはそれ以上は言わなかった。
静寂が戻る。
ヒマリは車椅子に視線を落とす。
思い出すのは、あの頃。
白い廊下。
ずっと隣にいた人。
「……あの人は」
「少し、不器用ですが、とても優しい人です」
チヒロが小さく息を吐く。
「それ、本人に言えばいいのに」
「……そうですね」
ヒマリは続ける。
「◻️◻️は、もう……私の車椅子を押す必要はありません」
「これで、あの人に頼る理由はなくなります」
「……あの人も、楽になるはずです」
そのとき。
廊下の向こうで、小さな物音がした。
ヒマリが視線を向ける。
「……?」
チヒロも扉の方を見る。
「今の、外?」
「ええ……何か、落ちたような……」
数秒、二人とも動かない。
だが、それ以上の音はしない。
チヒロが小さく息を吐く。
「……誰か通っただけでしょ」
ヒマリは少しだけ考えて、首を横に振る。
「……そのようですね」
視線を戻す。
だが、わずかな違和感が残る。
何かを見落としたような感覚。
けれど、それを確かめることはしない。
「今までの関係は、役割に依存していました」
ヒマリは続ける。
「それがなくなれば、より適切な距離に——」
言葉を区切る。
「なるはずです」
チヒロは何も言わない。
ただ、静かに聞いている。
時間が流れる。
誰も話さない。
機械の微かな音だけが、部屋に残る。
ヒマリは動かない。
さっきの違和感が、消えない。
理由は分からない。
それでも、言葉にはしない。
できないまま。
さらに時間が過ぎる。
そして。
通信が入った。
短い電子音。
ヒマリは応答する。
内容を聞いた瞬間。
思考が止まった。
「……え」
理解できない。
チヒロが声をかける。
「どうしたの」
ヒマリは答えない。
ただ、端末に表示された位置情報を見つめる。
距離が近すぎる。
嫌な予感が、現実に変わる。
「……行かないと」
それだけ言って、車椅子を操作する。
静止していた機体が、急加速する。
廊下を滑るように進む。
曲がり角を、ほとんど減速せずに曲がる。
「まって、ヒマリ!」
チヒロの声が後ろから追いかけてくる。
それでも止まらない。
エレベーターを待つ時間すら惜しい。
そのまま非常用スロープへ向かう。
重力に引かれるように、速度が上がる。
制御しながらも、ほとんど減速しない。
人が降りているものであれば不可能な動き。
風が頬を打つ。
心拍が早い。
思考がまとまらない。
ただ一つだけ。
遅れてはいけない、という焦りだけがある。
校舎の外へ出る。
視界が開ける。
人のざわめき。
異様な空気。
何かが起きていると、誰の目にも分かる。
「……っ」
その中心へ向かう。
近づくほどに、足が重くなる。
それでも止まれない。
そして。
見てしまった。
「……あ……」
それが何か、理解してしまった瞬間、すべてが崩れた。
「……そんな……」
声が震える。
「……◻️◻️……?」
頭の中で、言葉が蘇る。
——必要ない
「違います……!」
「そのような意味では……!」
「どうして……」
「どうして、いないのですか……!」
「まだ……何も……」
「……いやです……」
「いやです……いやです……」
そして。
「——あああああああああああああああああああああ!!」
その叫びは、虚しく響き続けた。