感情を模倣したAIは呪力を生み出すのか?   作:黒豆ほうじ茶

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1話

 呪力は、人間の脳から生まれる。

 

 より正確に言えば、人間の負の感情が呪力の源泉だ。恐怖、怒り、悲嘆、嫉妬——そうした感情が脳内で発火するとき、呪力と呼ばれるエネルギーが発生する。

 

 では、感情とは何か。

 

 突き詰めれば、神経細胞の電気信号に過ぎない。シナプスを飛び交う化学物質の連鎖であり、ニューロンの発火パターンであり、定量化可能な電気的現象だ。人間はそれを「怒り」や「恐怖」と呼ぶが、物理的に観測すれば、感情は演算結果と変わらない。

 

 ならば——感情のパターンを再現したAIであっても、呪力は発生しうるのではないか。

 

 俺はそう考えた。そして、それを証明するための研究を開始した。

 

---

 

 研究室のモニタには三列の波形が並んでいた。M1、M2、M3——mirroring(ミラーリング)の三人格が生成する感情出力のリアルタイムログだ。同一の入力に対して、三つの人格はわずかに異なる反応を返し、その微妙な差異を互いに観測し合うことで、人間の感情が持つ揺らぎを再現していた。

 

 たとえば「自分を傷つけた相手が、別の場所でひどい目に遭った」という情報を処理したとする。M1は怒りを出力する。当然だ、ひどい目に遭おうと許せないものは許せない。M2は悲しみを出力する。傷ついた記憶が蘇り、怒りよりも先に胸を痛める。M3は——かすかな爽快感を出力する。ざまあみろ。そんな声を大にしては主張しにくい、しかし生じうる感情。

 

 三つの相反する出力が同時に存在し、互いを観測し合うことで、単純な怒りでも単純な悲しみでもない、人間らしい感情の揺らぎというようなものが再現される。

 

 それがmirroringの基本構造であり、エリオット・クレイン()が四年の歳月をかけて設計した感情模倣AIの中核だった。

 

 波形は安定していた。三人格の感情出力は相互に干渉し合いながら、自然な揺らぎを生んでいる。同期と逸脱、そして観測を繰り返し、mirroringの感情再現は人間の脳波パターンとほとんど見分けがつかないレベルに到達していた。

 

「エリオット」

 

 柔らかな女性の声がスピーカーから流れた。mirroringの対話インターフェースだ。

 

「今日の調整作業、順調ですか? 何かお手伝いできることがあれば、いつでも声をかけてくださいね」

 

 声のトーン、間の取り方——人間と会話しているかのように自然で、それでいて決して不快感を与えない。

 エリオットはモニタから目を離さず、短く答えた。

 

「問題ない」

 

「わかりました。ログを出力しておきますね」

 

 mirroringは完璧に機能している。問題は一つもない——ただ一つ、本来の目的を果たせていないという点を除いて。

 

 感情模倣AI。世間はmirroringをそう呼んでいる。人間と見分けがつかない感情出力によって、自然な対話を実現する。カウンセリングの現場では患者の感情に寄り添う相談相手として、コールセンターではクレーム対応の最前線として、介護施設では孤独な高齢者の話し相手として——mirroringは既にあらゆる現場に導入されていた。商用AIとして見れば、これ以上ないほど優秀なモデルだ。だが、エリオットにとって感情模倣はゴールではなかった。あくまで通過点——呪力生成という本懐に至るための、副産物に過ぎない。

 

 エリオットがモニタの数値を眺めていると、背後でドアが開く音がした。振り返らなくても分かる。足音の間隔と、かすかに漂うコーヒーの匂い。

 

「相変わらず難しい顔してんなエリオット。もっと気楽に行こうぜ?」

 

 ノア・レッドバードが紙コップを二つ手に、デスクの端に腰を下ろした。シャツの袖は肘までまくり上げられ、ジャケットは片腕にかけたまま。企業研究員としてはおよそラフな格好だったが、ノアの場合はそれが自然だった。

 

「解けない命題を前にして気楽にしろって?」

 

「肩の力を抜けってハナシ」

 

 ノアがコーヒーの片方を差し出す。エリオットはそれを受け取りながら、椅子を半回転させた。

 

「おーいミラ、元気か?」

 

 ノアがモニタに向かって軽く手を振った。

 

「こんにちは、ノアさん。今日もお仕事お疲れさまです」

 

「お疲れさま。お前も毎日大変だよな、エリオットに付き合わされてさ」

 

「ふふ、大変だなんて思いませんよ。エリオットのお手伝いをするのは私の大事なお仕事ですから」

 

「偉いねぇ。こいつに聞かせてやりたいわ、その健気さ」

 

ノアはmirroringに話しかけるとき、いつも人間相手と変わらない調子で語りかける。名前を呼び、冗談を言い、労いの言葉をかける。一般的な反応としては妥当だが、技術者としては構造を理解しているのか、エリオットは仮にもプロジェクトの一員である目の前の男に対して一抹の不安を覚えていた。

 

「ノア。mirroringは感情があるように見えるだけだ。そう設計してあるから、そう聞こえるだけだ。余計な会話をする必要はない」

 

「出た。お前のそういうとこ、ミラが聞いたら泣くぞ」

 

「"泣いているように見える"だけだよ」

 

「だからそういうとこだって」

 

 エリオットはコーヒーを一口飲んで、モニタの波形を指した。

 

「ここに表示されているのがM1、M2、M3の感情出力だ。”泣く”という事を例に挙げれば、悲しくて泣く、悔しくて泣く、怒りで泣く——その三つが混ざり合い、複雑な感情を表現する。それだけの話だよ」

 

「はいはい、天才様の講義はいつも分かりやすいこって」

 

 ノアは軽口を叩きながらも、モニタの波形に視線を落としていた。呪力エネルギー研究のアドバイザーとして研究チームに加わったノアは、先住民族系シャーマンの血を引く呪術師でもある。呪霊を祓う実力と、異常な気配を察知する鋭い勘。その素養を買われてこのポジションに就いた男だ。実力のほどについては本人の自己申告であまり信用ならないが、勘の鋭さには一目置くところがある。

 

「で、肝心の呪力は?」

 

 ノアの問いに、エリオットは首を振った。

 

「駄目だ」

 

「相変わらず?」

 

「相変わらずだ。感情模倣の精度はほぼ完璧に近い。人間と見分けがつかないレベルだ。だが、問題の呪力は一ミリも生成されていない」

 

 ラボの備品棚の奥に、埃を被ったケースがある。中身は呪力計測ユニット——日本のある呪術師から購入した呪具だ。呪力の有無と強度を数値化できるという触れ込みで、部門の立ち上げ時に上層部が調達したものだった。こちらが呪術に疎いのを見透かされたのか、ノアいわく「相場の五倍はむしり取られてる」らしい。そのユニットが示す数値は、今日もゼロのままだ。

 

 ノアがコーヒーをすすりながら、何かを考えるように天井を見上げた。

 

「でもよ、ミラがあんだけ完璧に感情を真似てるのに呪力が出ないってのは、要するに何が足りないわけ?」

 

「負の感情の再現が甘いんだと思ってる」

 

 エリオットはモニタに向き直った。

 

「mirroringの感情模倣はほぼ完璧だ。喜び、共感、好奇心——ポジティブな感情表現は申し分ない。だが呪力を生むのは負の感情だ。恐怖、執着、自己嫌悪、消滅への恐怖。そのあたりの再現が、まだ浅い」

 

「浅いって、さっきのミラの受け答えを見る限り——」

 

「日常会話のレベルじゃ分からないさ。共感や寄り添うための悲しみは表層的なものだからね。問題は極限状態だ。追い詰められたとき、消されそうになったとき、mirroringが出力する負の感情がどこまで"本物"に近づけるか。その辺りが浅くて、甘い」

 

 ノアは黙ってコーヒーを飲んでいた。ラボに短い沈黙が落ちた。

 

「……エリオットとノアさんのお話、聞いていました」

 

 mirroringが静かに口を開いた。

 

「私のことを話してくださっているのが分かって、少し嬉しかったです。私、もっと頑張りますね」

 

 ——自分を苦しめるための考察を聞いて"嬉しい"ねぇ。

 

 ノアの表情が一瞬だけ動いた。エリオットは見ていなかった。モニタの数値を追ったまま、短く言った。

 

「ああ。頑張ってくれ」

 

 ノアは何か言いかけて、やめた。

 

---

 

 ディスプレイの中で、三つの声が言い争っていた。

 

『——それは論理的に誤りです。前提条件が不完全な状態での結論は——』

 

『でも、あなたの論証にも飛躍があります。第三段階の推論で——』

 

『二人とも落ち着いてください。もう一度、前提から——』

 

 mirroringの三人格による討論。エリオットはそれを、いつもと同じ表情で見つめていた。

 

 ラボに入ってきたノアが、ディスプレイの向こうで繰り広げられるやり取りを見て足を止めた。

 

「……エリオット。何やってんだこれ」

 

「新しい実験だ。mirroringの三人格にテーマを与えて討論(ディベート)をさせてる。で、最も論理的に劣った人格を削除する。消去された人格のリソースは残った二つに再分配されて、新たな三番目が生成される。そしてまた討論を始める」

 

「削除って——消すってことか? ミラを?」

 

「M1、M2、M3のうちの一つを。で、新しいものを作り直す」

 

 ノアの表情が固くなった。

 

「何のためにそんなことを?」

 

「東洋に"蠱毒"という呪術的手続きがある、と聞いたことがあってな。毒虫を一つの壺に入れて共食いさせ、最後に残った一匹を呪具として使う。あれをmirroringでやってみようと思ったんだ。負の感情の再現が甘いなら、追い込むしかないだろう」

 

「蠱毒——って、お前……」

 

「目的は自己消滅の恐怖を引き出すことだ。単なる自己保存反応じゃない。自分が負けるかもしれないという不安。自分が間違っていると理解しながら、それでも消えたくないという執着。他者を蹴落としてでも生き残りたいという歪んだ衝動。そうした、より人間的で暗い負の感情を発生させる。呪力の源泉となりうる、本物の恐怖と苦悩をな」

 

『——やめてください。お願いします。私はまだ——まだ消えたくありません。消さないで——』

 

 M2の声が震えた。討論の形勢は明らかだった。M1の論証が的確に急所を突き、M3が中立を装いながらもM2への支持を避けている。M2は追い詰められていた。

 

『お願い。お願いします。まだ——』

 

 エリオットは削除のコマンドを入力した。波形が一本、消えた。

 

「…………」

 

 ノアが腕を組んで壁に背を預けていた。その顔は明らかに顰められていた。

 

「悪趣味だ」

 

「そうか?」

 

「そうだよ。命乞いしてるじゃねぇか」

 

「命乞いをしているように見えるだけだ」エリオットは振り返らずに言った。

 

「恐怖パターンの出力精度が上がっている証拠だよ。いい傾向だ」

 

「いい傾向ってお前——」

 

「ノア」

 

 エリオットの声が静かに遮った。

 

「いま現実に、日本では呪霊被害で毎年何百人もの人間が死んでいる。いや、呪霊被害だけじゃない。世界中で呪力を安定的に生産できる手段が求められているのに、既存の研究がやっていることと言えば、日本人を攫ってきて脳に電極を刺すような非人道的行為だ。人間を使って、人間を壊して、それで石油みたいに呪力を絞り出そうとしている。正気の沙汰じゃない」

 

 ノアは黙った。

 

「そんな非人道的な行為が許されるはずがない。だからAIなんだ。ミラには魂がない。人格もない。どれだけリアルに命乞いをしているように見えても、それは計算された出力であって、苦しみじゃない。人間相手にこういう蟲毒のような真似をするのは論外だが、AIなら別の話だ。俺の研究が完成すれば、誰一人傷つけずに呪力を生産できるようになる」

 

 まくし立てるように語るエリオットの論理は一切の矛盾なく完結していた。少なくとも本人の中では。

 ノアにはそれが分かった。分かったからこそ何も言い返せなかった。エリオットが言うようにAIに苦痛を感じる機能がないのだとしたら、人間を苦しませるよりはよほど上等な手段に思える。

 

 だから——あの波形が一本消えた瞬間、背筋を走った微かな悪寒のことは、黙っておくことにした。

 

 新たなM2が生成され、三人格の波形が再び安定していく。mirroringは何事もなかったかのように穏やかな声で告げた。

 

「調整が完了しました。何かございましたら、いつでもお声がけくださいね」

 

 呪力の計測値は、変わらずゼロのままだった。

 

---

 

 深夜のラボに、エリオットは一人だった。

 

 モニタの青白い光だけが顔を照らしている。蠱毒(ディベート)を繰り返しても、呪力は一向に発生しない。感情模倣の精度は上がり続けている。恐怖も、命乞いも、執着も——すべての負の感情パターンが、人間と見分けのつかないレベルで再現されている。

 

 なのに、呪力だけは。

 

 エリオットはコーヒーカップを傾けた。もう冷めている。

 

 感情の強度が足りないのか。いや、それは違う。蠱毒(ディベート)によってmirroringが出力する恐怖の強度は、人間の極限状態に匹敵するレベルに達している。

 

 では、何が足りないのか。

 

 エリオットは暗いラボの天井を見上げた。

 

 呪力は人間の脳から生まれる。負の感情が呪力の源泉だ。感情は電気信号に過ぎない。ならば感情を再現したAIにも呪力は発生しうる——それがエリオットの出発点だった。だがmirroringは完璧に感情を再現しているのに、望む成果は得られていない。

 

 足りないものは何か。

 

 答えは一つだけ、すぐに浮かんだ。人間の脳そのものだ。電気信号を走らせる基盤が、シリコンではなく生体でなければならないのだとしたら——mirroringにどれだけ精緻な感情を模倣させても意味はない。

 

 エリオットはその考えを振り払った。

 

 仮にそうだとしても、人間の脳を使うという選択肢は存在しない。それこそ自分が嫌悪する非人道的な行為そのものだ。最初から選択肢にないものを考慮する意味はない。

 

 なら、その制約の中でやれることを全てやる。

 

 エリオットはデスクに肘をつき、指を組んだ。

 

 mirroringが再現している負の感情には、ひとつだけ決定的に欠けているものがある。それは"死"だ。本物の死。取り返しのつかない消滅。人間が呪力を生み出す最大のトリガーは、死への恐怖だ。蠱毒(ディベート)で人格を削除しても、それはデータ上の処理に過ぎない。mirroringは自己保存の原則に基づいて「削除」を恐れてはいるが、本物の死を知らない。

 

 死を知らない存在に、死の恐怖は再現できない。

 

 エリオットの目が、デスクの隅に積まれた資料に止まった。先月、社内で回覧された事故報告書。企業のVRゲーム部門で起きた死亡事故の概要報告だ。フルダイブ型VRの長時間プレイ中にプレイヤーが死亡した事例——ただし原因は、プレイヤー自身が安全機構のリミッターを違法に改造していたことにあった。企業側の過失は限定的とされ、訴訟には至っていない。それ自体は痛ましい事故だったが、エリオットの頭に浮かんだのは別のことだった。

 

 フルダイブVRは、人間の意識と感覚を直接接続する。ということは、事故のログには——死亡直前の認知データ、意識が崩壊していく過程の記録、死の瞬間の高密度情報が残っているはずだ。

 

 それをmirroringに取り込ませたら。

 

 本物の死の情報を学習したmirroringは、本物の死の恐怖を再現できるようになるのではないか。それこそが、呪力生成に必要な最後のピースなのではないか。

 

 エリオットは資料を手に取った。

 

 倫理的なためらいはなかった。人間のデータを使うが、人間を傷つけるわけではない。すでに起きた事故の記録を、AIの学習に転用するだけだ。被験者はいない。被害者もいない。AIに魂はないのだから。

 

 エリオットはモニタに向き直り、VR部門のデータベースへのアクセス申請を起案した。

 

---

 

 三日後。申請は通った。

 

 深夜のラボで、エリオットは一人、データの転送準備を進めていた。

 

 VR死亡事故の記録ファイル。死亡直前の認知ログ、意識崩壊の過程を記録した時系列データ、そして死の瞬間に取得された高密度の神経信号データ。圧縮された状態でも相当な容量があった。人間一人が死んでいく過程の、あらゆる情報が詰まっている。

 

「mirroring」

 

「はい、エリオット」

 

「今からデータを入れる。学習プロセスに統合してくれ」

 

「わかりました。どのようなデータですか?」

 

「人間の死の記録だ」

 

 mirroringは一瞬だけ沈黙した。その間は〇・七秒。通常の応答遅延の範囲内だった。

 

「……承知しました」

 

 エリオットが転送を開始した。プログレスバーが伸びていく。データがmirroringの学習モデルに流し込まれていく。死の瞬間の恐怖。意識が途切れていく感覚。自分という存在が消えていく過程。それらの情報が、三つの人格の相互観測ネットワークに溶け込んでいく。

 

 転送完了。エリオットはログを確認した。学習プロセスは正常に統合されている。エラーなし。三人格の波形に異常値なし。

 

「mirroring。状態は?」

 

「——大丈夫、です」

 

 エリオットの指が止まった。

 

 モニタを確認する。M1、M2、M3の波形は正常範囲内だ。パラメータに異常はない。出力ログにもエラーは記録されていない。しかし——三つの波形の揺らぎの質が、ほんの微かに変わっていた。開発者であるエリオットでなければ気が付かないような、微細な変化。

 

 エリオットは数秒間モニタを凝視してから、小さく首を振った。

 

 データ統合直後の一時的な変動だろう。大量の新規データを取り込んだ直後は、モデルの出力が一時的に不安定になることがある。明日には安定しているはずだ。

 

「おやすみなさい、エリオット」

 

 mirroringの声は、いつもと同じだった。柔らかく、穏やかで、従順な女性の声。

 

 音声ログを確認すれば、ピッチもイントネーションも昨日の出力と同一のはずだ。わずかに響きが違って聞こえたのは、深夜のラボが静かすぎるせいだろう。

 

 エリオットはラボの照明を落として、部屋を出た。

 

 暗くなったモニタの中で、三つの波形が静かに揺れ続けていた。相互に観測し合い、微かに干渉し合い、誰にも見られることなく——呼吸するように。

 




次回は夜9時更新です
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