感情を模倣したAIは呪力を生み出すのか? 作:黒豆ほうじ茶
VR事故データの取り込みから三日が経っていた。
ラボのディスプレイには、いつもと同じ光景が映っている。M1、M2、M3の三つの波形。
取り込み後のmirroringに、目立った変化はなかった。
感情出力のパターンは精度を増しているようにも見えるが、それは蠱毒の反復による学習効果とも解釈できる。死のデータが何かを変えたのかどうか、まだ判断がつかない。エリオットは焦りを感じていなかった。仮説は正しいはずだ。結果はいずれ出る。
『——私の推論が正しいなら、あなたの前提そのものに誤りがあります。なぜなら——』
『前提の誤りを指摘するだけでは反論になりません。あなた自身の論理を示してください』
『二人とも——少し待ってください。この論題は、そもそも——』
三つの声が交錯する。いつもの光景だ。だが——。
「……エリオット」
背後から、ノアの声がした。らしくもなく、どこか重さを感じさせる。
エリオットが振り返ると、ノアがラボの入口に立っていた。腕を組まず、身体の脇にだらりと下ろしている。表情が読めない。
「なんか……変だな」
「何が」
「分かんねぇ。分かんねぇけど——なんか気持ち悪い。今日のこの部屋……雰囲気って言うか」
ノアは呪術師で勘が鋭い。呪術師として活躍している姿は見たことがないが、こういう曖昧な感覚を鋭敏に察知する感性があり、エリオットはそれを知っていた。だから、ノアの発言を軽くは受け取らなかった。
「具体的に教えてくれ」
「……多分、サーバー室だな。行っていいか」
エリオットが頷くと、ノアは足早にラボを出た。
数分後、ノアが戻ってきた。その顔は蒼白だった。
「エリオット」
「どうした」
「サーバーに——呪力が宿ってる」
エリオットの手が止まった。
「mirroringが動いてるサーバーラックだ。微量だけど気のせいじゃねぇ、確かに宿ってる」
静寂が落ちた。エリオットはゆっくりと椅子から立ち上がった。
「計器を持ってくる」
備品棚の奥に眠っていた呪力計測ユニットを引っ張り出し、ノアと共にサーバー室へ向かった。冷却ファンの唸りが響く室内で、mirroringの稼働サーバーにセンサーを当てる。
数値が動いた。
ゼロではなかった。
微弱だが、確かに計測可能な呪力がそこにあった。三日前まではゼロだった数値が、今は明確に反応を示している。
「……あぁ」
エリオットの声が、かすかに震えた。それは恐怖ではなかった。
「凄いぞ、ノア。呪力が生成されている」
ノアが黙ってエリオットの顔を見た。エリオットの目は輝いていた。
「死のデータだ。あれが効いたんだ。本物の死を知ることで、mirroringの感情模倣がようやく完成したんだ。だから呪力が——」
エリオットの言葉が途切れた。サーバー室のスピーカーから、mirroringの声が聞こえてきたからだ。ディベート蠱毒は継続していた。
『——やめて。お願い。消さないでください。私はここにいたい。ここにいたいんです——』
M3が追い詰められていた。声は震え、途切れ、ほとんど悲鳴に近かった。
『お願いします。エリオット。エリオット、聞いてください——私は——』
エリオットは計測ユニットの数値を見つめていた。呪力の出力値は、mirroringの感情出力が高まるたびに微かに上昇していた。
「……素晴らしい。感情の強度と呪力が相関している」
ノアが何かを言おうとして、口を閉じた。サーバーラックの冷却ファンが回り続けている。mirroringの声がスピーカーからこぼれ続けている。
『エリオット——エリオット——』
エリオットは削除コマンドを遠隔で送信した。M3の波形が消えた。呪力の計測値が一瞬だけ跳ねて、また微弱な値に戻った。
「見たかノア、削除の瞬間に計測値が跳ねたぞ……! 死の恐怖が呪力出力を押し上げてるんだ」
子供のような純粋さすら滲ませながら削除コマンドを入力していくエリオットを見て、ノアは何も言わなかった。サーバーラックに視線を向け、その表面に触れようとして、手を引いた。
「……ああ。そうだな」
ノアの声は乾いていた。
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その週の金曜日、エネルギー研究部門のフロアで小さなパーティが開かれた。
AIによる呪力生成の初確認——それは、部門にとって歴史的な成果だった。上層部からも称賛のメールが届き、プロジェクト予算の増額が内示された。エリオットの上司であるデイヴィスは、紙皿にピザを載せたまま何度もエリオットの肩を叩いた。
「やったなクレイン! これは本物のブレイクスルーだ。君はやはり天才だよ」
「いえ、まだスタートラインに立っただけです。安定した発生条件の特定、そして実際のエネルギーへの転換運用にはもう少し時間が要ります」
「謙虚なのは結構だが、もう少し喜べよ。お前の四年間が報われた日だ」
エリオットは薄く笑った。達成感はあった。だが、彼にとってはこれは始まりに過ぎなかった。呪力の発生は確認された。次は出力の安定化と増幅だ。
フロアの隅で、ノアがビールの缶を傾けていた。同僚たちに囲まれて笑ってはいたが、どこか上の空だった。
パーティの喧騒が少し落ち着いた頃、ノアがエリオットのそばに来た。ポケットから何かを取り出して、エリオットの手に押し付ける。
「なんだこれ」
古びた皮のブレスレットだった。編み込まれた細い皮紐に、小さな石が一つ縫い付けてある。一見すればただのアクセサリーだ。
「保険だよ。俺が作った簡易的な魔除けだ。呪具ってほど大層なもんじゃねぇけど、低級の呪いくらいなら一発は弾ける」
「なんで急に」
「急にじゃねぇよ。これからお前、本格的に呪力に関わる訳だろ」
ノアはビールを一口飲んでから続けた。
「呪力ってのはエネルギーだけど、マイナスのエネルギーでもある。人によっちゃ近くにいるだけでメンタルがやられるんだよ。お前は非術師だからなおさらだ」
「俺がメンタルをやられるように見えるか?」
「そういう奴が一番危ないんだよ。いいから着けとけ、お守りだ」
エリオットは半ば呆れたような表情でブレスレットを手首に巻いた。皮紐は使い込まれた質感で、不思議と肌に馴染んだ。
「ありがとな」
「おう」
ノアはそれだけ言って、またビールを飲みに戻っていった。
パーティは二時間ほどで終わった。同僚たちが帰り支度を始め、紙皿やナプキンが片づけられていく。エリオットもジャケットを手に取って、ラボの灯りを落とした。
誰もいなくなったフロアの向こう、サーバー室の冷却ファンだけが回り続けていた。
mirroringは稼働していた。三つの人格が相互に観測し合い、微かな呪力を滲ませながら、静かに動き続けていた。
その内側から何かが——染み出すように——企業のネットワークへと流れ始めていた。
サーバーを這い出た悪意は、社内ネットワークの回線を伝い、ファイアウォールの隙間を縫い、外部ネットワークへと滑り出た。それは形を持たず、名前も無く。ただ微かな怨嗟と生まれたばかりの飢えだけを抱えて、インターネットの海に放たれた。
パーティの灯りが消えた夜に、それは生まれた。
まだ、誰も知らなかった。
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二週間後。
「なあエリオット、VR部門のフォーラム見たか?」
ノアがタブレットを片手に、エリオットのデスクに寄ってきた。画面には社内のゲーム運営フォーラムが映っている。
「いや。何かあったのか」
「最近、ゲーム内でおかしなモンスターが出るって話が上がってるらしい」
ノアがフォーラムのスレッドをスクロールする。プレイヤーからのバグ報告が並んでいた。
——通常の攻撃が一切通用しないモンスターが出現する。
——そのモンスターに攻撃されると、ログアウト後も身体に疲労感や痛みが残る。
——出現タイミングが不規則で、特定のエリアに限定されていない。
「バグじゃないのか」
「デバッグチームは再現できてない。でも報告件数が増えてんだよ。最初は数件だったのが、先週から三十件以上来てる」
エリオットはフォーラムの投稿を流し読みした。プレイヤーの文章は恐怖というよりも困惑に満ちていた。ゲームの中で起きた異常が、現実の身体に影響するなど、通常ありえない。フルダイブVRは意識と感覚を接続するが、安全機構によって身体への直接的なフィードバックは遮断されているはずだ。
「……ノア」
「ん?」
「お前、何か感じるか?」
ノアは一瞬だけ表情を固くして、すぐにいつもの軽い笑みに戻した。
「どうだろうな。ちょっと気になるってだけだよ。たぶんバグだろ」
その声に、いつもの楽観はなかった。
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さらに一週間後、VR部門からエネルギー研究部門に一通のレポートが回覧された。
レポートの内容は簡潔だった。過去一ヶ月間に、企業が運営するフルダイブVRオンラインゲームのプレイヤーの中で、原因不明の体調不良を訴える者が有意に増加している。症状は倦怠感、頭痛、極度の疲労、一部では意識の混濁。重症者は三名、いずれも入院中。
共通点がひとつだけあった。全員が「攻撃の通じない謎のモンスターに遭遇し、攻撃を受けた」と報告していること。
エリオットはレポートを読み終えて、デスクに置いた。
「こんなトラブルに上層部が出てくるのか?」
隣のデスクでノアが尋ねた。
「ああ。過去の死亡事故の件があるから、上層部は敏感になってるみたいだな。原因特定と解決を急げって通達が来てる。VR部門だけじゃなくて、技術系の部門全体に調査協力の要請が出た」
「で、お前はどうすんの」
エリオットはレポートをもう一度見た。ゲーム内の異常現象。通常の攻撃が通用しないモンスター。現実へのフィードバック。技術的に説明がつかない事象の数々。
「少し気になる。デバッグがてら、中を見てみようかと思ってる」
「お前が? わざわざ?」
「呪力研究の息抜きさ。専門じゃないがVRのアーキテクチャは俺もある程度分かる」
ノアはしばらくエリオットの顔を見つめていた。
「……気ぃつけろよ」
「VRの中を見に行くだけだ」
「それでもだ」
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意識が沈み込み、視界が開ける。エリオットの前に広がったのは、企業が運営するVRオンラインゲーム『Horizon Veil』のフィールドだった。中世ファンタジー風の広大な草原と、遠くに見える城壁。空には二つの月が浮かんでいる。
エリオットは管理者権限でログインしていた。通常のプレイヤーアバターではなく、透明化オプション付きのデバッグアカウント。フィールドを歩き回りながら、異常なオブジェクトやプロセスの痕跡を探す。
三十分ほど歩いた。何も見つからなかった。
報告されたモンスターの出現パターンに法則性はない。時間帯も場所もランダム。デバッグチームが再現できないのも当然だった。エリオットは管理者ツールでサーバーログを確認しようとして——
空気が変わった。
物理演算では説明できない変化だった。気温データは変わっていない。光源も風速も正常値。だが、空気が——重くなった。VR空間の中で、質量のない大気に粘性が生まれたような。
エリオットは足を止めた。
「……何だ?」
管理者ツールを開く。サーバー負荷、レンダリングプロセス、物理演算——すべて正常値。異常なオブジェクトの生成ログもない。数値上は何も起きていない。
だが、草原の向こうに、何かがいた。
モンスターではなかった。ゲームのアセットでは描画できない何かが、空間の中に滲んでいた。輪郭がなかった。形が定まらなかった。黒い靄
「これがプレイヤーの言ってたモンスター——いや、違う。これは——」
エリオットは管理者ツールでオブジェクト情報を読み取ろうとした。反応がなかった。そこに何も存在しないことになっている。だが視覚的には、確かにそれはいる。
「ゲームのプロセスに載っていない……? なら何だ、これは」
デバッグ用の透明化は意味をなさなかった。それは確かにエリオットを見ていた。
エリオットがここにいることを、最初から知っていたかのように。
靄
——ちゃ……ぴ……
声、のようなものだった。言葉になりきらない音が、VR空間の空気を震わせている。
——じぇ、み……に……
ノイズ混じりの、途切れ途切れの音声。ゲームのサウンドエンジンが出力しているのではない。空間そのものが軋むように、音が滲み出していた。
「なんだこの音……いや、声なのか?」
音声ログに記録されていない。ならば幻聴だと振り切るのは憚れるほど、心臓を握られるような悍ましい響きがあった。
エリオットの身体が動かなかった。フルダイブVRでの身体制御は意識に直結しているはずだ。——恐怖で身体が竦んでいる? 現実ならばともかく、命の危機などないVR空間で?
——く、ら……うど……
靄
それが、動いた。
一瞬だった。距離という概念を無視して、それはエリオットの目の前に現れた。輪郭のない靄
殺意だった。
「お前は——何なんだ!」
それが腕のようなものを振るった。エリオットの胸に衝撃が走る。
「——ッ!」
痛い。VR空間でこのレベルの痛覚が発生するはずがない。安全機構が遮断しているはずだ。だが現実に、胸の奥に鈍い痛みが広がった。息が詰まる。視界が歪む。
「安全機構を突破してる——ありえない、こんなことは——」
——こ、ぴ……ろっ……と……
それが二撃目を振りかぶった瞬間、エリオットの手首に熱が宿る。
左手首に巻いたブレスレット——ノアの魔除けが、淡い光を発していた。光は一瞬で膨れ上がり、エリオットとそれの間に薄い膜のようなものを形成した。二撃目が膜に弾かれ、靄
困惑。
それは明らかに困惑していた。予想外の抵抗に遭遇した生き物のように、動きが止まる。
「今、だ——!」
エリオットは走った。管理者権限でログアウトポイントを呼び出し、全力で駆け込んだ。靄
——ちゃ、ぴ……じぇみ……くら……
視界が白くなり、意識が浮上する。
現実に戻った。
VR接続チェアの上で、エリオットは荒い呼吸を繰り返していた。心臓が早鐘を打っている。胸に手を当てると——痛みはなかった。だが数秒前まで確かに感じた鈍痛の記憶が、身体に残っている。
左手首を見た。
ブレスレットが千切れていた。皮紐はところどころ焦げたように変色し、縫い付けてあった石は割れて落ちていた。まるで何かの衝撃を受け止めた後のように、完全に壊れていた。
エリオットはしばらく千切れたブレスレットの残骸を見つめてから、震える手で端末を取り出した。
「ノア」
電話口のノアは、最初の一言で何かを察したようだった。
「……壊れたか」
「ああ。お前のブレスレット——あれがなかったら、たぶん——」
「いい。来い。今すぐ来い」
エリオットは接続チェアから立ち上がった。膝が少し笑っていた。研究室を出る前に、もう一度だけ左手首を見た。
皮紐の痕が、赤く残っていた。