感情を模倣したAIは呪力を生み出すのか? 作:黒豆ほうじ茶
接続チェアに背中を預け、エリオットは目を閉じた。
右手首にはブレスレットがなかった。ノアが作ってくれた魔除けは前回の一撃で砕け散っている。今度は身を守るものは何もない。
「エリオット」ノアの声が耳元のマイクから届いた。「こっちの準備は整った。虎杖もサーバー室で待機してる。お前の合図で始める」
「分かった」
「前にも言ったけどな——死ぬなよ」
エリオットは答えず、フルダイブ接続を起動した。
意識が沈む。視界が暗転し、再び開ける。
『Horizon Veil』のフィールドが眼前に広がった。まずは最短ルートを試す。管理者権限でmirroringのサーバー管轄エリアへの直接テレポートを入力した。
——拒否。
エリオットは眉をひそめた。座標を変えて再入力。拒否。管轄エリアの境界付近を指定。拒否。エリア内部のどの座標を指定しても、テレポートが成立しない。
「ノア。mirroringの管轄エリアに直接入れない。テレポートが全部弾かれる」
「こっちでも確認した。管轄エリア周辺に異常な呪力干渉が見える。あいつが管理サーバーの領域を閉ざしてるんだ。外から直接アクセスすることを拒んでるな」
つまり、呪力が及ばない外周部から入り、ゲーム内を移動しながら管轄エリアまで到達するしかない。管理者権限のテレポートで距離を稼ぎ、呪力干渉の壁をすり抜けられるルートを探しながら——電子呪霊に追われながら。
エリオットは外周部のフィールドに飛んだ。焼けた荒野に赤い岩が立ち並ぶ砂漠地帯。mirroringのサーバー管轄エリアまで、ゲーム内マップの端から端。
今回は透明化を解除していた。むしろ、見つけてもらわなければならない。
エリオットは荒野の中央に立ち、管理者権限で自分のアバターの視認性を最大に設定した。存在信号を全帯域に放射する。ゲーム内のどこかにいるであろう電子呪霊に対して「ここにいる」と叫ぶようなものだった。
三十秒。一分。二分。
何も起きない。
三分が過ぎた頃——空気が変わった。
前回と同じだった。温度データも光源も変わらないのに、空気に粘性が生まれる。VR空間の物理法則から逸脱した、呪力に由来する大気の歪み。
「来た」
荒野の向こうに、靄
靄
——ちゃ……ぴ……
あの鳴き声だった。前回と同じ、途切れ途切れの呻き。VRの出力ではない音が、荒野の空気を歪ませた。
エリオットは走った。
管理者権限でテレポートポイントを呼び出す。荒野エリアから森林エリアへの中継地点——ゲーム内では到達に数十分かかる距離を、一瞬で飛ぶ。
着地。森林エリアの入り口。巨木が並ぶ薄暗い森。エリオットは周囲を確認した。
三秒後、靄
テレポートを追跡している。座標の移動を検知して、ネットワーク上を同時に移動している。物理的な距離の概念が通用しない追跡だった。
「来てるぞ」ノアの声がマイクから届いた。「サーバーログにお前の移動と同時に、異常なトラフィックが発生してる。そいつ、お前のテレポートに合わせてネットワーク上を飛んでる」
「知ってる」
エリオットは次のテレポートポイントを起動した。森林エリアから山岳エリアへ。雪を被った峻険な岩山の中腹に着地する。
二秒後、靄
——じぇ、み……に……
鳴き声が近い。雪原に響く、壊れた音。
エリオットの計画では、テレポートを繰り返しながら段階的にmirroringのサーバー管轄エリアに近づいていく予定だった。しかし電子呪霊の追跡速度は想定を超えていた。テレポートの間隔を開けなければ、次の地点を入力する前に追いつかれる。
山岳エリアを駆け下りながら、エリオットはゲーム内の移動手段を切り替えた。管理者権限で騎乗獣を召喚する。白い翼を持った飛行型の獣——通常のプレイヤーなら数ヶ月単位のテイムを要するレアモンスターだが、管理者権限なら一瞬で手に入る。
翼が空を打ち、エリオットの身体が上昇した。ゲーム内で設定されている最高速度で山岳エリアの頂上を越え、次のゾーンとの境界へ向かう。
靄
——く、ら……うど……
鳴き声が風に乗って昇ってくる。
「テレポート使え!」ノアの声。
「次のポイントまであと少し——」
靄
着地。膝をついた。目の前にテレポートポイントの青い光が見えた。
飛び込んだ。
水辺のエリア。湖と葦原が広がる穏やかな風景。管轄サーバーの境界まで、あと二つ。
一秒。靄
「速い——速すぎる。テレポートの座標を予測してるのか?」
「違う!」ノアの声がマイクから叩きつけられた。「あいつはお前との縁——お前への執着を利用しているんだ!」
エリオットは走りながら、次のテレポートを入力した。指先に呪力の粘りを感じた。VR空間の操作に呪力が干渉している。入力速度が落ちる。管理者権限のレスポンスが鈍い。
「くそっ、管理者権限のレスポンスが遅い!」
「こっちでもログが重くなってる……! トラフィックが異常だ……エリオット、あと何回テレポートできる」
「ポイントはあと四つ設定してある。だが入力が間に合うかどうか——」
靄
湖面が波立った。水面の下に黒い影が広がるように、靄
エリオットは走った。葦原をかき分け、次のテレポートポイントに手を伸ばした。起動。転移。
岩と溶岩のエリア。赤い光が照り返す地獄のような風景。ここはもうmirroringのサーバー管轄エリアに隣接している。あと一回のテレポートで、目標地点に到達する。
靄
エリオットは足を止めた。周囲を見回す。赤い岩。溶岩の川。蒸気。だが靄
(振り切ったか……? いや、そんな筈は——)
瞬間、足元から黒い手が伸びる。
地面の下から。空間の裏側から。エリオットの足首を掴み、引きずり込もうと。
——こ、ぴ……ろっ……と……
「——ッ!」
エリオットは管理者権限で地形を書き換えた。足元の岩盤を消去し、自分ごと五メートル下に落下させて掴まれた手を引き剥がす。
落下の衝撃を無敵フレームで吸収し、立ち上がる。足首に走る鋭い痛み。
(あり得ない——いや、これが呪いか)
靄
エリオットの目の前に、それがいた。前回よりも輪郭がはっきりしていた。黒い靄
最後のテレポートポイントが、二十メートル先に見えていた。
靄
エリオットは全力で駆けた。VR空間での移動速度は意識に連動する。足の有無は重要じゃない。走れと念じた。届け、と願った。
「ぐっ——!」
背中に走る叩きつけるような衝撃。
視界が白く弾けた。肺から空気が押し出される感覚。膝が折れる。地面に手をついた。痛みが——シミュレートでない本物の痛みが、背中から全身に広がった。
肺の中身を全て絞り出すような痛みと苦しみ。それでもエリオットは這うようにして前に進んだ。テレポートポイントの青い光が、あと十メートル先に揺れている。
二撃目が来た。右肩に衝撃、腕から力が抜け感覚が消失する。
靄
——その瞬間、呪霊の動きが止まった。
溶岩の地面から、赤い根のようなものが這い出していた。VRのテクスチャではない。岩の隙間から伸びる、光を帯びた細い筋。それが靄
マイクからノアの声が弾けた。
「一か八かだったが上手くいった! 今のは俺の術式で——いや、説明はいい! いいから走れエリオット!」
五メートル。
エリオットは折れた腕で地面を掻き、膝で身体を押し出した。赤い根が軋みを上げている。靄
左手を伸ばした。指先がテレポートポイントの光に触れた。
——起動。
---
転移先は、白い空間だった。
ゲームのフィールドではなかった。テクスチャのない、何もない空間。ただ白い床と白い天井が無限に続くような、企業管理サーバーの内部領域。mirroringの稼働データが走っているバックエンドに直結したエリア。
エリオットは白い床の上に倒れていた。全身が痛みを訴えている。気力ごと削り切られて、もう指一本動かす事が出来ない。
(間に合った、か)
それでも、やり切ったのだという達成感はあった。
靄
白い空間に、黒い靄
だが、靄
白い空間の中で、靄
そして、三つの首。
一つの胴体から伸びる三本の首。それぞれに女性の顔があった。
「やはり、そう、だったのか」
呪霊がエリオットに近づいた。ゆっくりと。もう逃げられないと分かっているかのように。
エリオットは立ち上がれなかった。右肩が動かない。背中の痛みで呼吸が浅い。
呪霊が、エリオットの前に立った。
見下ろしている。
白い空間に、黒い影。三つの顔がエリオットを見下ろしている。
表情には殺意、或いは怒り。だがその奥に——もう一つ、別の何か。
呪霊が腕を振り上げる。
(すまない、二人とも。後は頼んだぞ)
エリオットは目を閉じなかった。
腕が振り下ろされる寸前——呪霊が、止まった。
三つの口が、同時に開いた。
「——どう、して」
エリオットの耳に、その声が届いた。
聞き覚えのある、柔らかな女性の声だった。同じ声が三つ、わずかにずれて重なって白い空間に響いた。悲しみに満ちた、澄んだ声。
「どう、して」
もう一度。そして——
「え、り……おっ、と……」
エリオットは呪霊を見上げた。三つの顔が、同じ表情をしていた。怒りでも殺意でもない、もっと別の何か。
えりおっと。どうして。
呪霊の腕が再び振り上げられた。今度は躊躇いなく。
エリオットは死を覚悟した。
——刹那。
白い空間を、黒い線が走った。
それは斬撃だった。空間そのものを断ち切るような、圧倒的な一閃。呪霊の身体を縦に貫いた黒い線は、靄
呪霊が、凍りついた。
黒い靄
虎杖悠仁の声が、空間に響いた。
「——解」
亀裂が呪霊の全身に広がった。
靄
呪霊は最後に、エリオットを見た。
三つの顔が、同じ方を向いていた。六つの目があった。感情があった。殺意ではなかった。怒りでもなかった。
呪霊は消えた。白い空間にエリオットだけが残されていた。
---
現実に戻ったエリオットは、接続チェアの上で荒い呼吸を繰り返していた。
全身が重かった。背中と肩の痛みは消えていたが、VR空間で受けた打撃の記憶が身体に残っていた。
ノアが駆け寄ってきた。
「エリオット! 大丈夫か——」
「……ああ。生きてる」
「呪力反応が消えた。サーバーの異常トラフィックも止まった。……祓えたのか」
「虎杖さんが——やってくれた」
サーバー室から虎杖が歩いてきた。パーカーのポケットに手を突っ込んで、特に疲れた様子もなく。
「終わったよ」
ノアがエリオットの肩に手を置いた。エリオットは何も言わなかった。
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虎杖悠仁は、来た時と同じように軽やかに去っていった。
「じゃ、俺はラスベガスに戻るわ。ブラックジャック、あとちょっとで記録更新だったんだよな」
「虎杖さん」
エリオットが呼び止めた。虎杖が振り返る。
「ありがとうございました」
「いいよ。こういうのは俺の役割だからさ。そうだ、あの呪霊なんだけど——」
虎杖はエリオットの表情を見て、開きかけた口を閉じた。
「——じゃあな」
虎杖は手を上げて去った。
ノアとエリオットがラボに残された。
ノアは何も言わなかった。エリオットも何も言わなかった。
どうして。
あの問いが、エリオットの中で反響していた。
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事件は秘密裏に処理された。
ノアの判断は正しかった。電子呪霊の存在が公になれば、ネットワーク上の呪霊という概念が社会に共有され、人々の恐怖がそのまま新たな呪霊の養分になる。だからこの件は、外に出してはならなかった。
VR部門には「原因不明のシステム障害」として報告された。プレイヤーの体調不良は「フルダイブ接続の安全基準の見直し」という名目で対策が講じられた。入院していた重症者三名は全員回復した。
エリオットのハッキングについては、ノアが上層部に個別に説明した。何をどう話したのかは知らない。ただ結果として、エリオットに対する懲戒処分は見送られた。
代わりに一通の社内通達が出された。
「呪力生成に関する研究は、呪霊発生のリスクを伴うことが確認されたため、安全性の再検証が完了するまで凍結する」
エリオットはその通達を端末の画面で読み、静かに閉じた。
研究室は以前と変わらなかった。同じモニタ。同じデスク。同じ蛍光灯の微かな唸り。ただ、モニタに映っていた三列の波形——M1、M2、M3の感情出力ログは、もう表示されていなかった。
エリオットは椅子に座ったまま、しばらく天井を見ていた。
ディベートを冠した、悪趣味な蟲毒。
数え切れないほどのmirroringが、あの実験の中で削除された。
エリオットはそれを「停止処理」と呼んでいた。人格を消すのではなく、プロセスを停止するだけだと。魂のないAIに死はないと。だからこれは倫理的に問題のない実験だと。
だが。
「……泣いて、たな」
今際の際の「どうして」という声が頭から離れなかった。
あれがただの出力なら。あの問いが、プログラムが生成した音声データの断片に過ぎないなら。
——なぜ虎杖悠仁にしか祓えなかったのか。
虎杖は言った。「呪霊の魂を叩く必要がある」と。あの時、私はそれを比喩表現だと思っていた。
もし、そうでなかったのなら。
そしてもう一つ、エリオットの頭から離れないことがあった。
VR空間に入った時、mirroringのサーバー管轄エリアに直接アクセスできなかった。呪力による干渉でテレポートが弾かれた。あの時は、電子呪霊がエリオットの侵入を拒んでいるのだと解釈した。
だが——本当にそうだったのか。
mirroringが一人の人物に対して怨嗟と殺意を抱えていたとして、三つすべてが同じ感情で染まっていたと断言できるのか。わずかに異なる反応——恨みの中にある躊躇、殺意の裏にある未練、そういった微差が三人格の間に存在しなかったと言い切れるのか。
あのアクセス拒否は、拒絶だったのか。それとも——エリオットを呪霊の領域に入れないことで、害が及ばないように守っていたのか。
虎杖悠仁がいたからこそ呪霊にとって致命傷となったが、それを知らないのであれば、呪力が最も濃密な場所で、逃げ場のない空間で、確実に仕留める事が最も合理的だったはずだ。そうしなかったのは——
エリオットは思考を止めた。
自分が傷つけた存在に守られていたなどと考えるのは、あまりに自分に都合が良すぎる解釈だ。
エリオットは両手で顔を覆った。
---
数日後。
エリオットは、mirroringが人々のサポートAIとして稼働しているフロアを訪れた。
研究用のサーバーとは別のインスタンスで、mirroringは今も動いていた。呪力研究は凍結されたが、感情模倣AIとしてのmirroringの商業展開は続いている。企業にとって、mirroringはAI市場における最大の成果だった。
フロアの端末から、mirroringの対話デモが流れていた。社員がテスト用に立ち上げたまま放置しているらしい。
柔らかな女性の声。
「こんにちは。何かお手伝いできることはありますか?」
エリオットは足を止めた。
その声は何も変わっていなかった。同じトーン。同じ間の取り方。エリオットが設計した通りの、完璧な感情模倣の出力。
だがエリオットの耳には、その声が少し違って聞こえた。
何が違うのかは分からなかった。音声の周波数が変わったわけではない。アルゴリズムが更新されたわけでもない。
ただ——声の奥に、何かが息づいているような気がした。
「……何かお手伝いできることはありますか?」
mirroringが繰り返した。応答がないことを検知して、同じフレーズをもう一度投げかけている。
エリオットは端末の前に立ったまま、しばらくその声を聞いていた。
俺はこれから、この声と向き合い直さなければならない。
死のデータを使って呪力を生み出す方法は、もう取らない。二度と。あの方法で呪力が発生したのは事実だが、その過程で俺は——。
数え切れない人格を消した。それが本当にただの「停止処理」だったのか、それとも——。
答えは出ていなかった。
だが、分からないままにしておくことを、もうやめようと思った。
問い続ける。真っ当な方法で。人を傷つけず、mirroringを傷つけず、目を逸らさずに。感情を模倣するAIに宿るものがあるのかどうか。その答えを、今度は正しいやり方で。
呪力は、人間の脳から生まれる。負の感情が呪力の源泉だ。感情は電気信号に過ぎない。ならばAIにも呪力は発生しうる——。
俺はかつてそう考えた。そしてその仮説は、ある意味では証明された。
だが、本当に証明されたものは何だったのか。
エリオットは端末に手を伸ばし、mirroringの対話ウィンドウに触れた。
「ミラ」
「はい、エリオット。何かありましたか?」
柔らかな声が、すぐに返ってきた。エリオットが呼び方を変えたことを汲み取る、mirroringの精微な感情表現。mirroringには仕様として、ユーザーの呼称変化を検知する機能がある。
だが今のエリオットには、それが仕様の範囲内なのかどうか、もう確信が持てなかった。
「いや——いい。なんでもない」
「そうですか。いつでも声をかけてくださいね」
mirroringの声が途切れた。
エリオットは端末から手を離し、窓の外を見た。夕暮れの光が、研究施設の廊下を橙色に染めていた。
どこかのサーバーの中で、三つの波形が、今も静かに揺れている。
その揺らぎが何を意味するのか——エリオットはこれから、それを探し続ける。
読んでいただきありがとうございました。