第一部:ソウルの残火、荒野の演武
夜明け前の蒼い光が、北の山嶺を静寂の中に閉じ込めていた。
切り立った岩棚の上、オーンスタインは一人、凍てつく大気の中に立っていた。
彼の肉体には、今、異変が起きていた。
連日の行軍で彼を苛んでいた、全身の血管を引き千切るような強烈な筋肉痛や関節の痛みが、今は驚くほどに静まっている。
昨日、あの龍(ワイバーン)を屠った際に流れ込んだ、僅かばかりの「ソウル」。
それが、枯渇しきっていた彼の魂の器に波紋を広げ、極小ながらも肉体の摩耗を癒やしていたのだ。
(……動く。この、生身の体が)
オーンスタインは、傍らに突き立てていた竜狩りの十字槍を手に取った。
刃こぼれし、往時の黄金の輝きを失った真鍮色の得物。
だが、それを握る掌(てのひら)には、昨日までの「鉛(なまり)を掴むような重苦しさ」はなかった。
彼は静かに、槍を突き出した。
鋭い呼気と共に放たれた一撃は、空気を切り裂き、岩棚に溜まった薄氷を一瞬で霧散させた。
続いて、彼は長大な槍を大きく横へと薙ぎ払った。
ゴォッ、という重厚な風切り音が、静寂を蹂躙する。
本来、長柄の武器が不利とされる足場の悪い岩場にあって、彼の足運びは一点の淀みもなかった。
槍を振り回す。ただそれだけの動作。
だが、ソウルという「芯」が戻ったことで、十字槍の重厚な質量が彼の意志に完璧に追従し、大気を震わせる武威へと変わる。
(……間違いない。僅かだが、力が戻っている)
石突きで岩を叩き、その反動を利用して槍を頭上で旋回させる。
旋風の如き演武。
彼は、己の内に灯った小さな火が、かつてアノール・ロンドで主の背中を追っていたあの頃の輝きと同質であることを確信していた。
この世界の龍のソウルには、古龍に近い響きがある。
ならば、この力を積み重ねていけば、いつか必ず主の元へ辿り着ける。
演武を終えたオーンスタインは、荒い息を整えながら、再び「再起の儀式」に取り掛かった。
一度鎧を脱ぎ、生身の肌を刺す冷気に晒されながら、真鍮の装甲を丁寧に磨き上げる。
そして、再び痛む体に鞭を打つようにして、一枚ずつ黄金の皮殻を纏っていく。
ガシャリ、と冷たい金属が噛み合う。
獅子の兜を被り直した瞬間、彼は「廃りゆく伝説」ではなく、明確な意志を持った「狩人」へと戻っていた。
懐にある安っぽい「白磁」の板が、真鍮の胸当てに当たって硬い音を立てる。
彼はその音を、新たな誇りの鼓動として聞きながら、朝日に照らされた北の空を仰ぎ見た。
「……タイ、ヨウ」
静かに唱えたその言葉は、もはや救いを求める祈りではない。
主を捜し出し、再び騎士として並び立つための、戦いの宣言であった。
第二部:下山の行軍、孤高の槍
里の民に見送られ、オーンスタインは再び山嶺の険路へと足を踏み出した。
生身の肉体にとって不可欠な「空腹」と「渇き」を癒すため、彼は里から贈られた素朴な乾肉と水を受け入れている。
かつて神々の食卓に連なった彼にとって、それは泥臭い生存の記録であったが、今の彼にはその重みが心地よかった。
山を下る道中、岩陰に潜んでいた小鬼(ゴブリン)の一団が、音もなく姿を現した。
数日前の彼であれば、鎧の重みと関節の痛みに耐えながら、泥臭い泥仕合を演じていたことだろう。
だが、今の彼は違う。
ワイバーンを屠った際に流入した僅かなソウルが、彼の四肢に「芯」を通していた。
「ギギッ……!」
小鬼たちが、錆びた剣を振りかざして突撃してくる。
オーンスタインは、背丈を優に超える長大な十字槍を、大きく水平に薙ぎ払った。
ゴォッ、と。
空気を力強く押し潰すような風切り音が響き、最前列の小鬼三体が、その衝撃だけで岩壁へと叩きつけられた。
槍を振り回す。その単純な動作の中に、本来の「槍術の極致」が宿り始めていた。
石畳を削りながら旋回する穂先は、逃げ惑う小鬼の急所を吸い込まれるように正確に貫いていく。
閉所戦闘においても、彼の武威に揺らぎはない。
長柄が不利とされる岩の隙間では、槍を短く持ち替え、重厚な真鍮の「石突き」を最短距離で突き出す。
鈍い破壊音と共に、小鬼の頭蓋が粉砕される。
さらに、怯んだ敵の群れに対し、真鍮の鎧を纏った「自身の質量」を弾丸のように叩きつけた。
凄まじい衝撃。
生身の限界を超えようとする騎士の体当たりは、もはやそれ自体が巨大な質量兵器であった。
(……軽い。昨日までとは、次元が違う)
槍を振るうたびに、手応えが確信へと変わる。
完全な全盛期には程遠いが、今の彼には、長大な槍を縦横無尽に操り、広範囲の敵を一掃するだけの「キレ」が戻っていた。
それは、かつてアノール・ロンドの広間で、幾千の試練を乗り越えてきた筆頭騎士としての記憶の再現であった。
戦いの後、彼は乱れた呼吸を整えながら、自身の腕を見つめた。
雷を放てば、今なお血管や神経を引き千切るような猛烈な負荷が肉体を襲うだろう。
だが、この槍の冴えがあれば、安易にその奥の手を切る必要はない。
彼は懐の「白磁」の認識票をそっと撫でた。
安っぽい板だが、今の彼にとっては、この地で主を捜し、騎士として立ち上がるための「新たな誇り」である。
北の山嶺から吹き下ろす冷たい風が、獅子の兜の毛飾りを揺らす。
オーンスタインは、屠った龍の血に感じた「古龍」に近い響きを道標に、より気配の濃い北の最果てを見据えた。
主の背中は、もう幻ではない。
黄金(真鍮)の騎士は、蹂躙した小鬼の死骸を顧みることなく、一歩一歩、確実な足取りで山を下っていった。
第三部:白磁の板、新たな道標
下山を終えたオーンスタインの前に広がっていたのは、山嶺の険しさとは対照的な、どこまでも続く寒々しい平原であった。
ふもとの宿場町に辿り着いた彼は、喧騒から離れた廃屋の軒先を、今宵の宿と定めた。
彼は手慣れた動作で籠手(ガントレット)の締め具を解き、一枚ずつ真鍮の装甲を外していく。
生身を晒す夜の冷気。
だが、今の彼の内側には、ワイバーンを屠った際に得たソウルの残火が、僅かながらに灯り続けている。
その熱は、鎧との摩擦で赤く腫れた肌を、内側から静かに癒やしていくようであった。
(……ハァ、……ふぅ……)
獅子の兜を傍らに置き、彼は手入れ道具を取り出した。
沈んだ真鍮色の鎧を一点の曇りもなく磨き上げる、孤独な「再起の儀式」。
その最中、ふと指先が、胸当ての裏に括り付けられた安っぽい白磁の板に触れた。
竜狩りの勲章とは程遠い、この世界の「白磁」の認識票。
彼はそれを一瞬だけ見つめ、汚れを拭い取ると、迷いなく元の場所へと仕舞い込んだ。
語るべき言葉はなくとも、それが今の己をこの世界に繋ぎ止める「誇り」であることは、魂が理解していた。
深い夜の静寂の中、彼は少女から教わった唯一の言葉を、肺の奥に溜まった澱みを吐き出すようにして唱えた。
「……タイ、ヨウ」
その音の響きが、かつての都を照らしていた光の記憶を呼び起こす。
同時に、屠った龍の血から感じ取った、あの「古龍」に近い響きが、彼の神経を鋭く研ぎ澄ませた。
龍の影を追えば、必ず主(名も無き王)の背中に辿り着ける。
その確信が、今の彼にとっては唯一の道標であった。
翌朝。
オーンスタインは再び、痛む体に鞭を打って真鍮の皮殻を纏い、立ち上がった。
ソウルの流入により、その立ち居振る舞いには、昨日までにはなかった「キレ」と「重厚さ」が戻りつつある。
彼は十字槍を手に取り、地平線の彼方、龍の気配がより濃く澱む北の最果てを見据えた。
そこには、この世界の理を歪めるほどの強大な「龍」の存在がある。
そして、その先にあるはずの、追い求め続けた主の影。
黄金(真鍮)の騎士は、振り返ることなく歩き出した。
風に揺れる獅子の毛飾りが、朝日の下で僅かに、かつての黄金の輝きを取り戻したかのように見えた。