第一部:死闘の連鎖、魂の収穫
北の最果てへと続く険路は、もはや道とは呼べぬ惨状を呈していた。
切り立った岩壁には、巨大な獣の爪痕が深く刻み込まれている。
その亀裂からは、この世界の理では説明のつかない、澱んだ魔気の残滓が立ち昇っていた。
足元には、無残にへし折られた銀色の長剣が、泥にまみれて打ち捨てられていた。
この世界の熟練者である「銀等級」のパーティですら、壊滅、あるいは命からがら敗走を余儀なくされた凄惨な戦場の跡だ。
散乱する盾の破片や、使い古された魔術の触媒が、ここで繰り広げられた絶望的な抗いの激しさを物語っている。
オーンスタインは、重厚な真鍮の鎧を低く軋ませながら、その中央へと静かに歩を進めた。
ソウルが枯渇し、神々の加護を失った肉体は、依然として生身の限界に近い。
一歩踏み出すたびに、鎧の重みが直接筋肉を苛む強烈な筋肉痛と、関節をきしませる鋭い痛みが全身を駆け抜ける。
(……来るか)
地響きと共に、岩陰からその巨躯が現れた。
岩皮を纏った剛力種の魔獣。
銀等級の冒険者が数人がかりで挑み、それでもなお死者を出すであろう、この地の捕食者だ。
魔獣は、侵入者である黄金の騎士を認めると、大気を震わせる咆哮を上げた。
だが、伝説の竜狩りにとって、それは畏怖の対象ではない。
かつて太陽の都アノール・ロンドにて、神話の時代を戦い抜いた彼にとって、目の前の怪物は単なる「狩り」の標的に過ぎなかった。
魔獣が丸太のような腕を振り上げ、岩盤ごと粉砕せんとする一撃を叩きつける。
オーンスタインは、卓越した「型」と「歩法」を以て、紙一重の距離でその衝撃をいなした。
激しい土煙が舞う中、彼の黄金の獅子兜は一点の曇りもなく、獲物の喉元を捉え続けている。
環境制約など、彼には無意味だ。
足場の悪い岩場や、巨獣の死角を滑るように移動し、竜狩りの十字槍を鋭く突き出す。
槍の穂先は魔獣の強固な外殻を容易く貫き、その内側にある生命の核を正確に破壊した。
間合いを詰められ、肉薄されれば、彼は迷わず槍を短く持ち替える。
重厚な真鍮の「石突き」による打撃。
それは単なる回避のための牽制ではなく、魔獣の骨を砕き、その姿勢を完全に崩すための技術だ。
さらに、彼は黄金の鎧を纏った「自身の質量」を弾丸のようにぶつけ、巨獣の体勢を強引にこじ開けた。
「…………」
無言のまま、十字槍が魔獣の喉元を深々と貫いた。
絶命した巨躯から、微かな光の粒子――ソウルが立ち上る。
それは吸い込まれるように、オーンスタインの器へと流れ込んでいった。
昨日までのそれとは違う、確かな手応え。
この数日の道中、彼は同じような強大な魔獣を数体、屠り続けてきた。
銀等級が相手にするような魔獣との一戦一戦は、今の彼にとって文字通りの死闘だ。
傷は増え、疲労は限界を超えている。
だが、強者を狩るたびに、失われていた力が僅かずつ戻ってくる感覚がある。
ある程度の強さを持つ存在を狩れば、ソウルを得て再起できる。
その残酷なまでに明快な法則を、彼は自身の魂で明確に認識していた。
ふと、激しい戦闘の余波で、懐の認識票が肌に触れた。
ギルドから授かった安っぽい「白磁」の板。
彼はそれを、この世界での最低限の身分証として、静かに元の場所へと収め直した。
かつての名誉ある勲章とは違うが、今はこの板が、彼をこの地へ繋ぎ止める現実であった。
騎士は再び、十字槍を構え直した。
北の空、龍の気配が澱む場所を見据える。
そこには、確かに「龍」がいる。
だが、その気配は、彼が知るあの神話の「古龍」には、あまりにも、あまりにも遠く及ばない。
それは龍の名を語る、偽りの獣に過ぎなかった。
それでも、オーンスタインの瞳に迷いはない。
主の背中へ辿り着くためならば、たとえ偽りの龍であっても、彼はその喉を貫き、力を喰らうのみである。
第二部:薄氷の再起、軽くなる雷
死闘の余韻が冷めやらぬ荒野を、オーンスタインは一人歩み続けていた。
灰色の雲が厚く垂れ込める北の空からは、凍てつくような冷風が絶え間なく吹き付けてくる。
その風は、この最果ての地に巣食う魔獣たちの濃密な血の匂いを孕んでいた。
だが、彼の歩みは昨日よりも僅かに力強い。
先ほどの剛力種をはじめ、銀等級の冒険者たちを幾度も敗走させてきたであろう強大な魔獣たち。
それらを連続して狩り、その骸から吸収した「ソウル」が、枯渇しきっていたオーンスタインの器に確かな熱を灯し始めていた。
生身の肉体を苛む強烈な筋肉痛や、鎧の重みによる関節の軋みが完全に消え去ったわけではない。
依然として薄氷の上を歩くような、ギリギリの生存状態であることに変わりはなかった。
それでも、四肢の奥底には、かつて神々の都で振るっていた力の一部が戻りつつある。
泥水の中から砂金を掬い上げるような、僅かな、しかし確実な変化。
彼はその感覚を、冷たい風の中で静かに噛み締めていた。
(……追手か)
不意に、背後の岩陰から複数の気配が膨れ上がった。
先ほどの激戦で流れた大量の血の匂いに引き寄せられたのだろう。
この過酷な最果ての環境を生き抜く変異種の群れが、貪欲な牙を剥いて彼を包囲しようとしていた。
数は六。
いずれも、並の冒険者であれば瞬時に喉笛を噛み千切られるであろう、凶悪な速度と殺意を持っている。
オーンスタインは立ち止まり、静かに振り返った。
手にした十字槍の柄を握り直す。
しかし、彼は今回、初手から槍を振り回すことはしなかった。
ソウルが戻りつつある今、実戦の中で確かめておくべきことが一つあったのだ。
己の魂の奥底に眠る、神代の雷の力。
彼は静かに呼吸を整え、左手を空へと翳した。
理を越えた力が、生身の肉体を急速に駆け巡る。
パチリ、と。
重厚な真鍮の鎧の表面に、黄金色の火花が走った。
次の瞬間、オーンスタインの掌から、一条の雷光が解き放たれる。
轟音。
それはこの四方世界における「至高神の裁き」に匹敵する、圧倒的な神の力の奔流であった。
閃光が薄暗い荒野を真っ白に染め上げ、先頭を駆けていた魔獣三体を一瞬にして炭化させる。
大気を焦がす異臭と、遅れて響く雷鳴の余波が、残りの魔獣たちをパニックに陥れた。
絶対的な格の違いを本能で理解した獣たちは、悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
追う必要はない。
意味のない害獣の駆除は、彼の本来の目的ではないからだ。
放たれた雷の残滓が、虚空でチリチリと音を立てて消え去った。
オーンスタインは、ゆっくりと左手を下ろす。
「……」
浅く、短い息を吐く。
生身の肉体で雷を放つという行為は、本来、全身の血管や神経を引き千切るような猛烈な負荷を伴う。
これまでは使用直後、立っていることすら困難なほどの脱力と眩暈に襲われるのが常であった。
だが、今は違う。
激しい痛みと疲労感は確かにある。指先は微かに震え、呼吸も乱れている。
しかし、それは「致命的な負荷」から「強烈な疲労」へと、明確に格下げされていた。
魔獣たちから奪い、連続して吸収したソウル。
それが神の力に耐えうるだけの強度を、彼の肉体に僅かばかり取り戻させていたのだ。
やがて日は落ち、北の荒野は深い闇に包まれた。
オーンスタインは、かつて砦だったと思われる崩れかけた廃屋を見つけると、そこを今宵の野営地と定めた。
彼は冷たい石の床に腰を下ろし、慣れた手つきで籠手の留め具を外していく。
凍てつく夜の空気が、汗と泥に塗れた生身の肌を刺す。
騎士としての絶対の規律。
どれほど疲労していようとも、就寝時には適切に鎧を脱ぎ、肉体を休ませなければならない。
彼は傷だらけの指で古い布を使い、真鍮色の装甲を丹念に磨き始めた。
痛む関節を宥めながら、一枚一枚、丁寧に汚れを落としていく。
孤独で静寂な、再起のための儀式。
その最中、己の裡で静かに燃えるソウルの熱が、不意に彼の脳裏へ遠い日の記憶を呼び起こした。
それは、太陽の光が永遠に降り注いでいた、アノール・ロンドの黄金の記憶。
共に神の時代を支え、散っていった四騎士の同胞たちの姿だった。
深淵の闇を歩き、最後まで決して折れることのなかった友の大剣の重み。
盲目なる巨人が引き絞る、大弓の弦が空を裂く圧倒的な音。
そして、闇の中で舞う暗殺者の、音なき双剣の美しき軌跡。
彼らはもう、どこにもいない。
だが、この見知らぬ四方世界で己の魂が再び熱を帯び始めた今、彼らと肩を並べて戦ったあの時代の感覚が、鮮明に蘇りつつある。
(……見守っていてくれ、友よ)
戻りつつある力は、かつての同胞たちと共にあった誇りそのものだった。
決して泥に塗れさせてはならない絶対の矜持が、孤独な騎士の胸を静かに満たしていく。
手入れを終えたオーンスタインは、冷たい床に外套を敷き、身を横たえた。
瞼を閉じれば、遠く北の最果てから、微かに澱んだ魔力の名残が感じ取れる。
あそこに居るのは、偽りの龍だ。
かつて共に空を仰いだ、あの神話の古龍には遠く及ばない矮小な存在。
だが、今の彼にとっては、主へと続く道を切り拓くための、そして四騎士の筆頭としての己を取り戻すための、最大の獲物である。
(……待っていろ)
音なき誓いを胸に秘め、伝説の騎士は短く、深い眠りへと落ちていった。
明日の夜明けと共に、彼は偽りの龍の喉元へと、その十字槍を突き立てるだろう。
第三部:最果ての地、偽りの龍との対峙
凍てつく夜が明け、灰色の空が北の荒野を鈍く照らし出した。
オーンスタインの足取りは、昨日までの重苦しさを脱ぎ捨て、静かなる確信に満ちていた。
冷たい風が、真鍮の鎧に刻まれた無数の傷跡を撫で、獅子の兜の毛飾りを大きく揺らす。
彼が進む最果ての地は、もはや生命の気配が完全に途絶えた死の世界であった。
岩肌は赤黒く変色し、大気には毒を孕んだ濃密な魔力が澱んでいる。
強大な剛力種や変異した魔獣たちでさえ、この領域には決して近づかないのだろう。
絶対的な捕食者の縄張り。
その中心にそびえ立つ巨大なすり鉢状の岩山こそが、この地を支配する「龍」の巣であった。
彼は立ち止まることなく、巨大な岩の階段を一つ一つ登っていく。
黄金の装甲が軋む音だけが、死の静寂の中で規則正しく響いていた。
やがて、すり鉢の底に広がる巨大な空間が視界に開ける。
そこに、それは居た。
四方世界の熟練冒険者たちでさえ、姿を見ただけで絶望に染まるであろう巨躯。
漆黒の鱗に覆われた体躯は、小さな村を丸ごと押し潰せるほどの質量を誇っている。
背に生えた巨大な被膜の翼が微かに動くたび、暴風のような突風が吹き荒れた。
頭部には鋭い角が乱れ生え、その顎からは高熱の魔力が陽炎のように漏れ出ている。
一呼吸するごとに周囲の岩が赤熱し、水たまりが瞬時に蒸発して白い湯気を上げた。
それは確かに、この世界における「龍」であった。
だが、オーンスタインの黄金の兜の奥で光る瞳には、いささかの動揺も、畏怖の念も浮かんでいない。
彼の裡にあるのは、ただ静かなる落胆と、確固たる己の誇りだけであった。
(……これが、龍だと?)
彼の魂に深く刻まれた「龍」の記憶。
それは、世界がまだ灰と大樹に覆われていた神話の時代に君臨していた、不朽の古龍たちの姿である。
岩の鱗を持ち、永遠の時を生きる絶対的な存在。
主神の雷をもってしても容易には砕けず、幾多の神々や騎士たちの命を無慈悲に飲み込んだ理外の怪物。
それに比べれば、眼下に蟠るこの漆黒の獣は、あまりにも矮小だった。
魔力に満ちてはいるが、その鱗は岩ではなく、ただの硬質な肉の一部に過ぎない。
熱を帯びた息も、世界を焼き尽くしたあの原初の炎には遠く及ばない。
血が通い、痛みに怯え、寿命という枠組みに囚われた、ただの巨大な生物。
それが、四方世界で恐れられる頂点の正体であった。
(友よ、お前たちが見れば鼻で笑うだろうな)
オーンスタインの脳裏に、再び同胞たちの姿が過ぎる。
共に死線を潜り抜け、真の古龍の喉元に刃を突き立てた四騎士たち。
彼らと共にアノール・ロンドの空を護った誇り高き「竜狩り」の筆頭にとって、この獣を龍と呼ぶことは、過去の凄惨な戦いへの冒辱でさえあった。
だが、彼は決して油断をしない。
相手がどれほど矮小な偽りであろうとも、この世界の頂点に立つ強者であることに変わりはない。
そして何より、この巨躯を解体し、その裡に秘められた濃密なソウルを喰らうことこそが、今の彼に課せられた絶対の目的であった。
主の背中へ続く道程。
そのための、極上の贄である。
オーンスタインは静かに、岩山の縁からすり鉢の底へと歩みを進めた。
彼の気配に気づいた漆黒の龍が、鎌首をもたげる。
爬虫類特有の縦長の瞳孔が、黄金の侵入者を明確に捕らえた。
次の瞬間、岩山そのものを震わせるような、鼓膜を劈く咆哮が轟いた。
ビキビキと周囲の岩盤がひび割れ、圧倒的な威圧感がオーンスタインに襲い掛かる。
並の人間ならば、その音響と魔力にあてられて心臓を停止させているだろう。
だが、伝説の騎士は立ち止まらない。
彼を苛んでいた筋肉痛と関節の軋みは、これまでに吸収したソウルの熱によって、戦意という名の油へと変わっている。
彼は背丈を優に超える長大な十字槍を、静かに正中へと構えた。
刃こぼれした真鍮色の穂先が、龍の心臓を正確に指し示している。
雷は纏わない。
今の生身の肉体で放てば、反動が軽くなったとはいえ、依然として強烈な疲労を伴う。
まずは、本来の「槍術の極致」をもって、この獣の鱗を剥ぎ取る。
トン、と。
槍の重厚な「石突き」が地面を叩き、鋭い音を響かせた。
それは、狩りの開始を告げる無慈悲な合図であった。
龍が激怒し、灼熱の息吹を溜め込むべく、大きく胸を膨らませる。
その僅かな隙を、オーンスタインの卓越した歩法が見逃すはずもなかった。
環境制約の無効化。
足元の悪い岩肌を、彼はまるで鏡面を滑るかのような滑らかさで踏み切った。
黄金の鎧を纏った質量が、弾丸の如き速度で龍の懐へと殺到する。
長大な十字槍が空気を切り裂き、轟音と共に偽りの龍の黒鱗へと迫る。
神話の残火が、今、最果ての獣の喉元に突き立てられようとしていた。