落日の竜狩り ―真鍮の鎧と主への誓約―   作:もいもい130

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第十五話:名も無き亡者と、小さな一歩

 

 

朝の冒険者ギルドは、特有の熱気と喧騒に包まれていた。

 

新たな依頼を求める者、昨日の武勇伝を語る者。

その騒がしい波の只中で、巨大な黄金の鎧が静かに佇んでいた。

 

オーンスタインは、壁一面に張り出された羊皮紙の束――依頼掲示板を見上げている。

黒曜等級に昇格した彼にとって、これは自らの意志で選ぶ初めての仕事であった。

 

無数の見知らぬ文字が、虫の群れのように並んでいる。

だが、今の彼にとって、それはもはや完全な「暗号」ではなかった。

 

彼は真鍮の籠手で覆われた太い指を伸ばし、数ある依頼書の一枚をゆっくりとなぞる。

 

(……『討』……そして、『伐』)

 

少女から幾度も教わり、自らも炭で真っ黒になるまで書き連ねた文字。

不格好な記憶の糸が、目の前の記号と確かに結びついた。

 

彼は迷うことなく、その羊皮紙を壁から剥がし取った。

 

「あ……オーンスタインさん。それにするんですか?」

 

傍らで背伸びをするようにして掲示板を見ていた少女が、彼の手元を覗き込む。

彼女はひらがなや簡単な漢字を拾い読みし、依頼の全容を声に出した。

 

「『街外れの旧墓地における、動く死体(アンデッド)の討伐』……。報酬は銀貨五枚。黒曜等級向けの、手堅い依頼ですね」

 

動く死体。

この世界の駆け出し冒険者たちが、小鬼(ゴブリン)や大鼠の次に相対することになる、ありふれた怪物。

龍を屠り、小鬼の軍勢を一人で蹂躙した彼が受けるには、あまりにも地味で、見合わない仕事に思えた。

 

だが、オーンスタインは小さく頷いた。

 

金貨の価値すら分からない彼にとって、報酬の額などどうでもいい。

今の自分に必要なのは、この世界の理を肌で感じ、自らの力で生計を立てる「日常」の感覚を取り戻すことであった。

 

そして何より、彼にとって「動く死体」――すなわち亡者(ホロウ)は、故郷ロードランにおいて最も馴染み深い存在でもあった。

 

オーンスタインが依頼書を丸め、受付へ向かおうとした時。

少女が、彼の腰元から覗く分厚い鎖帷子の端を、両手できゅっと掴んだ。

 

「……私も、行きます」

 

その声は、微かに震えていた。

オーンスタインが振り返ると、少女の顔は青ざめ、唇をきつく噛み締めている。

 

旧墓地は、防壁の外にある。

街の門をくぐり、魔物たちの領域へと足を踏み入れるということ。

 

それは彼女にとって、あの凄惨な洞窟の記憶――仲間の断末魔と、暗闇の恐怖を否応なく呼び覚ます行為であった。

 

膝が小刻みに震えている。

冷たい鋼の編み目を掴む指の関節は、白くなるほどに力が入っていた。

 

オーンスタインは無言のまま、彼女を見下ろした。

戦士の勘が、彼女の内に渦巻く壮絶なトラウマを感じ取っている。

 

無理をして従う必要などない。ここで帰りを待っていればいい。

彼はそう伝える術を持たなかったが、静かに腰の鎖を引いて、彼女の拘束を解こうとした。

 

「だ、だめですっ」

 

だが、少女は頑なに手を離さなかった。

彼女は大きく深呼吸をし、震える視線を真っ直ぐに黄金の獅子兜へと向ける。

 

「オーンスタインさんは、言葉がまだ……十分じゃないから。道案内と、もしもの時の通訳が、絶対に必要です」

 

それは半分が建前であり、半分が彼女の切実なエゴであった。

このまま安全な街の中で、彼が帰ってくるのを待つだけの存在になれば。

いつか必ず、彼が遠い「神話」の地へ旅立つ時、自分は完全に置いていかれてしまう。

 

隣に立つためには、彼の「導き手」であり続けるためには。

自らの足で、あの暗闇の恐怖を乗り越えなければならないのだ。

 

「……私、もう足手まといにはなりませんから」

 

少女の瞳に宿る、弱くも確かな決意の炎。

オーンスタインはかつて、名も無き亡者たちの中に、それと同じ光を見たことがあった。

 

絶望的な世界で、それでもなお人間性を保とうと足掻く、ちっぽけで尊い魂の輝き。

 

黄金の騎士は、静かに歩みを止めた。

そして、彼女の小さな頭にぽんと手を乗せると、一度だけ深く頷いた。

 

(……ならば、背中は任せよう)

 

言葉は通じなくとも、その掌の温かさと重みが、少女の震えを嘘のように鎮めていく。

 

「はいっ……!」

 

少女は涙を乱暴に拭い、オーンスタインの隣に力強く並び立った。

 

数十分後。

重厚な街の門が開き、二つの影が外の街道へと踏み出した。

黄金の巨漢と、小さな魔術師。

 

第三章の幕引きを飾る、ひどく静かで、けれど二人の間に確かな絆を結ぶ小さな依頼が、今始まろうとしていた。

 

 

街の外壁から少し離れた、小高い丘。

そこには、とうの昔に使われなくなった旧墓地が広がっていた。

 

傾いた墓標。苔むした石畳。

日の光を遮るように薄暗い霧が立ち込め、土と腐敗の入り混じった冷たい風が吹き抜ける。

 

「……っ」

 

少女は、自身の体を抱きしめるようにして歩を進めていた。

鼻を突く死臭が、あの暗い洞窟の記憶をフラッシュバックさせる。

 

小鬼たちの笑い声。仲間の血の匂い。

恐怖で足が竦みそうになるたび、彼女は前を歩く巨大な黄金の背中を見つめ、必死に自らを奮い立たせた。

 

(大丈夫……オーンスタインさんが、いる)

 

その時だった。

二人の足元で、湿った土がボコボコと不気味に盛り上がった。

 

崩れかけた墓石の陰から、あるいは腐葉土の下から。

泥だらけの白骨や、腐肉をぶら下げた死体が這い出してくる。

この墓地に巣食う『動く死体(アンデッド)』たちだ。

 

カタカタと顎の骨を鳴らし、生者への憎悪だけで動く骸の群れ。

 

駆け出しの冒険者であれば、そのおぞましい姿と数に圧倒され、悲鳴を上げて逃げ出すだろう。

少女もまた、反射的に短い杖を構え、震える声で呪文を紡ごうとした。

 

だが、黄金の騎士は慌てることなく、静かに立ち止まった。

 

オーンスタインは獅子兜の奥で、群がり来る動く死体たちを見据えている。

彼の目に映ったのは、醜悪な怪物などではなかった。

 

(……見慣れた姿だ)

 

腐れ落ちた肉体。正気を失い、ただ生者を求める虚ろな瞳。

それは、かつて彼の故郷ロードランにおいて、数え切れないほど目にしてきた『名も無き亡者(ホロウ)』そのものであった。

 

かつては誇り高き騎士であり、あるいは市井の民であった者たちの、成れの果て。

この異世界においても、死の淀みは同じ姿を生み出すのか。

 

オーンスタインの胸の奥に、ほんの僅かな郷愁と、哀悼の念がよぎった。

 

彼は背中の十字槍をゆっくりと抜き放った。

黄金の穂先が、薄暗い霧の中で冷たく煌めく。

 

今回は、あの夜のように雷を纏わせることはない。

神代の奇跡を振るうまでもない相手だ。

ただ、安らぎを失った骸たちを、土へと還すだけである。

 

一体の死体が、錆びた剣を振り上げてオーンスタインに飛びかかった。

少女が警告の声を上げる暇すらなく。

 

シュッ、と。

風を切る僅かな音だけが響いた。

 

オーンスタインの姿がブレたかと思うと、死体の頭蓋が綺麗に穿たれていた。

十字槍の穂先が、骨の最も脆い結合部を正確に貫いていたのだ。

 

骸は声を発することもなく、ただの泥の塊となって崩れ落ちた。

 

「え……?」

 

少女は呆然と息を呑んだ。

続いて迫る三体の死体に対し、黄金の騎士は舞うように槍を振るった。

 

踏み込みの足音すら、霧に吸い込まれるように静かだ。

重厚な真鍮の鎧を着込んでいるにも関わらず、その動きには一切の淀みがない。

 

右から迫る骸の首を、槍の石突で音もなく叩き折る。

左から飛びかかる骸の胴を、刃の腹で撫でるように両断する。

最後の一体は、振り向く動作の勢いそのままに、十字の鍔で胸骨ごと粉砕した。

 

周囲には無数の古い墓石が立ち並んでいる。

普通に長槍を振り回せば、あっという間に石碑に激突してしまうような閉所だ。

 

だが、オーンスタインの十字槍は、ただの一度も周囲の墓石を傷つけることはなかった。

まるで空間そのものを縫うように。

刃は最短距離で敵の急所のみを捉え、一切の無駄な破壊を生まない。

 

圧倒的な力の解放ではない。

何千、何万という戦場を潜り抜けてきたが故の、極限まで研ぎ澄まされた静かなる武の極致。

 

「すごい……」

 

少女は、杖を構えたまま見惚れていた。

死臭も、這い寄る骸の恐怖も、いつの間にか彼女の心から消え去っていた。

 

暗い洞窟で小鬼の軍勢を吹き飛ばした、あの荒々しい雷の力とは違う。

雨だれのように静かで、それでいて抗うことのできない絶対的な死の舞踏。

そこには、異形の怪物たちを屠る生々しさなどなく、ただただ神聖な儀式のような美しさがあった。

 

オーンスタインは、最後の死体の頭蓋から槍を引き抜いた。

泥一つ付着していない黄金の穂先を、軽く振って払う。

 

静寂が、再び旧墓地を満たした。

彼の周囲には、ただの土と骨に還った残骸が散らばっているだけだ。

傾いた墓標は一つとして倒れることなく、冷たい霧がその間を縫って流れていく。

 

黄金の騎士は、背後で息を詰めている少女を振り返った。

その獅子兜は、いつもと変わらぬ静謐さを保っている。

 

(……終わったぞ)

 

言葉の代わりに、彼は槍を背に納め、ゆっくりと頷いてみせた。

 

 

すべての骸が土へと還り、旧墓地に再び冷たい静寂が降りた。

 

オーンスタインは油断なく周囲の気配を探り、これ以上の動く死体(アンデッド)の反応がないことを確認する。

そして、緊張で固まっていた少女へ向けて、静かに頷いてみせた。

 

「……よかった。終わったん、ですね」

 

少女はほうっと長く息を吐き出し、構えていた短い杖を下ろそうとした。

恐怖に耐え抜いた安堵から、膝の力がふっと抜ける。

 

だが、その時だった。

 

『————シャァァッ!』

 

少女のすぐ真後ろ。

大きな墓石の影の、さらに地下深くから、土を弾き飛ばして「最後の一体」が飛び出してきた。

 

それは他の亡者たちとは違い、生前に身につけていたであろう錆びた鎖帷子を纏っていた。

土中深くに潜んでいたため、オーンスタインの感知からも、少女の視界からも完全に漏れていたのだ。

 

鋭い牙を剥き出しにし、錆びついた短剣が、無防備な少女の背中へと振り下ろされる。

 

距離が近すぎる。

オーンスタインの位置からは、十字槍の長大なリーチが逆に仇となる角度だった。

彼が踏み込み、刃を翻すよりも早く、亡者の短剣が少女の細い肩を裂く。

 

(……間に合わない!)

 

オーンスタインのソウルが、瞬時に最悪の予測を弾き出した。

 

だが。

背後に迫る死臭と殺気に気づいた少女は、悲鳴を上げなかった。

 

(足手まといには、ならない……!)

 

あの暗闇の洞窟で、ただ震えて泣いているだけだった自分は、もういない。

彼女は振り向きざまに、下ろしかけていた杖を両手で強く握り直し、亡者の眼窩へと真っ直ぐに突きつけた。

 

呪文を詠唱する時間はない。

彼女は体内の魔力を乱暴に練り上げ、ただ一つの単純な現象だけを祈った。

 

「《閃光(ライト)》ッ!!」

 

杖の先端から、目眩ましにも等しい強烈な白い光が弾けた。

 

『ギィ、ガァァッ!?』

 

光を持たない土中の暗闇に慣れきっていた亡者は、至近距離からの閃光をまともに浴び、その動きを大きく仰け反らせた。

振り下ろされるはずだった短剣の軌道が、大きく逸れる。

 

少女が稼ぎ出した、ほんの数秒にも満たない僅かな時間。

だが、神代の騎士にとって、その「隙」はあまりにも巨大だった。

 

ゴシャァッ!!

 

凄まじい破壊音が、墓地に響き渡った。

 

オーンスタインは槍の向きを変えることすらしていない。

手首の返しだけで、背後の死角から長大な十字槍を後方へと突き出していた。

 

真鍮の分厚い石突が、仰け反った亡者の胸のど真ん中を正確に打ち抜いている。

錆びた鎖帷子ごと肋骨を粉砕され、背骨をへし折られた亡者は、二度と動くことのないただの塵となって吹き飛んだ。

 

静寂が、三度墓地に舞い戻る。

 

「はぁっ……、はぁっ……!」

 

少女は荒い息を吐きながら、その場にへたり込んだ。

両手はまだ震えており、握りしめた杖がカチャカチャと音を立てている。

 

彼女は、自分がやり遂げたのだと理解した。

ただ守られるだけではなく、黄金の騎士の「死角」を、自分の魔術でほんの少しだけ補うことができたのだ。

 

オーンスタインは静かに振り返り、粉砕された亡者の残骸を一瞥した。

そして、へたり込んでいる少女の前に歩み寄り、片膝をつく。

 

彼は長槍を地面に突き立てると、大きな真鍮の籠手を差し出し、少女の震える手を取った。

ゆっくりと、彼女を立ち上がらせる。

 

獅子兜の奥の瞳が、確かに彼女の勇気を称賛していた。

少女は込み上げてくる涙を必死に堪え、泥だらけになったローブの裾を払いながら、力強く頷き返した。

 

空はいつの間にか、燃えるような夕日に染まっていた。

 

街へと続く帰路。

見渡す限りの平原が、美しい琥珀色に照らされている。

 

二人の歩む道に、言葉はない。

だが、行きに感じていたような張り詰めた緊張感は、とうに消え去っていた。

 

少女は、少し前を歩く黄金の背中を見つめながら、弾むような足取りで歩いていた。

 

依頼は無事に終わった。

自分は恐怖に打ち勝ち、少しだけ彼の役に立つことができた。

その事実が、彼女の心に温かい火を灯していた。

 

街の巨大な防壁が、夕日に照らされて影を伸ばし始めた頃。

不意に、オーンスタインが立ち止まった。

 

「……オーンスタインさん?」

 

少女も足を止め、小首を傾げる。

黄金の騎士はゆっくりと振り返り、夕日を背にして少女を見下ろした。

獅子兜の輪郭が、逆光の中で神々しく輝いている。

 

彼は、己の記憶の中を探っていた。

彼女が懸命に教えてくれた、この世界の音。

紙の上に記された記号の意味。

それを自らの喉で形にするのは、これが初めてのことであった。

 

重厚な兜の奥から、深く、金属の反響を伴った低い声が響いた。

 

「……おまえ」

 

少女は、びくっと肩を揺らした。

耳を疑った。

彼が、この世界の言葉を、直接口にしたのだ。

 

オーンスタインは、慣れない発音に慎重になりながら、ひどく掠れた、たどたどしい言葉を紡ぐ。

 

「……よく、やった」

 

それは、かつての主が、彼ら四騎士の武勲を称える時にかけてくれた言葉と同じ意味。

 

完璧な発音ではない。ひどく不器用な響きだった。

だが、そのたった数文字の響きの中に、どれほどの敬意と、温かな承認が込められているか。

少女には痛いほどに伝わった。

 

「あっ……」

 

堪えきれなくなった感情が、決壊した。

 

あの暗闇の洞窟で感じた、一生消えないと思っていた恐怖。

いつか彼が遠くへ行ってしまうのではないかという、どうしようもない不安。

そのすべてが、琥珀色の光の中で、彼の不器用な言葉によって溶かされていく。

 

「ぁ……うぅ、オーンスタイン、さん……っ」

 

少女は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。

そして、堪えきれずに一歩踏み出し、黄金の騎士の太い腕に、その小さな額を押し当てた。

 

冷たくて硬い、真鍮の鎧の感触。

だが、それは今の彼女にとって、この世界の何よりも温かく、絶対的な安らぎであった。

 

オーンスタインは、泣きじゃくりながら腕にすがりつく少女を、突き放すことはしなかった。

ただ静かに立ち尽くし、夕闇が二人を包み込むまで、その小さな「相棒」の涙を受け止めていた。

 

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