朝の冒険者ギルドは、特有の熱気と喧騒に包まれていた。
新たな依頼を求める者、昨日の武勇伝を語る者。
その騒がしい波の只中で、巨大な黄金の鎧が静かに佇んでいた。
オーンスタインは、壁一面に張り出された羊皮紙の束――依頼掲示板を見上げている。
黒曜等級に昇格した彼にとって、これは自らの意志で選ぶ初めての仕事であった。
無数の見知らぬ文字が、虫の群れのように並んでいる。
だが、今の彼にとって、それはもはや完全な「暗号」ではなかった。
彼は真鍮の籠手で覆われた太い指を伸ばし、数ある依頼書の一枚をゆっくりとなぞる。
(……『討』……そして、『伐』)
少女から幾度も教わり、自らも炭で真っ黒になるまで書き連ねた文字。
不格好な記憶の糸が、目の前の記号と確かに結びついた。
彼は迷うことなく、その羊皮紙を壁から剥がし取った。
「あ……オーンスタインさん。それにするんですか?」
傍らで背伸びをするようにして掲示板を見ていた少女が、彼の手元を覗き込む。
彼女はひらがなや簡単な漢字を拾い読みし、依頼の全容を声に出した。
「『街外れの旧墓地における、動く死体(アンデッド)の討伐』……。報酬は銀貨五枚。黒曜等級向けの、手堅い依頼ですね」
動く死体。
この世界の駆け出し冒険者たちが、小鬼(ゴブリン)や大鼠の次に相対することになる、ありふれた怪物。
龍を屠り、小鬼の軍勢を一人で蹂躙した彼が受けるには、あまりにも地味で、見合わない仕事に思えた。
だが、オーンスタインは小さく頷いた。
金貨の価値すら分からない彼にとって、報酬の額などどうでもいい。
今の自分に必要なのは、この世界の理を肌で感じ、自らの力で生計を立てる「日常」の感覚を取り戻すことであった。
そして何より、彼にとって「動く死体」――すなわち亡者(ホロウ)は、故郷ロードランにおいて最も馴染み深い存在でもあった。
オーンスタインが依頼書を丸め、受付へ向かおうとした時。
少女が、彼の腰元から覗く分厚い鎖帷子の端を、両手できゅっと掴んだ。
「……私も、行きます」
その声は、微かに震えていた。
オーンスタインが振り返ると、少女の顔は青ざめ、唇をきつく噛み締めている。
旧墓地は、防壁の外にある。
街の門をくぐり、魔物たちの領域へと足を踏み入れるということ。
それは彼女にとって、あの凄惨な洞窟の記憶――仲間の断末魔と、暗闇の恐怖を否応なく呼び覚ます行為であった。
膝が小刻みに震えている。
冷たい鋼の編み目を掴む指の関節は、白くなるほどに力が入っていた。
オーンスタインは無言のまま、彼女を見下ろした。
戦士の勘が、彼女の内に渦巻く壮絶なトラウマを感じ取っている。
無理をして従う必要などない。ここで帰りを待っていればいい。
彼はそう伝える術を持たなかったが、静かに腰の鎖を引いて、彼女の拘束を解こうとした。
「だ、だめですっ」
だが、少女は頑なに手を離さなかった。
彼女は大きく深呼吸をし、震える視線を真っ直ぐに黄金の獅子兜へと向ける。
「オーンスタインさんは、言葉がまだ……十分じゃないから。道案内と、もしもの時の通訳が、絶対に必要です」
それは半分が建前であり、半分が彼女の切実なエゴであった。
このまま安全な街の中で、彼が帰ってくるのを待つだけの存在になれば。
いつか必ず、彼が遠い「神話」の地へ旅立つ時、自分は完全に置いていかれてしまう。
隣に立つためには、彼の「導き手」であり続けるためには。
自らの足で、あの暗闇の恐怖を乗り越えなければならないのだ。
「……私、もう足手まといにはなりませんから」
少女の瞳に宿る、弱くも確かな決意の炎。
オーンスタインはかつて、名も無き亡者たちの中に、それと同じ光を見たことがあった。
絶望的な世界で、それでもなお人間性を保とうと足掻く、ちっぽけで尊い魂の輝き。
黄金の騎士は、静かに歩みを止めた。
そして、彼女の小さな頭にぽんと手を乗せると、一度だけ深く頷いた。
(……ならば、背中は任せよう)
言葉は通じなくとも、その掌の温かさと重みが、少女の震えを嘘のように鎮めていく。
「はいっ……!」
少女は涙を乱暴に拭い、オーンスタインの隣に力強く並び立った。
数十分後。
重厚な街の門が開き、二つの影が外の街道へと踏み出した。
黄金の巨漢と、小さな魔術師。
第三章の幕引きを飾る、ひどく静かで、けれど二人の間に確かな絆を結ぶ小さな依頼が、今始まろうとしていた。
街の外壁から少し離れた、小高い丘。
そこには、とうの昔に使われなくなった旧墓地が広がっていた。
傾いた墓標。苔むした石畳。
日の光を遮るように薄暗い霧が立ち込め、土と腐敗の入り混じった冷たい風が吹き抜ける。
「……っ」
少女は、自身の体を抱きしめるようにして歩を進めていた。
鼻を突く死臭が、あの暗い洞窟の記憶をフラッシュバックさせる。
小鬼たちの笑い声。仲間の血の匂い。
恐怖で足が竦みそうになるたび、彼女は前を歩く巨大な黄金の背中を見つめ、必死に自らを奮い立たせた。
(大丈夫……オーンスタインさんが、いる)
その時だった。
二人の足元で、湿った土がボコボコと不気味に盛り上がった。
崩れかけた墓石の陰から、あるいは腐葉土の下から。
泥だらけの白骨や、腐肉をぶら下げた死体が這い出してくる。
この墓地に巣食う『動く死体(アンデッド)』たちだ。
カタカタと顎の骨を鳴らし、生者への憎悪だけで動く骸の群れ。
駆け出しの冒険者であれば、そのおぞましい姿と数に圧倒され、悲鳴を上げて逃げ出すだろう。
少女もまた、反射的に短い杖を構え、震える声で呪文を紡ごうとした。
だが、黄金の騎士は慌てることなく、静かに立ち止まった。
オーンスタインは獅子兜の奥で、群がり来る動く死体たちを見据えている。
彼の目に映ったのは、醜悪な怪物などではなかった。
(……見慣れた姿だ)
腐れ落ちた肉体。正気を失い、ただ生者を求める虚ろな瞳。
それは、かつて彼の故郷ロードランにおいて、数え切れないほど目にしてきた『名も無き亡者(ホロウ)』そのものであった。
かつては誇り高き騎士であり、あるいは市井の民であった者たちの、成れの果て。
この異世界においても、死の淀みは同じ姿を生み出すのか。
オーンスタインの胸の奥に、ほんの僅かな郷愁と、哀悼の念がよぎった。
彼は背中の十字槍をゆっくりと抜き放った。
黄金の穂先が、薄暗い霧の中で冷たく煌めく。
今回は、あの夜のように雷を纏わせることはない。
神代の奇跡を振るうまでもない相手だ。
ただ、安らぎを失った骸たちを、土へと還すだけである。
一体の死体が、錆びた剣を振り上げてオーンスタインに飛びかかった。
少女が警告の声を上げる暇すらなく。
シュッ、と。
風を切る僅かな音だけが響いた。
オーンスタインの姿がブレたかと思うと、死体の頭蓋が綺麗に穿たれていた。
十字槍の穂先が、骨の最も脆い結合部を正確に貫いていたのだ。
骸は声を発することもなく、ただの泥の塊となって崩れ落ちた。
「え……?」
少女は呆然と息を呑んだ。
続いて迫る三体の死体に対し、黄金の騎士は舞うように槍を振るった。
踏み込みの足音すら、霧に吸い込まれるように静かだ。
重厚な真鍮の鎧を着込んでいるにも関わらず、その動きには一切の淀みがない。
右から迫る骸の首を、槍の石突で音もなく叩き折る。
左から飛びかかる骸の胴を、刃の腹で撫でるように両断する。
最後の一体は、振り向く動作の勢いそのままに、十字の鍔で胸骨ごと粉砕した。
周囲には無数の古い墓石が立ち並んでいる。
普通に長槍を振り回せば、あっという間に石碑に激突してしまうような閉所だ。
だが、オーンスタインの十字槍は、ただの一度も周囲の墓石を傷つけることはなかった。
まるで空間そのものを縫うように。
刃は最短距離で敵の急所のみを捉え、一切の無駄な破壊を生まない。
圧倒的な力の解放ではない。
何千、何万という戦場を潜り抜けてきたが故の、極限まで研ぎ澄まされた静かなる武の極致。
「すごい……」
少女は、杖を構えたまま見惚れていた。
死臭も、這い寄る骸の恐怖も、いつの間にか彼女の心から消え去っていた。
暗い洞窟で小鬼の軍勢を吹き飛ばした、あの荒々しい雷の力とは違う。
雨だれのように静かで、それでいて抗うことのできない絶対的な死の舞踏。
そこには、異形の怪物たちを屠る生々しさなどなく、ただただ神聖な儀式のような美しさがあった。
オーンスタインは、最後の死体の頭蓋から槍を引き抜いた。
泥一つ付着していない黄金の穂先を、軽く振って払う。
静寂が、再び旧墓地を満たした。
彼の周囲には、ただの土と骨に還った残骸が散らばっているだけだ。
傾いた墓標は一つとして倒れることなく、冷たい霧がその間を縫って流れていく。
黄金の騎士は、背後で息を詰めている少女を振り返った。
その獅子兜は、いつもと変わらぬ静謐さを保っている。
(……終わったぞ)
言葉の代わりに、彼は槍を背に納め、ゆっくりと頷いてみせた。
すべての骸が土へと還り、旧墓地に再び冷たい静寂が降りた。
オーンスタインは油断なく周囲の気配を探り、これ以上の動く死体(アンデッド)の反応がないことを確認する。
そして、緊張で固まっていた少女へ向けて、静かに頷いてみせた。
「……よかった。終わったん、ですね」
少女はほうっと長く息を吐き出し、構えていた短い杖を下ろそうとした。
恐怖に耐え抜いた安堵から、膝の力がふっと抜ける。
だが、その時だった。
『————シャァァッ!』
少女のすぐ真後ろ。
大きな墓石の影の、さらに地下深くから、土を弾き飛ばして「最後の一体」が飛び出してきた。
それは他の亡者たちとは違い、生前に身につけていたであろう錆びた鎖帷子を纏っていた。
土中深くに潜んでいたため、オーンスタインの感知からも、少女の視界からも完全に漏れていたのだ。
鋭い牙を剥き出しにし、錆びついた短剣が、無防備な少女の背中へと振り下ろされる。
距離が近すぎる。
オーンスタインの位置からは、十字槍の長大なリーチが逆に仇となる角度だった。
彼が踏み込み、刃を翻すよりも早く、亡者の短剣が少女の細い肩を裂く。
(……間に合わない!)
オーンスタインのソウルが、瞬時に最悪の予測を弾き出した。
だが。
背後に迫る死臭と殺気に気づいた少女は、悲鳴を上げなかった。
(足手まといには、ならない……!)
あの暗闇の洞窟で、ただ震えて泣いているだけだった自分は、もういない。
彼女は振り向きざまに、下ろしかけていた杖を両手で強く握り直し、亡者の眼窩へと真っ直ぐに突きつけた。
呪文を詠唱する時間はない。
彼女は体内の魔力を乱暴に練り上げ、ただ一つの単純な現象だけを祈った。
「《閃光(ライト)》ッ!!」
杖の先端から、目眩ましにも等しい強烈な白い光が弾けた。
『ギィ、ガァァッ!?』
光を持たない土中の暗闇に慣れきっていた亡者は、至近距離からの閃光をまともに浴び、その動きを大きく仰け反らせた。
振り下ろされるはずだった短剣の軌道が、大きく逸れる。
少女が稼ぎ出した、ほんの数秒にも満たない僅かな時間。
だが、神代の騎士にとって、その「隙」はあまりにも巨大だった。
ゴシャァッ!!
凄まじい破壊音が、墓地に響き渡った。
オーンスタインは槍の向きを変えることすらしていない。
手首の返しだけで、背後の死角から長大な十字槍を後方へと突き出していた。
真鍮の分厚い石突が、仰け反った亡者の胸のど真ん中を正確に打ち抜いている。
錆びた鎖帷子ごと肋骨を粉砕され、背骨をへし折られた亡者は、二度と動くことのないただの塵となって吹き飛んだ。
静寂が、三度墓地に舞い戻る。
「はぁっ……、はぁっ……!」
少女は荒い息を吐きながら、その場にへたり込んだ。
両手はまだ震えており、握りしめた杖がカチャカチャと音を立てている。
彼女は、自分がやり遂げたのだと理解した。
ただ守られるだけではなく、黄金の騎士の「死角」を、自分の魔術でほんの少しだけ補うことができたのだ。
オーンスタインは静かに振り返り、粉砕された亡者の残骸を一瞥した。
そして、へたり込んでいる少女の前に歩み寄り、片膝をつく。
彼は長槍を地面に突き立てると、大きな真鍮の籠手を差し出し、少女の震える手を取った。
ゆっくりと、彼女を立ち上がらせる。
獅子兜の奥の瞳が、確かに彼女の勇気を称賛していた。
少女は込み上げてくる涙を必死に堪え、泥だらけになったローブの裾を払いながら、力強く頷き返した。
空はいつの間にか、燃えるような夕日に染まっていた。
街へと続く帰路。
見渡す限りの平原が、美しい琥珀色に照らされている。
二人の歩む道に、言葉はない。
だが、行きに感じていたような張り詰めた緊張感は、とうに消え去っていた。
少女は、少し前を歩く黄金の背中を見つめながら、弾むような足取りで歩いていた。
依頼は無事に終わった。
自分は恐怖に打ち勝ち、少しだけ彼の役に立つことができた。
その事実が、彼女の心に温かい火を灯していた。
街の巨大な防壁が、夕日に照らされて影を伸ばし始めた頃。
不意に、オーンスタインが立ち止まった。
「……オーンスタインさん?」
少女も足を止め、小首を傾げる。
黄金の騎士はゆっくりと振り返り、夕日を背にして少女を見下ろした。
獅子兜の輪郭が、逆光の中で神々しく輝いている。
彼は、己の記憶の中を探っていた。
彼女が懸命に教えてくれた、この世界の音。
紙の上に記された記号の意味。
それを自らの喉で形にするのは、これが初めてのことであった。
重厚な兜の奥から、深く、金属の反響を伴った低い声が響いた。
「……おまえ」
少女は、びくっと肩を揺らした。
耳を疑った。
彼が、この世界の言葉を、直接口にしたのだ。
オーンスタインは、慣れない発音に慎重になりながら、ひどく掠れた、たどたどしい言葉を紡ぐ。
「……よく、やった」
それは、かつての主が、彼ら四騎士の武勲を称える時にかけてくれた言葉と同じ意味。
完璧な発音ではない。ひどく不器用な響きだった。
だが、そのたった数文字の響きの中に、どれほどの敬意と、温かな承認が込められているか。
少女には痛いほどに伝わった。
「あっ……」
堪えきれなくなった感情が、決壊した。
あの暗闇の洞窟で感じた、一生消えないと思っていた恐怖。
いつか彼が遠くへ行ってしまうのではないかという、どうしようもない不安。
そのすべてが、琥珀色の光の中で、彼の不器用な言葉によって溶かされていく。
「ぁ……うぅ、オーンスタイン、さん……っ」
少女は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
そして、堪えきれずに一歩踏み出し、黄金の騎士の太い腕に、その小さな額を押し当てた。
冷たくて硬い、真鍮の鎧の感触。
だが、それは今の彼女にとって、この世界の何よりも温かく、絶対的な安らぎであった。
オーンスタインは、泣きじゃくりながら腕にすがりつく少女を、突き放すことはしなかった。
ただ静かに立ち尽くし、夕闇が二人を包み込むまで、その小さな「相棒」の涙を受け止めていた。