第一部:北の岩場と、異端の痕跡
辺境の街の北門を抜け、街道を外れると、景色は徐々に荒涼としたものへと変わっていった。
豊かな緑や穏やかな小川は姿を消し、ひび割れた赤茶色の土が剥き出しになる。
見渡す限りに大小の岩山が連なり、乾燥した風が砂埃を巻き上げていた。
ここが、『大岩蜥蜴(ジャイアント・ロックリザード)』が棲み着いているという北の岩場である。
強い日差しが照りつける中、大小二つの影が、ゴツゴツとした足場を踏み越えて進んでいた。
「ふぅ……っ、はぁ……っ」
少女は、額に滲んだ汗をローブの袖で拭いながら、必死に足を動かしていた。
普段歩き慣れた森の小道や、踏み固められた平原とは勝手が違う。
不安定な浮き石や急な斜面が多く、少し油断すれば足首を捻って滑落しかねない悪路だ。
ただ歩くだけでも、非力な魔術師である彼女の体力を容赦なく削っていく。
だが、彼女の口から弱音や文句が漏れることは、一度もなかった。
少し前を歩く、巨大な黄金の背中。
それを見上げるたび、ギルドで感じたあの切ない焦燥感が、彼女の背筋を伸ばさせるのだ。
(私は、足手まといじゃない。……オーンスタインさんの、隣を歩くんだから)
彼女は短い杖を文字通りの杖代わりにして地面を突き、きゅっと唇を結んで、再び斜面を登り始めた。
一方のオーンスタインは、時折背後を振り返り、少女が転倒していないかを静かに確認する。
彼自身の歩みは、まるで王城の大理石の床を歩いているかのように滑らかであった。
常人ならば一歩動くことすら不可能な重厚な真鍮の鎧を纏いながら、彼の踏み出す足には微かなブレもない。
浮き石を踏み抜くことも、無駄な足音を立てることもない。
荒れた岩場など、神代の戦士にとっては障害にすらならなかった。
不意に、オーンスタインはぴたりと立ち止まった。
乾いた風が、彼の獅子兜の隙間を吹き抜ける。
土埃と、無機質な岩の匂い。
(……この荒涼とした空気は、あの峰に似ている)
彼の脳裏に、かつて主の影を追って辿り着いた『古竜の頂』の情景が、幻灯のように明滅した。
吹き荒れる嵐。
切り立った岩山。
そして、主の背中を探し求めて彷徨った、永く孤独な探求の記憶。
市場で少女の歩幅に合わせ、不器用に果物を選んでいた穏やかな気配は、陽炎のように掻き消えた。
空気が、明確に変わった。
「……オーンスタイン、さん?」
背後で息を切らしていた少女が、思わず足を止める。
振り返った黄金の騎士の兜の奥から、静かで、しかし途方もなく鋭い闘気が立ち昇っていたからだ。
それは、抜身の刃そのものであった。
圧倒的な暴力を内包しながらも、極限まで統制された、戦士の静謐。
彼が遠い神話の空を見上げているような気がして、少女は胸の奥をきゅっと掴まれたように感じた。
オーンスタインは少女の呼びかけに無言で頷くと、視線を傍らの巨大な岩壁へと向けた。
彼はゆっくりと歩み寄り、真鍮の籠手でその表面に触れる。
そこに、あったのだ。
赤茶色の岩肌に、ひどく不釣り合いな「異物」が。
「あれ、なんでしょうか……? 宝石、みたいですけど」
少女も追いつき、彼が見つめる先を覗き込んだ。
岩肌の隙間に、半透明の青白い結晶がこびりついている。
太陽の光を反射してキラキラと輝くそれは、一見すると美しい鉱物のようであった。
だが、少女は魔術師としての本能で、ブルッと肩を震わせた。
(……冷たい。なんだか、すごく気持ち悪い魔力が……)
この世界の精霊やマナが持つ、自然で温かい魔力ではない。
もっと無機質で、冷酷で、ひたすらに貪欲な、底知れぬ狂気を含んだ淀み。
触れてはいけないものだと、魂が警鐘を鳴らしていた。
オーンスタインの瞳が、僅かに細められた。
(……白竜の、結晶)
忘れるはずもない。
かつて不朽の古竜を裏切り、神の陣営に与した異端の白竜、シース。
彼が狂気の果てに生み出した、呪わしい結晶の魔術。
その残滓と全く同じ冷たさが、目の前の青白い結晶から放たれていたのだ。
なぜ、この異世界に、ロードランの狂気が存在しているのか。
依頼書にあった『岩の鱗を持つ巨大な蜥蜴』という記述。
この世界の冒険者たちは、それをただの硬い魔物だと勘違いしているのだろう。
だが、オーンスタインのソウルは、明確な真実を告げていた。
この先に巣食っているのは、この世界の生物ではない。
故郷の狂気を喰らい、貪欲に太った、異端の落とし子。
鋼など容易く弾き返す、極めて厄介な結晶の獣だ。
オーンスタインは背に負った十字槍の柄を、静かに握り直した。
「————っ!」
その瞬間。
岩場のさらに奥深くから、空気を震わせるような甲高い咆哮が響き渡った。
岩が砕け、重い何かが地響きを立てて転がる音。
そして、人間の切羽詰まった悲鳴と、金属がへし折れる破砕音。
「冒険者の、声……! もう誰か、戦っているみたいです!」
少女の言葉に、オーンスタインは神速の踏み込みで地を蹴った。
その手には既に、神代の十字槍が握られている。
岩を穿ち、鱗を砕く、黄金の狩りが始まろうとしていた。
第二部:弾かれる鋼、貪欲なる結晶
岩場の奥、すり鉢状になった広大な窪地。
二人が駆けつけた時、そこは既に凄惨な死地と化していた。
「くそっ! 効かねえ、硬すぎるぞ!」
怒号を上げたのは、全身を鋼の鎧で固めた重戦士だった。
中堅の実力を持つ『鋼等級』の冒険者パーティ。
彼らは今、絶望的な窮地に立たされていた。
彼らを蹂躙しているのは、ギルドの依頼書にあった『大岩蜥蜴』などではない。
全長は馬車ほどもあり、その背と四肢を、鋭く無機質な「青白い結晶」でびっしりと覆われた異形の巨獣。
ロードランの地で狂気を喰らい肥え太った、貪欲なる大結晶トカゲであった。
「おらぁぁぁっ!」
重戦士が渾身の力で、長年使い込んだ大剣を振り下ろす。
幾多の魔物を両断してきた、鋼の刃。
狙うは魔物の頭部。
だが。
キィィィンッ!!
耳を劈くような甲高い破砕音が、岩場に響き渡った。
斬れたのではない。弾かれたのだ。
この世界で鍛え上げられた上質な鋼の刃が、結晶の鱗に触れた瞬間、まるで飴細工のように無惨に砕け散ったのである。
「なっ……!?」
重戦士は両腕の痺れに顔を歪め、へし折れた剣の柄を握りしめたまま呆然と立ち尽くした。
「下がって! 《爆炎(バースト・フレア)》!」
後衛の魔術師が、杖を振り上げ巨大な炎の球を放つ。
轟音と共に、熱い炎が大結晶トカゲを包み込んだ。
だが、黒煙が晴れた後に現れたのは、焦げ跡一つ、煤一つ付いていない無傷の結晶鱗だった。
魔術の熱量すら、冷たく澄んだ狂気の結晶には一切干渉できていない。
「嘘だろ……。俺たちの攻撃が、傷一つ付けられないなんて……!」
冒険者たちの顔に、明確な『死』の恐怖が浮かんだ。
そんな彼らの絶望を嘲笑うかのように、大結晶トカゲは不気味な甲高い鳴き声を上げた。
そして、その巨体を丸め——。
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!
「な、に……!?」
あり得ない挙動だった。
馬車ほどの巨大な質量が、そのまま巨大な結晶の車輪と化して、猛スピードで突進してきたのだ。
生物としての常識を完全に無視した、理平尽極まりないローリング攻撃。
「ぐあぁっ!?」
「きゃああっ!」
陣形など、あって無いようなものだった。
盾を構えた前衛ごと、冒険者たちは容易く弾き飛ばされた。
岩壁に叩きつけられ、血を吐いて崩れ落ちる戦士たち。
結晶トカゲは回転を止めると、さらにダメ押しとばかりに、その口から青白い魔力の塵(ブレス)を吐き出した。
周囲の赤茶けた岩が、結晶のブレスに触れた端からパキパキと音を立てて凍るように結晶化していく。
「あ、ああ……」
地面に倒れ伏した冒険者のリーダーは、迫り来る巨大な結晶の顎を見上げ、覚悟を決めて目を閉じた。
ただの岩蜥蜴だと思っていた。
だが、これは違う。こんな化け物、黒曜等級の熟練者でなければ手も足も出ない。
俺たちはここで、あの冷たい結晶の餌食になるのだと。
だが。
いつまで経っても、致命の一撃は振り下ろされなかった。
代わりに、彼の耳に届いたのは——。
ガシャァンッ。
重厚で、恐ろしく静かな、金属の足音だった。
目を開けた彼の視界に映ったのは、絶望の象徴である大結晶トカゲの前に立ちはだかる、巨大な背中。
陽光を反射して輝く、黄金の獅子甲冑。
「……金獅子、の……?」
絞り出すようなリーダーの呟き。
神代の騎士が、今、圧倒的な狂気の前に静かに歩み出ていた。
第三部:竜狩りの一閃、神代の欠片
「ば、馬鹿野郎、逃げろ!」
地面に倒れ伏した鋼等級のリーダーが、血を吐きながら叫んだ。
黄金の甲冑の威容に一瞬目を奪われたものの、相手は物理攻撃を一切受け付けない狂気の結晶獣だ。
いかに高位の冒険者であろうと、あんな巨大な的(マト)になってはひとたまりもない。
「そいつの鱗は鋼じゃ絶対に貫けねえ! 潰されるぞ!!」
だが、黄金の騎士はその警告に耳を貸さなかった。
オーンスタインは静かに、身の丈を越える『竜狩りの十字槍』を構えた。
その切先を、凶悪な結晶の顎を鳴らす大結晶トカゲへと向ける。
トカゲは新たな獲物を前に、再びその巨体を丸め込んだ。
先ほど重戦士たちを容易く粉砕した、理不尽なまでのローリング突進。
地響きを立て、青白い死の車輪がオーンスタインへと迫る。
冒険者たちが、絶望に目を覆った。
あの巨体がぶつかれば、いかに分厚い鎧を着込んでいようが、中身ごとミンチにされる。
だが、オーンスタインの心に波立ちは一切なかった。
(……硬い、か)
兜の奥で、黄金の瞳が静かに細められる。
確かに、あの白竜の魔力を含んだ結晶は、この世界の鋼では傷一つ付けられないだろう。
だが、彼にとってはどうという事はない。
かつて彼が槍を交えた『不朽の古竜』たちは、あんな脆い結晶など比較にならないほどの、絶対的な岩のウロコを持っていた。
それを貫き、空から叩き落としてきたのが、彼ら四騎士なのだ。
地の底を這いずり、狂気を喰らって太っただけの偽りの竜。
雷(ソウル)を纏うまでもない。
オーンスタインは、迫り来る巨大な結晶の車輪から目を逸らさず、ただ静かに右足を踏み込んだ。
ドンッ!!
巨体と重装備からは信じられないほどの、神速の踏み込み。
大地が爆発したかのように岩盤が砕け散る。
突進の勢いを利用するカウンターなどではない。
自らも前へ踏み込み、正面から、ただ純粋な『武』の力だけで槍を突き出した。
「————」
直後、岩場に響いたのは、金属が弾かれる甲高い音ではなかった。
水を含んだ分厚い紙の束に、鋭利な針を突き立てたような、ひどく滑らかな貫通音。
「……え?」
リーダーの冒険者が、信じられないものを見るように目を見開いた。
大結晶トカゲの突進は、ピタリと止まっていた。
黄金の騎士が放った十字槍の切先が、あの絶対の防御を誇った結晶の鱗を、まるで存在しないかのように易々と貫通していたのだ。
槍はトカゲの眉間から深々と突き刺さり、十字の鍔(つば)の部分で止まっている。
「ギ、ギィィィ……ッ!?」
トカゲが苦悶の声を上げたのは、その一瞬だけだった。
神代の槍がもたらした尋常ではない運動エネルギーは、鱗を貫通した直後、トカゲの体内へと浸透。
内部から、青白い結晶と肉体を完全に粉砕した。
パァァンッ!!
弾けるような音と共に、大結晶トカゲの巨体が光の粒子(ソウル)となって霧散していく。
「……嘘、だろ……」
後に残されたのは、ただ静かに槍を振り下ろす黄金の獅子と、あまりの出来事に言葉を失う冒険者たちだけだった。
「一撃……あんな化け物を、正面から……」
彼らの常識は、たった一度の刺突によって完全に破壊されていた。
あの槍は何だ。あの騎士は何者だ。
畏怖と混乱が入り交じる中、オーンスタインは彼らには目もくれず、トカゲが消滅した場所へと歩み寄った。
小鬼(ゴブリン)よりは幾分かマシなソウルが、彼の摩耗した肉体に吸い込まれていく。
だが、彼が注目したのはそれではなかった。
岩場の上に、一つの鉱石が落ちていた。
オーンスタインは真鍮の籠手で、それを静かに拾い上げる。
手のひらに収まるほどの、夜空を切り取ったかのように美しく、微かに明滅する石。
『光る楔石(ひかるくさびいし)』。
故郷ロードランにおいて、特殊な武具を鍛え上げるために用いられた貴重な鉱石。
白竜の結晶獣がこれを落としたということは、やはりあの大結晶トカゲは、次元の歪みを越えてこの世界に迷い込んだ存在に他ならない。
(……この世界は、遠い故郷と繋がっているのか)
オーンスタインが光る楔石を静かに見つめていると、背後からパタパタと軽い足音が駆け寄ってきた。
「オーンスタインさん! お怪我はないですか!?」
少女である。
彼女はオーンスタインの巨体を見上げ、安堵の息を吐いた後、へたり込んでいる冒険者たちの方へくるりと振り返った。
「ふふん! 見ましたか! これがオーンスタインさんの力です!」
えっへん、と胸を張る小柄な魔術師。
自分の手柄でもないのに、誰よりも誇らしげなその姿に、冒険者たちはぽかんと口を開けたまま、ただ何度も頷くことしかできなかった。
オーンスタインは、そんな少女の頭にそっと手を置き、手の中の『光る楔石』を彼女のローブのポケットに押し込んだ。
「へ? これ……なんですか? すっごく綺麗……」
「……」
オーンスタインは無言のまま、帰るぞ、とでも言うように北の岩場に背を向けた。
神話の欠片を手にした二人の冒険は、まだ始まったばかりである。