第一部:馬車と並走する影
澄み切った青空が広がる、辺境の街の朝。
正門を抜けた街道沿いには、東の大陸や南の都市へ向かうための『乗合馬車』や『貸切馬車』が数多く待機していた。
少女は革袋で運賃を支払い、南の中継地点『水の都』へ向かうための貸切馬車を一台手配した。
「さあ、オーンスタインさん! これに乗れば、あとは座っているだけで水の都に着きますよ!」
長旅のワクワク感からか、少女は馬車の木製ステップを軽やかに上り、満面の笑みで手招きした。
オーンスタインは小さく頷き、彼女に続いて馬車に乗り込もうと、ステップに足をかけた。
その、瞬間だった。
ミシッ……メキメキメキッ!!!
「ヒヒィィィンッ!?」
嫌な破砕音と共に車体が大きく右に傾き、繋がれていた二頭の馬が、後方の尋常ではない重さに恐怖して悲鳴を上げたのだ。
「うわあっ!? ちょ、ちょっと待て旦那! 馬車が壊れる!」
御者台に座っていた中年の男が、慌ててオーンスタインを制止する。
無理もない。
常人なら一歩も動けないほどの分厚い真鍮の重鎧。さらに身の丈を越える巨大な十字槍。
総重量など到底計算できるはずもなく、オーンスタインが乗り込めば、馬車の車軸が完全にへし折れるのは明白だった。
結局。
「……ごめんなさい、オーンスタインさん。私と荷物だけ、乗せてもらうことになっちゃって……」
馬車の窓から顔を出し、少女が申し訳なさそうに眉を下げる。
オーンスタインは気にした様子もなく、馬車のすぐ横に立ち、無言で首を振った。
『俺は歩くから、気にするな』というように。
「いやいや嬢ちゃん、気にするなって言われてもな……。本当にこのデカい旦那、歩きでついてこれるのか? 馬車は結構なスピード出すぞ?」
御者が半信半疑で馬に鞭を入れる。
車輪が回り出し、馬車は徐々に速度を上げ、やがて平原の街道を滑るように走り始めた。
だが、御者の心配は完全に杞憂に終わった。
ガシャァン……ガシャァン……。
馬車がどれだけ速度を上げても、黄金の騎士は窓のすぐ外を、まるで地面を滑るような神速の歩法でピタリと並走していたのだ。
息一つ乱すことなく。大股で歩いているだけに見えるのに、走る馬車の速度と完全に同調している。
「……嘘だろ。馬より速く歩く鎧なんて、聞いたことねえぞ……」
御者はドン引きした顔で、何度も後ろを振り返った。
それから半日ほどが過ぎた。
街道の風景は、荒涼とした岩場から、徐々に緑豊かな平原へと移り変わっていく。
馬車の中の少女は、窓枠から身を乗り出し、ずっとオーンスタインに話しかけたり、水筒を差し出したりと甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
「オーンスタインさん、喉渇いてませんか?」
「……」
「あっ、あの山、すごく綺麗ですよ! ロード……故郷にも、あんな山はありましたか?」
彼が言葉を返せなくても、少女はずっと楽しそうに笑いかけている。
その様子を御者台からチラチラと見ていた男は、オーンスタインが敵意のない大人しい(?)存在だと分かると、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべた。
「なあ、嬢ちゃん」
御者が、馬車の中に声をかける。
「そのデカい旦那、言葉があんまり通じない異国の騎士なんだろ? 嬢ちゃんが財布の紐まで握って、甲斐甲斐しく世話焼いてるが……」
嫌な予感がして、少女の肩がピクリと跳ねる。
「もしかして、駆け落ちしてきた『新婚夫婦』かい? 旦那さんって呼ぶには、ちょっと嬢ちゃんにはデカすぎる気もするがな!」
「ふ、ふ、ふぅふぅぅっ!?」
からかいの言葉に、少女の顔が一瞬で茹でダコのように真っ赤に染まった。
慌てて窓枠から身を引き、両手をぶんぶんと振り回す。
「ち、ちがっ! 違います! 夫婦とか、そういうんじゃなくて! 私はオーンスタインさんの相棒というか、お財布係というか! とにかく、そんな、あのっ!」
パニックに陥り、早口でまくし立てる少女。
その異常な慌てふぶりに、窓の外を並走していたオーンスタインが、不思議そうに兜の奥の瞳を向けた。
(……フウフ?)
この世界の言葉を少しずつ学習している彼だが、流石にその単語は知らない。
オーンスタインは歩みを止めることなく、窓の中の少女を見つめ、少しだけ小首を傾げた。
「……フゥ、フ?」
ひどく掠れた、不器用な発音。
意味も分からず、ただ聞こえた音をオウム返ししただけだ。
「わあぁぁぁぁっ! 今のは覚えなくていいです! 絶対に忘れてください!」
少女は顔から火が出そうなほど真っ赤になりながら、両手で自分の顔を覆い隠して座席にうずくまってしまった。
「がはははっ! こりゃあいい。言葉が分からなくても、愛は伝わってるみたいじゃねえか!」
「もう! 御者さん、からかわないでくださいーっ!」
街道に、御者の豪快な笑い声と、少女の情けない抗議の声が響き渡る。
黄金の獅子は、やはり言葉の意味が分からず、ただ静かに青空の下を並走し続けていた。
第二部:星空の野営と、新しい言葉
陽が完全に落ち、夜の帳が街道を包み込む頃。
一行は街道沿いの開けた平原に馬車を停め、野営の準備を始めていた。
「ふぁぁ……俺はもう寝るぜ。見張りは……まあ、旦那がいりゃあ必要ねえだろうがな」
御者の男は、馬車の荷台で毛布に包まると、早々に高い鼾(いびき)をかき始めた。
それもそのはずである。
焚き火から少し離れた暗がりに、見上げるような黄金の巨人が静かに立っているのだ。
彼が兜の奥から鋭い視線を周囲に配り、微かに闘気を漂わせているだけで、街道筋に潜む魔物や野盗はおろか、羽虫すら恐れをなして一切寄り付かない。
これほど安全で、かつ威圧感のある野営は、ベテランの御者にとっても初めての経験だった。
パチパチと、焚き火の爆ぜる音が夜の静寂に響く。
「オーンスタインさん」
火の番をしていた少女が、立ち尽くす黄金の騎士を振り返った。
「そんなに離れていないで、こっちに来ませんか? 火のそば、暖かいですよ」
彼女が隣の丸太をポンポンと叩くと、オーンスタインは静かに歩み寄り、ガシャァン、と重厚な音を立てて腰を下ろした。
揺らめく炎が、真鍮の甲冑を赤く照らし出す。
昼間の「からかい」を思い出して少しだけ頬を染めつつも、少女はえっへん、と小さく胸を張った。
「さて! 久しぶりの『言葉の授業』を始めましょうか!」
彼女は手頃な枯れ枝を拾い上げると、焚き火に照らされた地面の土をキャンバスにして、キュッキュッと文字を書き始めた。
「私たちが次に向かっている場所。これが……『水(みず)』です」
流れるような三本の線を引く。
「そして、これが……『都(みやこ)』」
オーンスタインは、地面に書かれた文字と少女の顔を交互に見つめ、兜の奥で静かに瞬きをした。
かつて神代の時代、彼もまた主の書物や古い碑文を読んできた。
だが、この異世界の言語体系は全く異なる。彼は今、真っ白な子供のように、少女から世界を教わっているのだ。
「……ミ、ズ。……ミヤ、コ」
長きに渡り使われていなかった彼の声帯から、ひどく掠れた、低く重い声が漏れた。
ゆっくりと、確かめるように音を反芻する。
「はい! すごいです、オーンスタインさん。バッチリですよ!」
少女は花が咲いたように笑うと、続いて、その二つの単語の隣に、もう一つの文字を書き足した。
「じゃあ、最後はこれです。『旅(たび)』」
旅。
その言葉を聞いて、オーンスタインの黄金の瞳が僅かに揺れた。
「オーンスタインさんが、王様を探すために歩いてきた道のことです。そして……」
少女は、少しだけ照れくさそうに、けれど真っ直ぐに彼を見上げた。
「これからは、私がオーンスタインさんと一緒に歩く道のこと、ですね」
焚き火の熱のせいだけではない。
彼女の琥珀色の瞳には、もう「置いていかれるかもしれない」という焦燥はなかった。
隣に座る神代の騎士が、自分の歩幅に合わせて、共にこの世界を歩んでくれることを知ったからだ。
オーンスタインは、地面に書かれた『旅』という文字をじっと見つめ続けた。
かつてアノール・ロンドを捨て、主を追って古竜の頂を彷徨い、そしてこの見知らぬ四方世界へと迷い込んだ孤独な道程。
それは果てしなく暗く、ただ魂を摩耗させるだけの孤独な『探索』だった。
だが今、彼の傍らには、小さな火を囲み、無邪気に笑いかけてくれる存在がいる。
孤独な探索は、いつしか、誰かと肩を並べて歩く『旅』へと変わっていた。
「……タ、ビ」
オーンスタインが、ひときわ深く、その言葉を口にする。
そして、彼は大きな真鍮の籠手をそっと伸ばし、少女の頭を不器用にぽん、と撫でた。
「えへへ……。私、オーンスタインさんの先生ですからね。もっといっぱい、言葉を教えますから」
少女は嬉しそうに目を細め、彼の手のひらに自分の小さな手を重ねた。
「でも……」
不意に、少女は何かを思い出したように顔を真っ赤にし、ぷいっとそっぽを向いた。
「昼間の、変な言葉はもう忘れちゃっていいですからね! 『フウフ』とか、そういうの!」
オーンスタインは不思議そうに小首を傾げたが、少女が照れ隠しに焚き火をつつく姿を見て、兜の奥で僅かに目を細めた。
それは、彼なりの静かな微笑みだった。
満天の星空の下、二人の夜は穏やかに更けていく。
第三部:湿る風、巨大な運河の街
それから数日。
馬車が東へ進むにつれ、街道の景色は劇的な変化を見せていた。
青々と茂る草原は徐々に湿地帯へと変わり、街道の傍らには無数の小川や運河が、まるで網目のように張り巡らされている。
風は湿り気を帯び、微かに川魚や水草の匂いを運んでくる。辺境の乾いた岩場とは完全に異なる、水郷の景色であった。
黄金の騎士オーンスタインは、相変わらず馬車の横を、滑らかで静謐な歩法でピタリと並走し続けている。
その足取りは、故郷ロードランにある「白竜シース」の結晶の書庫や、雨の降りしきる「小ロンド」を歩いた時の感覚を、彼に微かに思い出させていた。
不意に、街道の前方の茂みが、ガサリと不自然に揺れた。
「ヒッヒッヒ……。お頭、来たぜ。カモだ」
街道脇の湿地に隠れた野盗の群れ。
その一人が、近づいてくる一台の貸切馬車を見つけ、下俗な笑みを浮かべた。
「貸切馬車か。上出来じゃねえか。御者と……ガキ、それに女がいるな」
お頭と呼ばれた、顔に古い傷のある男が、馬車の窓から見える少女の姿を見て、ニヤリと唇を舐めた。
「いつもの仕事だ。御者は殺せ。ガキは売れ。女は上玉だ、俺のもんだ。金目のものは全部奪え。……へへっ、最近はカモが少なくて退屈してたんだ。たっぷり楽しませてもらおうじゃねえか」
野盗たちは、自分たちがこの街道の『支配者』であると疑っていなかった。
これまで何度も、同じように馬車を襲い、金と命を奪ってきた。
彼らにとって、これから起きることは「いつもの仕事(ルーチンワーク)」に過ぎない。
楽観と欲深さに満ちた野盗たちが、一斉に街道へと飛び出した。
「止まれッ! 荷物を置け! さもなきゃ、命はねえぞッ!!」
野盗のリーダーが、錆びた大剣を御者台に向けて吠える。
彼らの背後からは、十人近い男たちが、棍棒やナイフを手に、汚らしい声を上げて馬車を取り囲んだ。
「ひいぃぃっ! 野盗だああっ!」
御者の男は、慌てて馬車を停め、御者台から転げ落ちるように地面に這いつくばった。
馬車の窓から覗いた少女の顔も、恐怖に青ざめる。
「へへっ、嬢ちゃん。大人しくしてれば、悪いようには……」
リーダーの男が、少女の顔を覗き込もうと、馬車のドアに手をかけた、その瞬間。
馬車の影から。
陽光を反射して輝く、巨大な黄金の鎧が、静かに野盗たちの前に進み出た。
「……あ?」
リーダーの男の言葉が、喉の奥で凍りついた。
見上げるような、巨軀。
黄金の獅子を模した、威圧的な兜。
そして、その背には、身の丈を越える巨大な十字槍が背負われている。
「な……何だ、あれは……?」
野盗たちの欲深さに満ちた顔が、一瞬で絶望と恐怖に染まった。
彼らがこれまで見てきた、どんな魔物や、どんな熟練の騎士とも異なる。
全身から立ち昇る、圧倒的な、神話的なまでの『強者』の気配。
それは、彼らの常識の物差しでは測れない、異次元の存在だった。
「いつもの仕事」などという楽観は、その黄金の獅子を見上げた瞬間に、砂の城のように崩れ去った。
オーンスタインは、ただ無言で野盗たちを見下ろした。
獅子兜の奥から、静かで、しかし途方もなく重い殺意が、周囲の空気を歪ませる。
彼がソウル(熱量)を僅かに放っただけで、周囲の湿地の空気がパチパチと音を立てて爆ぜ、黄金の雷の残滓が火花を散らす。
槍を構えるまでもない。
ただ見下ろすだけで十分だった。
「……ッ!」
リーダーの男は、恐怖のあまり悲鳴を上げることすらできず、錆びた大剣を地面に落とした。
その膝はガクガクと震え、次の瞬間には、腰を抜かして泥の中にへたり込んだ。
「ば……化け物だああっ!!」
「助けてくれ、俺が悪かったああっ!」
他の野盗たちも、棍棒やナイフを放り出し、蜘蛛の子を散らすように街道の奥へと逃げ惑った。
中には、恐怖のあまり泡を吹いて気絶する者や、腰を抜かして動けなくなり、その場で失禁する者までいた。
黄金の獅子は、逃げ惑う彼らに追撃を加えることなく、ただ静かに十字槍を背負い直した。
「……オーンスタインさん。また、気配だけで……」
馬車の窓から少女が顔を出し、安心したように、けれど少し呆れたように溜息を吐いた。
彼女にとっては、これもまた「いつもの旅の景色」になりつつあった。
「がはははっ! さすが旦那だ! 槍を抜く暇さえ与えねえなんてな!」
這いつくばっていた御者も、慌てて立ち上がり、黄金の騎士の威容に感謝の言葉を述べた。
馬車は、腰を抜かしている野盗のリーダー(既に動く気力もない)を置いて、再び水の都へ向かって走り出した。
それから数時間。
街道の前方に、巨大な防壁と、無数の水路に囲まれた大都市『水の都』の偉容が見えてきた。
運河を往来するゴンドラや、巨大な石造りの建物、そして街を護るようにそびえ立つ防壁。
湿った風が、新たな出会いと、新たな物語の気配を運んでくる。
凸凹な二人の旅は、辺境を離れ、ついにこの巨大な水郷の大都市へと到着しようとしていた。