水の街の地下深くに広がる、神代の遺跡。
オーンスタインの神雷によって小鬼(ゴブリン)の群れが消し炭となった水路を抜け、一行はさらに奥へと歩を進めていた。
水路の終端。
そこは、水が完全に干上がり、むき出しの冷たい石畳が広がる広大な空間だった。
位置関係から察するに、おそらく至高神の神殿の真下、この巨大な遺跡の『中心部』にあたる場所だ。
「……ここが行き止まりか。いや」
先頭を歩いていたゴブリンスレイヤーが、松明を高く掲げた。
暗闇が退き、照らし出された部屋の奥。
そこには、神殿の祭壇にも似た古びた石造りの台座と、その上に鎮座する不気味な巨大な『鏡』があった。
「あの鏡……! 魔力が渦巻いておるぞ」
鉱人道士(ドワーフ)が警戒するように杖を構える。
だが、鏡の表面は黒く濁り、何も映していない。
時折、波紋のように表面がぐにゃりと歪み、微かな瘴気を吐き出しているだけだ。
「……原因はこれか」
ゴブリンスレイヤーは、鉄兜の奥で低く呟いた。
水の街の地下という、外部から侵入しにくい閉鎖空間に、なぜこれほど大量の小鬼が巣食っていたのか。
「転移の鏡だ。街の外にいる小鬼どもは、あの鏡を通じてここへ送り込まれていたらしい」
「転移ですって? そんな高度な古代の遺物を、小鬼が自力で扱えるわけないわ」
妖精弓手(ハイエルフ)が、忌々しそうに弓を下ろす。
「ああ。裏で糸を引いている者がいる。……だが、あの鏡を壊せば、この街への小鬼の供給は絶てる」
極めて合理的な結論。
小鬼殺しが鏡を破壊する算段を立てている横で、ドワーフとお財布係の少女は、別のものに目を奪われていた。
「ドワーフの親方さん、見てください。鏡の隣に、大きな石の炉みたいなものがあります」
少女が指差したのは、冷え切った巨大な石の器だった。
「おおっ!? これは……!」
ドワーフは転移の鏡そっちのけで、その石の炉に駆け寄った。
分厚い手で炉の縁を撫で、残された灰の臭いを嗅ぐ。
「間違いない……。嬢ちゃん、そして金獅子の旦那! ここはかつて、神代の『種火』がくべられていた祭壇じゃ! とてつもない高熱で石が変質した痕跡がある!」
その言葉に、背後で周囲を警戒していたオーンスタインの肩が僅かに反応した。
やはり、この遺跡には彼の故郷(ロードラン)の祭祀場に通じる『火』の残滓が存在していたのだ。
だが。
「……火そのものは、とうの昔に失われておるようじゃがな。あるいは、誰かが持ち去ったか」
ドワーフが残念そうに溜息を吐いた。
手がかりはあったが、目的の『火』はない。
少女がしょんぼりと肩を落とそうとした、その時だった。
「――」
オーンスタインが、無言のまま少女の襟首を掴み、ヒョイッと自分の背後へ引き寄せた。
「えっ? オ、オーンスタインさん?」
彼らのやり取りを静観していたゴブリンスレイヤーも、ピタリと動きを止めた。
「……何か来るぞ」
ゴブリンスレイヤーが小盾を構える。
遺跡の中心部に、急速に『異変』が広がり始めていたのだ。
小鬼の足音ではない。
気配も、息遣いもない。
ただ、部屋の無数の通路から、空気がねっとりと重くなるような、極めて異質な威圧感が這い寄ってくる。
「……な、何よこれ。息が、詰まりそう……ッ」
妖精弓手が、自らの首元を押さえて後退る。
エルフの鋭敏な感覚が、過剰なまでの生存本能のアラームを鳴らしていた。
遺跡の壁や天井が、不自然に赤黒く変色しているように見える。
そして漂ってくるのは、甘ったるい、死肉が腐ったような酷い悪臭。
「ふしゅるるる……。なんという、穢れた気配。小鬼どもの悪臭とは比べ物にならん」
蜥蜴僧侶(リザードマン)が、嫌悪感に牙を剥き出しにした。
四方世界の住人である彼らには、その臭いの正体が分からない。
だが、オーンスタインだけは、痛いほどによく知っていた。
(……この臭い。まさか)
黄金の兜の奥で、彼の目が鋭く細められる。
それは、彼の故郷であるロードランの最底辺。
光の届かない病み村の奥底や、大樹のうつろに巣食う、極めて不快で致命的な異形たちの残り香。
――『深淵』に近い、呪いの臭い。
オーンスタインは、背負っていた十字槍をゆっくりと右手に持ち替えた。
そこに、いつも纏わせている神聖な雷光はない。
代わりに放たれたのは、一帯の温度が数度下がったかと錯覚するほどの、冷たく、純度の高い『殺気』。
ただの小鬼退治から、一転。
彼が長らく離れていた『害虫駆除(深淵の掃除)』の時間が、ひっそりと幕を開けようとしていた。
「ギィッ! ギャハハハハッ!!」
不気味な沈黙を破り、部屋の奥に鎮座する『転移の鏡』の表面が水面のように揺れた。
そこから、下劣な笑い声と共に数匹の小鬼が姿を現す。
彼らは新たな獲物を求めて、この水の街の地下へと送り込まれてきたのだろう。
だが、その邪悪な笑みは、次の瞬間に『理解不能な恐怖』へと変わることになる。
ベチャッ。
湿った、ひどく不快な音が響いた。
「……ギ?」
小鬼の一匹が頭上を見上げた瞬間。
遺跡の天井に張り付いていた『何か』が、その小鬼の顔面へと落下してきたのだ。
「ギャァァァァァッ!?」
小鬼が顔を抑えて悲鳴を上げる。
その悲鳴を聞いて、ゴブリンスレイヤーたちが松明の明かりを向けた先。
そこにいたのは、四方世界のどんな魔物辞典にも載っていない、おぞましい異形だった。
「な、なんじゃあれは……!?」
鉱人道士が思わず後ずさる。
それは、四足で這い回る巨大なカエルのような、あるいはトカゲのような醜悪な姿をしていた。
何よりも異様なのは、頭部の大半を占める『巨大すぎる二つの眼球』である。
今にも破裂しそうなほどに膨れ上がった黄色い偽眼が、ギョロギョロと無作為に動いている。
(……いや。あの巨大な目は飾りだ)
ゴブリンスレイヤーは、極めて冷静にその異形の構造を観察していた。
巨大な偽眼の下、顎の付け根あたりにある小さな黒い点。それこそが、この化け物の『本当の目』だ。
「……ッ、上だ! まだ来るぞ!!」
蜥蜴僧侶が上空を見上げ、叫んだ。
その警告と同時に、遺跡の暗がりから、ボトボトと雨のように『それら』が降ってくる。
一匹や二匹ではない。数十、いや、数百に近い群れだ。
彼らは喉の奥にある巨大な袋を、カエルのようにグゥゥゥッと膨らませた。
「シィィィィィィィッ……!!」
異形たちが一斉に、その口から『灰色がかった煙』を吐き出した。
「ギ、ギギッ……!?」
煙をまともに浴びた小鬼たちが、喉を掻きむしるようにして倒れ込む。
だが、それはただの毒ガスではなかった。
「な……嘘、でしょ……?」
妖精弓手が、青ざめた顔で弓を落としそうになる。
煙に包まれた小鬼たちの肉体が、足元から急速に『変色』し始めていたのだ。
生きた皮膚が、硬く冷たい無機物へと変わっていく。
数秒と経たないうちに、苦悶の表情を浮かべていた小鬼たちは全員、赤黒い結晶が混じった『石像』へと成り果てていた。
そして、完全に石化した小鬼の石像は、そのまま自重に耐えきれずに崩れ落ち、無惨な破片となって床に散らばった。
「石化……いや、即死の呪い(カース)か!?」
ドワーフが悲鳴のような声を上げた。
四方世界にも石化の魔法や魔眼を持つ化け物はいる。
だが、これほど広範囲に、これほど一瞬で対象を死に至らしめる『死の霧』など、聞いたこともない。
「下がるな! 息を止めても無駄だ、あの霧に少しでも触れるなッ!!」
ゴブリンスレイヤーが、かつてないほど切羽詰まった声で叫んだ。
皮膚に触れただけで呪殺される。防御力も魔法耐性も意味を成さない、完全な『理不尽』。
だが、閉鎖された地下遺跡の空間で、数百の異形が吐き出す死の霧は、逃げ場を奪うように急速に充満していく。
「ヒャァァァァァッ……!」
「シィィィィィッ!!」
バジリスク(呪い蛙)の群れは、巨大な偽眼を揺らしながら、次なる獲物――銀等級の冒険者たちへと狙いを定めた。
這いずる不快な音と共に、死の霧が津波のように押し寄せてくる。
「いや……こないで……ッ!」
「プロテクション(聖壁)を……くっ、詠唱が間に合わない……!」
後衛にいたお財布係の少女と女神官が、迫り来る灰色の絶望を前に身を寄せ合った。
剣も、魔法も、奇跡も届かない。
触れれば終わる、絶対的な死の気配。
小鬼殺しでさえ、この理不尽な初見殺しの前にはなす術がないと悟った、その瞬間。
ガシャンッ。
少女たちの目の前に、見慣れた巨大な黄金の背中が、静かに割り込んだ。
どれだけ待っても、その恐ろしい『石化の呪い』が彼女たちの肌に触れることはなかった。
「……え?」
恐る恐る目を開けた少女の視界を塞いでいたのは、見慣れた、だが今までで一番頼もしい『黄金の背中』だった。
オーンスタイン。
彼は少女たちの前に静かに立ち塞がると、右手に持った長大な十字槍を、ゆっくりと水平に構えた。
バジリスクの群れが、標的を遮った黄金の騎士へと一斉に顔を向ける。
醜悪な偽眼が揺れ、喉元の袋が不気味に膨らんだ。
「シィィィィィィィッ!!」
数百の群れが、一斉に極大の死の霧を吐き出した。
逃げ場のない地下遺跡で、灰色の絶望がオーンスタインの巨体を完全に飲み込もうとする。
「いかんッ! 金獅子の旦那ァ!!」
ドワーフが血相を変えて叫んだ。
その瞬間だった。
ブゥゥゥゥンッッ!!!
大気をへし折るような、鼓膜を破る爆音が地下空間に轟いた。
オーンスタインが、右腕一本で長大な十字槍を――神速で、横薙ぎに一閃したのだ。
それは魔法でも、奇跡でもない。
ただの『物理的なスイング』。
だが、常識を外れた神話の膂力と、規格外の質量を誇る真鍮の武器が生み出した一撃は、地下遺跡の中に『局地的な暴風』を巻き起こした。
「な……ッ!?」
妖精弓手が、吹き荒れる突風に思わず目を細める。
ごぉぉぉぉっ! という轟音と共に、迫り来ていた灰色の死の霧が、文字通り『吹き飛ばされた』。
物理的な質量を持たないはずの呪いのガスが、暴風の壁に叩きつけられ、天井や後方の壁へと散らされて完全に霧散していく。
「バ、バカな……。呪いを……ただの『風圧』でかき消したじゃと!?」
ドワーフが、自分の目を疑うように呆然と呟いた。
魔力による相殺ですらない。純粋な『暴力的なまでの風』が、理不尽な死の魔法を力技でねじ伏せてしまったのだ。
霧を剥がされ、バジリスクたちが無防備な姿を晒す。
偽眼がギョロギョロと動き、困惑したように喉を鳴らした。
その隙を、竜狩り(オーンスタイン)が見逃すはずがない。
スッ……。
ガシャリ、という金属音は鳴らなかった。
250センチを超える黄金の巨体が、重力を無視したかのように、床を滑るような『無音の歩法』で一瞬にして距離を詰める。
「――ッ」
ゴブリンスレイヤーの目すら追いつけない、神速の踏み込み。
オーンスタインは一切の雷を纏っていなかった。
純粋な、洗練され尽くした『槍の技』のみ。
ドスッ!
ドスッ! ドスッ!!
肉を穿つ、冷酷な音が連続して響く。
オーンスタインの十字槍は、バジリスクの巨大な偽眼には一切触れなかった。
その下にある、喉元の小さな黒い点――『本当の目』だけを、精密機械のような正確さで次々と串刺しにしていく。
「シ、ギィィィィ……ッ!?」
悲鳴を上げる間も与えない。
槍を引く動作すら見えず、ただ黄金の閃光が瞬くたびに、異形たちが致命の急所を貫かれて絶命していく。
それは、もはや戦闘と呼べるものではなかった。
舞踏のように美しく、そして死神のように無慈悲な『作業』。
かつて神話の時代に、空を覆う不朽の古竜たちの分厚い鱗の隙間を的確に穿ち続けた、四騎士筆頭としての絶対的な技量。
深淵の底から這い出たような不快な害虫など、彼の槍術の前にはただの動く的でしかなかった。
「……なんという、槍さばき」
蜥蜴僧侶が、己の武器を下ろしたまま魅入られたように呟いた。
剣の達人でもある彼から見ても、その動きは一切の無駄がなく、究極の機能美に到達している。
ものの数分。
滑るように遺跡を駆け巡った黄金の騎士が、最後の一匹の喉元を石突で砕いた時。
広大な地下空間には、バジリスクの死骸だけが散乱し、再び静寂が戻っていた。
「……終わったか」
ゴブリンスレイヤーが、松明を掲げ直しながら油断なく周囲を見渡す。
死の霧は完全に消え去り、もはや動くものは何一つない。
オーンスタインは槍についた体液を軽く振り払うと、部屋の奥――小鬼と異形たちを呼び寄せていた『転移の鏡』へと静かに歩み寄った。
彼は鏡の前に立つと、振り返ってゴブリンスレイヤーを見た。
「ああ。それはもう必要ない。……壊してくれ」
小鬼殺しの淡々とした許可。
それを聞いたオーンスタインは、小さく一度だけ頷いた。
そして、十字槍の石突を高く振り上げ――鏡の中心へ向けて、渾身の力で叩きつける。
ガシャァァァァンッッ!!!
甲高い破砕音と共に、怪しく光っていた巨大な鏡が、無数の破片となって飛び散った。
鏡枠に込められていた魔力が、光の粒子となってフッと霧散していく。
「……これで、水の街の小鬼騒動の根源は断たれた」
ゴブリンスレイヤーは、粉々になった古代の遺物を見下ろしながら、小さく息を吐いた。
「ふぅ……。生きた心地がしなかったわよ。あの気味の悪いカエルのお化け、一体何だったのよ……」
妖精弓手が、ようやく緊張を解いて座り込む。
「オーンスタインさん!」
お財布係の少女が、小走りで黄金の騎士に駆け寄り、その分厚い真鍮の装甲に抱きついた。
「ありがとうございます……! オーンスタインさんがいなかったら、私、本当に石ころにされちゃうところでした……!」
オーンスタインは、足元で自分を見上げる少女の頭を、大きなガントレットでポン、ポンと不器用な手つきで二回ほど撫でた。
言葉は通じずとも、その仕草だけで、彼が『無事でよかった』と安堵していることが十分に伝わってきた。
「……ふしゅるるる。全く、我らは金獅子殿に頼りきりですな」
「まったくだ。だが、これで剣の乙女様への依頼は無事に達成じゃ!」
銀等級のパーティにも、ようやく安堵の笑みが広がる。
古代の遺跡に潜んでいた『深淵の呪い』は、一人の神話の騎士の純然たる武技によって、完全に払拭されたのだった。