落日の竜狩り ―真鍮の鎧と主への誓約―   作:もいもい130

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第二十三話:【剣の乙女の救済と、東へ導く残り火】

 

 

水の街を脅かしていた地下水路の異変は、こうして人知れず幕を閉じた。

 

至高神の神殿、大司教の私室。

豪奢な天蓋付きのベッドの傍らで、剣の乙女は静かに報告を聞き終えた。

 

「……そうですか。あの恐ろしい小鬼(ゴブリン)たちは、古代の鏡を通って……」

 

彼女の震える声には、安堵と共に、未だ拭いきれない恐怖が滲んでいた。

かつて魔神王を打ち倒した英雄でありながら、彼女の心は過去の凄惨なトラウマに囚われたままだ。

 

「ああ。だが、鏡は粉々に砕いた。地下水路に巣食っていた小鬼も、異形の化け物どもも、一匹残らず皆殺しにした」

 

ゴブリンスレイヤーは、薄汚れた鉄兜の奥から淡々と事実だけを告げる。

 

「もう、この街の地下から小鬼が湧いて出ることはない。安心しろ」

 

「……はい。ありがとうございます、ゴブリンスレイヤーさん」

 

剣の乙女は、両手を胸の前で組み、祈るように首を垂れた。

だが、その細い肩は微かに震えている。

 

「でも……」

 

目隠しの奥から、涙の雫がこぼれ落ちた。

 

「でも……怖いのです。小鬼が……。私は、あの地下の暗闇を思い出すだけで……夢に、見るのです……」

 

世界を救った金等級の英雄が、ただ一人の弱い女性として零した本音。

誰も彼女を責めることなどできない。

 

その痛切な吐露に対し、小鬼殺しは、ただ真っ直ぐに彼女を見据えて言った。

 

「夢に出るなら、俺が殺してやる」

 

「――ぇ」

 

剣の乙女が、息を呑む。

 

「俺は、小鬼殺し(ゴブリンスレイヤー)だ。……小鬼が夢に出るというのなら、呼べ。俺が殺しに行ってやる」

 

それは、どんな奇跡よりも、どんな神の言葉よりも、彼女の心を救う絶対的な誓いだった。

 

剣の乙女の頬を、止めどない涙が伝い落ちる。

恐怖の涙ではない。それは、永きに渡って凍りついていた心を溶かす、救済の涙だった。

 

その美しい光景を。

部屋の片隅で、黄金の巨人は静かに見守っていた。

 

オーンスタインは兜を脱がず、口を挟むこともない。

ただ、己の内側で起きている『静かな変化』に意識を向けていた。

 

(……満ちていく)

 

彼は、己の巨大なガントレットを見つめる。

 

地下遺跡で屠った、無数の小鬼たち。

そして何より、深淵の底から這い出たような、バジリスクの大群。

それらを打ち倒したことで得た、無数の『ソウル(魂)』。

 

四方世界の冒険者たちには視えないそれが、淡い光の粒子となって、彼の分厚い真鍮の装甲へ、そしてその奥の肉体へと絶え間なく吸い込まれていた。

 

だが、オーンスタインは黄金の兜の奥で、ひっそりと寂寥の息を吐く。

 

(……やはり、足りぬな)

 

神話の故郷(ロードラン)の、美しくも冷たい神の都。

かつて、処刑者スモウと共に、あの巨大な聖堂の大広間を死守していた頃――。

 

あの時に自らの内に満ちていた、太陽の如き威光と圧倒的な力に比べれば、今の自分はどうだ。

 

辺境の化け物どもからこれだけのソウルを奪い取っても、かつての全盛期どころか、スモウと共に王女を守護していたあの黄昏の時代にすら、遠く及ばない。

 

主である『無名の王』を探す、果てしない探索の旅。

その悠久の時の流れの中で、彼の肉体と精神は限界まで摩耗し、不死(亡者)に近い状態にまで堕ちかけていた。

それを完全に『神族』の肉体へと引き戻すには、これでもまだ、あまりにも僅かな熱でしかなかった。

 

それでも。

 

この四方世界に迷い込み、小鬼の洞窟で『彼女』――お財布係の少女と出会い、共に旅をするようになってから。

戦いの中で吸収するその僅かな熱が、確実に彼の中の『残り火』を育てているのを感じていた。

 

「オーンスタインさん」

 

ふと、袖を引かれた。

見下ろすと、お財布係の少女が、嬉しそうな笑顔で彼を見上げていた。

 

「ゴブリンスレイヤーさん、かっこよかったですね! 私たちも、あんな風に誰かを安心させてあげられるようになれたらいいな」

 

彼女の無邪気な言葉に、オーンスタインは小さく頷き、その頭を大きな手でぽんぽんと撫でた。

 

(……ああ。我が主を追う旅は、まだ終わらぬ。だが)

 

彼は兜の奥で、優しく目を細める。

 

(この小さき光が共に在る限り……我が魂が、再び虚無に呑まれることはないだろう)

 

神族としての力と誇りを、少しずつ取り戻していく黄金の騎士。

剣の乙女の嗚咽が静かに響く神殿の一室で、彼らの長く短い水の街での戦いは、確かな結末を迎えようとしていた。

 

---

 

大司教の私室を満たしていた、張り詰めた感情の波が静かに引いていく。

剣の乙女が目元を拭い、深く息を吐いて落ち着きを取り戻したのを見計らい。

 

ゴブリンスレイヤーは、再び淡々とした、いつもの仕事人の声に戻った。

 

「大司教。小鬼の件はこれで終わりだが……もう一つ、聞きたいことがある」

 

「はい。何なりと」

 

剣の乙女が、柔らかな微笑みを浮かべて顔を上げる。

 

「地下の遺跡で、小鬼の転移鏡を見つけた。……だが、その隣に、巨大な石の炉があった」

 

ゴブリンスレイヤーが言葉を切ると、後ろに控えていた鉱人道士(ドワーフ)が一歩前へ出た。

 

「うむ。あれは間違いなく、神代の『種火』をくべていた祭壇の跡じゃ。だが、肝心の火はとうの昔に失われておった。……大司教殿。あの火がどこへ消えたのか、心当たりはないか?」

 

ドワーフの問いに、剣の乙女は僅かに首を傾げた。

 

「神代の、火……。水の街の地下深くに、そのようなものが眠っていたのですね。私にも、詳しい伝承は分かりかねますが……」

 

彼女はそこで言葉を区切り、目隠しの奥の視線を、オーンスタインの傍らに立つ少女へと向けた。

 

「……そちらの可愛らしい魔術師さん。あなたのポケットに入っている『石』を、見せていただけますか?」

 

「えっ? あ、はい!」

 

少女は慌ててローブのポケットを探り、ゴソゴソと一つの石を取り出した。

大結晶トカゲからドロップした、星空のように微かに発光する『光る楔石』。

 

少女がそれを両手で包み込むようにして差し出すと。

剣の乙女は、そっと自分の白い手を、少女の手の上に重ねた。

 

「――至高なる神よ、この古き記憶の欠片に、導きの光を与えたまえ」

 

静かな祈りの声。

大司教の指先から、温かく柔らかな奇跡の光が溢れ出す。

 

奇跡の光に呼応するように、少女の手の中にある『光る楔石』が、チカチカと明滅を始めた。

 

「……視えます」

 

剣の乙女が、夢見るような声で呟く。

 

「この石が求めている、古い火の温もり。そして……空を覆うほどの、巨大な翼の影……」

 

彼女の持つ『魂を視る目』が、石に刻まれた神代の記憶と、地下遺跡の残留思念を繋ぎ合わせていく。

 

「火は、失われたのではありません。……ずっと昔に、何者かの手によって持ち去られたのです」

 

「持ち去られた? どこへじゃ!?」

 

ドワーフが身を乗り出す。

剣の乙女は、ゆっくりと顔を上げ、遥か彼方を見つめるように言った。

 

「海を越えた先。……『東の大陸』へと」

 

「東の、大陸……」

 

少女が、復唱するように呟く。

 

四方世界において、東の大陸は未知と神秘に包まれた広大な地だ。

竜の伝承が色濃く残り、古代の遺物が数多く眠るとされている場所。

 

「ふしゅるるる。なるほど……ならば金獅子殿、あなた方の次なる道行きは決まりましたな」

 

蜥蜴僧侶(リザードマン)が、深く頷きながら尻尾を揺らした。

 

「東の大陸、か。……俺には縁のない場所だな」

 

ゴブリンスレイヤーが、兜の奥で短く呟く。

 

「ああ。あそこには小鬼(ゴブリン)の巣はないだろうからね。私たちの旅は、ここまでってことだわ」

 

妖精弓手(ハイエルフ)が、少しだけ寂しそうに長い耳を揺らした。

 

小鬼を狩るために辺境に留まる銀等級のパーティと、かつての主の痕跡と種火を求めて東へ向かう黄金の騎士たち。

ここが、二つの世界の戦士たちの『分岐点』だった。

 

ガシャリ。

 

オーンスタインが、静かに一歩を踏み出す。

兜の奥の視線は、すでに遥か東の空を見据えているようだった。

 

かつての主である『無名の王』の痕跡。

そして、この光る楔石を鍛え上げるための、神代の種火。

それらが東の大陸にあるというのなら、迷う理由は何一つない。

 

「……情報を感謝する、大司教」

 

ゴブリンスレイヤーが短く礼を述べると、剣の乙女はふふっと柔らかく微笑んだ。

 

「いいえ。私の方こそ、命と心を救っていただいたのですから。……せめてものお礼です。どうか皆様で受け取ってください」

 

彼女が合図をすると、控えていた神殿の従者が、ずっしりと重そうな革袋を二つ運んできた。

中に入っているのは、目も眩むような量の金貨。そして、さらに価値の高い白金貨(プラチナコイン)の数々だった。

一つは銀等級のパーティへ。そしてもう一つは、オーンスタインと少女へ。

 

「こ、こんなに……!?」

 

妖精弓手が、自分の背丈ほどもありそうな報酬の価値に驚愕する。

 

だが、そんな膨大な富を前にしても。

黄金の騎士オーンスタインは、微動だにしなかった。

 

彼にとって、金貨などただの金属の塊に過ぎない。

武器を鍛えるための楔石やソウルには価値を見出すが、人間世界の貨幣経済という概念が、彼には完全に欠落しているのだ。

 

(ふむ。我には不要なものだ。置いていくか)

 

オーンスタインが、無関心に背を向けようとした、その時だった。

 

「わぁぁっ!!」

 

凄まじい勢いで、お財布係の少女が自分たちの分の革袋に飛びついた。

 

「ありがとうございます大司教様!! 大切に、大切に使わせていただきます!!」

 

少女は革袋を抱きしめ、頬ずりせんばかりの勢いで歓喜の声を上げている。

 

「お、おい嬢ちゃん、すごい顔になっとるぞ……」

 

ドワーフが苦笑いを浮かべるが、少女の耳には届いていない。

 

「やりましたよ、オーンスタインさん! これだけあれば、東の大陸までの船賃も余裕ですし、当分は野宿じゃなくて、ふかふかのベッドがある宿屋に泊まれます!!」

 

目をキラキラと輝かせ、金貨の袋を胸に抱く少女。

 

オーンスタインは、兜の奥でパチリと瞬きをした。

金貨の価値は全く分からないが、少女がこれほどまでに喜んでいるのなら、それはきっと『とても良いもの』なのだろう。

 

彼は静かに頷き、少女の頭を撫でて、その歓喜を肯定した。

 

「……ふしゅるるる。金獅子殿のお財布管理は、完全にあの嬢ちゃんが握っておるようですな」

 

「まったく、巨大な黄金の鎧を着ておきながら、金銭感覚は赤子以下とは……。東の大陸でも、嬢ちゃんは苦労しそうね」

 

蜥蜴僧侶と妖精弓手が、呆れたような、それでいて微笑ましいものを見るような目で二人を見守る。

 

「では、俺たちはこれで失礼する。……何かあれば、ギルドを通じて依頼を出せ」

 

ゴブリンスレイヤーが背を向ける。

剣の乙女は、その頼もしい背中と、黄金の騎士たちの姿を、いつまでも愛おしそうに見送っていた。

 

東の大陸への明確な道標と、破格の報酬。

そして、決して折れることのない誓い。

 

水の街での冒険は、一行に多くの実りをもたらし、次なる旅への扉――そして、静かな別れの時を告げていた。

 

---

 

水の街の冒険者ギルドに併設された酒場は、今宵も荒くれ者たちの熱気と喧騒に包まれていた。

 

だが、その中でも一際目立つテーブルがある。

ギルドの奥、一番大きな円卓を陣取っているのは、見慣れぬ黄金の巨漢と、それを囲む銀等級の冒険者たちだ。

 

「いやぁ、それにしても金獅子の旦那のあの槍さばき! わしはドワーフの長い歴史の中でも、あんなデタラメな武技は見たことがないわい!」

 

鉱人道士(ドワーフ)が、ジョッキになみなみと注がれた火酒を煽りながら、上機嫌で管を巻く。

 

「ふしゅるるる。全くですな。あの呪いの霧を、ただの力任せの風圧で吹き飛ばした時は、拙僧も我が目を疑いましたぞ」

 

蜥蜴僧侶(リザードマン)も、チーズの塊を丸呑みしながら楽しそうに尻尾を揺らした。

 

「もう、二人とも飲みすぎよ! ……ひっく。それにしても、あんな気味の悪いカエル、二度と御免だわ……」

 

妖精弓手(ハイエルフ)はすでに顔を真っ赤にしており、空になったエールの木杯をテーブルにバンッと叩きつけている。

 

地下水路での死闘を生き延びた彼らは、大司教から支払われた破格の報酬の一部を使い、盛大な打ち上げを行っていた。

 

その喧騒の中心にいるはずのオーンスタインは。

巨大な椅子に腰を下ろしたまま、兜を脱ぐこともなく、ただ静かに佇んでいた。

 

目の前に山盛りにされたローストビーフや、エールの入った樽サイズのジョッキには一切手をつけない。

人間のような食事も水分も、睡眠すらも必要としない『神族の騎士』。

周囲でどれだけドンチャン騒ぎが起きようと、彼は彫像のように微動だにしなかった。

 

「オーンスタインさん、この串焼きすっごく美味しいですよ! 食べ……られないんでしたね。じゃあ、私がオーンスタインさんの分も食べておきます!」

 

隣の席では、お財布係の少女が、両手に串焼きを持ちながら幸せそうに頬張っている。

 

オーンスタインは、兜の奥でその小さな姿を静かに見下ろした。

そして、ゆっくりと己の分厚いガントレットに視線を落とす。

 

(……)

 

彼の脳裏に蘇るのは、かつての記憶。

主である『無名の王』の痕跡を求め、神話の都を離れて永き時を彷徨い歩いた、孤独な探索の旅路。

 

何百年、あるいは何千年。

終わりの見えない旅の中で、彼の強靭な神族の肉体は限界まで摩耗し、やがて不死(亡者)に近い状態にまで魂が擦り切れていた。

虚無に呑まれ、目的すらも見失いかけた、あの暗く冷たい絶望の底。

 

この四方世界へ迷い込んだ時も、彼は半分亡者になりかけていた。

 

だが、あの薄暗い小鬼の洞窟で。

恐怖に震えながらも、必死に生きようと足掻いていた、一人の新米魔術師の少女。

全滅の危機にあった彼女を、無意識に、ただの『騎士としての本能』で救い出したあの日から。

 

(我は……繋ぎ止められたのだな)

 

オーンスタインは、静かに目を細める。

 

無名の王を探すという大義は変わらない。

だが、摩耗しきっていた彼の魂に、再び温かい『意味』を与え、彼を神族の騎士としてこの世に縛り付けているのは。

他でもない、隣で口の周りをタレだらけにして笑っている、この小さく脆い人間の少女だった。

 

『――フッ。相変わらず、不器用なことだ。友よ』

 

ふと。

喧騒に紛れて、オーンスタインの耳の奥に、低く、気さくな笑い声が響いた。

 

(……アルトリウスか)

 

オーンスタインは、顔を動かさずに内心で応える。

実体はない。ただの記憶の残滓か、それとも魂に刻まれたかつての親友の幻聴か。

 

『だが……その小さき灯火は、あの御方を探す永き旅路の、悪くない道標だろう。……迷わず行け、オーンスタイン』

 

かつて、深淵の闇に単身で挑み、愛する小さな狼を護り抜いた、最も気高き騎士。

誰よりも「何かを護る」ことの尊さと重さを知る親友からの、温かく、深く共感する声だった。

 

オーンスタインは、兜の奥で静かに目を伏せ、幻の友に向けて小さく頷いた。

 

「……オーンスタイン」

 

不意に、正面から声がかかった。

見ると、円卓の向かい側に座っていたゴブリンスレイヤーが、彼を見据えていた。

 

小鬼殺しは、騒ぐエルフやドワーフたちには目もくれず、黙々と自分の分の食事を平らげていた。

だが、彼はふと、手に持っていた麦酒のカップを、静かにオーンスタインの方へと持ち上げた。

 

「東の大陸でも、せいぜい……小鬼には気をつけろ」

 

それは、小鬼のことしか頭にない彼なりの、最大限の『激励』であり、別れの挨拶だった。

 

オーンスタインは無言のまま。

傍らに立てかけていた十字槍の柄を、ガシャリと、少しだけ持ち上げて応える。

 

言葉はいらない。

共に死線を潜り抜け、互いの背中を預け合った者同士にしか分からない、確かな敬意。

二つの世界の戦士たちの、静かで、誇り高き乾杯だった。

 

「さぁて、明日は早いぞ嬢ちゃん! 東への船が出る港町まで、長旅になるからな!」

 

ドワーフが豪快に笑う。

 

「はい! オーンスタインさん、これからもよろしくお願いしますね!」

 

少女が満面の笑みで、黄金の騎士を見上げる。

 

神話の騎士と、人間の少女。

彼らの紡ぐ新たな旅路は、水の街の喧騒を背に、未知なる東の大陸へと続いていくのだった。

 

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