落日の竜狩り ―真鍮の鎧と主への誓約―   作:もいもい130

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第二十七話:【翡翠の大河と、泥に潜む怪魚】

 

 

第一部:竹林の道と、翡翠の大河

 

極彩色の港町を後にした二人は、東の大陸の内陸部へと歩みを進めていた。

 

街道を覆うのは、天を衝くように真っ直ぐ伸びた、青々とした竹の群生だ。

風が吹くたびに、無数の笹の葉が擦れ合い、ざわざわと心地よい音を立てる。

 

木漏れ日が落ちる静謐な竹林の道は、これまでの四方世界に広がっていた広葉樹の森とは、全く異なる趣を持っていた。

 

(……静かなものだ)

 

オーンスタインは、兜の奥で見上げるようにそびえ立つ竹林を見つめた。

 

空を支えるように等間隔で並ぶ、緑の柱。

その整然とした美しさは、かつて彼が守護した神の都(アノール・ロンド)の、荘厳な大理石の柱廊をどこか彷彿とさせた。

 

「わぁっ、オーンスタインさん! 見て下さい、この葉っぱ、すごく大きいです!」

 

少女が、自分の背丈ほどもある巨大な蕗(ふき)の葉を見つけてはしゃいでいる。

 

道端に咲く見たこともない花や、奇妙な形をした虫。

彼女にとって、この東の大陸の自然は、世界の広さを教えてくれる生きた魔術書のようなものらしい。

 

オーンスタインは無言のまま、少女が蕗の葉を傘のように掲げて笑う姿を、静かに見守りながら歩き続けた。

 

ズンッ……ズンッ……。

 

黄金の巨人の重々しい足音が、竹林に響く。

不思議と、魔物や野盗の気配はない。

彼の放つ圧倒的な威圧感と、微かに漏れ出る『竜狩りの雷』の匂いが、周囲の脅威を自然と遠ざけているのだろう。

 

やがて。

視界が開け、竹林の終端に辿り着いた二人の前に、雄大な景色が広がった。

 

「……すごい、大きな川ですね……!」

 

少女が感嘆の声を漏らす。

 

斜面には、水鏡のように空を映す見事な棚田が広がっている。

そしてその谷底を縫うようにして流れているのは、川幅が数百メートルはあろうかという、巨大な河川だった。

 

水面は深く澄み渡り、陽光を反射してまるで巨大な宝石のように輝いている。

 

『翡翠の大河』。

港町の鍛冶師が語っていた、あの嵐の峰へと至るための、最初の難所だ。

 

だが。

川沿いに設けられた渡し場へ降り立った二人は、すぐにその場の『異変』に気がついた。

 

「なんだか、すごく騒がしいですね……」

 

少女が、不安そうにオーンスタインの装甲の陰に隠れる。

 

川幅が広く、流れも穏やかなこの大河は、本来なら東の大陸の物流を支える大動脈のはずだ。

しかし、渡し場には数十人もの行商人や旅の僧侶たちが立ち往生し、半狂乱になって口々に叫んでいた。

 

「――ッ! ――ァ!!」

「――ォォッ! ――!!」

 

飛び交うのは、全く聞き馴染みのない、東の大陸特有の言葉だ。

彼らが何を恐れ、何に怒っているのか、言葉の壁に阻まれて全く理解できない。

 

ただ、状況が異常であることだけは明白だった。

渡し場に繋がれていたはずの巨大な渡し舟は、何かに食いちぎられたように無残に粉砕され、岸辺に打ち上げられている。

 

「あ、あの! どうしたんですか!?」

 

少女が意を決して、四方世界の共通語(西の言葉)で近くの旅人に話しかけた。

だが。

 

「――!? ――ッ!!」

 

怯えきった旅人は、少女の言葉を全く理解できないらしく、激しく首を振って後ずさるばかりだ。

 

言葉が通じない。

異国を旅する上での、最も厄介で致命的な壁。

 

オーンスタインが静かに前に出ようとした、その時だった。

 

「おや、おや。これは珍しい。……『西』の言葉を話すお嬢さんに、見たこともないほど立派な黄金の騎士様だ」

 

不意に。

人混みを掻き分けて、流暢な『西の言葉』が響いた。

 

「え……?」

 

少女が振り返ると、そこには豪奢な絹の着物を纏った、小太りの男が立っていた。

 

頭には奇妙な形の布帽子を被り、指にはいくつもの宝石の指輪が光っている。

その目は細く糸のようにすがめられており、どこか胡散臭くも、抜け目のない商人の気配を漂わせていた。

 

「言葉が通じず、お困りのようですな。……いやはや、こんな大陸の奥地で西の冒険者にお会いできるとは、光栄の至り」

 

男は、大袈裟な身振りで深く頭を下げた。

 

「怪しい者ではありません。私はただの、しがない『商人』ですよ。……かつて西の大陸へ渡り、香辛料の貿易をしておりましてな。こうして西の言葉も、少々嗜んでいるというわけです」

 

『西を識る商人』。

彼はそう名乗ると、ギラリと光る目でオーンスタインの巨体を下から上へと舐め回すように観察した。

 

「……ほぅ。真鍮の重装甲に、その尋常ではない槍。見掛け倒しではない、確かな『死線』を潜り抜けてきた武具の凄み……。西には、とんでもない凄腕がいるものですな」

 

商人の評価に、オーンスタインは無言のまま兜の奥で小さく息を吐く。

打算と計算に満ちた目だが、敵意はない。

 

「あの……西の言葉がわかるんですか? 助かりました!」

 

少女がパッと表情を明るくして、商人に向き直る。

 

「ここで何があったんですか? 船が壊されていて、皆さんが怯えているようですが……」

 

その問いに。

『西を識る商人』は、大仰に肩をすくめ、手にした扇子で翡翠の大河の奥を指し示した。

 

「お嬢さんたちの向かいたい先が川の向こうだとしたら、運が悪かったとしか言いようがありませんな」

 

商人は、声を潜めて告げる。

 

「数日前から、この川の底に……とんでもない『バケモノ』が住み着いてしまったのですよ」

 

「バケモノ、ですか?」

 

「ええ。西の言葉で言うなら……そうですね。『魔物』と呼ぶべきか」

 

商人は、苦々しい顔で打ちひしがれた渡し舟の残骸を見た。

 

「我々、東の人間は『妖怪』と呼びます。……山のような巨体を持った、恐ろしい大泥鯰(おおどろなまず)が、川を渡ろうとする舟を丸呑みにしてしまうのです。おかげで、この渡し場は完全に封鎖されてしまいました」

 

大泥鯰。

四方世界のゴブリンやオーガとは違う、この東の自然の澱みから生まれた、得体の知れない存在。

 

「討伐隊を呼ぶにも、一番近い宿場町までは半日以上かかる。……我々商人は、ここでただ川の主の機嫌が直るのを待つしかない、というわけです」

 

商人はやれやれと首を振った。

 

足止め。

それは、無名の王を追う二人にとって、受け入れがたい状況だった。

 

『……ソレハ、困ルナ』

 

不意に。

オーンスタインが、低く地響きのような声で呟いた。

 

「ひっ……!?」

 

商人が、あまりの威圧感にビクッと肩を震わせる。

 

オーンスタインは、商人の横を通り抜け、ズンッと重い足音を立てて川岸の泥濘(ぬかるみ)へと歩み出た。

 

波一つない、穏やかな翡翠の水面。

だが、竜狩りの鋭い感覚は、その分厚い水底の泥の奥で、確かにうごめく巨大な『何か』の淀んだ気配を捉えていた。

 

彼にとって、どんな理由があろうとも、主君へと至る道を塞ぐ障害など、言語道断である。

 

(……退けぬというのなら)

 

オーンスタインは、背中に背負っていた長大な十字槍を、ゆっくりと引き抜いた。

 

(ただ、貫くのみ)

 

言葉が通じない異国で、言葉を介さない暴力が静かに幕を開けようとしていた。

 

---

 

第二部:激突、大泥鯰。雷を拒む泥の鎧

 

翡翠の大河の岸辺。

オーンスタインが長大な十字槍を構え、静かに水面を見据えた、その時だった。

 

ボコッ……ボコボコボコッ!

 

突突として、穏やかだった川面が大きく盛り上がった。

泥水が渦を巻き、まるで川底の地形そのものが隆起したかのような、巨大な影が姿を現す。

 

「ひぃぃぃっ! 出たァァァッ!!」

 

『西を識る商人』が、悲鳴を上げて腰を抜かした。

遠巻きに見ていた現地の旅人たちも、一斉に蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。

 

ざばぁぁぁぁっ!!

 

凄まじい水飛沫と共に這い出してきたのは、山のような巨体を持つ異形のバケモノだった。

 

大泥鯰(おおどろなまず)。

 

四方世界の魔物とは全く違う、東の自然の澱みが具現化したような妖怪。

その表面は分厚く乾燥した『泥の鎧』でびっしりと覆われており、巨大な口には、舟を丸呑みにしたという鋭い牙が無数に並んでいる。

 

「ギチギチギチッ……!」

 

大怪魚が、不快な歯擦音を鳴らしてオーンスタインを睨みつけた。

自身の縄張りを荒らす、見慣れぬ黄金の闖入者への明確な殺意。

 

「だ、旦那! 逃げましょう! あんなデカブツ、人間の武器が通じる相手じゃありませんぜ!」

 

商人が這いつくばったまま叫ぶ。

だが、オーンスタインは一歩も引かない。

 

彼の分厚い真鍮の装甲の表面に、バチバチと青白い火花が走り始めた。

 

嵐の海で、巨大な海竜を一撃で消し炭にした『黄金の雷』。

その莫大な魔力(ソウル)の気配に、商人が息を呑む。

 

(……貫く)

 

オーンスタインは、十字槍を高く振り上げた。

槍の穂先に、恐るべき密度の雷が集束していく。

 

そして。

踏み込みと共に、大気を裂くような『雷の投槍』が放たれた。

 

ズドガァァァァァッ!!

 

黄金の光の矢が、一直線に大泥鯰の巨体へと直撃する。

誰もが、その一撃で巨大な妖怪が消し炭になると思った、次の瞬間。

 

「……なっ!?」

 

商人が、信じられないものを見るように目を見開いた。

 

バチバチバチッ!

大泥鯰に直撃したはずの雷が、巨体の表面を覆う『分厚い泥の鎧』に阻まれ、四方八方へと無害な火花となって散ってしまったのだ。

 

「ギチィィィッ!!」

 

大泥鯰は、ダメージを受けるどころか、さらに怒り狂って巨大な尾を振り上げた。

 

(……雷が、通らない?)

 

オーンスタインは、兜の奥で微かに目を見開いた。

 

先の海大蛇のような『水濡れ状態の竜の鱗』であれば、雷は致命的な威力を発揮する。

しかし、目の前の敵を覆っているのは、川底で何百年もかけて圧縮された、極めて分厚い『土と泥の塊』。

 

つまり、完全に雷を絶縁する最強の防具だったのだ。

属性の相性としては、これ以上ないほどの最悪な組み合わせである。

 

ドゴォォォォンッ!!

 

大泥鯰の巨大な尾の叩きつけが、川岸の泥濘を大きく抉る。

オーンスタインは咄嗟に十字槍を構えて防御するが、その尋常ではない質量と衝撃に、分厚い装甲ごと大きく後方へと押し流された。

 

ズザザザザッ! と黄金のブーツが泥を削り、深く沈み込む。

 

「ああっ、オーンスタインさん!」

 

少女が悲鳴を上げる。

 

「無駄ですお嬢さん! あんな化け物、どう逆立ちしたって……!」

 

絶望する商人。

だが、少女の瞳には、決して諦めの色はなかった。

 

彼女の頭脳が、魔法使いとしての知識をフル回転させる。

なぜ、あの絶対的な威力を誇る『黄金の雷』が通じなかったのか。

 

(……土! あの分厚い泥の鎧が、雷の魔力を地面に逃がしているんだわ!)

 

ならば、答えは一つしかない。

 

「オーンスタインさん! 少しだけ、引きつけてください!」

 

少女は、自身の身の丈ほどもある木杖を両手でしっかりと握りしめ、オーンスタインの背後へと駆け出した。

 

オーンスタインは、少女の意図を即座に汲み取った。

彼は再び突進してくる大怪魚の前に立ち塞がり、大盾のように巨大な体を壁にして、敵の注意を完全に自分へと引きつける。

 

「いきます……っ!」

 

少女は、杖の先端に青く澄んだ魔力を集束させた。

 

水魔術。

それは、彼女がこれまでの旅で、彼と共に幾多の死線を潜り抜け、研鑽を積んできた成果。

辺境の街を出た頃の、ただ怯えるだけだった小さな魔法使いの力ではない。

 

「――『奔流(ウォーター・ストリーム)』!!」

 

少女が杖を振り下ろした瞬間。

足元の翡翠の大河から、凄まじい水量の奔流が竜巻のように巻き上がった。

 

ゴオォォォォォォォッ!!

 

それは、攻撃のための魔法ではない。

高圧の水流となって、オーンスタインを押さえつけていた大泥鯰の巨体へと真っ直ぐに叩きつけられる。

 

「ギチ、ギギギッ!?」

 

大怪魚が、予期せぬ水流の直撃に体勢を崩す。

そして。

少女の放った激しい水の奔流が、妖怪の巨体を覆っていた『分厚い泥の鎧』を、ドロドロと綺麗に洗い流していった。

 

泥の絶縁体が剥がれ落ち、ぬらぬらと濡れた生身の皮膚が露わになる。

 

「今です!!」

 

少女の叫びが、川岸に響き渡る。

 

『――アア』

 

オーンスタインは、その完璧な連携の隙を、決して逃さなかった。

泥濘から力強く足を引き抜き、全身のバネを使って大きく跳躍する。

 

今度こそ、絶縁する泥はない。

あるのは、濡れそぼった生身の巨体のみ。

 

空中で、黄金の騎士が長大な十字槍を振りかぶる。

 

(……我が雷を、味わうがいい)

 

ズドガァァァァァァァァッ!!!

 

先ほどとは比べ物にならない、極大の雷鳴。

放たれた黄金の雷槍は、泥の鎧を失った大泥鯰の生身へと深々と突き刺さった。

 

「ギャァァァァァァァァッ!!」

 

断末魔の悲鳴。

水に濡れた皮膚が、雷の威力を何倍にも増幅させる。

 

高圧電流が妖怪の巨体を内側から焼き焦がし、あっという間に消し炭へと変えていく。

ドスゥン……! と、黒焦げになった巨大な残骸が、翡翠の大河へと崩れ落ちた。

 

後に残されたのは、もうもうと立ち上る白い蒸気と、川岸に広がる静寂だけ。

 

「……う、嘘だろ……」

 

商人は、開いた口が塞がらないといった様子で、ただその光景を呆然と見つめていた。

 

川の主たる大妖怪を、たった二人で。

それも、見事なまでの連携で打ち倒してしまったのだ。

 

「やりましたね、オーンスタインさん!」

 

少女が、息を弾ませながら駆け寄ってくる。

 

オーンスタインは、静かに地面へと着地すると、十字槍を背中に収めた。

そして、泥だらけになった少女の頭を、巨大な手で優しく撫でる。

 

『……見事ダ』

 

彼が兜の奥で呟いた、確かな称賛の言葉。

 

彼女の魔法の機転がなければ、苦戦は免れなかっただろう。

足手まといの庇護対象ではなく、互いに背中を預け合える『相棒』として。

 

二人の絆は、この異国の大地で、さらに確かなものへと深まっていた。

 

---

 

第三部:勝利の対価。宿場町への案内人

 

焦げた肉の臭いと、もうもうと立ち昇る水蒸気。

翡翠の大河の岸辺は、先ほどまでの絶望的な混乱が嘘のように静まり返っていた。

 

「おお……」

「バケモノが、死んだ……!」

 

遠巻きに逃げ隠れていた現地の旅人や船頭たちが、恐る恐る戻ってくる。

 

彼らの視線の先にあるのは、川面に浮かぶ巨大な黒焦げの残骸と、その前で静かに佇む黄金の巨漢の姿だ。

 

言葉は通じなくとも、誰の目にも明らかだった。

この得体の知れない黄金の騎士と、小さな魔法使いの少女が、川を封鎖していた大妖怪を討ち果たしたのだと。

 

「……ひゃあ、おっそろしい。とんでもない御仁たちだ」

 

泥濘に這いつくばっていた『西を識る商人』が、ようやく腰の震えを抑えて立ち上がった。

彼は、扇子で顔を仰ぎながら、冷や汗を拭う。

 

だが、その細くすがめられた商人の目には、先ほどまでの恐怖とは違う、ギラギラとした強烈な『打算』の光が宿っていた。

 

(あんな大妖怪を、たった二人で……。いや、あの連携、西の歴戦の冒険者の中でも特級の部類だ)

 

商人の頭の中で、凄まじい勢いで算盤が弾かれる。

 

言葉の通じない異国で、明らかに右も左も分かっていない様子の二人。

だが、その実力は一騎当千。しかも、あの少女のローブの膨らみ具合からして、西の金貨を相当数持ち込んでいるに違いない。

 

(……これは、とてつもない『特大の商機』の匂いがするぞ)

 

商人は、衣服の泥を素早く払い落とすと、揉み手でもせんばかりの満面の笑みを浮かべて二人に近づいた。

 

「いやはや! お見事、実にお見事でした!!」

 

大仰に拍手をしながら、西の言葉でまくしたてる。

 

「あんな大泥鯰をあっさりと退治してしまうとは! 旦那の雷撃もさることながら、お嬢さんの水魔術の機転、まさに芸術的でしたな!」

 

「えへへ……。ありがとうございます」

 

少女が、杖を握りしめたまま照れくさそうに笑う。

オーンスタインは無言のまま、油断なく周囲の気配を探っている。

 

「しかし、お嬢さんたち。この先、この東の大陸の奥地へ向かわれるのでしたら……言葉の通じない旅は、さぞかし不便でしょう?」

 

商人は、わざとらしくため息をついてみせた。

 

「先ほどのバケモノ退治、現地の者たちは皆、お二人に深く感謝しております。ですが、いかんせん言葉が通じない。……宿を取るにも、食事を頼むにも、いちいち一苦労のはずだ」

 

「う……確かに、そうですね」

 

少女が、困ったように眉を下げる。

港町では大司教の紹介状や白金貨の力でなんとかなったが、この先の内陸部でずっと力技が通用するとは限らない。

 

「そこで! この私の出番というわけです」

 

商人は、ビシッと扇子を広げて胸を張った。

 

「命を救っていただいた御恩返しに、僭越ながら、この私が次の宿場町まで『専属の案内人』を務めさせていただきましょう!」

 

彼は、ウインクをするように片目をつぶる。

 

「もちろん、報酬はいりません。……それに、大きな旦那が泊まれるような『特別な宿』を手配するには、現地の相場と顔の広さを知る商人の交渉術が不可欠ですからな!」

 

特別な宿。

その言葉に、少女はハッとした。

 

オーンスタインの規格外の巨体と重い真鍮の装甲は、普通の木造建築の客室では、間違いなく床板をぶち抜いてしまう。

船旅の時も、頑丈な貨物室を貸し切る必要があったのだ。

この東の竹や木で造られた繊細な家屋なら、なおさらのことだろう。

 

「……旦那の重みにも耐えられる、一番底の階の、石組みの頑丈な部屋。それを確保するには、私の力がお役に立ちますよ」

 

商人の抜け目のない提案に。

少女はオーンスタインを見上げ、彼もまた、兜の奥で微かに頷きを返した。

 

戦いの力はあっても、現世の理には疎い二人。

打算があるとはいえ、言葉の壁を取り払ってくれるこの商人の存在は、確かに渡りに船だった。

 

「……わかりました。それじゃあ、案内をお願いしてもいいですか?」

 

少女が、ペコリと頭を下げる。

 

「お任せを! 最高のおもてなしをお約束しましょう、お嬢さん!」

 

商人が、満面の笑みで深く一礼した。

彼にとっても、この絶対的な武力を持つ二人と同行することは、危険な東の大陸を旅する上で、最高の護衛を手に入れたも同然なのだ。

 

***

 

大泥鯰の脅威が去り、渡し場には活気が戻りつつあった。

 

破壊された舟の代わりに、船頭たちが協力して急造の大きな筏を組み上げている。

言葉は通じずとも、彼らは二人の前に進み出て、深く、何度も頭を下げて感謝の意を示した。

 

やがて、夕陽が翡翠の大河を茜色に染め上げる頃。

 

二人は、商人の案内のもと、新しく組み上げられた大きな筏へと乗り込んだ。

オーンスタインが乗った瞬間、筏がギシリと嫌な音を立てて深く沈み込み、船頭たちが慌ててバランスを取るという一幕もあったが、なんとか対岸へと向けて漕ぎ出すことができた。

 

「さあ、川を越えれば、この東の大陸の本当の顔が見えてきますよ」

 

商人が、夕風に吹かれながら扇子を揺らす。

 

少女は筏の縁に座り、茜色に染まる水面を、目を輝かせて見つめていた。

胸元の獅子のペンダントが、夕陽の光を反射して温かく輝いている。

 

オーンスタインは、揺れる筏の上でも微動だにせず、ただ静かに前方を……遥か西の空の彼方を見据えていた。

 

あの大河の向こう。

分厚い暗雲に覆われた、竜鳴の峰へと続く未知の領域。

 

言葉の壁を越える案内人を得て。

黄金の騎士と小さな魔法使いの旅は、夕闇の迫る東の大陸の奥地へと、さらに深く、静かに進んでいく。

 

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