第1話:【落日の騎士】
## 第一部:異空の星、渇きの路
その星は、動かなかった。
かつて見上げたアノール・ロンドの空には、神々の威光を示す太陽の光が満ちていた。
あるいは、主が去った後の昏い夜であっても、そこには見覚えのある星座が、神話の断片を物語るように端然と並んでいたはずだった。
だが、今の頭上に広がるのは、冷徹なまでに無機質な星列だ。
どれほど目を凝らしても、彼が知る空とは似ても似つかない。
ここは、どこだ。
黄金の獅子の兜の中で、男――オーンスタインは、掠れた息を吐き出した。
どれほどの時を、次元の狭間を彷徨っただろうか。
主である「名も無き王」の背中を追い、空間が剥がれ落ちるような感覚の中で、彼はこの見知らぬ地に放り出された。
一歩、足を踏み出す。
鎧が擦れる音が、静まり返った夜の森に重く響く。
かつては、この音すらも勇壮な凱歌の一部だった。
だが今は、砂を噛むような、死に体の音に聞こえる。
「……っ」
喉が、焼けるように熱い。
かつて魂(ソウル)によって満たされていた神の肉体は、今やひどく卑俗な「渇き」を訴えていた。
ソウルが、枯れている。
死を忘れていたはずの身体が、今、猛烈な勢いで「生物」としての限界に引き戻されていた。
膝を突きそうになるのを、十字槍を杖にして耐える。
槍の穂先は、往時の眩い輝きを失い、曇った真鍮の色に沈んでいる。
それでも、彼は止まらなかった。
止まるわけにはいかなかった。
彼はゆっくりと、腰を下ろした。
近くを流れる小川の、せせらぎが聞こえる。
騎士は、重い籠手(ガントレット)を外した。
剥き出しになった手は、戦い続けた男のそれだが、以前よりもひどく細く見えた。
掬い上げた水は、驚くほど冷たい。
泥臭い水の味が、これほどまでに愛おしく、そして屈辱的に感じられるとは思いもしなかった。
渇きを癒した彼は、そのまま布を取り出した。
その後、黙々と鎧を磨き始める。
真鍮色に色褪せ、無数の死闘の痕が刻まれた獅子の鎧。
どれほど磨いても、次元を超えて刻まれた「理外の傷」は消えない。
それでも、彼は磨く。
汚れを拭い、煤を落とし、わずかな輝きを取り戻そうとする。
それが、この異空の地で、彼が彼であるための唯一の楔(くさび)だった。
武人としての矜持を失えば、自分はただの「黄金を纏った骸」に成り果ててしまう。
不意に、風が止まった。
獅子の兜の奥、鋭い眼光が夜の闇を射抜く。
聞こえてくるのは、風のざわめきではない。
粘ついた、卑俗な笑い声。
そして、弱き者をなぶり殺すことを愉しむような、残酷な気配。
かつて彼が相手にした、誇り高き古竜とは正反対の存在。
汚泥の中から這い出てきたような、醜悪な「小鬼」どもの足音だ。
オーンスタインは、静かに立ち上がった。
足は重い。
視界は疲労で霞んでいる。
だが、十字槍を握る手の震えは、すでに止まっていた。
たとえ主が見当たらずとも。
たとえこの世界が、神々の盤上の遊び場に過ぎなくとも。
騎士は、騎士として振る舞う。
彼は闇の中へと、音もなく滑り出した。
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## 第二部:小鬼の宴、黄金の雷
鼻を突くのは、濡れた土と獣の脂。
そして、どろりとした悪意の臭いだ。
森の開けた場所で、それは行われていた。
数体の小鬼(ゴブリン)が、横転した馬車を囲んでいる。
地面には、すでに物言わぬ骸となった御者が転がっていた。
生き残った数人の人間が、震えながら身を寄せ合っている。
小鬼たちは、獲物をすぐには殺さない。
恐怖に歪む顔を眺め、下卑た声を上げ、なぶり殺す瞬間を先延ばしにして愉しんでいる。
その光景を、黄金の騎士は静かに見下ろした。
かつて彼が対峙してきたのは、天を覆う翼を持つ古竜や、世界を呑み込もうとする深淵の化身だった。
それに比べれば、目の前の生き物はあまりに矮小で、醜悪だ。
だが、その魂に刻まれた騎士の反射は、躊躇を許さなかった。
「……ふうむ」
オーンスタインは短く息を吐く。
空腹で腹の底が焼けつくようだが、十字槍を握る指先は冷徹に、獲物の急所を定めていた。
彼は地を蹴った。
真鍮色の鎧が、夜の闇を裂いて奔る。
小鬼の一体が異変に気づき、首を巡らせる。
だが、その視界に黄金の残像が映った時には、すべてが終わっていた。
シュッ、という短い風切り音。
オーンスタインの放った一突きが、小鬼の眉間を正確に貫いていた。
そのまま、一切の淀みなく槍を引き抜き、次の一体へ。
周囲には、密集した木々が立ち並んでいる。
長柄の十字槍を振り回すには、本来ならあまりに窮屈な場所だ。
しかし、オーンスタインの槍術は、その制約すらも嘲笑う。
刺突、刺突、刺突。
果てなき時間の中で磨き抜かれたその技は、もはや「技術」を超え「理」の領域に達している。
「刺突のみ」という制限下ですら、その精度と速度は微塵も揺るがない。
一突きで複数の敵の急所を貫き、環境を問わず圧倒的な戦闘力を発揮する。
「ギャッ……!?」
仲間が次々と物言わぬ肉塊に変わる様に、小鬼たちの間に動揺が走る。
彼らは一斉に、手にした錆びた短剣や棍棒を振り上げ、物量で黄金の騎士を押し包もうとした。
オーンスタインの目が、獅子の兜の奥で鋭く光る。
本来なら、一歩も引かずに薙ぎ払う場面だ。
だが、今の肉体には、かつての剛力も、一軍を一人で壊滅させるほどのソウルも残っていない。
迫りくる小鬼の群れ.
彼は静かに、十字槍の石突を地に叩きつけた。
「――雷よ」
魂の奥底に残った、わずかな残り火を。
祈りとともに、槍の穂先へと導く。
バチ、と青白い火花が散った。
それは、彼にとっては「かつての半分も届かぬ火花」に過ぎなかった。
竜の鱗を焼き切り、雲を裂いた往時の雷鳴ではない。
だが、この世界の住人にとっては、それは「至高神の裁き」そのものだった。
轟!
爆音とともに、黄金の槍から奔流となって溢れ出した雷が、前方の一団を飲み込んだ。
小鬼たちは悲鳴を上げる間もなく、その身を灼かれ、炭化して弾け飛ぶ。
夜の森が、一瞬だけ昼間のような白光に包まれた。
生き残った小鬼たちは、武器を投げ捨て、一目散に闇の中へと逃げ出していく。
もはや、目の前の騎士が自分たちの理解できる存在ではないことを、その本能が悟ったのだ。
静寂が戻る。
オーンスタインは槍を垂直に立て、荒い息をついた。
一度の「火花」を放っただけで、肉体は激しい疲労に蝕まれる。
足元には、黒く焦げた小鬼の残骸。
そこで、腰が抜けたように座り込み、自分を凝視する人間たちの姿があった。
「……」
彼は無言のまま、人間たちへ向かって一歩踏み出した。
主の行方を問うために。
だが、その黄金の姿を見上げる人間たちの瞳にあるのは、感謝だけではなかった。
それは、人智を超えた奇跡を目の当たりにした者が抱く、深い畏怖だった。
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## 第三部:交わらぬ言葉、主への祈り
「……ああ、神様……」
静寂を破ったのは、震える女の声だった。
生き残った旅人たちは、泥に塗れたまま、黄金の騎士を仰ぎ見ている。
彼らの瞳に宿るのは、純然たる救いへの感謝。
そして、理解の範疇を超えた超常の武力に対する、根源的な恐怖だった。
オーンスタインは、ゆっくりと彼らに歩み寄る。
真鍮色の鎧が触れ合う重厚な音が、夜の空気に振動を与えた。
彼は主の行方を問うべく、重い口を開く。
「……此度の地、心当たりはあるか。我は、追うべき背中を探している」
彼の喉から溢れたのは、アノール・ロンドの古い言葉だった。
荘厳で、どこか歌うような響きを持つその言語は、神々の時代の残滓である。
だが、旅人たちの顔に浮かんだのは困惑だった。
「……何と、おっしゃったのですか……?」
彼らの言葉もまた、オーンスタインには断片的なノイズとしてしか響かない。
意味の通じぬ音の羅列。
断絶された世界。
オーンスタインは、兜の奥で静かに目を閉じた。
言葉すら通じぬこの場所で、主の行方を知る術など、果たしてあるのだろうか。
彼はそれ以上何も語らず、翻って闇の中へと歩き出した。
背後から「待ってください!」「あなたはどこの英雄様なのですか!」と叫ぶ声が聞こえたが、振り返ることはなかった。
今の彼には、一刻も早い休息が必要だった。
一度の「火花」が、これほどまでに肉体を削るとは思わなかった。
数刻後。
彼は森の奥、今は主を失い崩れかけた石造りの廃屋を見つけ、その中に身を隠した。
鎧を脱ぐ気力すらなく、壁に背を預けて座り込む。
重い疲労と、胃を焼くような飢え。
かつては無縁だった「生存」の苦痛が、彼を深い沈黙へと沈めていく。
朦朧とする意識の中で、彼はふと、かつての同胞たちに思いを馳せた。
もしも、ここが「神々の盤上」であるならば。
深淵歩きアルトリウスならば、この醜悪な小鬼どもの巣穴へ、迷わずその身を投じたろうか。
黒い霧のような絶望を振り払い、ただ一振りの大剣で、悪意の源を断ち切っただろうか。
王の刃キアランならば、この森をどう見たか。
姿を隠し、音もなく、小鬼たちが叫びを上げる隙すら与えずにその首を刈り取っていただろうか。
そして、鷹の目ゴーならば。
あの巨躯でこの空を見上げ、その盲目の目で、地平の彼方に蠢く軍勢を射抜いていただろうか。
彼らならば、この孤独をどう笑い飛ばしただろう。
オーンスタインは、自嘲気味に息を漏らした。
ふと、廃屋の隅に目が留まる。
そこには数体の小鬼の死体が転がっていた。
だが、様子がおかしい。
それは雷で焼かれたものではなく、また、派手な武技で斬られたものでもなかった。
急所を冷徹に抉られ、執拗に息の根を止められた、極めて効率的で「事務的」な殺害の痕。
ここには自分とは違う、小鬼を狩る「何者か」がいる。
英雄の武勲でも、騎士の矜持でもなく。
ただただ、害獣を駆除するように小鬼を殺して回る、奇妙な狩人の気配。
「……奇異な場所だ」
オーンスタインは小さく呟き、十字槍を抱え込むようにして、浅い眠りへと落ちていった。
明日には、また歩かねばならない。
この真鍮色の鎧が、完全に塵へと還る前に。
主の背中に、この手が届くことを信じて。