第一部:朱に染まる竹林と、小さな魔法使いの健気な歩み
翡翠の大河を渡り、対岸へと降り立った一行は、さらに東の奥地へと続く街道を歩んでいた。
頭上を覆うのは、天を突くように真っ直ぐ伸びた、青々とした竹の群生だ。
夕刻の陽光が竹林の隙間から差し込み、白砂の敷かれた街道を朱色と黒の縞模様に染め上げている。
「いやはや、実に見事な戦いぶりでしたな、旦那」
先頭を歩く『西を識る商人』が、流暢な共通語(西の言葉)で上機嫌に語りかけてくる。
彼は手にした扇子をパタパタと動かし、時折、街道の脇に置かれた奇妙な石像に会釈をした。
「あの石像は『お地蔵様』と言いましてな。旅の安全を護る神様のようなものです。ここから先は、こうした東の大陸独自の『縁起物』が増えてきますぞ」
商人の能弁な文化解説が、静かな竹林に響く。
だが、その後ろを歩く小さな魔法使いには、その解説を楽しむ余裕はあまり残っていなかった。
「……はぁ、……はぁ」
少女の呼吸が、わずかに荒い。
港町を出てから、不慣れな竹林の悪路を歩き通しだ。
翡翠の大河での魔術行使による精神的な疲弊も相まって、彼女の小さな体には確実に疲労が蓄積していた。
ズシン、ズシン。
彼女のすぐ隣では、圧倒的な質量の足音が響いている。
見上げるほどの巨躯を誇る竜狩りは、真鍮の重装甲を纏っているとは思えないほど、淀みのない滑らかな歩法で彼女の歩調に合わせていた。
竜狩りは無言のまま、少女の様子をじっと見守っている。
兜の奥に灯る残り火のような視線が、彼女の足元のふらつきを敏感に捉えていた。
『……休ムカ』
地響きのような、重低音。
少女から教わったばかりの、辿々しい西の言葉。
「あ、いえ……! 大丈夫です、オーンスタインさん。……あそこの宿場町まで、すぐだって商入さんも言ってますし」
小さな魔法使いは、無理に口角を上げて笑ってみせた。
彼女は、自分の足元の泥汚れを気にして、歩きながらもローブの裾を整えようとする。
(……足手まといに、なりたくない)
彼女は、胸元の『獅子のペンダント』をそっと握りしめた。
指先に伝わる銀の冷たさと、そこに込められた彼の雷の残り香が、折れそうな心を辛うじて支えている。
あの日。
小鬼(ゴブリン)たちが跋扈する、汚泥と腐臭に満ちた絶望の洞窟。
仲間が惨殺され、自身も陵辱と死の淵に沈みかけていた時、この黄金の雷鳴が自分を地獄から救い出してくれた。
あの時、彼に抱き上げられた瞬間の、真鍮鎧の圧倒的な熱量と重みを、彼女は片時も忘れたことはない。
(あの地獄に比べたら、これくらいの疲れ……!)
小さな魔法使いは、唇を噛み締め、再び一歩を踏み出す。
自分の黄金の騎士様が、かつての主君を探すための大切な旅。
その隣を歩く権利を、自分は自らの足で稼がなければならないのだ。
だが、急な坂道に足を取られ、彼女の体が大きくよろめいた。
「わっ……!」
転倒を覚悟して目を閉じた瞬間。
柔らかな布越しに、岩のように頑丈で、しかし驚くほど優しい感触が彼女の背中と腕を支えた。
竜狩りの巨大なガントレットが、彼女の小さな体を包み込むように支えていた。
彼はそのまま、彼女が体勢を立て直すまで、静かにその場に立ち止まる。
『……急ガズ、ヨイ』
短く、しかし深い慈愛を孕んだ声。
竜狩りは、彼女の荷物袋を無言で引き寄せると、自身の肩へと軽々と掛け直した。
「あ、ありがとうございます……オーンスタインさん」
小さな魔法使いは、頬を朱色に染めた。
夕陽のせいだけではない熱が、胸の奥から込み上げてくる。
彼は、決して彼女を置いていかない。
どんなに歩みが遅くても、どれほど道が険しくても。
かつて戦場を神速で駆け抜けた竜狩りの十字槍は、今はただ一人の少女の歩調を守るためだけに振るわれている。
(やっぱり、大好き……)
その絶対的な安心感に、盲目的とも言える深い恋心が、また一つ彼女の心に根を張る。
いつか彼が元の世界へ、あるいは主君の元へ去ってしまうのではないかという根源的な恐怖が、愛おしさと共に胸を締め付けた。
「おやおや、お熱いことですな!」
商人が振り返り、ニヤニヤと細い目をさらに細めて扇子を振った。
「その様子なら、宿場町まで持たせられそうですな。さあ、見えてきましたぞ! 今夜の宿は、旦那のために特別に設えさせますからな!」
竹林の先。
街道の下り坂の向こうに、無数の提灯の火が灯り始めた宿場町が、極彩色の光を放ちながら姿を現そうとしていた。
---
第二部:賑わいの宿場町と、小さな嫉妬
竹林の街道を下りきった先で、一行を待ち構えていたのは、西の大陸ではお目にかかれない異国情緒の奔流だった。
「……すごいです、オーンスタインさん! あんなにたくさん、火が灯っています!」
小さな魔法使いが、疲れも忘れて目を輝かせる。
宿場町の入り口から奥へと続く通りには、鮮やかな朱や黄色の紙で造られた提灯が、果てしなく連なっていた。
夜の帳が下りる中、その一つ一つが温かな光を放ち、町全体がまるで巨大な光の川のように浮かび上がっている。
鼻をくすぐるのは、焦がした醤油や、鼻に抜けるような独特な香辛料の匂いだ。
西の大陸のパンや煮込み料理の匂いとは違う、食欲を直接的に刺激する強烈な香りが漂っていた。
「さあさあ、道を開けてくだされ! 西からお越しの、尊き御一行様のお通りですぞ!」
『西を識る商人』が、東の言葉で騒がしく叫びながら、人混みを割っていく。
その声に反応して振り返った町の人々は、一様に動きを止め、石像のように固まった。
「――っ!?」
「――ァ、――ッ!」
ざわめきが、一瞬にして静寂に変わる。
提灯の光を照り返し、闇の中で鈍く、しかし神々しく輝く黄金の巨躯。
2.5メートルを優に超えるオーンスタインの姿は、東の人々にとって、畏怖すべき山の神か、あるいは伝説の妖怪が具現化したように映ったのだろう。
ズシン、ズシン。
重厚な足音が響くたび、立ち並ぶ屋台の店主や、買い物客たちが、吸い寄せられるように道を開ける。
恐怖と好奇心が入り混じった視線が、黄金の騎士へと集中した。
「……やっぱり、目立っちゃいますね」
小さな魔法使いは、少しだけ誇らしげに、それでいて不安そうにオーンスタインの装甲の傍らに身を寄せた。
彼女の腰のあたりに頭がくるほどの体格差。
その対比が、より一層、竜狩りの存在を際立たせている。
だが、町の中心部へと進むにつれ、その視線の色が少しずつ変わり始めた。
「――、――ッ!」
「……――、――?」
建物の影や二階の窓から、若い町娘たちが頬を染め、小声で囁き合いながらオーンスタインを見つめている。
東の細身の剣士たちとは違う、岩山をそのまま切り出したような逞しい体躯。
獅子を模した兜の、高潔で力強い意匠。
未知なる「黄金の騎士」の姿に、彼女たちは恐怖を通り越し、うっとりとした憧憬の眼差しを向けていた。
(……えっ)
小さな魔法使いの眉が、ピクリと跳ねた。
一人の町娘が、勇気を振り絞るようにして歩み寄り、大切に持っていた一輪の花をオーンスタインに差し出そうとした。
その目は、あからさまな好意と熱を帯びている。
その瞬間。
少女の胸の奥で、ドロリとした重い感情が渦を巻いた。
(だめ。……だめです!)
彼女は無意識のうちに、オーンスタインの巨大なガントレットに手を伸ばし、その指先をぎゅっと握りしめた。
そして、町娘を牽制するように、彼の腕の影からじろりと視線を送る。
「オーンスタインさんは、……私の、騎士様なんだから」
小さな、誰にも聞こえない呟き。
彼女は自分の胸元で揺れる『獅子のペンダント』を、もう片方の手で強く握りしめた。
これは、彼が自分のために祈りを込めてくれた、二人だけの絆の証だ。
他人が、安易に触れていい人ではない。
地獄から私を連れ出してくれた、世界でたった一人の、大切な、大切な私の太陽。
オーンスタインは、兜の奥で小さく首を傾げた。
少女が急に自分の腕にしがみつき、何かに怒っているような、それでいて泣き出しそうな気配を発していることに戸惑ったのだろう。
『……魔法使イ?』
「……なんでもないです! ほら、商入さんが行っちゃいますよ!」
少女はぷいと顔を背け、それでも彼の手だけは離さないまま、ぐいぐいと彼を引いて歩き出した。
独占欲と嫉妬心で胸がいっぱいになりながらも、彼女はその熱さこそが、自分が生きている証であると感じていた。
「ハッハッハ! これはまた、賑やかなことになりそうですな!」
前を歩く商人が、意地の悪い笑みを浮かべて扇子を叩く。
一行は、提灯の光が最も眩しく輝く、町の中心にある大きな宿屋の前へと辿り着いた。
---
第三部:石床の特別室と、二人の静かな夜
宿場町の喧騒を抜け、商人が胸を張って案内したのは、宿の母屋から少し離れた場所にある古い蔵だった。
「お待たせしましたな! ここなら旦那の重さでも、床が抜ける心配は万に一つもございません!」
商人が自信満々に扉を開け放つ。
そこはかつて米蔵として使われていた建物を改装した離れで、床は年季の入った分厚い石組みで構成されていた。
東の大陸の繊細な木造建築では、竜狩りの圧倒的な質量は脅威でしかないが、ここならば岩山と同じだ。
「……よかった、オーンスタインさん。ここなら安心して休めますね」
小さな魔法使いはホッと胸を撫で下ろすと、腰の革袋から重みのある金貨を数枚取り出し、商人の手に握らせた。
白金貨を出すまでもない。この大陸でも、西の金貨の輝きは最高級のもてなしを約束させるに十分だった。
「おおっ、これはこれは! 痛み入りますな! すぐに最高の夕食を運ばせましょう!」
商人は目を細め、何度も頭を下げながら、弾むような足取りで母屋へと消えていった。
やがて運び込まれたのは、湯気を立てる炊きたての米と、香ばしく焼かれた川魚、そして山菜の汁物だ。
小さな魔法使いは、慣れない東の「箸」という二本の棒に苦戦しながらも、少しずつ食事を口に運ぶ。
「……ん、おいしい。オーンスタインさんは、これ、食べてみてください」
彼女は自分の皿から、身の詰まった魚を一口分切り分けると、彼の方へ差し出した。
竜狩りは無言で兜をわずかに持ち上げ、差し出された糧を静かに受け取る。
魔物のソウルを糧とする彼にとって、食事はもはや必須ではない。だが、彼女が「美味しい」と笑って差し出すものを拒むことは、彼にはできなかった。
『……美味、ダ』
「ふふ、そうでしょう?」
少女は満足げに微笑み、食事を続ける。
賑やかな宿場町の中心にありながら、この厚い石壁に囲まれた蔵の中だけは、驚くほど静かだった。
食後、部屋に一本の蝋燭が灯る。
竜狩りは床に胡坐をかき、長大な十字槍を膝に置いて、静かにその穂先を布で拭い始めた。
槍の表面で、青白い雷の火花が時折、静かに爆ぜる。
その横で、小さな魔法使いもまた、手入れ用の油と布を手に取った。
「失礼しますね、オーンスタインさん」
彼女は彼の真鍮鎧の隙間に溜まった、街道の泥や煤を、慈しむように丁寧に拭き取っていく。
救い出されたあの日、絶望の中で見上げた黄金の輝き。
その輝きを絶やさぬように、彼女はこの瞬間の奉仕に、ありったけの恋心を込めていた。
(……いつか,、この旅も終わってしまうのかな)
布を動かす手が、ふと止まる。
彼が探している「主君」を見つけたとき。
あるいは、彼がこの四方世界での役目を終え、神話の故郷へと帰る術を見つけたとき。
そのとき、隣に並ぶのは、名もなき小さな魔法使いではないかもしれない。
(……嫌だ。ずっと、このままでいたい)
盲目的で、独占的な恐怖が胸をよぎる。
彼を地獄から連れ出してくれた恩人として崇めながら、同時に、彼をこの世界に、自分の隣に縛り付けておきたいという歪な願い。
「オーンスタインさん……。私、ずっと、あなたの隣で魔法を唱えてもいいですか?」
縋るような、消え入りそうな声。
竜狩りは槍を置くと、巨大なガントレットで彼女の小さな肩を、壊れ物を扱うようにそっと抱き寄せた。
『……アア。……共ニ、行コウ』
辿々しくも、一切の迷いがない誓い。
少女は彼の冷たい鎧に額を預け、そこに微かに残る戦いの熱気と、彼という存在の確かさを感じていた。
蔵の窓の外では、宿場町の提灯が夜風に揺れている。
東の大陸の夜は深く、竜鳴の峰へと続く道はまだ遠い。
しかし、石床の冷たさも感じさせないほどの確かな温もりが、二人の間には流れていた。