落日の竜狩り ―真鍮の鎧と主への誓約―   作:もいもい130

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第三十二話:【雨上がりの絶景と、海を割る遺跡の橋】

 

 

第一部:止んだ雷鳴と、ただの空

 

 

竜鳴の峰を万年の間包み込んでいた暗雲が、音を立てて割れていく。

 

それは、世界の理が一つ、静かに書き換えられた瞬間だった。

 

空の向こうから差し込んだのは、黄金の雷光ではなく、ただの静かな朝日だった。

冷たく肌を刺していた暴風雨は、いつの間にか優しい霧雨へと変わり、やがてそれすらも完全に上がりつつある。

 

山肌を叩きつけていた雨音が消え、代わりに、水滴が葉からこぼれ落ちる微かな音が周囲を満たしていた。

 

「……晴れましたね」

 

少女は、自身の杖の先に展開していた水と魔力の障壁を、ゆっくりと解除した。

もう、彼女の小さな体を守るための防壁は必要ない。

湿った風が彼女のフードをふわりと揺らし、頬を撫でていく。

 

彼女の視線の先には、黄金の騎士の背中があった。

 

オーンスタイン。

かつて神の都を守護していた、誇り高き『竜狩り』。

 

彼の足取りは、山を登ってきた時とは全く違っていた。

疲労の色は微塵もなく、その巨大な背中からは、周囲の空気すらも従えるような、静かで圧倒的な威圧感が放たれている。

 

神代の炎で鍛え直された十字槍は、彼が歩みを進めるたびに、呼応するように微かに黄金の残光を引いた。

そして、彼の内に溶け込んだ戦友の魂。

その重みと悲願が、今の彼を、より強固な『神の騎士』として立たせていた。

 

(……不思議だな)

 

少女は、自分の胸元にある獅子のペンダントをそっと指先でなぞった。

 

彼がかつての力を取り戻していくことに、あんなに恐怖を抱いていたはずなのに。

置いていかれるかもしれないと、泣きそうになっていたのに。

 

今、彼女の心にあるのは、どうしようもなく甘い安心感だった。

 

祭壇で不器用に頭を撫でてくれた、あの巨大な真鍮のガントレットの感触。

『世話ヲ、カケタ』という、ひどく掠れた、けれど確かな彼の言葉。

 

あの瞬間に、彼女の中の迷いはすべて消え去った。

彼がどこまで高みへ昇ろうとも、自分は必ず、その隣を歩き続ける。

そのためなら、どれほど過酷な魔法の修練も苦にはならないと。

 

「……待っててください、オーンスタインさん」

 

少女は誰に聞こえるでもなく、小さな声で呟いた。

そして、一歩一歩、その大きな背中を見失わないように、しっかりと泥濘む登山道を踏みしめていく。

 

二人は、静まり返った山肌をゆっくりと下っていった。

 

やがて、眼下に朽ちかけた石の祠が見えてきた。

登頂の際、案内役の商人を待たせておいた山の中腹だ。

 

「商人さーん! 戻りましたよー!」

 

少女が両手を口に当てて、明るい声を張り上げた。

嵐が去った静かな山に、その声はよく響いた。

 

祠の陰から、ビクッ、と何かが飛び上がる音がした。

そして、泥だらけの分厚い外套に身を包んだ商人が、恐る恐る顔を覗かせる。

 

「ひぃっ……! だ、誰ですかな……!」

 

商人は、一晩中恐怖と寒さに震えていたのだろう。

顔は真っ青で、目の下には深い隈ができ、唇はカタカタと小刻みに震えていた。

 

だが、霧雨の向こうから歩み寄ってくる二人の姿を認めた瞬間。

 

「あ……ああ……っ!」

 

商人は、文字通り腰を抜かして、その場にへたり込んだ。

 

「生きて……生きて戻られたのですか……! あの狂ったような雷鳴と、凄まじい金属の激突音が響き渡って……私はてっきり、お二人はあの関所を塞ぐ化け物に食い殺されたものだと……!」

 

商人は両手で顔を覆い、安堵のあまりボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。

 

その「化け物」という言葉を聞いた瞬間。

少女は、微かに眉をひそめた。

 

「……化け物なんかじゃありません」

 

彼女の声は、決して声を荒らげたわけではない。

だが、そこには商人をたじろがせるほどの、静かで、きっぱりとした怒りと敬意が込められていた。

 

「え……?」

 

「あの石橋の関所を守っていた方は、とても誇り高い騎士様です。……オーンスタインさんが、その呪縛を解いて、安らかに眠らせてくれました」

 

少女は、後ろに立つオーンスタインを庇うように、いや、彼の内に眠る戦友の魂を汚させないように、まっすぐな瞳で商人を見据えた。

あの狂った嵐の中で、言葉を持たぬ残骸にさえ祈りを捧げた黄金の騎士の哀しみを、彼女は誰よりも近くで見てきたのだから。

 

商人は、その小さな少女から放たれる気迫に圧され、思わず言葉を失った。

 

やがて商人は、涙を拭いながらゆっくりと顔を上げた。

そして、彼女の後ろから静かに歩み寄ってくる巨大な黄金の鎧を見上げた。

 

「……あ、あ……」

 

商人の口から、言葉にならない声が漏れた。

彼は、登頂前に見たオーンスタインの姿をよく覚えている。

 

圧倒的な武力と巨体を持つ、恐ろしい化け物。

人間の言葉を介さず、ただ暴力を振り撒く亡者のような存在。

それが、商人にとってのオーンスタインの認識だった。

 

だが、今の彼から放たれる気配は、以前とは全く異なっていた。

 

恐怖ではない。

ただ、そこに在るだけで、思わず平伏したくなるような、純粋で強烈な威圧感。

 

雨上がりの光を反射して眩く輝く、真鍮の獅子鎧。

静かに佇んでいるだけなのに、彼を中心に世界が回っているかのような、絶対的な存在感。

 

それは、神代の昔、人間たちが遥か天上の空を見上げ、畏れ敬った『本物の神』の姿そのものだった。

 

「ひれ伏せ……ひれ伏さねば……」

 

商人は何かに取り憑かれたように呟き、泥だらけの地面に額を擦り付けた。

ガタガタと震える体は、恐怖からではなく、魂の根底に刻まれた根源的な畏敬の念からくるものだった。

 

「あ、あの、商人さん? そんなに畏まらなくても……」

 

少女は慌てて商人を止めようとしたが、商人は額を地面に擦り付けたまま、ぶつぶつと祈りの言葉を紡ぎ続けている。

 

オーンスタインは無言のまま、そんな商人の姿を見下ろしていた。

彼は、かつて神の都で、多くの人間たちからこのように崇められてきたのだろう。

彼にとって、この商人の反応は、むしろ「本来の扱い」に戻っただけなのかもしれない。

 

少女は、少しだけ困ったようにオーンスタインを見上げた。

彼は何も言わず、ただ兜の奥で静かに息をついたようだった。

 

「もう……。オーンスタインさん、少しだけ威圧感を引っ込めてもらえませんか?」

 

少女のその言葉は、畏れ敬う神に向けるものではなく、ただの親しい相棒に向ける、ごく自然な頼み事だった。

 

その様子を見た商人は、さらに驚愕のあまり目を丸くした。

 

この恐るべき『神』のような存在に対し、この小さな少女は、全く物怖じせずに話しかけている。

それどころか、呆れたような態度すら見せているのだ。

 

(この娘は……一体、何者なのだ……?)

 

商人の脳裏に、そんな疑問が浮かぶ。

だが、次の瞬間、商人はさらに信じられない光景を目にした。

 

オーンスタインが、少女の言葉に応じるように、ほんの微かに、本当に微かにだが、己の放つ覇気を抑え込んだのだ。

 

周囲の空気をピリピリと震わせていた雷の気配が、スッと薄まる。

それは、彼が明確に少女の意思を汲み取り、彼女の言葉に従ったという証拠だった。

 

「……ほら、商人さん。顔を上げてください。私たちは、あなたを案内役として雇ったんです。こんな所で祈られても困ります」

 

少女は、少しだけ誇らしげに胸を張って、商人に手を差し伸べた。

 

神のような騎士を隣に侍らせ、対等に口を利く少女。

その姿は、商人の目に、ある種の神々しさすら帯びて映った。

 

「は、はい……! 申し訳ありません……!」

 

商人は慌てて少女の手を取り、ふらつく足で立ち上がった。

 

彼は、もうオーンスタインを「恐ろしい化け物」だとは思っていなかった。

同時に、この少女を「ただの子供」だとも思っていなかった。

 

この二人は、自分がこれまで出会ってきたどの冒険者とも違う。

人智を超えた、はるか高みにいる存在なのだ。

 

「さて、と……」

 

少女は、パンパンと外套の泥を払いながら、周囲を見渡した。

 

「ずいぶんと冷え込みましたし、少しだけ休みましょうか。商人さんも、一晩中震えていて大変だったでしょう?」

 

彼女の提案に、オーンスタインは無言でゆっくりと頷いた。

彼もまた、神代の儀式を終え、戦友のソウルを受け継いだばかりだ。

少しばかりの休息は、彼の内に馴染み始めた新たな力を安定させるためにも、必要な時間だった。

 

こうして、かつて万年の嵐が吹き荒れていた竜鳴の峰の中腹で。

神代の騎士と、彼を愛する小さな魔法使い、そして運命の底から生還した一人の商人は、束の間の休息を取ることになった。

 

 

第二部:西からの凶報と、忍び寄る「黒い泥」

 

 

朽ちた祠の陰で、小さな焚き火がパチパチと心地よい音を立てていた。

 

雨は完全に上がり、雲の隙間から差し込む朝の光が、濡れた山肌をキラキラと輝かせている。

冷え切っていた空気に、薪の燃える温かな匂いが溶け込んでいった。

 

「ふぅ……」

 

少女は焚き火のそばに座り、自身の杖を両手で軽く握りしめた。

目を閉じ、深く静かに息を吸い込む。

 

彼女は今、魔法の集中力を極限まで高めていた。

ただ水を「生み出す」だけの初級魔術ではない。

対象に染み込んだ水分だけを正確に感知し、分離させるという、極めて繊細な魔力操作。

 

「……《抽出(ドロー)》」

 

少女が短く呪文を唱えると、彼女自身の濡れたローブや、向かいに座る商人の分厚い外套から、無数の水滴がふわりと宙に浮き上がった。

それはまるで、時間が逆回りに進んでいるかのような幻想的な光景だった。

 

空中に集められた水滴は、少女の杖の先で一つの大きな水球となる。

彼女はそれを、焚き火から少し離れた地面へとバシャリと捨てた。

 

「おおっ……! こ、これは驚いた!」

 

商人は、すっかり乾いて軽くなった自身の外套を触り、目を丸くした。

 

「まるで、最高級の乾燥魔法陣を通したかのような仕上がりだ。お嬢さん、あなたはこれほど高度な水魔術の使い手だったのですか……!」

 

「えへへ……。最近、ちょっとだけコツが掴めてきたんです」

 

少女は照れくさそうに笑いながら、今度はオーンスタインの方を向いた。

 

黄金の真鍮鎧の隙間に入り込んだ水分も、彼女の魔術によって綺麗に弾き出され、鎧は本来の美しい輝きを取り戻している。

 

(……私だって、少しずつ強くなってる)

 

彼女の胸の奥には、確かな自信が芽生え始めていた。

祭壇で誓った「絶対に彼の隣に立ち続ける」という強烈な覚悟が、彼女の精神を研ぎ澄まし、魔術の練度を飛躍的に向上させていたのだ。

彼女の魔術は、もはやただの道中の便利屋の域を越えようとしている。

 

オーンスタインは乾いた己の腕を軽く動かし、不快な湿り気が消え去ったことを確認すると、少女に向かって静かに一度だけ頷いた。

その労いの仕草に、少女は嬉しそうに目を細めた。

 

「いやはや……本当に、何から何まで命を救われました」

 

商人は焚き火に両手をかざしながら、改めて深く頭を下げた。

 

「お二人には、いくら感謝してもしきれません。案内役として雇われた身でありながら、私はただ震えていただけで……。せめて、港に戻った暁には、ありったけの礼金を……」

 

「お金はいりませんよ」

 

少女は首を振った。

 

「元々、私たちが無理を言ってこんな危険な山まで案内してもらったんですから。無事に下山できたら、それで十分です」

 

彼女の言葉に、商人はますます恐縮したように身を縮めた。

 

しかし、商人という生き物は、受けた恩をそのままにしておけるほど図太くはない。

彼は何か自分に提供できるものはないかと、必死に記憶を探り始めた。

 

「……そういえば」

 

商人はふと顔を上げ、声のトーンを少しだけ落とした。

 

「お二人は、確か『西の辺境の大陸』から、海を渡ってこちらの東の大陸へ来られたのですよね?」

 

「はい。そうですけど……何かあったんですか?」

 

少女が小首を傾げると、商人は焚き火の炎を見つめながら、重々しい口調で語り始めた。

 

「実は最近、私の港に入ってくる西の貿易船から、ひどく不穏な噂を聞くのです。西の辺境……おそらくお二人の故郷のあたりで、小鬼(ゴブリン)や獣たちが、異常な凶暴化を見せていると」

 

「凶暴化……? でも、ゴブリンは元々凶暴な生き物ですよ?」

 

少女は、かつて自分たちのパーティーを全滅に追いやった、あの薄汚い小鬼たちの姿を思い出しながら言った。

 

「ええ、もちろんそうです。ですが、噂によれば単なる数の暴力ではないのです。……連中、まるで『黒い泥』のような得体の知れない闇に飲まれ、別の恐ろしい化け物に変異しているらしいのです」

 

「黒い泥……?」

 

「はい。その泥に汚染された小鬼は、常軌を逸した膂力と狂気を持ち、痛みすら感じないとか。すでに辺境のいくつかの村や街が、その変異した化け物の群れに飲み込まれたという話すらあります」

 

商人の言葉に、少女は息を呑んだ。

 

辺境の街。

それは、オーンスタインと出会い、彼が自分を救い出してくれた始まりの場所。

そして、冒険者ギルドの受付嬢や、不器用だが優しい鍛冶師など、世話になった人々がいる場所だ。

 

そこが今、正体不明の『黒い泥』によって危機に瀕している。

 

(みんな、無事なのかな……)

 

少女の胸に、冷たい不安がよぎった。

 

だが、その瞬間だった。

 

——ピクリ、と。

 

焚き火の向こう側に座っていたオーンスタインの巨体が、わずかに動いた。

 

「オーンスタイン、さん……?」

 

少女が声をかけるより早く、周囲の空気が一変した。

つい先ほどまで彼から放たれていた、神聖で威厳のある覇気ではない。

 

それは、刃のようによく冷えた、研ぎ澄まされた『殺気』だった。

 

オーンスタインは無言のまま立ち上がり、西の空を——遥か彼方にある、かつて旅立った辺境の大陸の方角を、兜の奥の瞳で鋭く睨み据えていた。

 

『黒い泥』。

理性を奪い、生きとし生けるものを狂暴な化け物へと変異させる、得体の知れない闇。

 

その商人の言葉が、彼の魂の底に眠る、遠く凄惨な記憶を呼び覚ましていた。

 

かつて、彼の故郷である神の都を脅かし、世界を根底から食い破ろうとした理不尽な闇。

ダイスの目すら無視して盤面を黒く塗りつぶす、外宇宙の汚染。

 

『深淵(ジ・アビス)』。

 

そしてオーンスタインの脳裏に、もう一つの記憶がフラッシュバックする。

狼の指輪を預け、たった独りでその底知れぬ闇へと挑み——やがて深淵に飲まれ、誇り高き魂を狂気に染められてしまった、愛すべき青き甲冑の戦友の姿が。

 

ジリッ……!

 

オーンスタインの握りしめた真鍮のガントレットから、制御しきれない黄金の雷が微かに漏れ出し、足元の小石を弾き飛ばした。

 

「ひっ……!?」

 

商人がその異様な殺気に当てられ、再び悲鳴を上げて後ずさる。

 

「オーンスタインさん!」

 

少女は慌てて立ち上がり、彼に駆け寄った。

そして、雷が爆ぜている彼の手を、自身の小さな両手で包み込むようにギュッと握りしめた。

 

「大丈夫です。……大丈夫ですよ」

 

彼女は、彼が何に対してこれほど激しい怒りと哀しみを抱いているのか、詳しいことは分からない。

しかし、彼の魂がかつてないほどに深く傷つき、同時に熱く燃え上がっていることだけは理解できた。

 

少女の温かく柔らかい手の感触に、オーンスタインはハッと我に返ったように動きを止めた。

兜の奥の視線が、自身の手を握りしめる小さな相棒へと向けられる。

 

周囲を満たしていた冷たい殺気と雷が、スッと霧散していく。

 

「……申し訳ありません、商人さん。彼、ちょっと故郷のことを思い出してしまったみたいで」

 

少女はオーンスタインの手を握ったまま、商人を振り返って微笑んだ。

 

「……いえ、私の方こそ、つまらぬ不安を煽るようなことを申しました」

 

商人は冷や汗を拭いながら、安堵の息をついた。

 

オーンスタインは再び無言になり、ゆっくりと腰を下ろした。

だが、その兜の奥で燃える光は、決して消えてはいなかった。

 

西の大陸を蝕み始めた『黒い泥』。

もしそれが、かつて同胞を奪った『深淵』と同じものであるならば。

 

この四方世界で、再びあの悲劇を繰り返させるわけにはいかない。

黄金の騎士の魂に、新たなる、そして決して退くことのできない戦いの予感が、静かに、しかし確実に刻み込まれていた。

 

 

第三部:黄金の都の残滓と、海を割る橋

 

 

——それは、彼がまだ『神の都(アノール・ロンド)』の大広間を守護していた頃の記憶。

 

永遠の太陽に照らされた、黄金と白亜の王城。

その最も奥深く、神々が集う円卓の間には、重く冷たい静寂が張り詰めていた。

 

上座に座すのは、世界に火をもたらした絶対の主神、大王グウィン。

そしてその御前に片膝をつくのは、王の剣たる『四騎士』たちであった。

 

『……ウーラシールの地が、闇に飲まれたと』

 

四騎士の長であるオーンスタインが、兜の奥で低い声を絞り出した。

隣に控える巨漢、鷹の目のゴーが、重々しく首を縦に振る。

 

『然り。盲の我の目にも、あの地から立ち昇るどす黒い気配が見える。……あれは、我ら神族の火を脅かすものだ』

 

『ただの闇ではない』

 

玉座のグウィン王が、忌々しげに、そして微かな恐怖を孕んだ声で告げた。

 

『あれは、人の子が内に秘める「暗い魂」……人間性の暴走だ。矮小なる者どもの澱んだ情念が肥大化し、世界の理を食い破る泥となったのだ』

 

深淵(ジ・アビス)。

光を喰らい、理性を奪い、生きとし生けるものを異形の化け物へと作り変える、呪われた暗黒の泥。

 

『放っておけば、いずれ都の火も飲み込まれよう。誰かが、あの泥の底へ赴き、源を絶たねばならぬ』

 

王の言葉に、円卓の間に沈黙が落ちた。

深淵は、神族の力である雷すらも侵食する。赴けば、二度と正気では戻れぬかもしれない死地。

 

だが、その沈黙を破り、力強く立ち上がった者がいた。

 

『我が剣は、深淵を歩むもの』

 

青きマントを翻し、狼の指輪をはめた騎士が、王の前に進み出た。

深淵歩きのアルトリウス。

オーンスタインにとって、誰よりも信頼し、背中を預け合った無二の戦友。

 

『我が主よ。このアルトリウスが、不浄の泥を浄化してご覧に入れましょう』

 

『……行く気か、アルトリウス』

 

オーンスタインが静かに問う。

アルトリウスは振り返り、兜越しにニッと笑ったように見えた。

 

『長(オーンスタイン)よ。お前は都の守りを頼む。……俺には、シフ(狼)がついているからな』

 

彼の背後で、王の暗殺者である王の刃キアランが、祈るように両手を組んで俯いていた。

それが、誇り高き青き騎士の、最期の姿だった。

彼は深淵に挑み——そして、誰にも看取られることなく、闇に狂って死んだのだ。

 

     *

 

「……オーンスタインさん? 大丈夫ですか?」

 

心配そうな少女の声と、自身の手を包み込む柔らかな温もりが、オーンスタインの意識を現実へと引き戻した。

 

『竜鳴の峰』の中腹。

パチパチとはぜる小さな焚き火の音と、雨上がりの澄んだ空気。

 

ここは神の都ではない。

もう大王グウィンも、アルトリウスもいない。

だが、商人の口から語られた西の大陸の危機——生き物を狂暴な化け物へと変える『黒い泥』の噂は、彼の魂の古傷を深く抉っていた。

 

人間性の暴走、深淵。

もし、かつて故郷の世界を滅ぼしかけたあの闇が、この四方世界の理すらも食い破り、西の辺境に現れたのだとしたら。

そして、かつての主である「無名の王」が、あの地で独り、その脅威と戦っているのだとしたら。

 

(……行カネバ)

 

黄金の騎士の内に、猛烈な使命感が燃え上がった。

戦友が散った、因縁の闇。

今度こそ、友を見送るのではなく、己の十字槍でその泥を貫かねばならない。

 

だが、その強大な闇を討つためには、今の己の力だけでは足りない。

天の火で十字槍を鍛え直したとはいえ、未だ全盛の半分にも満たないこの身では、深淵の底には届かない。

 

まずは、主(無名の王)の御前へ辿り着き、真実を知らねばならない。

 

オーンスタインは静かに立ち上がり、商人を見下ろした。

その瞳には、先ほどの暴走しそうな殺気はなく、王の剣としての静謐な覚悟が宿っていた。

 

「商人さん」

 

少女も立ち上がり、オーンスタインの意志を代弁するように言った。

 

「その『嵐を操る王』に繋がりそうな場所……『嵐詠(あらしよみ)の島』でしたっけ。そこへ行くには、どうすればいいんですか?」

 

商人は焚き火の炎から目を離し、東の空を指差した。

 

「ここから山を下り、東の最果てにある港町へ向かってください。ですが……その島へは、船で近づくことはできません。周囲の海域は、一年中荒れ狂う嵐に守られていますから」

 

「船が駄目なら、どうやって渡るんです?」

 

「……『遺跡の橋』です」

 

商人は、まるでおとぎ話でも語るかのような口調で言った。

 

「港町の外れから、海に向かって延々と続く、途方もなく巨大な石橋の残骸があります。神代の巨人が建造したと伝わるその橋を、自らの足で歩いて渡るしか、島へ至る道はありません」

 

それを聞き、オーンスタインは無言で頷いた。

海を割って続く、神代の遺跡。

彼の内に溶け込んだ『竜狩りの鎧』のソウルが、その道の先に主がいるのだと、歓喜するように熱く脈動している。

 

「分かりました。行きましょう、オーンスタインさん」

 

少女は自身の杖を軽く振り、魔力の残滓を霧散させた。

彼女の瞳には、西の故郷を心配する色と、それ以上に、隣に立つ騎士を支え抜くという強い決意が宿っていた。

 

「……ン」

 

オーンスタインは短く喉を鳴らし、東の麓へ向かって歩みを進め始めた。

分厚い真鍮の鎧が、規則正しい硬質な音を響かせる。

 

三人が朽ちた祠を離れ、完全に晴れ渡った山道を少し下った時だった。

 

「あっ……!」

 

少女が思わず声を上げ、足を止めた。

前を歩いていたオーンスタインも立ち止まり、静かに眼下を見下ろす。

 

視界が開けた先。

東の大陸の広大な緑の平原の、さらに遥か遠く。

 

朝日に照らされて黄金色に輝く、広大な海が広がっていた。

そしてその海面には、港町から沖合の暗雲に向かって、一直線に伸びる巨大な石のアーチ——『遺跡の橋』のシルエットが、微かに、しかし確かに浮かび上がっている。

 

息を呑むような、美しくも退廃的な絶景。

 

「綺麗……」

 

少女は風にフードを揺らされながら、その光景に見入っていた。

オーンスタインの兜の奥の瞳も、静かにその遠い道程を見据えている。

 

かつての故郷を食い破った『深淵』の影が、西の大陸に忍び寄っている。

だが、後ろを振り返る刻ではない。

 

二人の歩むべき道は、あの荒れ狂う海を越えた先にある。

新たなる使命と、確かな絆を胸に秘め。

黄金の騎士と小さな魔法使いは、東の最果てを目指し、果てしない旅路の次なる一歩を踏み出した。

 

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