第一部:潮風の街と、商人との別れ
竜鳴の峰の過酷な山道を抜け、さらに数日の長閑な街道を下った先。
二人の視界に、ついに果てしなく広がる青が飛び込んできた。
東の大陸の最果てに位置する、巨大な港町。
これまでの峻厳な山々や、薄暗い森、そして狂ったような暴風雨とは全く異なる光景がそこにはあった。
鼻腔をくすぐる、強い潮風の匂い。
絶え間なく響く波の音と、上空を舞う海鳥たちの甲高い鳴き声。
そして何より、多様な国々の人々が行き交う、途方もない活気と熱気が街全体を包み込んでいる。
万年の嵐が吹き荒れていた禁足地を越え、ようやく辿り着いた「人の営み」の最前線。
霧雨に濡れることのない、カラリと晴れ渡った空が、二人の旅の再開を祝福しているかのようだった。
「……では、お二人とも。私はここでお別れとなります」
港の片隅、様々な物資が積み上げられた巨大な商船の前。
案内役を務めた商人は、二人に真っ直ぐに向き直り、深々と頭を下げた。
その顔には、死線を超えた安堵だけではない。
目の前の二人に対する、絶対的な畏敬と深い感謝が刻まれていた。
神代の騎士と行動を共にするという、一生に一度あるかないかの奇跡を体験した男の、晴れやかな顔だった。
彼は、自身の商会から用意させた大きな麻袋を、少女の前にそっと差し出した。
「これは、私からのささやかな餞別です。日持ちのする干し肉や東の果実、それに、特殊な製法で不純物を抜いた良質な水が入っています。海の上では、真水は何よりも貴重ですからな」
「こんなにたくさん……! ありがとうございます、商人さん」
少女が両手でしっかりと受け取ると、商人はさらに、丁寧に折り畳まれた一着の真新しい外套を差し出した。
それは、深い青色をした、上質な海獣の毛皮で裏打ちされた防寒着だった。
「東の海は、山の嵐とはまた違った底冷えがします。お嬢さん、あなたは私の命の恩人です。せめてこれくらいは受け取ってください」
「……大切に使わせてもらいます。本当に、何から何まで」
少女は外套を胸に抱きしめ、深く頭を下げた。
その後ろで、オーンスタインも無言のまま、商人に向けて静かに一度だけ頷いた。
その威風堂々たる労いの仕草に、商人は再び深く、地面に額がつくほどの一礼をする。
「いつか西の大陸の……あの『黒い泥』の騒ぎが落ち着き、平和が戻ったら。その時はまた、商いをしに向かいます。どうか、ご無事で」
「ええ、必ず。……お元気で、商人さん!」
少女は力強く手を振り、商人の背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、ずっとその場で見送っていた。
「さて、と」
少女は新しい青い外套を羽織り、ぐるりと首を回した。
海風を防ぐ上質な生地は、驚くほど軽く、そして温かかった。
彼女は自身のローブのポケットの上から、ずっしりと重い『財布』の感触を確かめる。
「オーンスタインさん、私たちも市場を回って、島へ渡るための最終準備をしましょうか」
少女が振り返ると、黄金の騎士は静かに頷き、彼女の隣に並んだ。
二人は、活気あふれる市場の大通りへと歩みを進める。
すれ違う人々は皆、見上げるほど巨大で神々しい真鍮の鎧に驚き、思わず道を空けた。
無理もない。彼がそこに立っているだけで、まるで神話の彫像が動き出したかのような、圧倒的な存在感を放っているのだから。
だが、オーンスタイン自身は周囲の喧騒や好奇の目に動じることなく、ただ静かに、相棒である少女の歩幅に合わせて歩調を緩めていた。
以前の彼なら、目に付いたものに対して無造作に金貨の袋を放り投げ、周囲を大混乱に陥らせていたかもしれない。
しかし今は違う。
資金の管理も、商人との交渉も、すべて少女が一手に担っている。
「すみません、この軟膏を二つ。それから、そっちの薬草も」
少女が店主としたたかに値切り交渉をしている間、オーンスタインはその背後で、一切の身動きをせずに待機している。
彼はただ待っているだけではない。
兜の奥の視線は、市場に並べられた見慣れぬ品々を、密かに、しかし鋭く観察していた。
ふと、彼の足が止まった。
視線の先にあるのは、東の近海で獲れたばかりの、巨大で奇妙な形をした深海魚や、硬い甲殻を持つ海の魔物たちの死骸が並ぶ鮮魚店だ。
オーンスタインは無言のまま、その奇妙な海の生き物たちを見下ろしていた。
神の都アノール・ロンドには存在しなかった、泥臭くも生命力に溢れた海の産物。
彼はそれに触れようとしたり、下劣な興味を示したりすることは一切ない。
ただ、己の知らない未知の世界の風景を、神代の騎士としての静謐な威厳を保ったまま、瞳の奥に焼き付けているようだった。
「……ひっ」
屋台の主が、巨大な黄金の騎士に睨み下ろされていると勘違いし、恐怖で震え上がっている。
彼の放つ静かな威圧感は、一般の人間にとってはそれだけで致死量のプレッシャーなのだ。
「あ、すみません。うちの相棒、ちょっと東の海のお魚が珍しかったみたいで」
交渉を終えた少女が小走りで戻ってきて、屋台の主に愛想よく笑いかけた。
そして、オーンスタインの巨大なガントレットの端を、怒るでもなく、ごく自然な手つきでちょこんと摘む。
「行きますよ、オーンスタインさん。そろそろ、あの『橋』の入り口に向かわないと」
「……ン」
オーンスタインは短く喉を鳴らすと、素直に少女の引きに身を任せ、再び歩き出した。
神代の騎士と、彼を導く魔法使いの少女。
言葉は少なくとも、そこには確かな信頼と、対等な相棒としての穏やかな時間が流れていた。
西の大陸の危機と、これから向かう絶海の島。
過酷な運命が待ち受けていることを知りながらも、この最果ての港町での束の間の日常は、二人の絆をより一層確かなものにしていくのだった。
やがて二人は、港町の喧騒を抜け、潮風がひときわ強く吹き付ける断崖絶壁へと辿り着く。
そこが、次なる神話の舞台への入り口であった。
第二部:神代のスケールと、海を割る道
港町の喧騒が、背後で少しずつ遠ざかっていく。
二人が歩みを進めた先は、街の外れにある海に突き出た断崖絶壁だった。
一般の人間は決して近づかない、立ち入りが固く禁じられている荒涼とした岬。
そこには、潮風を遮るものは何一つなく、ただ見渡す限りの広大な海と、東の果てに渦巻く分厚い暗雲だけが広がっていた。
「ここが……」
岬の先端に立った少女は、吹き付ける強烈な海風に青い外套をはためかせながら、息を呑んだ。
眼下の荒波を割るようにして、はるか沖合の暗雲に向かって一直線に伸びる、途方もない建造物。
それが、商人から教えられた『遺跡の橋』であった。
遠目から見た時は、ただの巨大な石のアーチに過ぎないと思っていた。
だが、間近でその『入り口』を前にした少女は、自分自身のちっぽけな想像力が完全に打ち砕かれるのを感じた。
「……大きすぎる」
少女の口から、震える声が漏れた。
それは、人間の常識で作られた『橋』ではなかった。
橋に敷き詰められた石畳のブロック、そのたった一つが、先ほどまで彼らが歩いていた港町の、酒場や民家一軒分ほどの大きさがあるのだ。
石の柱に至っては、天を突く山そのものを切り出して海に突き立てたかのような、狂気的なまでのスケール感だった。
どれほどの年月、この激しい荒波に洗われ続けてきたのだろうか。
表面にはびっしりとフジツボや分厚い海藻が張り付き、所々は風化して崩落している。
だが、その橋の根幹を成す構造は、微塵も揺らいでいない。
人間のちっぽけな文明など、数千回は優に滅んでしまうほどの悠久の時を、この橋は海の上で耐え抜いてきたのだ。
「神代の巨人が建造した、って……本当だったんですね」
少女は、首が痛くなるほど見上げて、巨大なアーチを見つめた。
人間の手では、こんな家ほどの大きさのある石材を切り出すことも、海の上に運ぶことも絶対に不可能だ。
四方世界がまだ、途方もない力を持った神々や巨人たちの遊び場であった時代。
その神話の時代の遺物が、今もこうして東の最果てに口を開けている。
圧倒的な未知と、歴史の重みに当てられ、少女は足がすくみそうになるのを感じた。
だが。
彼女の隣に立つ黄金の騎士の反応は、全く異なるものだった。
ガシャン、と。
オーンスタインが、橋の入り口となる巨大な石畳の上に、静かに足を踏み入れた。
彼の兜の奥の瞳は、威圧的なスケールを持つ巨大遺跡を見上げても、微塵も揺らいではいない。
それどころか、彼はどこか懐かしむような、穏やかな仕草で、橋の欄干にあたる巨大な石柱へと歩み寄った。
分厚い真鍮のガントレットで、風化した冷たい石の表面を、そっと撫でる。
『……』
オーンスタインの内に、遠く、暖かな郷愁が広がっていた。
この途方もないスケール。
見上げるほどの高さ。
見渡す限りの、幅の広い石の道。
それは、彼がかつて暮らしていた故郷——『神の都(アノール・ロンド)』の光景そのものだった。
彼の故郷は、神々と、それに仕える巨人たちのための都だった。
階段の一段一段が、人間の背丈ほどもあるのが当たり前だった。
大広間の扉は山のように高く、都の鍛冶場では、巨大な体躯を持つ心優しき巨人の鍛冶屋が、日夜、神代の鉱石を打ち据えていた。
この四方世界へ迷い込んで以来。
オーンスタインにとって、人間の作る街や建物は、すべてが狭く、小さく、窮屈で、壊れやすいミニチュアの箱庭のようだった。
油断すれば肩がぶつかって家屋を壊してしまいそうな、違和感と閉塞感に満ちた世界。
だが、この『遺跡の橋』は違う。
ここには、かつての彼の日常と同じ「正しい大きさ」があった。
彼ら神族が全力で槍を振るい、雷を放ち、縦横無尽に駆け回っても、決して壊れることのない、強固で雄大な盤石の舞台。
オーンスタインは、大きく息を吸い込んだ。
潮の匂いに混じって、石材の古びた匂いが胸に満ちる。
ここは、自分の知る世界に似ている。
この巨大な橋の向こうに、自分と同じ神代の時を生きる主——無名の王がいるのだという確信が、より一層深まっていく。
「オーンスタイン、さん」
少女の声に、オーンスタインは静かに振り返った。
彼女は、彼の背中を見つめながら、すべてを理解したような、優しい微笑みを浮かべていた。
彼女には、彼がこの場所で何を感じているのかが、手に取るように分かった。
威圧感に押しつぶされそうになっていた自分とは違う。
彼は今、かつての自分の居場所に似たこの景色に、安らぎさえ覚えているのだと。
(そうですよね。あなたにとっては、この大きさが……普通の景色だったんですものね)
少女は、胸元の獅子のペンダントをギュッと握りしめた。
彼が、かつてどのような世界で、どれほどのスケールの中で生きてきたのか。
その片鱗を、この巨大な橋が教えてくれた気がした。
人間の少女である自分には、この橋はあまりにも大きすぎる。
一段の段差を乗り越えるのすら、苦労するかもしれない。
物理的な大きさが、そのまま自分と彼との『住む世界の違い』を突きつけてくるようで、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
けれど。
(絶対に、置いていかれたりなんかしない)
少女は、唇をキュッと引き結び、自らの意志で、巨大な石畳の上へと足を踏み出した。
ドンッ、と、革靴が石を打つ音が響く。
「行きましょう、オーンスタインさん。この道の先に……あなたの探している人が、待っているんですよね」
少女は、強風に煽られながらも、真っ直ぐに黄金の騎士を見上げて言った。
その瞳には、未知への恐怖を塗り潰すほどの、強烈な覚悟と、彼への深く重い愛情が燃えていた。
どれほど世界が大きくても。
彼がどれほど高い場所へ昇っていこうとも。
魔法の杖を握りしめ、自分の足で、必ずその隣に追いついてみせる。
オーンスタインは、決意に満ちた小さな相棒の瞳を見つめ返し、深く、力強く頷いた。
『……ン』
短い呼応。
それは、神代の騎士が、彼女を真の相棒として認め、共にこの巨大な道のりを歩むという、確かな誓いであった。
海風が大きく唸りを上げ、二人の外套を激しく揺らす。
轟音を立てて砕け散る白波の飛沫が、巨大な石橋を濡らしていく。
神々が歩んだ、海を割る遺跡の道。
その果てしない旅路の第一歩が、今、静かに踏み出された。
第三部:橋上の歩みと、波間の影
海を割る巨大な遺跡の橋。
その上を歩むのは、人間にとっては途方もない苦難の連続だった。
容赦なく吹き付ける潮風は、山頂の嵐とはまた違う重さを持っている。
波が砕けるたびに、細かい塩水が雨のように降り注ぐ。
普通の冒険者であれば、数時間も歩けば体温を奪われ、塩で装備をガチガチにされて動けなくなっていただろう。
だが、今の二人には、それを跳ね除ける確かな力があった。
「……《水面の盾(アクア・ヴェール)》」
少女が杖を掲げ、短く詠唱する。
すると、彼女とオーンスタインの体を覆うように、薄く透明な水の皮膜が展開された。
それは、山頂で展開したような巨大で魔力消費の激しい障壁ではない。
必要最小限の範囲で、飛沫と冷たい潮風だけを滑らかに受け流す、極めて繊細で高度な魔力操作の結晶だった。
ザバーンッ!
足元の巨大な石の隙間から吹き上がった波飛沫が、二人に降りかかる。
だが、飛沫は少女の展開した透明な皮膜に触れた瞬間、反発するように弾かれ、一滴の塩水も二人を濡らすことはなかった。
「ふふっ。どうですか、オーンスタインさん」
少女は、荒れ狂う橋の上を快適に歩きながら、得意げに隣を見上げた。
「このくらいなら、歩きながらでもずっと維持できます。これでもう、市場で見たお魚みたいにびしょ濡れにはなりませんよ」
オーンスタインは、自身の鎧を濡らすことなく弾かれていく波飛沫を見て、感心したように兜を僅かに揺らした。
かつて彼がアノール・ロンドで共に戦った魔術師たちとも遜色のない、実戦的で無駄のない術の行使。
ただ守られるだけだった少女が、今や明確に「旅の環境を支配する」頼もしい相棒へと成長している。
彼は無言のまま、真鍮のガントレットで、ぽん、と少女のフードの頭を軽く叩いた。
『よくやった』という、彼なりの不器用な称賛のサインだった。
「えへへ……」
少女は嬉しそうに目を細め、胸元の『獅子のペンダント』を外套の上からそっと握りしめた。
彼に認められることが、何よりも誇らしい。
自分が彼の隣に立つ資格を、一つずつ証明できているような気がして、胸の奥が温かくなる。
二人は、海上の廃墟を静かに進んでいった。
見渡す限りの広大な青。
そして、その波間に延々と続く、崩れかけた巨大な石のアーチ。
所々で完全に崩落している場所もあるが、巨大なブロックの残骸が海面から突き出しており、オーンスタインの跳躍力と少女の魔法による補助があれば、飛び移って進むことができた。
美しくも、どこか寂寥感を誘う退廃的な光景。
そこには、人間の文明の喧騒は一切届かない。
神代の遺物と、荒れ狂う自然だけが支配する、静寂で孤独な世界だった。
だが、その孤独が、今の少女には心地よかった。
こんな世界の果てのような場所で、彼と二人きりで歩いている。
彼が神の世界へ帰るその日まで、この特別で甘やかな時間がずっと続けばいいのにと、密かに願ってしまうほどに。
しかし、神々の盤上である四方世界は、決して二人に平穏な散歩だけを許しはしなかった。
港町を出発して、半日が過ぎた頃。
太陽が西に傾き、海面が朱色に染まり始めた、その時だった。
——カサッ、カサカサカサッ……!
波の音とは違う、硬質なものが岩を擦るような、不気味な音が響いた。
「……え?」
少女が足を止める。
音は、前方の崩落した巨大な石畳の隙間から聞こえてきた。
ブクブクブク……と、橋の隙間から覗く海面が、異様に泡立っている。
そして、海藻とフジツボにまみれた暗い水底から、「それ」は這い上がってきた。
「な、何ですか……あれ……」
少女の顔が、一瞬で強張る。
巨大な石畳の縁に、巨大な鋏(はさみ)がかけられた。
それは、蟹のようであった。
だが、決してただの海の生き物ではない。
甲羅の大きさは、荷馬車ほどもある。
そして何より異様なのは、その分厚い甲羅の表面に、青白く発光する『結晶』がびっしりと無数に突き出していることだった。
神代の魔力が海に溶け出し、長い年月をかけて海の生物を変異させた成れの果て。
『大結晶蟹』。
カチカチカチッ!と、巨大な鋏が威嚇するように打ち鳴らされる。
さらに、不気味な足音は一つではない。
前方から、横の海面から、ぞろぞろと複数の巨大な結晶蟹たちが、二人の行く手を阻むように橋の上へと這い上がってくる。
「……っ」
少女は、即座に手にした杖を構え直した。
道中の簡単な防壁魔法から、戦闘用の攻撃と防御の魔力構成へと、瞬時に意識を切り替える。
だが、彼女が魔法を放つより早く。
バチィィィンッ……!!
隣から、目を焼くような黄金の閃光が弾けた。
オーンスタインが一歩前に出て、神代の炎で鍛え直された『竜狩りの十字槍』を構えていた。
彼の周囲の空気が、高密度の雷の魔力によってビリビリと歪む。
大広間の守護者であった彼の本能が、立ち塞がる外敵に対して、容赦のない排除の意志を示している。
(……島へ至る道は、やっぱり簡単じゃないですよね)
少女は、その頼もしい黄金の背中を見つめながら、小さく息を吐いた。
そして、自身の水魔術を、彼の雷と連携させるための戦術を頭の中で高速で組み上げる。
夕日に照らされる巨人の石橋の上。
波間の影から這い出した異形の魔物たちとの、新たな死闘の幕が開こうとしていた。