落日の竜狩り ―真鍮の鎧と主への誓約―   作:もいもい130

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第三話:【小鬼の伏屋】

 

 

## 第一部:荒野の独歩、飢えと誇りの天秤

 

陽光が、真鍮の兜を容赦なく熱している。

 

石造りの街を背にしてから、すでに数刻が経過していた。

オーンスタインは一人、遮るもののない乾いた荒野を歩み続けている。

 

かつて太陽の都アノール・ロンドで浴びた、神々の祝福のような柔らかな温もりは、この世界のどこにも存在しない。

今の彼にとって、天頂に居座るその輝きは、ただひたすらに体力を削り、判断力を鈍らせ、魂の残り火を吹き消そうとする執拗な呪詛(じゅそ)に近いものだった。

 

一歩、足を踏み出すたびに、乾燥した砂利が軋(きし)む音が重く響く。

かつては、この音すらも勇壮な凱歌の序曲だった。

雷鳴とともに古竜を貫く、神の騎士 Kingslayer(キングスレイヤー)の威容を告げる音。

 

だが今は、砂を噛むような、死に体の音に聞こえる。

 

「……っ」

 

喉が、焼けるように熱い。

 

ソウルによって満たされ、死すら超越していた神の肉体。

それが今や、ひどく卑俗で、生々しい「飢え」と「渇き」に支配されていた。

 

唾液は枯れ果て、喉の粘膜はひび割れた大地のように張り付いている。

呼吸をするたびに、熱せられた砂を肺に流し込んでいるような錯覚さえ覚えた。

 

かつて大聖堂の祭壇で、主の前で捧げた祈りを思い出す。

あの時、彼は「この命、いかようにも主のために捧げん」と誓った。

 

だが、その誓いが「安っぽいパン一欠片(ひとかけら)のために膝を突きそうになる」という泥臭い現実を孕(はら)んでいるとは、露ほども思わなかった。

 

彼は一度立ち止まり、獅子の籠手(ガントレット)で、ギルドから持ち出した依頼書を取り出した。

 

汚れ、端が破れかけた羊皮紙。

そこに記された文字は、彼にとっては意味を持たない線条の羅列でしかない。

 

だが、添えられた稚拙(ちせつ)な墨書きの挿絵が、今の彼にとって唯一の聖典であり、道標(みちしるべ)だった。

 

描かれているのは、天を突く二つの歪(いびつ)な岩山。

反映(はんえい)を描くようにその麓(ふもと)を縫うように流れる、細い川の曲線だ。

 

オーンスタインは、獅子の兜の奥で鋭い眼光を走らせた。

 

彼は、地図を読んでいるのではない。

この見知らぬ大地を、一つの「狩場」として読み解いているのだ。

 

古竜を追う狩人は、闇雲に荒野を彷徨(さまよ)いはしない。

竜が好む高嶺の気流、水の流れ、反映を映すような川、そして風が運ぶ微かな鱗(うろこ)の匂い。

それらを繋ぎ合わせ、獲物の居所を絞り込むのが、かつて彼が四騎士の隊長として磨き上げた「追跡の術」であった。

 

彼は、遠くの地平に微かに突き出た、二つの黒い突起に狙いを定めた。

あの岩山の形状、あるいは空気の淀(よど)み。

間違いなく、依頼書が示す場所がそこにある。

 

街道を外れ、背の低い潅木(かんぼく)が茂る獣道へと分け入る。

そこには、人々の生活の匂いはすでに途絶えていた。

 

代わりに漂ってきたのは、鼻を突くような不快な悪臭だ。

濡れた獣の脂。

放置され、腐敗しかけた生肉。

そして、弱き者を蹂躙(じゅうりん)し、その悲鳴を啜(すす)ることに悦びを感じるような、粘ついた悪意の残り香。

 

かつて古竜と対峙した際、その圧倒的な威圧感に魂が震えたことがある。

そこには恐怖と共に、ある種の崇高な畏敬(いけい)の念があった。

 

だが、今、風が運んでくる臭いには、一切の品性がない。

ただただ、醜悪で、卑俗な「澱(よど)み」があるだけだ。

 

ふと、足元に目が留まる。

 

湿った土の上に、小さな、だが確かな足跡が残っていた。

数体、いや十数体か。

その間を縫うように、重い荷物を引きずったような深い溝が、執拗(しつよう)に森の奥へと続いている。

 

略奪の痕跡だ。

奪われたのは、この地の民の大事な食料か、あるいは――。

 

オーンスタインは、十字槍を静かに握り直した。

 

身体を蝕(むしば)む倦怠感は、戦いの予感を前にして、一時的に意識の隅へと追いやられる。

戦士の血が、渇いた肉体を無理やり稼働させていた。

 

もしも、鷹の目ゴーがここにいたならば。

あの巨躯(きょく)でこの異空を見上げ、その盲目の目で、地平の彼方に蠢(うごめ)く群れの心臓を射抜いていただろうか。

 

あるいは、アルトリウスならば。

この泥臭い追跡を、その鋼の意志で一息に駆け抜け、闇ごと敵を裂いていただろうか。

 

かつての友たちの幻影が、陽炎(かげろう)のように脳裏をよぎる。

 

彼らなら、この見窄(みすぼ)らしい冒険者ギルドというシステムを笑い飛ばしただろうか。

それとも、自分と同じように、一枚の汚れた紙に縋(すが)って歩いただろうか。

 

答えは、乾いた風の中に消えた。

 

彼は一人、異郷の埃(ほこり)を鎧に纏(まと)いながら、その痕跡を辿り続ける。

一歩ごとに、真鍮色の鎧が鈍く輝きを放ち、長く不格好な影を落とす。

 

やがて、木々の隙間から漏れる空気が一段と冷え込み、不自然な静寂が辺りを包み込んだ。

鳥の鳴き声も、風に揺れる木の葉の音も消え、ただ粘り気のある死臭だけが、暗い岩の裂け目から溢れ出している。

 

ここだ。

 

依頼書に描かれた「双子の岩山」の影。

その内側に穿(うが)たれた、日の光を拒絶するような深淵の口。

 

オーンスタインは、獅子の兜の奥で、静かに、そして深く息を吐き出した。

 

飢えも、渇きも、孤独も。

今はすべて、十字槍の尖端へと収束させていく。

 

真鍮の騎士は、音もなく、その闇の中へと身を沈めた。

 

---

 

## 第二部:闇を穿つ一閃、狭所の死闘

 

一歩、闇へと踏み込む。

途端に、背後の外光が遠ざかり、冷たく湿った空気が全身を包み込んだ。

 

洞窟の内壁からは、粘り気のある水滴が絶えず滴り落ち、真鍮の鎧を濡らしていく。

鼻を突くのは、排泄物と腐肉、さらに獣の脂が混じり合った、吐き気を催すような小鬼(ゴブリン)特有の悪臭だ。

 

オーンスタインは、獅子の兜の奥で低く、長く息を吐いた。

 

ここは、彼がかつて戦場としてきた大聖堂の広間でも、雲海を見下ろす古竜の頂でもない。

天井は低く、横幅は両腕を広げることすら躊躇われるほどに狭い。

 

竜を狩るための、あの長大な十字槍を振るう空間など、どこにも存在しなかった。

 

本来、槍という獲物は、空間の広さを味方につける武器だ。

ましてや、彼の十字槍は、その複雑な形状ゆえに壁や天井に引っかかりやすい。

 

並の槍使いであれば、この環境に足を踏み入れた時点で、その武力の半分を奪われたも同然だろう。

だが、彼は「四騎士の隊長」と呼ばれた男だ。

 

道具に振り回されるような未熟さは、数千年の昔に捨て置いてきた。

 

ガサリ、と。

闇の奥で、何かが動く音がした。

 

小鬼の群れだ。

彼らは暗闇に慣れた眼で、黄金(真鍮)の侵入者を値踏みするように囲んでいる。

 

下卑た笑い声が、反響して鼓膜を叩く。

彼らにとって、この狭隘(きょうあい)な迷宮は絶対の優位を約束する狩場であり、長物を持つ騎士は、格好の餌食でしかない。

 

オーンスタインは、十字槍を低く構えた。

 

脇を締め、穂先を最短距離で敵へと向ける。

空間がないのなら、空間を必要とせぬ戦い方をするまで。

 

「ギギッ……!」

 

先陣を切った小鬼が、錆びた短剣を振りかざして跳躍した。

 

オーンスタインの動きは、最小限だった。

 

腕を振るのではない。

体幹の捻りと、わずかな踏み込み。

ただそれだけで、十字槍の穂先が、闇を裂いて奔(はし)った。

 

シュッ、という短い風切り音。

 

小鬼は悲鳴を上げる間もなく、その喉笛を正確に射抜かれた。

そのまま、引き抜く動作すら省略し、流れるような一突きで、背後に控えていた二体目の眉間を串刺しにする。

 

【精密刺突】。

 

それは、巨大な竜の硬い鱗の隙間を、一分の狂いもなく穿つために磨き抜かれた技。

小鬼の柔らかな肉を貫くなど、彼にとっては紙の膜を破るに等しい。

 

仲間が物言わぬ肉塊に変わる様に、小鬼たちの間に動揺が走った。

彼らは狭さを活かし、壁を蹴り、天井から降り注ぐようにして四方から肉薄(にくはく)する。

 

槍を戻す時間はない。

 

オーンスタインは、突き出した槍をそのままに、石突(いしづき)――柄の末端部分を逆の手で操った。

 

背後から飛びかかろうとした小鬼の頭蓋(ずがい)を、真鍮の石突が冷徹に捉える。

ぐしゃり、という嫌な音がして、小鬼の頭がザクロのように弾け飛んだ。

 

さらに、横から迫る刃に対し、彼は槍を盾にすることさえしなかった。

 

ただ、その「質量」をぶつけた。

 

真鍮の鎧を纏った巨躯そのものが、狭い通路において最強の鈍器と化す。

肩を入れ、体当たり一つで、小鬼の貧弱な肋骨を粉々に砕き、壁へと押し潰す。

 

蹂躙(じゅうりん)であった。

 

騎士道精神に基づいた、華麗な決闘ではない。

害獣を駆除するように、冷徹で、事務的な死の再生産。

 

だが。

 

数分と経たぬうちに、オーンスタインの呼吸が荒くなった。

 

ソウルの枯渇は、想像以上に彼の肉体を蝕(むしば)んでいる。

一撃ごとに、筋肉が悲鳴を上げ、視界がチカチカと明滅する。

空腹によって削られた気力は、薄氷(はくひょう)の上を歩くような危うさを孕(はら)んでいた。

 

「……ハァ、ハァ……」

 

闇の奥から、さらなる軍勢の気配がする。

この巣穴は、予想以上に深い。

 

小鬼たちは、同胞の死体を踏み越え、さらなる数で押し寄せようとしていた。

彼らは理解し始めていた。目の前の騎士が、いかに強大であっても、そのスタミナには限りがあることを。

 

包囲が狭まる。

槍の可動域を奪おうと、死に物狂いで縋(すが)り付こうとする小鬼の群れ。

 

オーンスタインの脳裏に、かつての戦場がよぎった。

数多の兵を率い、雷鳴とともに敵陣を切り裂いた、あの輝かしい日々。

 

指先に、微かな熱が灯る。

 

それは、今の彼が持ち得る、最後の切り札。

 

「――退け」

 

獅子の兜の奥、黄金の双眸(そうぼう)が鋭く光った。

 

祈りとともに、魂の底に残った「残り火」を、槍の穂先へと一点に集中させる。

 

バチッ、と。

 

青白い火花が散った、次の瞬間。

 

轟!

 

閉鎖空間の中で炸裂した雷は、彼自身の鼓膜をも震わせる爆音となった。

 

白光が洞窟内を昼間のように照らし出し、衝撃波が狭い通路を駆け抜ける。

前方から迫っていた小鬼の一団は、悲鳴を上げる間もなく炭化し、壁に黒い影を焼き付けて霧散した。

 

だが、その代償はあまりに大きかった。

 

放たれた「火花」は、かつての彼にとっては一呼吸の瞬きに過ぎない。

しかし、生身に等しい今の肉体にとって、それは全身の血管を引き千切るような強烈な負荷となった。

 

「ぐ、っ……!」

 

膝が、がくりと折れる。

十字槍を杖にしなければ、そのまま汚泥の中に崩れ落ちていただろう。

 

視界が真っ白に染まり、耳鳴りが止まない。

全身の毛穴から冷や汗が噴き出し、心臓が壊れた鐘のように激しく脈打っている。

 

それでも。

 

彼は顔を上げた。

 

煙が立ち込める闇の奥。

そこから聞こえてくるのは、小鬼たちの断末魔ではない。

 

もっと弱々しく、切実な。

助けを求めるような、細い悲鳴だった。

 

---

 

## 第三部:血溜まりの救済、白磁の誓い

 

雷鳴の余韻が、湿った大気を震わせている。

焦げ付いた肉の臭いと、立ち込める白煙。

オーンスタインは、折れそうになる膝を十字槍で支え、必死に意識を繋ぎ止めていた。

 

肺に流れ込む空気は、焼けた鉄の味がする。

全身の血管を電気が駆け抜けたような痺れが、今もなお指先を震わせていた。

 

だが、彼は止まらなかった。

煙の向こうから聞こえてきた、あの弱々しく、消え入りそうな悲鳴。

 

それが、戦士としての本能を突き動かす。

 

彼は重い足取りで、巣穴の最奥へと踏み込んだ。

そこは、他の通路よりも一段と冷え込み、鼻を突く死臭が限界を超えていた。

 

小鬼(ゴブリン)たちが「獲物」を溜め込む、悪夢の貯蔵庫。

 

壁際には、無残に破壊された革鎧や、へし折られた安物の剣が散乱している。

そして、その傍らには、泥と血にまみれた数体の骸(むくろ)が転がっていた。

 

まだ、若い。

 

恐らくは、彼と同じようにギルドの門を叩き、夢や希望を抱いてこの穴へと踏み込んだ者たちだろう。

彼らの首にかけられていたのは、鈍く光る安っぽい金属の板――「白磁(ポーセリン)」の認識票だった。

 

かつて彼が対峙した古竜たちは、敗北の際、山を揺らすほどの咆哮とともに、誇り高くその命を散らせた。

だが、ここに転がる若者たちに、誇りなど微塵も許されなかった。

ただ蹂躙され、尊厳を奪われ、汚物の中に打ち捨てられただけの、無意味な死。

 

「……っ」

 

獅子の兜の奥、オーンスタインの瞳に、苛烈な憤りの炎が灯る。

 

このような卑俗な悪意が、この世界を闊歩(かっぽ)している。

神々の盤上の遊びに過ぎぬとしても、この光景はあまりに、あまりに残酷だった。

 

その時。

積み上げられた瓦礫(がれき)の陰で、小さな影が動いた。

 

一人の少女だった。

 

衣服は裂け、全身に無数の傷を負い、心身ともに限界を超えて衰弱しきっている。

彼女の瞳には、もはや光はなかった。

 

自分を助けに来た「黄金の騎士」を見ても、それが新たなる絶望の始まりであるかのように、ただガチガチと歯を鳴らして震えることしかできない。

 

オーンスタインは、静かに十字槍を傍らに置いた。

 

真鍮の籠手(ガントレット)を外し、剥き出しになった手で、彼女へと手を伸ばす。

 

その手は、かつて戦場で血に染まり、数多の英雄を屠(ほふ)ってきた死の手だ。

だが今、その掌(てのひら)は、壊れ物に触れるような優しさを持って、少女の肩を包み込んだ。

 

「……恐れるな。此度の戦(いくさ)、すでに終わった」

 

発せられたのは、彼女には理解できぬ古の神の言葉。

 

しかし、言葉の意味は通じずとも、その低く響く声音には、彼女をこの地獄から引き揚げるための確かな意志が宿っていた。

 

オーンスタインは、震える少女を軽々と抱き上げた。

鎧の冷たさとは裏腹に、彼女の小さな体温が、真鍮の胸当てを通じて彼の心臓へと伝わってくる。

 

重い。

 

それは彼女の体重ではなく、彼が背負うべき「生」の重みだった。

 

もしも、深淵歩きアルトリウスがここにいたならば。

この幼き悲鳴に、その身を投げ打ってでも応えただろう。

自分もまた、そうあらねばならない。

 

生き残っていた数体の小鬼が、暗がりに潜んでいた。

彼らは一斉に飛びかかろうとしたが、オーンスタインが放った一瞥(いちべつ)だけで、その動きを止めた。

 

そこにあるのは、もはや武技や雷ではない。

ただ純然たる、圧倒的な「騎士の殺気」だ。

 

小鬼たちは本能的な恐怖に屈し、蜘蛛の子を散らすように闇の奥へと逃げ去っていった。

オーンスタインはそれを追うことすらせず、ただ少女を守るように抱き抱えたまま、出口へと歩き出した。

 

一歩、また一歩。

 

洞窟の出口から、夕暮れの柔らかな光が差し込んでくる。

 

彼はふと、自らの懐に収めた、あの安っぽい金属板を思い出した。

白磁(ポーセリン)。

この世界で最も弱く、最も価値の低いとされる称号。

 

だが、目の前で命を散らした若者たちも、この少女も、皆同じ「白磁」だった。

 

伝説の四騎士。

竜狩りの隊長。

 

かつての栄光に満ちた名は、この荒野では何の役にも立たない。

 

今の自分に必要なのは、天を突く壮大な叙事詩ではなく。

目の前の傷ついた命を、明日へと繋ぐための泥臭い「力」だ。

 

オーンスタインは、洞窟の外へと出た。

 

西日に照らされた真鍮の鎧が、一瞬だけ、かつての黄金の輝きを取り戻したかのように見えた。

 

少女は、彼の腕の中で、安堵(あんど)したように深く、静かな眠りに落ちていた。

 

騎士は、十字槍を強く握り直す。

 

主の背中を追う旅は、まだ始まったばかりだ。

だが、彼はもう迷わない。

 

この世界で、この鎧が塵に還るその時まで。

彼は「白磁の騎士」として、この汚泥に満ちた地を歩み続ける。

 

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