## 第一部:帰還、あるいは黄金の残照
西の空が、燃えるような朱(あけ)に染まっている。
それはかつて彼が守護した、最果ての地に沈む太陽の色に似ていた。だが、あの都の夕刻を包んでいた神聖な静寂はなく、代わりに肌を刺すのは、荒野を吹き抜ける乾いた風と、絶え間なく続く自身の鎧の軋(きし)みだけだった。
オーンスタインは、確かな重みを腕に抱え、夜へと沈みゆく街道を歩み続けていた。
救出した少女の体温は、冷え切った真鍮の胸当てを通じて、じりじりと彼の胸に伝わってくる。彼女は深い眠りの中にあった。恐怖と絶望に焼き切られ、防衛本能が強制的に彼女の意識を奪ったのだろう。その細い指先が、時折、オーンスタインの首元の毛皮を無意識に強く掴む。
その微かな指の動きが、何よりも重かった。
かつての彼は、四騎士の隊長として、数多の兵を率いて凱旋(がいせん)した。
高く掲げられた十字槍、鳴り響く祝祭の鐘、繁栄を映すような民が捧げる称賛の祈り。それは神に等しい彼らにとって当然の報酬であり、世界を維持するための理(ことわり)であった。
だが、今、彼を包むのは祝祭ではない。
ソウルを使い果たし、限界をとうに超えた肉体の、悲鳴に似た渇きだ。
腹の底を熱した鉄で抉(えぐ)られるような飢え。それはかつての王宮では決して味わうことのなかった、あまりに卑俗で、あまりに切実な「生物」としての生存本能だった。
「……っ」
不意に、鼻腔(びくう)をかすめる匂いがあった。
街道の先、街の門が近づくにつれ、夜の風が「生活」の匂いを運んでくる。
それは、小麦を焼く香ばしい匂いだった。
あるいは、煮込まれた肉と野草の、暖かな香り。
オーンスタインの歩みが、一瞬だけ止まる。
胃袋が激しく痙攣(けいれん)し、視界がチカチカと明滅した。
道の脇に、小さな屋台が見えた。
粗末な衣服を纏(まと)った男が、平べったいパンのようなものを鉄板で焼いている。傍らでは、一人の荷運び人が、懐から小さな金属の円盤を取り出し、それを男に手渡していた。
金属の円盤が、カランと音を立てて木箱に落ちる。
代償として、荷運び人は焼きたてのパンを一つ受け取り、それを美味そうに頬張った。
オーンスタインは、獅子の兜の奥でその光景を凝視した。
理解した。あれが、この世界の「理」なのだ。
かつての都では、力ある者はソウルを捧げ、あるいは神格に跪(ひざまず)くことで恩恵を得た。だがこの地では、あの小さな、錆びた金属の塊が、空腹という名の苦痛を取り除く唯一の鍵らしい。
彼は無意識に、籠手(ガントレット)の指を自らの掌(てのひら)へと丸めた。
彼が持っているのは、竜を屠り、神話に名を刻んだ十字槍だ。
あるいは、次元を超えてなお輝きを失わない、真鍮の鎧。
一つ剥がして差し出せば、この街のパンをすべて買い占めても余りある価値があるだろう。
だが、今の彼には、あの荷運び人が差し出した「小さな金属の円盤」が一枚もなかった。
飢えを凌ぐための、たかだかパン一つの対価。
それが、伝説の騎士に今の自らの立ち位置を突きつける。
自分は今、主を求めて彷徨うだけの、一文無しの浮浪者でしかない。
腕の中に、一人の命を救い上げたというのに、自分の腹を満たすための小さな円盤一つ持っていないのだ。
その自嘲じみた思考を振り払うように、彼は再び歩き出した。
今は、己の飢えよりも、託された命を届けるのが先だ。
街の門に辿り着いた頃には、すでに夜の帳(とばり)が完全に下りていた。
篝火(かがりび)に照らされた門番たちが、闇の中から現れた黄金(真鍮)の騎士に気づき、慌てて槍を構える。
「だ、誰だ! 止まれ!」
怒号のような誰何(すいか)。
オーンスタインは無言のまま、足を止めた。
彼は答えず、ただ静かに、腕の中の少女を衛兵たちの前に差し出した。
兜の奥の視線が、一人の衛兵を捉える。
そこには殺気ではなく、言葉を超えた「救助の要請」が宿っていた。
「……まて。これは、冒険者か? おい、女を助けたのか!」
衛兵の一人が少女の顔を覗き込み、驚愕に目を見開く。
泥と血に汚れ、死人のように青ざめた少女。しかし、その胸が微かに動いているのを確認し、衛兵たちは即座に態度の色を変えた。
「至高神の慈悲だ。おい、早く修道女を呼んでこい! 治療院だ、急げ!」
街の奥から数人の男女が駆け寄ってくる。
彼らはオーンスタインを恐れ、避けながらも、彼の手から少女を慎重に受け取った。
少女が彼の腕を離れる瞬間。
彼女の指が、オーンスタインの鎧を微かに、名残惜しそうに擦(かす)った。
眠ったままの彼女の唇が、音にならない言葉を紡ごうとして動いた。
「……あ、……りが……」
言葉の意味は、やはり分からない。
だが、その震える唇の形と、去り際に触れた彼女の指先の温もり。
それは、神々が気まぐれに与える祝福よりも、ずっと重く、熱い「祈り」として、彼の魂に刻まれた。
人々が少女を囲み、騒がしく治療院へと消えていく。
門の前には、再び夜の静寂が戻った。
残されたのは、真鍮の鎧を纏った一人の騎士と、依然として喉を焼く渇きだけだ。
オーンスタインは、誰もいなくなった闇を見つめ、低く、長く息を吐き出した。
懐の白磁の板が、冷たく皮膚を刺す。
彼は再び、空腹に苛(さいな)まれる胃袋を抱え、重い足取りで歩き出した。
向かう先は、あの戦士たちの巣穴――ギルドだ。
自分の命を繋ぐための「金属の円盤」を得るために。
そして、この見知らぬ世界で騎士として生きる、次なる戦場を定めるために。
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## 第二部:白磁の異変、あるいはギルドの困惑
深夜の冒険者ギルドは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
数人の冒険者が、隅の席で力なく酒を煽(あお)っている。
彼らが求めているのは、武勲や名声ではなく、ただ今日一日を生き延びたという安堵(あんど)と、戦いの恐怖を紛らわせるための安酒だけだった。
その静寂を、重厚な扉が軋(きし)む音が切り裂いた。
ギルドの酒場へ足を踏み入れたのは、真鍮(しんちゅう)の鎧を纏(まと)った一人の騎士だった。
獅子の兜は煤(すす)け、鎧の継ぎ目には、どろりとした小鬼(ゴブリン)の返り血が、どす黒く変色してこびりついている。
一歩ごとに、石床に槍の石突が鳴る音が、死の宣告のように冷たく響いた。
受付嬢(ギルドガール)は、机に積み上がった書類から顔を上げ、その姿に目を見開いた。
「あ……あなたは、昨日の……」
オーンスタインは、無言でカウンターへと近づいた。
彼の身体からは、依然として激しい疲労が立ち上っている。
だが、その双眸(そうぼう)には、折れぬ騎士の意志が、鈍い黄金色の光を宿して鎮座していた。
彼は、自らの懐(ふところ)から、あの安っぽい認識票を取り出した。
白磁(ポーセリン)。
泥と血に汚れ、本来の白さを失ったその金属板を、彼はカウンターの上に静かに置いた。
カラン、という軽い音が、深夜のギルドに不自然なほど大きく響く。
続けて、彼は腰の袋から、無造作に「小鬼の耳」をいくつか取り出し、板の傍らへと並べた。
それは討伐の証であり、この地での報酬を受け取るための、唯一の言語だった。
受付嬢は、差し出された証拠品を、震える手で確認し始めた。
「……信じられない」
彼女の指が、書類の束をめくる。
彼がこのギルドを立ち去り、あの「双子の岩山」の依頼書を引き剥がしていったのは、昨日のことだ。
そこは、通常の白磁級の新人であれば、三、四人のパーティを組んでも半数は戻ってこないと言われる、難易度の高い巣穴だった。
それを、この男は。
たった一人で。
言葉も通じぬまま、僅(わず)か一日のうちに、すべての個体を殲滅(せんめつ)し、さらには治療院へ運ばれたあの少女まで連れ帰ったというのか。
「……登録、完了しています。小鬼(ゴブリン)十……二体。殲滅、および救助の完遂を確認いたしました」
彼女の声は、困惑と畏怖(いふ)に震えていた。
ギルドという組織は、理(ことわり)と規則で動いている。
白磁級という評価は、その者の実力が未知数、あるいは低いことを示す。
だが、目の前の騎士が成し遂げた戦果は、到底その「枠」に収まるものではなかった。
酒場の隅で、その光景をじっと見つめている男がいた。
昨日もそこにいた「槍使い」だ。
彼は手にした酒を飲むことも忘れ、オーンスタインが傍らに立てかけた十字槍を、穴が開くほど凝視していた。
(……おかしい)
槍使いは、プロとしての嗅覚で、その得物の異質さを嗅ぎ取っていた。
槍の穂先、その複雑な形状の溝に、黒く炭化した「何か」がこびりついている。
それは通常の刺突で付くような血肉の汚れではない。
まるで、内側から爆発したかのような。
あるいは、至近距離で落雷を浴びたかのような、不気味な焦げ跡。
さらに、槍使いの背筋を凍らせたのは、オーンスタインから漂う「殺気」の変質だった。
昨日までの彼は、ただそこにあるだけで威圧感を放つ、巨大な岩山のような存在だった。
だが、今は違う。
数多の小鬼を屠(ほふ)り、その怨嗟(えんさ)を鎧に纏(まと)った彼は、まるで鋭利な刃物を剥き出しにしているような、冷徹な死の匂いを放っていた。
「……あ、あの。報酬です。こちらを……」
受付嬢が、いくつかの小さな布袋を差し出した。
中には、彼が先ほど屋台で目にした、あの「金属の円盤」が詰まっている。
オーンスタインは、獅子の籠手(ガントレット)でその袋を受け取った。
ずしり、とした重みが手に伝わる。
パン一つの価格も知らぬ。
この地の言葉も理解できぬ。
だが、この袋の重みこそが、今、この異空の地で彼が「生きている」ことを証明する、唯一の対価だった。
彼は報酬を受け取ると、受付嬢に深く、静かな会釈を一つだけ残し、ゆっくりとカウンターを離れた。
向かう先は、酒場の隅の空いた席だ。
喉を焼く渇きと、胃を抉るような飢え。
それを癒すための「理」を、彼はようやくその手中に収めたのだ。
真鍮の騎士が座る背中を、ギルドにいたすべての冒険者たちの視線が、無言で追い続けていた。
それはもはや、不審者を見る目ではない。
理解不能な力への恐怖と、圧倒的な武への敬意が混じり合った、熱を帯びた視線だった。
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## 第三部:交差する影、あるいは鉄の殺意
ギルドの酒場の片隅。
オーンスタインは、真鍮(しんちゅう)の鎧を軋(きし)ませながら、年季の入った木製の椅子に深く腰を下ろした。
周囲の冒険者たちは、彼から放たれる圧倒的な「戦歴」の気配に気圧され、誰一人として近寄ろうとはしない。
彼は無言のまま、通りかかった給仕の少女を呼び止めた。
そして、隣の席の男が食べていた「黒パン」と、湯気の立つ「スープ」を指差した。
言葉は通じずとも、その「欲求」は明確だった。
少女は怯えながらも、すぐに厨房から一皿のパンと、具の少ない簡素なスープを運んできた。
問題は、その「対価」だった。
オーンスタインは、先ほど受付で受け取ったばかりの報酬の袋を解いた。
中には、この地の通貨である金属の円盤が詰まっている。
だが、パン一つが何枚の円盤に相当するのか、その「理(ことわり)」を彼はまだ知らない。
かつてアノール・ロンドでは、偉大なるソウルがすべてを支配していた。
神々の通貨に比べれば、この手のひらの金属片はあまりに矮小で、価値の基準が測りかねた。
彼は迷った末、袋の中から掴み出した数枚の銀貨を、無造作にテーブルへと置いた。
カラン、と高い音が響く。
少女の目が見開かれた。
彼女は銀貨とオーンスタインの顔を交互に見つめ、あまりの「過剰な支払い」に、受け取って良いものか、あるいは何かの罠かと戸惑い、固まってしまった。
「……?」
オーンスタインは、兜の奥で微かに首を傾げた。
彼女の動揺、反映(はんえい)を描くように周囲の冒険者たちが「銀貨」という単語を囁き合いながらこちらを注視する様子。
それらの反応を、彼は冷徹に観察した。
どうやら、出しすぎたらしい。
この小さな銀色の円盤一枚には、パン数個分、あるいはそれ以上の「重み」があるのだ。
彼は無言のまま、数枚の銀貨を袋に戻し、代わりに銅色の小さな円盤――銅貨を数枚、追加で差し出した。
少女は安堵(あんど)したようにそれを受け取り、お辞儀をして去っていった。
金属の輝きに込められた、生活の重み。
伝説の騎士は、ようやくこの地の「生」の価格を、肌感覚で理解し始めていた。
彼は獅子の兜を微かに持ち上げ、隙間から黒パンを口にした。
硬く、酸味の強いそれは、かつての王宮の宴に並んだどの馳走よりも無味乾燥だった。
しかし、咀嚼(そしゃく)するごとに、渇ききった肉体に「エネルギー」という名の泥臭い力が染み渡っていく。
かつて主(名も無き王)と、風の吹き抜ける高嶺の広場で囲んだ、簡素な円卓を思い出す。
あの日々、彼が求めていたのは神の威光だった。
だが今、この異空の地で彼を支えているのは、たかだかパン一欠片(ひとかけら)がもたらす、卑俗なまでの生存の熱量だった。
その時。
ギルドの扉が、静かに開いた。
入ってきたのは、周囲のどの冒険者とも違う、異質な空気を纏った男だった。
全身を安物の、しかし手入れだけは執拗(しつよう)になされた革鎧と鉄兜で包んでいる。
鎧の隙間には、乾いた泥と、洗い流しきれない小鬼(ゴブリン)の血が煤(すす)のようにこびりついている。
腰に佩(は)いた剣は不自然なほど短く、背負った円盾は盾というよりは実用的な防壁に近い。
華々しい英雄譚(えいゆうたん)からも、騎士の誇りからも最も遠い場所にいる男。
ただただ、害獣を駆除するためだけに存在を削り出したような、冷徹な「沈黙」を纏った男。
――**ゴブリンスレイヤー**。
男は掲示板へと歩み寄った。
周囲の冒険者たちが「また奴か」という冷笑混じりの視線を向ける中、彼は迷うことなく、小鬼退治の依頼書だけを凝視している。
オーンスタインは、パンを噛む手を止め、その背中をじっと見つめた。
男が発している気配。
それは、第1話で廃屋に見つけた「事務的で冷酷な殺し」の痕跡そのものだった。
男が受付へと向かう途中、オーンスタインの座る席の横を通り過ぎる。
一瞬。
時間が引き延ばされたかのような、濃密な静寂が二人の間に流れた。
オーンスタインは、男から漂う、魂にこびりついたような「黒い執念」を感じ取った。
それはかつて、深淵に呑まれながらも剣を振るい続けた友の気配に、どこか似ていた。
対して、鉄兜の男――ゴブリンスレイヤーは、歩みを止めることこそなかったが、その視界の端で、黄金(真鍮)の騎士を捉えていた。
男の鼻を突いたのは、自分の纏う小鬼の死臭ではなく。
かつて雷雨の中で感じたような、皮膚を粟立(あわだ)たせる「オゾン」の匂い。
反映を映すように、小鬼という種を根絶やしにするためだけに研ぎ澄まされた、自分とは正反対の「神話的な破壊」の残滓(ざんし)だった。
(……ゴブリンではない)
鉄兜の奥で、男はそう断定した。
ならば、自分にとっての関心事ではない。
男はそのまま受付へと通り過ぎた。
「小鬼(ゴブリン)か」
男の低い声が響く。
オーンスタインは、その言葉の意味を解することはできなかった。
だが、男が指差した先に、自分が先ほど引き剥がしてきたものと同じ「小鬼の絵」があるのを見て、理解した。
この男もまた、あの矮小(わいしょう)な悪意を追う者なのだ。
オーンスタインは再びパンを口に運び、ゆっくりと飲み込んだ。
言葉。
識(し)らねばならない、と彼は思った。
この地の理、この地の言葉。
主を探すため。そして、この泥臭い世界で「騎士」としてあり続けるために。
真鍮の騎士は、去りゆく鉄兜の背中を、静かな、しかし確かな関心を持って見送った。
窓の外。
辺境の夜に灯る篝火(かがりび)が、二人の異邦人の影を、ギルドの床に長く、交差するように映し出していた。