落日の竜狩り ―真鍮の鎧と主への誓約―   作:もいもい130

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第四話:【辺境の灯火と鉄の沈黙】

 

 

## 第一部:帰還、あるいは黄金の残照

 

西の空が、燃えるような朱(あけ)に染まっている。

それはかつて彼が守護した、最果ての地に沈む太陽の色に似ていた。だが、あの都の夕刻を包んでいた神聖な静寂はなく、代わりに肌を刺すのは、荒野を吹き抜ける乾いた風と、絶え間なく続く自身の鎧の軋(きし)みだけだった。

 

オーンスタインは、確かな重みを腕に抱え、夜へと沈みゆく街道を歩み続けていた。

救出した少女の体温は、冷え切った真鍮の胸当てを通じて、じりじりと彼の胸に伝わってくる。彼女は深い眠りの中にあった。恐怖と絶望に焼き切られ、防衛本能が強制的に彼女の意識を奪ったのだろう。その細い指先が、時折、オーンスタインの首元の毛皮を無意識に強く掴む。

 

その微かな指の動きが、何よりも重かった。

 

かつての彼は、四騎士の隊長として、数多の兵を率いて凱旋(がいせん)した。

高く掲げられた十字槍、鳴り響く祝祭の鐘、繁栄を映すような民が捧げる称賛の祈り。それは神に等しい彼らにとって当然の報酬であり、世界を維持するための理(ことわり)であった。

 

だが、今、彼を包むのは祝祭ではない。

ソウルを使い果たし、限界をとうに超えた肉体の、悲鳴に似た渇きだ。

腹の底を熱した鉄で抉(えぐ)られるような飢え。それはかつての王宮では決して味わうことのなかった、あまりに卑俗で、あまりに切実な「生物」としての生存本能だった。

 

「……っ」

 

不意に、鼻腔(びくう)をかすめる匂いがあった。

 

街道の先、街の門が近づくにつれ、夜の風が「生活」の匂いを運んでくる。

それは、小麦を焼く香ばしい匂いだった。

あるいは、煮込まれた肉と野草の、暖かな香り。

 

オーンスタインの歩みが、一瞬だけ止まる。

胃袋が激しく痙攣(けいれん)し、視界がチカチカと明滅した。

 

道の脇に、小さな屋台が見えた。

粗末な衣服を纏(まと)った男が、平べったいパンのようなものを鉄板で焼いている。傍らでは、一人の荷運び人が、懐から小さな金属の円盤を取り出し、それを男に手渡していた。

 

金属の円盤が、カランと音を立てて木箱に落ちる。

代償として、荷運び人は焼きたてのパンを一つ受け取り、それを美味そうに頬張った。

 

オーンスタインは、獅子の兜の奥でその光景を凝視した。

 

理解した。あれが、この世界の「理」なのだ。

かつての都では、力ある者はソウルを捧げ、あるいは神格に跪(ひざまず)くことで恩恵を得た。だがこの地では、あの小さな、錆びた金属の塊が、空腹という名の苦痛を取り除く唯一の鍵らしい。

 

彼は無意識に、籠手(ガントレット)の指を自らの掌(てのひら)へと丸めた。

 

彼が持っているのは、竜を屠り、神話に名を刻んだ十字槍だ。

あるいは、次元を超えてなお輝きを失わない、真鍮の鎧。

一つ剥がして差し出せば、この街のパンをすべて買い占めても余りある価値があるだろう。

 

だが、今の彼には、あの荷運び人が差し出した「小さな金属の円盤」が一枚もなかった。

 

飢えを凌ぐための、たかだかパン一つの対価。

それが、伝説の騎士に今の自らの立ち位置を突きつける。

 

自分は今、主を求めて彷徨うだけの、一文無しの浮浪者でしかない。

腕の中に、一人の命を救い上げたというのに、自分の腹を満たすための小さな円盤一つ持っていないのだ。

 

その自嘲じみた思考を振り払うように、彼は再び歩き出した。

今は、己の飢えよりも、託された命を届けるのが先だ。

 

街の門に辿り着いた頃には、すでに夜の帳(とばり)が完全に下りていた。

篝火(かがりび)に照らされた門番たちが、闇の中から現れた黄金(真鍮)の騎士に気づき、慌てて槍を構える。

 

「だ、誰だ! 止まれ!」

 

怒号のような誰何(すいか)。

オーンスタインは無言のまま、足を止めた。

 

彼は答えず、ただ静かに、腕の中の少女を衛兵たちの前に差し出した。

 

兜の奥の視線が、一人の衛兵を捉える。

そこには殺気ではなく、言葉を超えた「救助の要請」が宿っていた。

 

「……まて。これは、冒険者か? おい、女を助けたのか!」

 

衛兵の一人が少女の顔を覗き込み、驚愕に目を見開く。

泥と血に汚れ、死人のように青ざめた少女。しかし、その胸が微かに動いているのを確認し、衛兵たちは即座に態度の色を変えた。

 

「至高神の慈悲だ。おい、早く修道女を呼んでこい! 治療院だ、急げ!」

 

街の奥から数人の男女が駆け寄ってくる。

彼らはオーンスタインを恐れ、避けながらも、彼の手から少女を慎重に受け取った。

 

少女が彼の腕を離れる瞬間。

彼女の指が、オーンスタインの鎧を微かに、名残惜しそうに擦(かす)った。

眠ったままの彼女の唇が、音にならない言葉を紡ごうとして動いた。

 

「……あ、……りが……」

 

言葉の意味は、やはり分からない。

だが、その震える唇の形と、去り際に触れた彼女の指先の温もり。

 

それは、神々が気まぐれに与える祝福よりも、ずっと重く、熱い「祈り」として、彼の魂に刻まれた。

 

人々が少女を囲み、騒がしく治療院へと消えていく。

門の前には、再び夜の静寂が戻った。

残されたのは、真鍮の鎧を纏った一人の騎士と、依然として喉を焼く渇きだけだ。

 

オーンスタインは、誰もいなくなった闇を見つめ、低く、長く息を吐き出した。

 

懐の白磁の板が、冷たく皮膚を刺す。

 

彼は再び、空腹に苛(さいな)まれる胃袋を抱え、重い足取りで歩き出した。

向かう先は、あの戦士たちの巣穴――ギルドだ。

 

自分の命を繋ぐための「金属の円盤」を得るために。

そして、この見知らぬ世界で騎士として生きる、次なる戦場を定めるために。

 

---

 

## 第二部:白磁の異変、あるいはギルドの困惑

 

深夜の冒険者ギルドは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 

数人の冒険者が、隅の席で力なく酒を煽(あお)っている。

彼らが求めているのは、武勲や名声ではなく、ただ今日一日を生き延びたという安堵(あんど)と、戦いの恐怖を紛らわせるための安酒だけだった。

 

その静寂を、重厚な扉が軋(きし)む音が切り裂いた。

 

ギルドの酒場へ足を踏み入れたのは、真鍮(しんちゅう)の鎧を纏(まと)った一人の騎士だった。

 

獅子の兜は煤(すす)け、鎧の継ぎ目には、どろりとした小鬼(ゴブリン)の返り血が、どす黒く変色してこびりついている。

一歩ごとに、石床に槍の石突が鳴る音が、死の宣告のように冷たく響いた。

 

受付嬢(ギルドガール)は、机に積み上がった書類から顔を上げ、その姿に目を見開いた。

 

「あ……あなたは、昨日の……」

 

オーンスタインは、無言でカウンターへと近づいた。

 

彼の身体からは、依然として激しい疲労が立ち上っている。

だが、その双眸(そうぼう)には、折れぬ騎士の意志が、鈍い黄金色の光を宿して鎮座していた。

 

彼は、自らの懐(ふところ)から、あの安っぽい認識票を取り出した。

 

白磁(ポーセリン)。

 

泥と血に汚れ、本来の白さを失ったその金属板を、彼はカウンターの上に静かに置いた。

 

カラン、という軽い音が、深夜のギルドに不自然なほど大きく響く。

 

続けて、彼は腰の袋から、無造作に「小鬼の耳」をいくつか取り出し、板の傍らへと並べた。

それは討伐の証であり、この地での報酬を受け取るための、唯一の言語だった。

 

受付嬢は、差し出された証拠品を、震える手で確認し始めた。

 

「……信じられない」

 

彼女の指が、書類の束をめくる。

 

彼がこのギルドを立ち去り、あの「双子の岩山」の依頼書を引き剥がしていったのは、昨日のことだ。

 

そこは、通常の白磁級の新人であれば、三、四人のパーティを組んでも半数は戻ってこないと言われる、難易度の高い巣穴だった。

 

それを、この男は。

 

たった一人で。

 

言葉も通じぬまま、僅(わず)か一日のうちに、すべての個体を殲滅(せんめつ)し、さらには治療院へ運ばれたあの少女まで連れ帰ったというのか。

 

「……登録、完了しています。小鬼(ゴブリン)十……二体。殲滅、および救助の完遂を確認いたしました」

 

彼女の声は、困惑と畏怖(いふ)に震えていた。

 

ギルドという組織は、理(ことわり)と規則で動いている。

白磁級という評価は、その者の実力が未知数、あるいは低いことを示す。

だが、目の前の騎士が成し遂げた戦果は、到底その「枠」に収まるものではなかった。

 

酒場の隅で、その光景をじっと見つめている男がいた。

 

昨日もそこにいた「槍使い」だ。

彼は手にした酒を飲むことも忘れ、オーンスタインが傍らに立てかけた十字槍を、穴が開くほど凝視していた。

 

(……おかしい)

 

槍使いは、プロとしての嗅覚で、その得物の異質さを嗅ぎ取っていた。

 

槍の穂先、その複雑な形状の溝に、黒く炭化した「何か」がこびりついている。

それは通常の刺突で付くような血肉の汚れではない。

 

まるで、内側から爆発したかのような。

あるいは、至近距離で落雷を浴びたかのような、不気味な焦げ跡。

 

さらに、槍使いの背筋を凍らせたのは、オーンスタインから漂う「殺気」の変質だった。

 

昨日までの彼は、ただそこにあるだけで威圧感を放つ、巨大な岩山のような存在だった。

だが、今は違う。

 

数多の小鬼を屠(ほふ)り、その怨嗟(えんさ)を鎧に纏(まと)った彼は、まるで鋭利な刃物を剥き出しにしているような、冷徹な死の匂いを放っていた。

 

「……あ、あの。報酬です。こちらを……」

 

受付嬢が、いくつかの小さな布袋を差し出した。

 

中には、彼が先ほど屋台で目にした、あの「金属の円盤」が詰まっている。

 

オーンスタインは、獅子の籠手(ガントレット)でその袋を受け取った。

 

ずしり、とした重みが手に伝わる。

 

パン一つの価格も知らぬ。

この地の言葉も理解できぬ。

 

だが、この袋の重みこそが、今、この異空の地で彼が「生きている」ことを証明する、唯一の対価だった。

 

彼は報酬を受け取ると、受付嬢に深く、静かな会釈を一つだけ残し、ゆっくりとカウンターを離れた。

 

向かう先は、酒場の隅の空いた席だ。

 

喉を焼く渇きと、胃を抉るような飢え。

それを癒すための「理」を、彼はようやくその手中に収めたのだ。

 

真鍮の騎士が座る背中を、ギルドにいたすべての冒険者たちの視線が、無言で追い続けていた。

 

それはもはや、不審者を見る目ではない。

 

理解不能な力への恐怖と、圧倒的な武への敬意が混じり合った、熱を帯びた視線だった。

 

---

 

## 第三部:交差する影、あるいは鉄の殺意

 

ギルドの酒場の片隅。

オーンスタインは、真鍮(しんちゅう)の鎧を軋(きし)ませながら、年季の入った木製の椅子に深く腰を下ろした。

 

周囲の冒険者たちは、彼から放たれる圧倒的な「戦歴」の気配に気圧され、誰一人として近寄ろうとはしない。

彼は無言のまま、通りかかった給仕の少女を呼び止めた。

そして、隣の席の男が食べていた「黒パン」と、湯気の立つ「スープ」を指差した。

 

言葉は通じずとも、その「欲求」は明確だった。

少女は怯えながらも、すぐに厨房から一皿のパンと、具の少ない簡素なスープを運んできた。

 

問題は、その「対価」だった。

 

オーンスタインは、先ほど受付で受け取ったばかりの報酬の袋を解いた。

中には、この地の通貨である金属の円盤が詰まっている。

だが、パン一つが何枚の円盤に相当するのか、その「理(ことわり)」を彼はまだ知らない。

 

かつてアノール・ロンドでは、偉大なるソウルがすべてを支配していた。

神々の通貨に比べれば、この手のひらの金属片はあまりに矮小で、価値の基準が測りかねた。

 

彼は迷った末、袋の中から掴み出した数枚の銀貨を、無造作にテーブルへと置いた。

 

カラン、と高い音が響く。

少女の目が見開かれた。

彼女は銀貨とオーンスタインの顔を交互に見つめ、あまりの「過剰な支払い」に、受け取って良いものか、あるいは何かの罠かと戸惑い、固まってしまった。

 

「……?」

 

オーンスタインは、兜の奥で微かに首を傾げた。

彼女の動揺、反映(はんえい)を描くように周囲の冒険者たちが「銀貨」という単語を囁き合いながらこちらを注視する様子。

それらの反応を、彼は冷徹に観察した。

 

どうやら、出しすぎたらしい。

 

この小さな銀色の円盤一枚には、パン数個分、あるいはそれ以上の「重み」があるのだ。

彼は無言のまま、数枚の銀貨を袋に戻し、代わりに銅色の小さな円盤――銅貨を数枚、追加で差し出した。

 

少女は安堵(あんど)したようにそれを受け取り、お辞儀をして去っていった。

 

金属の輝きに込められた、生活の重み。

伝説の騎士は、ようやくこの地の「生」の価格を、肌感覚で理解し始めていた。

 

彼は獅子の兜を微かに持ち上げ、隙間から黒パンを口にした。

 

硬く、酸味の強いそれは、かつての王宮の宴に並んだどの馳走よりも無味乾燥だった。

しかし、咀嚼(そしゃく)するごとに、渇ききった肉体に「エネルギー」という名の泥臭い力が染み渡っていく。

 

かつて主(名も無き王)と、風の吹き抜ける高嶺の広場で囲んだ、簡素な円卓を思い出す。

あの日々、彼が求めていたのは神の威光だった。

だが今、この異空の地で彼を支えているのは、たかだかパン一欠片(ひとかけら)がもたらす、卑俗なまでの生存の熱量だった。

 

その時。

 

ギルドの扉が、静かに開いた。

 

入ってきたのは、周囲のどの冒険者とも違う、異質な空気を纏った男だった。

 

全身を安物の、しかし手入れだけは執拗(しつよう)になされた革鎧と鉄兜で包んでいる。

鎧の隙間には、乾いた泥と、洗い流しきれない小鬼(ゴブリン)の血が煤(すす)のようにこびりついている。

 

腰に佩(は)いた剣は不自然なほど短く、背負った円盾は盾というよりは実用的な防壁に近い。

 

華々しい英雄譚(えいゆうたん)からも、騎士の誇りからも最も遠い場所にいる男。

ただただ、害獣を駆除するためだけに存在を削り出したような、冷徹な「沈黙」を纏った男。

 

――**ゴブリンスレイヤー**。

 

男は掲示板へと歩み寄った。

 

周囲の冒険者たちが「また奴か」という冷笑混じりの視線を向ける中、彼は迷うことなく、小鬼退治の依頼書だけを凝視している。

 

オーンスタインは、パンを噛む手を止め、その背中をじっと見つめた。

 

男が発している気配。

それは、第1話で廃屋に見つけた「事務的で冷酷な殺し」の痕跡そのものだった。

 

男が受付へと向かう途中、オーンスタインの座る席の横を通り過ぎる。

 

一瞬。

 

時間が引き延ばされたかのような、濃密な静寂が二人の間に流れた。

 

オーンスタインは、男から漂う、魂にこびりついたような「黒い執念」を感じ取った。

それはかつて、深淵に呑まれながらも剣を振るい続けた友の気配に、どこか似ていた。

 

対して、鉄兜の男――ゴブリンスレイヤーは、歩みを止めることこそなかったが、その視界の端で、黄金(真鍮)の騎士を捉えていた。

 

男の鼻を突いたのは、自分の纏う小鬼の死臭ではなく。

かつて雷雨の中で感じたような、皮膚を粟立(あわだ)たせる「オゾン」の匂い。

反映を映すように、小鬼という種を根絶やしにするためだけに研ぎ澄まされた、自分とは正反対の「神話的な破壊」の残滓(ざんし)だった。

 

(……ゴブリンではない)

 

鉄兜の奥で、男はそう断定した。

ならば、自分にとっての関心事ではない。

 

男はそのまま受付へと通り過ぎた。

 

「小鬼(ゴブリン)か」

 

男の低い声が響く。

 

オーンスタインは、その言葉の意味を解することはできなかった。

 

だが、男が指差した先に、自分が先ほど引き剥がしてきたものと同じ「小鬼の絵」があるのを見て、理解した。

 

この男もまた、あの矮小(わいしょう)な悪意を追う者なのだ。

 

オーンスタインは再びパンを口に運び、ゆっくりと飲み込んだ。

 

言葉。

 

識(し)らねばならない、と彼は思った。

この地の理、この地の言葉。

 

主を探すため。そして、この泥臭い世界で「騎士」としてあり続けるために。

 

真鍮の騎士は、去りゆく鉄兜の背中を、静かな、しかし確かな関心を持って見送った。

 

窓の外。

辺境の夜に灯る篝火(かがりび)が、二人の異邦人の影を、ギルドの床に長く、交差するように映し出していた。

 

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